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■星空の魔法3
*********************************************

そして。
その日はやってくるのだ。
柏井が、正式に話を持って、家にやってきた。
時間は、海と柏井で合わせておいた。
「お断りします」
幾はきっぱりそう言い切った。
話し合いの場で、海は幾を説得しようと試みたが幾の気持ちは崩せなかった。
「柏井さん。また出直していただけますか」
海がそう言うと、柏井は頷き、今日のところは去っていった。
「・・・海ちゃん。柏井さんと会ってたでしょ。今日の話、最初から知ってたね」
リビングのソファに座ったまま幾は言った。
「この前、ちょっと話をしただけだ」
柏井を見送って、海は、玄関からリビングに戻ってきた。
「勝手に決めないでよ。これは俺の問題だ」
両の掌で顔を覆いながら、幾は珍しく乱暴に言った。
「大事なことじゃないか、幾。俺が一緒に考えてもいい問題だろ」
海は幾の目の前のソファに腰掛けた。
「一緒に考えてなんかない。海ちゃんは、俺に東京へ行けと言うだけじゃないか」
バンッと幾は膝を叩いた。
「落ち着けよ。これはチャンスじゃないか。どうして行きたくないんだ」
「行きたくないから行かないんだよ。それでいいじゃないか。僕はちゃんと働いているんだ。海ちゃんに食わせてもらってる訳じゃない」
珍しく幾は、むきになっていた。
「そっ、そりゃそうだけど」
「これ以上は話しても無駄だよ。僕は行かない」
ぷいっと幾はソファから立ち上がり、リビングを出て行こうとした。
「おまえが東京へ行かないのは俺が原因だろ」
海の言葉に、幾が弾かれたように、ビクッと振り返った。
「おまえ。本当は一人でなんでも出来るんだよな。一人で生きていけると思ってるよな。生きていけねえのはさ。俺なんだよな。
おまえは俺を置いて、ここから離れられないと思ってる。でも、だからこそ幾。おまえは柏井と行けよ」
「なに言ってんだよ、海ちゃん」
立ちあがり、海は幾に向って、叫ぶように言った。
「おまえに甘えて。俺がダメになる前に、おまえは俺の前から消えろよ。東京へ行けって言ってるのはさ。本当は、おまえなんかの為じゃねえ。
俺の為に出て行ってほしいと思ってる。幾がいると、俺はダメになるんだ」
幾はゆっくりと首を振った。
「嘘つきだね。海ちゃんが俺にどんなひどい言葉を言っても、俺は信じないよ。海ちゃんは、自分の為に人を利用する人なんかじゃないよっ。
それだけは違うって俺は言える」
「幾」
つかつかと幾が海の傍まで来て、ガッと海の両肘を掴んだ。
「海ちゃん。一人で生きていけないことは恥かしいことじゃないよ。俺が傍にいるよ。お父さんとお母さんはもういない。
海ちゃんの傍にいられるのは俺だけなんだから!」
幾の、腕を掴む強さに眉を顰めながら、海はうつむいた。
「なあ、幾。おまえ、知らないだろ」
「なにを?」
「俺さあ。父さんと母さんの本当の子供じゃなかったんだってさ」
「!」
「俺も気付いたのは、つい数年前でさ。笑っちゃうだろ、幾。俺、あの人達の本当の子供じゃなかったんだ」
「な・・・に、どういうこと・・・!?」
思わず幾は、海の腕を掴んでいた手を、離した。
「俺達四人。血も繋がっていない四人が、少し前まで家族してたんだよなあ」
幾の瞳が驚愕に見開かれた。
「俺、てっきり自分は本当の子供だと思ってたから。小さい頃は、おまえをどっか哀れに思ってた。父さんと母さんは俺と幾を平等に扱っていたけど、
どっかで優越感があった。だって俺は二人の本当の子供だからって。おまえだって思ってたよな。どっかで遠慮していたよな。てか、いつも遠慮していたよな。
俺達家族に。けどさ。俺だって、おまえと同じだったんだ」
海の握りこんだ拳が微かに震えていた。
「父さんと母さん。真実知らない頃は、一人息子残して簡単に死にやがってって腹も立てた。でもどこかで自慢だった。父さんと母さんは人の為に死んだんだって。
仕方なかったんだって。でも。あの人達、そりゃ簡単に死ぬよなって。だって俺も幾も本当の子供じゃなかったんだから。未練なんかなく死んでいったんだよ。
そう思うようになって。俺はいつしか父さんと母さんの死が受け入れられなくなっていた」
「海ちゃん」
「二人のこと、愛してたのに。心から愛していたのに。残される俺達のことなんか考えずに死にやがって。
父さん母さん、自分の為に生きるんだよっていつも言ってたよな。いい手本だぜ。二人とも自己満足な死に方だッ」
バシンッ。
幾の平手が海に飛んだ。
「それ、本気で言ってんの、海ちゃん」
幾に言われ、海の瞳から涙が溢れた。


リビングでテレビを見ながら笑っていた父さん、母さん。
その横で携帯ゲームをしていた海、幾は床に寝そべりながら雑誌を読んでいた。
当たり前の日常、平凡であることの幸せ。それをいつも噛みしめていた。
あれが偽りの家族であったろうか?と。
心から互いを慈しみあい、その名を呼んでいた。
怒って笑って泣いて苦しんで。皆で共有した。
血の繋がりなどなくても、誰よりも家族だった俺達。


叩かれた頬がジンジンと痛むのを、海は指で押さえた。
「父さんと母さんの死から、もうひとつ学んだよ。自分の為に生きていくことと、そして。幾。命には限りがあるってことを。時間は永遠じゃない。
人はいつ死ぬかなんかわからない。だからおまえには精いっぱい生きて欲しいんだ。後悔しないで生きて欲しい。誰かの為じゃなく自分の為に。
やりたいことがあるなら、やれ。俺のことは考えなくていいんだ。おまえはいつも俺達家族に遠慮していた。もう、いいんだ。俺、知ってるよ。
おまえは作ることが好きだよな。だっていつも料理雑誌読んでたから。色んな調味料買い込んで、ゴソゴソ試作していたの知ってる。
あの店でオムライスしか作らないのは、思い出を壊さない為。知ってるけど、おまえはそれじゃダメなんだ」
幾は、海を叩いた手をギュッと握り、うつむいた。
なにか言おうとして、口を開きかけ、顔を上げ。しかし、また口を閉じ、うつむいて。
やがて、幾は、呟いた。
「うん。そうだよ。海ちゃんの言う通り。あそこで他のものを作ったら、父さんと母さんの思い出が消えてしまう。そう思ってメニューを増やさなかった。
でも、俺、本当にとっても料理が好き。まだまだ知らないことたくさんあって学びたいと思ってる。柏井さんの提案は魅力的だった」
「わかってるよ、幾。だから、行けって言ってるんじゃねえか」
「でも」
「俺は淋しくない。だって俺は一人じゃないから。俺を産んだ母さんと父さんはまだ生きているそうだ。いつか会いに来てくれるかもしれない両親を信じてここで待つ。
だからこの街を離れない。幾、俺は大丈夫だ」
「海ちゃん。来るか来ないかわからない人を、一人で待っていられるの?本当に俺がいなくて、大丈夫なの?」
「ああ。俺はおまえがいなくても大丈夫だ」
幾の茶色の瞳からすうっと涙が綺麗にまっすぐ零れ、頬を伝い落ちた。
「わかった。俺、柏井さんと行くよ。ありがとう、海ちゃん」
そう言って、幾は泣きながら微笑んだ。
叩かれた頬を押さえていた海の指に、自分の指を重ねながら、幾は海を見つめた。
「叩いてごめんね、兄ちゃん」
囁かれ、海は反射的に目を瞑った。涙が零れるのを堪えたのだ。

幾。おまえに、兄ちゃんって呼ばれたの、何年ぶりだろうか。

********************************************

シンッとした店内に、カランと鈴の音。
ドアの開く音に、ビクンッと海は振り返った。
「やっぱここにいたか。おい、泣いてんの?」
「ばっか。泣く訳ねえだろ」
三咲が立っていた。
「どうした、おまえ。幾は行ったのか?」
「ああ。行っちゃったよ」
「もう時間過ぎたもんな」
海は腕時計をチラッと見た。
「俺、幾ちゃん、フッてきたよ」
「えっ」
「だあってあの子、俺のこと好きじゃないんだもん。少し前から幾ちゃんが無理してつきあってんの気付いてて。
俺のこと好きになろう、なろうって頑張ってるの知ってたんだ。嬉しかったけど、なんか切なくてな。この子、好きな子他にいるな、って。
そういうのわかるだろ、恋しちゃえば」
「三咲」
「でもきっと幾ちゃんホッとしているよ。あの子、自分から別れようとは言えないタイプだから。だいたいな」
三咲はギロッと海を睨んだ。
「バーカ。てめえ相手で勝てるかってんだよ」
ドサッと三咲は、手前の椅子に腰かけた。
「なんでそんなこと」
「柏井と幾ちゃんの会話聞いてて、なんかわかった。幾ちゃんは必死に訂正してたけど、恋してるから俺はわかっちゃったんだよね」
「・・・」
海も、近くの椅子の背もたれを抱えるようにして、座った。
「で、おまえは幾ちゃんのこと、好きじゃねえの?」
「好きに決まってんだろ。可愛い弟だ」
「そうじゃねえよ。わかってんだろ」
ふんっと三咲は鼻を鳴らした。
「好き、かな。ああ、好きだろうな。うん、たぶん好きだ」
「だったらなんで東京行かすかなあ。理解出来ん」
カチッと三咲は煙草に火を点けた。
「錯覚かもしれないと思ったから」
「意味わかんねえよ」
「幾ってさ。まだ20ちょっとの人生を、狭い世界で生きてるんだよ。ちっちぇ頃両親亡くして、知らねえ家で小さくなって気を使いながら生きてきて。
そんな幾が可哀想で可愛くて溺愛しすぎちゃったから誤解させてしまったのかもしれないと思ってる。そんなんで大きくなったら、
今度は父さん母さんがいなくなって、二人きりになって。俺達はそれでも本当に仲良くてさ」
言われなくても、三咲は知っていた。海とのつきあいは長かったから。
まるで恋人同士のような兄弟だとは思っていた。
血の繋がりがないとあの頃知っていたら、もう間違いなくその仲を疑っていただろう。
彼らは、距離も会話も全部がとても近い兄弟だった。
「でも、なんかギリギリだな、とは思ってたんだ。これ、普通の兄弟の枠超えてね?みたいな。俺、初めっからおまえみたいな思考じゃねえから、少しは悩んで。
俺と幾、二人っきりで淋しさに浸かってるからこうなっちゃったのかな?って。まだ軌道修正出来るだろってずっとずっと思ってて。今回、幾にチャンスが来て、
ならばこれを逃す手はないだろと思ってさ」
なんにも考えていないようで、海はちゃんと考えていたようだった。三咲は少しは感心した。
「でもさ。幾ちゃんがここに居たいっていうならば居させてやりゃそれで簡単な話じゃんか」
ピクッと海は眉を寄せた。
「簡単に言うなよ。それじゃ幾の人生、俺だけになっちまうじゃねえか。おまえにはわかんないだろうけど、俺はそれがすごく怖いんだ。
幾の人生まるごと背負えるほど俺は強くない」
はあっ!?と三咲は眉を寄せた。
「なにその考え方。女の子相手じゃあるまいし。第一な、おまえが背負うんじゃない。その選択をしたのは幾ちゃんなんだから、
それは幾ちゃんの責任でいーの。おまえなんかより幾ちゃんはずっと強いんだからな」
三咲の言葉は、海の心の深い部分にチクリと突き刺さった。
「ああ。そうなんだ。なんだ、そうか。それ、早く言ってほしかったな。気付かなかった」
そうだ。その通りだ。幾は、俺より遥かに強い。
海は前髪を掻きあげた。
「東京に行っても、幾ちゃんモテるだろうなあ。心配じゃねえの、海」
ふうっと三咲は海に煙草の煙を吹きかけた。
「やめっ。てゆーか。俺より幾を必要とする子がどこかにいるかもしれない。ああいう子はみんなで分け合うべきじゃない?
兄貴ってだけで幾と長い間一緒にいただけの俺が独占しちまうのは申し訳ねえ。そんな気持ちがあったのも確かなんだ。
おまえに幾を紹介したのもそんな感じだった」
ふうん、と三咲は頷いた。
「乱暴な考え方だとは思うけど、なんかわかる。幾ちゃんってさ。天使みたいだよな。アレの時は立派な雄だけど」
三咲は目を閉じて、幾との思い出を辿る。
「海さ。俺ね。幾ちゃんとの思い出って、フワフワと暖かいもんばかり。幸せだったな」
そんなふうに幾との思い出を話す三咲に、海は自分のことを褒められてるかのように嬉しくなった。
「小さい頃。優しすぎて、よく男の友達に女みて〜と苛められていたよ。そんでまた泣くから悪循環。体だけはデカくなってくれて安心したぜ、俺は」
「ほんと、すごい違和感だよね。あの男っぷりと性格の違いは。でも、そこがまた、すごい魅力的なんだよ」
普段は毒舌な三咲も、幾のことは絶賛だ。
「海。逃した魚は大きかった、にならんといいけどね。俺はもう既にそう思ってる」
ふふふ、と三咲は笑いながら「じゃあな。ここにいると淋しくなるからもう帰る」と煙草片手に出て行った。

また、店に静寂が戻る。

海は、ゆっくりと視線を、厨房に移した。
もう、あの厨房に幾が立つことはないのだ。
幾は行ってしまった。

幾が大切にしていたこの小さな店。
幾が選んだテーブルクロスに食器達。
小さな出窓に飾られた花瓶の花も幾が選んできたものだった。
ここは幾の世界だった。
「ギリギリまで、守ってやるからな」
この店をこのままにしておく。
海は、自分が出来る限り、この店をこのままにしておこうと思った。

幾が帰ってきた時の為に。


*************************************************

春の日。

「それでは、柏井シェフと草凪シェフの先輩後輩コンビでお料理を作っていただきましょう」
テレビでは、時々柏井のおまけのように幾がくっついて出演している時があった。
「お、幾ちゃんじゃん。おまえの弟、テレビ映えすんな。ほんと、かっこいいな」
山田がテレビを観ながら、海を冷やかした。
テレビを見つめながら海は思った。
なんか幾の顔、違う。柏井と、うまくいってんのかな。

「って、おまえ。その顔、どーした」
うひゃひゃと山田は笑う。
「直美ちゃんに殴られた」
海の左頬が腫れていた。
「おー。とうとう別れたか」
「まあな。あ〜あ。直美ちゃん、いい女だったんだけど」
「おまーもういい加減にしとけや。そろそろ結婚考えて、女とつきあえ」
「そうだな」
「お、本気になったか」
「幾も頑張ってるし、俺も女止めて、仕事がんばるかぁ。って、優香ちゃん、俺とつきあう〜?」
事務所は事務の女の子も雇えるぐらいの余裕が出てきていた。
「やですよ。いい歳して、草凪さんはチャラすぎますから、ありえません。弟さんならば喜んで、ですけど」
「ぐはっ。傷ついた」
わはははと事務所に賑やかな笑い声が響いた。


はあ。いい天気だな、と海は空を見上げた。
昼食を外で食べ、皆は事務所に戻り、海だけはブラブラと散歩をしていた。
雲なく晴天。そろそろ桜が咲きそう。
幾が柏井のところに行ってから一年が経った。
短い近況報告がメールで来る以外、会うことはなかった。
元気でやってるのは柏井からの報告でもわかっていた。
片時も離れず生きてきて、そして離れた一年は、意外なほどに静かだった。
思っていた以上に、淋しさも悲しみも早く去った。
去る者日々に疎しってよく言ったもんだと海は思った。
「おじちゃん、危ないよ」
その言葉が終わる前に幾は、ゴンッと電信柱にぶつかった。
「うおっ」
「あーあ。だから言ったのに」
「イテテ。おじちゃんって俺だったのか」
「大丈夫!?」
ワンッと少年の腕の中に、小さな犬。
「おー。可愛いワンコ」
「でしょ。3日前にうちの家族になったばかりなんだ」
「へえ。名前、なんて言うの」
「コニョ」
「微妙な名前だなー」
大人げなく、海は少年をからかった。
「妹がコニョって言い張るから仕方ないよ」
小学生ぐらいの少年はプウッと頬を膨らませた。
その子供らしいしぐさがとても可愛かった。
「いいな、犬。俺も犬飼おうかな」
「絶対にオススメ!」
少年はアハッとわらって、腕の中の犬を土手に下ろした。
ワンワンッと小型犬は草の上を走りだした。
待て〜と少年も走り出す。
なんちゅー微笑ましい光景、と思いながら、海は土手に腰を下ろした。
打ち合わせ時間まではまだ少し時間あるしなと思って、春の土手で犬と戯れる少年を見つめていたが、そのうちに寝そべって空を見上げた。
「あー、やべ。回想来そう」
最近は、こうやってぼーっとしていると、なんだか色々と昔のことばかり思い出して。
海ちゃーん。小さな頃の幾の声が耳に蘇ってくる。
海ちゃん、大好き。海ちゃん大好き。
可愛い幾。可愛い弟。可愛い俺の・・・。
ハッ。海は起き上がった。
ちょっと寝てなかったか?俺。
「やべやべ。がっつり寝る時間はねえんだよ」
立ちあがり、歩き出した。さっきの少年が前を歩いていた。
スローモーションのように、少年の腕から犬が零れ落ちたのを見た。
「コニョ。こらっ」
そしてそれを少年が追いかけて横断歩道へ。
ハッと海は左を見た。
「あぶねえよ。とまれ、おいっ。車が来てるぞっ」
間に合う?間に合わない?
一瞬足が竦んだが、次の瞬間には海は走り出していた。
おい。止まれ、俺の足、止まれ。
もう間に合わない。可哀想だけど、あの子とあの犬は。
俺は、止まらないと。俺が止まらないと。
幾が。幾が泣いちまうよ。
ごめん、ごめんよ、父さん母さん。
自分勝手な死に方しやがって、なんて言っちまって。
今、あんたらの気持ちわかったよ。俺、やっぱりあんたらの息子だよ。
キキキキ。

車の急ブレーキの音で、世界が止まる。
幾、ごめん。幾、ごめんな・・・。


******************************************************

寄せてはかえす波の音。
握った掌から、砂がサラサラと零れてゆく。
幾が吸ってる煙草の煙が、風に流されてゆく。
ここは、いつでも、星が綺麗な海辺だ。


交通事故を起こした日。
海は病院に運び込まれたが、命に別状はなかった。
骨を折る大けがではあったが、意識はすぐに戻った。
犬も子供も無事だった。
一週間入院してから、海は退院した。
迎えにきたのは、幾だった。


「海ちゃん」
掌の砂をパンパンッと叩いて落としながら、海は返事をした。
「ん」
「天国のお父さんとお母さんのこと悪く言ったこと謝ってきた?さっき」
墓参りのことを幾は言っていた。
「謝ってきたよ」
「今生きてんの、二人が守ってくれたおかげだからね、絶対。Drだって、首傾げてたんだから。これぐらいの怪我で済むなんてありえないって」
「はいはい」
「事故を聞いて、海ちゃんはやっぱり父さんと母さんの息子だって思ったよ。血が繋がってない方が信じられない」
海の傍らには、松葉づえが置いてある。
「海ちゃんさ。ほんと、マジで結婚しない方がいいね。奥さんや子供可哀想だから」
「なんだよ、突然」
「俺、事故のこと聞いて、一瞬心臓止まったもん」
「バカか」
「バカじゃないっ。そうやって軽く流さないでよ。三咲さんから事故のこと電話で聞いて、俺は涙も出なかったよ。いつかはこうなると思ってたもん。
覚悟をきめて新幹線に飛び乗った俺の気持ち、海ちゃんになんか死んでもわかんねえよ」
「あ、それ、ちょっとシャレにはなんねえかも」
死んだらわかんないしねぇと笑う海に、幾は声を荒げた。
「海ちゃんのが、バカだろっ」
「あ。ごめん」
幾は、吸っていた煙草を、コーヒーの空き缶に押し込んだ。
さくっ、と幾が砂浜を歩いてくる音がする。スニーカーが砂に埋まりながらも、さくっさくっと歩いてくる。
「海ちゃん。色んな覚悟を決めて、俺言わせてもらう」
幾は、海のすぐ後ろにドサッと座った。
「ん!?」
「弟じゃなくて、森本幾として、言わせてもらうけど。愛してるんだ、海ちゃんのこと」
一瞬の沈黙ののち、海は言った。
「おまえ。本当の名前、森本って言うんだ」
「うん。東京で調べたんだ」
「へえ」
海はクスッと笑いながら、
「じゃあさ。俺も。兄じゃなく、入江海として答えるよ。おまえと同じ気持ち。愛してるよ、幾のこと」
また、しばしの沈黙ののち。
「海ちゃん、入江さんだったんだ」
「そうらしい」
幾は背中から、ギュッと海を抱きしめた。
「・・・俺、信じられない。いつから俺のこと愛してくれていたの?」
震えている、と海は思った。幾の腕が、震えている。
「おまえに背を抜かれた頃からなあ。遺伝子違うのを急に意識してさ。ああ、コイツと他人かって。本当の兄弟じゃないって知ってるのに、
他人をこんなに好きで可愛いと思うなんて、これって俺、コイツのこと好きなんじゃねえの?って思ったのが最初だった」
震える幾の腕を海はギュッと握り返す。
「東京行って損したっ。ってそれは嘘だけど。海ちゃんには感謝してる。この一年たくさんのことを学べた。楽しかったよ。
柏井さんには本当に感謝している。俺はとっても料理が好きだ。だけど、それ以上に海ちゃんが好きってこともよくわかったよ。
離れて一年も暮らせたこと褒めて。俺、なにをしてもどこにいても、海ちゃんのこと考えていたんだ」
「料理作ってる時も?」
「海ちゃんに食わせてあげたいなあって。なにかっつーと絡ませて海ちゃんのこと思ってた」
「怖っ」
抱き締める力が強くなり、体が痛かったが、海は痛いとは言わなかった。
この力強さは、幾の想いの強さと比例する。痛くても、解かれたくない、と思ったからだ。
「いいんだよ。俺ぐらい海ちゃんに執着しないと、海ちゃんはまたパンッと車の前に飛び出してしまうんだから。
俺は海ちゃんが思う通りに生きることは賛成だよ。好きなようにしたらいい。でも、傍にいる。
もし海ちゃんがどこかで死にそうになっても。ちゃんと看取れるぐらいは近くにいたい。傍にいたいんだ」
「おまえ。看取るって」
「だって。海ちゃんってすぐに死んじゃいそうなんだもん」
「幾。俺、一人はやっぱり淋しかった。もし例えまた死ぬ時もさ。おまえが傍にいて欲しい」
「うん、いる。もうどれだけ俺を邪魔扱いしても、どこへも行かない」
「おまえって、ほんと強いな。あんなに弱っちかったのにさ・・・」
「強くしてくれたのは海ちゃんだよ。海ちゃんのこと愛して、俺は強くなったんだ」
振り返る海に、幾はそっとキスをした。優しいキスを、海は目を閉じて、受けた。
「海ちゃん。俺、店に行きたいな」
幾に耳元で囁かれて、僅かに赤くなりながら海は、「うん」とうなづいた。


幾は横丁の看板を見た途端に、走り出す。
「幾、待てって、おい」
横丁の店の人々が幾に気付いて
「おかえり」
「幾ちゃん、おかえり〜」
「帰ってきたんだね」
と次々と声をかけた。
「ただいまっ」
幾はそんな彼らに手を振り、横丁を駆け抜けていく。
海は、松葉杖をついて必死に幾を追いかけたが、追いつく筈もない。
途中で諦め、横丁を走り抜けていく幾の後ろ姿を目で追いながら、綺麗な熱帯魚が泳いでいく、と思った。


キーケースから、鍵を取り出し、幾は店を開けた。
カランと鈴の音。
しばらく使っていなかった店の中の空気が、幾を取り巻く。
その懐かしさに、幾の心が震えた。
カウンターのはじっこには、父と母の写真。
「ただいま。お父さん、お母さん」
小さい頃から、ここで働く母と父を見ているのが好きだった。
学生の頃、閑古鳥が鳴いているこの店の隅の席で、勉強するのが好きだった。
夢中で勉強していると、海ちゃんが帰ってくる。
カランと鈴の音が響いて。
『ただいま。あー、疲れたっ』
部活帰りの海ちゃんが、よれよれになって帰ってくる。
それを皆でむかえて『おかえり』って言うのが好きだった。
たまらなく、海ちゃんが好きだった。


カラン。鈴の音。
「幾、おまえ早い。俺、松葉杖って忘れてるだろ」
ヒィ〜と海は呻きながら、ようやく辿り着いて、店に入ってきた。
「海ちゃん、おかえり」
「はあ!?おまえが、おかえり、だろ」
「あ、そっか。改めて。ただいま」
「うん」
「もう、離れないよ」
そう言って幾は、海に手を伸ばした。
「幾」
バタンと杖が落ちる音が静かな店に響いた。
星空の星に触れたく手を伸ばし、でも触れられず切なくなった。
幾にとって、海は、空にある星のように遠かったのだ。
たが。
今伸ばしたこの腕は、触れられない星を掴むのではないので、もう切なくはない。
切ない魔法は、もう消えて。
この腕に在るのは、あれほど望んだ海だった。
やっと届いたこの手で、幾は海を力いっぱい抱きしめた。
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■星空の魔法3
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そして。
その日はやってくるのだ。
柏井が、正式に話を持って、家にやってきた。
時間は、海と柏井で合わせておいた。
「お断りします」
幾はきっぱりそう言い切った。
話し合いの場で、海は幾を説得しようと試みたが幾の気持ちは崩せなかった。
「柏井さん。また出直していただけますか」
海がそう言うと、柏井は頷き、今日のところは去っていった。
「・・・海ちゃん。柏井さんと会ってたでしょ。今日の話、最初から知ってたね」
リビングのソファに座ったまま幾は言った。
「この前、ちょっと話をしただけだ」
柏井を見送って、海は、玄関からリビングに戻ってきた。
「勝手に決めないでよ。これは俺の問題だ」
両の掌で顔を覆いながら、幾は珍しく乱暴に言った。
「大事なことじゃないか、幾。俺が一緒に考えてもいい問題だろ」
海は幾の目の前のソファに腰掛けた。
「一緒に考えてなんかない。海ちゃんは、俺に東京へ行けと言うだけじゃないか」
バンッと幾は膝を叩いた。
「落ち着けよ。これはチャンスじゃないか。どうして行きたくないんだ」
「行きたくないから行かないんだよ。それでいいじゃないか。僕はちゃんと働いているんだ。海ちゃんに食わせてもらってる訳じゃない」
珍しく幾は、むきになっていた。
「そっ、そりゃそうだけど」
「これ以上は話しても無駄だよ。僕は行かない」
ぷいっと幾はソファから立ち上がり、リビングを出て行こうとした。
「おまえが東京へ行かないのは俺が原因だろ」
海の言葉に、幾が弾かれたように、ビクッと振り返った。
「おまえ。本当は一人でなんでも出来るんだよな。一人で生きていけると思ってるよな。生きていけねえのはさ。俺なんだよな。
おまえは俺を置いて、ここから離れられないと思ってる。でも、だからこそ幾。おまえは柏井と行けよ」
「なに言ってんだよ、海ちゃん」
立ちあがり、海は幾に向って、叫ぶように言った。
「おまえに甘えて。俺がダメになる前に、おまえは俺の前から消えろよ。東京へ行けって言ってるのはさ。本当は、おまえなんかの為じゃねえ。
俺の為に出て行ってほしいと思ってる。幾がいると、俺はダメになるんだ」
幾はゆっくりと首を振った。
「嘘つきだね。海ちゃんが俺にどんなひどい言葉を言っても、俺は信じないよ。海ちゃんは、自分の為に人を利用する人なんかじゃないよっ。
それだけは違うって俺は言える」
「幾」
つかつかと幾が海の傍まで来て、ガッと海の両肘を掴んだ。
「海ちゃん。一人で生きていけないことは恥かしいことじゃないよ。俺が傍にいるよ。お父さんとお母さんはもういない。
海ちゃんの傍にいられるのは俺だけなんだから!」
幾の、腕を掴む強さに眉を顰めながら、海はうつむいた。
「なあ、幾。おまえ、知らないだろ」
「なにを?」
「俺さあ。父さんと母さんの本当の子供じゃなかったんだってさ」
「!」
「俺も気付いたのは、つい数年前でさ。笑っちゃうだろ、幾。俺、あの人達の本当の子供じゃなかったんだ」
「な・・・に、どういうこと・・・!?」
思わず幾は、海の腕を掴んでいた手を、離した。
「俺達四人。血も繋がっていない四人が、少し前まで家族してたんだよなあ」
幾の瞳が驚愕に見開かれた。
「俺、てっきり自分は本当の子供だと思ってたから。小さい頃は、おまえをどっか哀れに思ってた。父さんと母さんは俺と幾を平等に扱っていたけど、
どっかで優越感があった。だって俺は二人の本当の子供だからって。おまえだって思ってたよな。どっかで遠慮していたよな。てか、いつも遠慮していたよな。
俺達家族に。けどさ。俺だって、おまえと同じだったんだ」
海の握りこんだ拳が微かに震えていた。
「父さんと母さん。真実知らない頃は、一人息子残して簡単に死にやがってって腹も立てた。でもどこかで自慢だった。父さんと母さんは人の為に死んだんだって。
仕方なかったんだって。でも。あの人達、そりゃ簡単に死ぬよなって。だって俺も幾も本当の子供じゃなかったんだから。未練なんかなく死んでいったんだよ。
そう思うようになって。俺はいつしか父さんと母さんの死が受け入れられなくなっていた」
「海ちゃん」
「二人のこと、愛してたのに。心から愛していたのに。残される俺達のことなんか考えずに死にやがって。
父さん母さん、自分の為に生きるんだよっていつも言ってたよな。いい手本だぜ。二人とも自己満足な死に方だッ」
バシンッ。
幾の平手が海に飛んだ。
「それ、本気で言ってんの、海ちゃん」
幾に言われ、海の瞳から涙が溢れた。


リビングでテレビを見ながら笑っていた父さん、母さん。
その横で携帯ゲームをしていた海、幾は床に寝そべりながら雑誌を読んでいた。
当たり前の日常、平凡であることの幸せ。それをいつも噛みしめていた。
あれが偽りの家族であったろうか?と。
心から互いを慈しみあい、その名を呼んでいた。
怒って笑って泣いて苦しんで。皆で共有した。
血の繋がりなどなくても、誰よりも家族だった俺達。


叩かれた頬がジンジンと痛むのを、海は指で押さえた。
「父さんと母さんの死から、もうひとつ学んだよ。自分の為に生きていくことと、そして。幾。命には限りがあるってことを。時間は永遠じゃない。
人はいつ死ぬかなんかわからない。だからおまえには精いっぱい生きて欲しいんだ。後悔しないで生きて欲しい。誰かの為じゃなく自分の為に。
やりたいことがあるなら、やれ。俺のことは考えなくていいんだ。おまえはいつも俺達家族に遠慮していた。もう、いいんだ。俺、知ってるよ。
おまえは作ることが好きだよな。だっていつも料理雑誌読んでたから。色んな調味料買い込んで、ゴソゴソ試作していたの知ってる。
あの店でオムライスしか作らないのは、思い出を壊さない為。知ってるけど、おまえはそれじゃダメなんだ」
幾は、海を叩いた手をギュッと握り、うつむいた。
なにか言おうとして、口を開きかけ、顔を上げ。しかし、また口を閉じ、うつむいて。
やがて、幾は、呟いた。
「うん。そうだよ。海ちゃんの言う通り。あそこで他のものを作ったら、父さんと母さんの思い出が消えてしまう。そう思ってメニューを増やさなかった。
でも、俺、本当にとっても料理が好き。まだまだ知らないことたくさんあって学びたいと思ってる。柏井さんの提案は魅力的だった」
「わかってるよ、幾。だから、行けって言ってるんじゃねえか」
「でも」
「俺は淋しくない。だって俺は一人じゃないから。俺を産んだ母さんと父さんはまだ生きているそうだ。いつか会いに来てくれるかもしれない両親を信じてここで待つ。
だからこの街を離れない。幾、俺は大丈夫だ」
「海ちゃん。来るか来ないかわからない人を、一人で待っていられるの?本当に俺がいなくて、大丈夫なの?」
「ああ。俺はおまえがいなくても大丈夫だ」
幾の茶色の瞳からすうっと涙が綺麗にまっすぐ零れ、頬を伝い落ちた。
「わかった。俺、柏井さんと行くよ。ありがとう、海ちゃん」
そう言って、幾は泣きながら微笑んだ。
叩かれた頬を押さえていた海の指に、自分の指を重ねながら、幾は海を見つめた。
「叩いてごめんね、兄ちゃん」
囁かれ、海は反射的に目を瞑った。涙が零れるのを堪えたのだ。

幾。おまえに、兄ちゃんって呼ばれたの、何年ぶりだろうか。

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シンッとした店内に、カランと鈴の音。
ドアの開く音に、ビクンッと海は振り返った。
「やっぱここにいたか。おい、泣いてんの?」
「ばっか。泣く訳ねえだろ」
三咲が立っていた。
「どうした、おまえ。幾は行ったのか?」
「ああ。行っちゃったよ」
「もう時間過ぎたもんな」
海は腕時計をチラッと見た。
「俺、幾ちゃん、フッてきたよ」
「えっ」
「だあってあの子、俺のこと好きじゃないんだもん。少し前から幾ちゃんが無理してつきあってんの気付いてて。
俺のこと好きになろう、なろうって頑張ってるの知ってたんだ。嬉しかったけど、なんか切なくてな。この子、好きな子他にいるな、って。
そういうのわかるだろ、恋しちゃえば」
「三咲」
「でもきっと幾ちゃんホッとしているよ。あの子、自分から別れようとは言えないタイプだから。だいたいな」
三咲はギロッと海を睨んだ。
「バーカ。てめえ相手で勝てるかってんだよ」
ドサッと三咲は、手前の椅子に腰かけた。
「なんでそんなこと」
「柏井と幾ちゃんの会話聞いてて、なんかわかった。幾ちゃんは必死に訂正してたけど、恋してるから俺はわかっちゃったんだよね」
「・・・」
海も、近くの椅子の背もたれを抱えるようにして、座った。
「で、おまえは幾ちゃんのこと、好きじゃねえの?」
「好きに決まってんだろ。可愛い弟だ」
「そうじゃねえよ。わかってんだろ」
ふんっと三咲は鼻を鳴らした。
「好き、かな。ああ、好きだろうな。うん、たぶん好きだ」
「だったらなんで東京行かすかなあ。理解出来ん」
カチッと三咲は煙草に火を点けた。
「錯覚かもしれないと思ったから」
「意味わかんねえよ」
「幾ってさ。まだ20ちょっとの人生を、狭い世界で生きてるんだよ。ちっちぇ頃両親亡くして、知らねえ家で小さくなって気を使いながら生きてきて。
そんな幾が可哀想で可愛くて溺愛しすぎちゃったから誤解させてしまったのかもしれないと思ってる。そんなんで大きくなったら、
今度は父さん母さんがいなくなって、二人きりになって。俺達はそれでも本当に仲良くてさ」
言われなくても、三咲は知っていた。海とのつきあいは長かったから。
まるで恋人同士のような兄弟だとは思っていた。
血の繋がりがないとあの頃知っていたら、もう間違いなくその仲を疑っていただろう。
彼らは、距離も会話も全部がとても近い兄弟だった。
「でも、なんかギリギリだな、とは思ってたんだ。これ、普通の兄弟の枠超えてね?みたいな。俺、初めっからおまえみたいな思考じゃねえから、少しは悩んで。
俺と幾、二人っきりで淋しさに浸かってるからこうなっちゃったのかな?って。まだ軌道修正出来るだろってずっとずっと思ってて。今回、幾にチャンスが来て、
ならばこれを逃す手はないだろと思ってさ」
なんにも考えていないようで、海はちゃんと考えていたようだった。三咲は少しは感心した。
「でもさ。幾ちゃんがここに居たいっていうならば居させてやりゃそれで簡単な話じゃんか」
ピクッと海は眉を寄せた。
「簡単に言うなよ。それじゃ幾の人生、俺だけになっちまうじゃねえか。おまえにはわかんないだろうけど、俺はそれがすごく怖いんだ。
幾の人生まるごと背負えるほど俺は強くない」
はあっ!?と三咲は眉を寄せた。
「なにその考え方。女の子相手じゃあるまいし。第一な、おまえが背負うんじゃない。その選択をしたのは幾ちゃんなんだから、
それは幾ちゃんの責任でいーの。おまえなんかより幾ちゃんはずっと強いんだからな」
三咲の言葉は、海の心の深い部分にチクリと突き刺さった。
「ああ。そうなんだ。なんだ、そうか。それ、早く言ってほしかったな。気付かなかった」
そうだ。その通りだ。幾は、俺より遥かに強い。
海は前髪を掻きあげた。
「東京に行っても、幾ちゃんモテるだろうなあ。心配じゃねえの、海」
ふうっと三咲は海に煙草の煙を吹きかけた。
「やめっ。てゆーか。俺より幾を必要とする子がどこかにいるかもしれない。ああいう子はみんなで分け合うべきじゃない?
兄貴ってだけで幾と長い間一緒にいただけの俺が独占しちまうのは申し訳ねえ。そんな気持ちがあったのも確かなんだ。
おまえに幾を紹介したのもそんな感じだった」
ふうん、と三咲は頷いた。
「乱暴な考え方だとは思うけど、なんかわかる。幾ちゃんってさ。天使みたいだよな。アレの時は立派な雄だけど」
三咲は目を閉じて、幾との思い出を辿る。
「海さ。俺ね。幾ちゃんとの思い出って、フワフワと暖かいもんばかり。幸せだったな」
そんなふうに幾との思い出を話す三咲に、海は自分のことを褒められてるかのように嬉しくなった。
「小さい頃。優しすぎて、よく男の友達に女みて〜と苛められていたよ。そんでまた泣くから悪循環。体だけはデカくなってくれて安心したぜ、俺は」
「ほんと、すごい違和感だよね。あの男っぷりと性格の違いは。でも、そこがまた、すごい魅力的なんだよ」
普段は毒舌な三咲も、幾のことは絶賛だ。
「海。逃した魚は大きかった、にならんといいけどね。俺はもう既にそう思ってる」
ふふふ、と三咲は笑いながら「じゃあな。ここにいると淋しくなるからもう帰る」と煙草片手に出て行った。

また、店に静寂が戻る。

海は、ゆっくりと視線を、厨房に移した。
もう、あの厨房に幾が立つことはないのだ。
幾は行ってしまった。

幾が大切にしていたこの小さな店。
幾が選んだテーブルクロスに食器達。
小さな出窓に飾られた花瓶の花も幾が選んできたものだった。
ここは幾の世界だった。
「ギリギリまで、守ってやるからな」
この店をこのままにしておく。
海は、自分が出来る限り、この店をこのままにしておこうと思った。

幾が帰ってきた時の為に。


*************************************************

春の日。

「それでは、柏井シェフと草凪シェフの先輩後輩コンビでお料理を作っていただきましょう」
テレビでは、時々柏井のおまけのように幾がくっついて出演している時があった。
「お、幾ちゃんじゃん。おまえの弟、テレビ映えすんな。ほんと、かっこいいな」
山田がテレビを観ながら、海を冷やかした。
テレビを見つめながら海は思った。
なんか幾の顔、違う。柏井と、うまくいってんのかな。

「って、おまえ。その顔、どーした」
うひゃひゃと山田は笑う。
「直美ちゃんに殴られた」
海の左頬が腫れていた。
「おー。とうとう別れたか」
「まあな。あ〜あ。直美ちゃん、いい女だったんだけど」
「おまーもういい加減にしとけや。そろそろ結婚考えて、女とつきあえ」
「そうだな」
「お、本気になったか」
「幾も頑張ってるし、俺も女止めて、仕事がんばるかぁ。って、優香ちゃん、俺とつきあう〜?」
事務所は事務の女の子も雇えるぐらいの余裕が出てきていた。
「やですよ。いい歳して、草凪さんはチャラすぎますから、ありえません。弟さんならば喜んで、ですけど」
「ぐはっ。傷ついた」
わはははと事務所に賑やかな笑い声が響いた。


はあ。いい天気だな、と海は空を見上げた。
昼食を外で食べ、皆は事務所に戻り、海だけはブラブラと散歩をしていた。
雲なく晴天。そろそろ桜が咲きそう。
幾が柏井のところに行ってから一年が経った。
短い近況報告がメールで来る以外、会うことはなかった。
元気でやってるのは柏井からの報告でもわかっていた。
片時も離れず生きてきて、そして離れた一年は、意外なほどに静かだった。
思っていた以上に、淋しさも悲しみも早く去った。
去る者日々に疎しってよく言ったもんだと海は思った。
「おじちゃん、危ないよ」
その言葉が終わる前に幾は、ゴンッと電信柱にぶつかった。
「うおっ」
「あーあ。だから言ったのに」
「イテテ。おじちゃんって俺だったのか」
「大丈夫!?」
ワンッと少年の腕の中に、小さな犬。
「おー。可愛いワンコ」
「でしょ。3日前にうちの家族になったばかりなんだ」
「へえ。名前、なんて言うの」
「コニョ」
「微妙な名前だなー」
大人げなく、海は少年をからかった。
「妹がコニョって言い張るから仕方ないよ」
小学生ぐらいの少年はプウッと頬を膨らませた。
その子供らしいしぐさがとても可愛かった。
「いいな、犬。俺も犬飼おうかな」
「絶対にオススメ!」
少年はアハッとわらって、腕の中の犬を土手に下ろした。
ワンワンッと小型犬は草の上を走りだした。
待て〜と少年も走り出す。
なんちゅー微笑ましい光景、と思いながら、海は土手に腰を下ろした。
打ち合わせ時間まではまだ少し時間あるしなと思って、春の土手で犬と戯れる少年を見つめていたが、そのうちに寝そべって空を見上げた。
「あー、やべ。回想来そう」
最近は、こうやってぼーっとしていると、なんだか色々と昔のことばかり思い出して。
海ちゃーん。小さな頃の幾の声が耳に蘇ってくる。
海ちゃん、大好き。海ちゃん大好き。
可愛い幾。可愛い弟。可愛い俺の・・・。
ハッ。海は起き上がった。
ちょっと寝てなかったか?俺。
「やべやべ。がっつり寝る時間はねえんだよ」
立ちあがり、歩き出した。さっきの少年が前を歩いていた。
スローモーションのように、少年の腕から犬が零れ落ちたのを見た。
「コニョ。こらっ」
そしてそれを少年が追いかけて横断歩道へ。
ハッと海は左を見た。
「あぶねえよ。とまれ、おいっ。車が来てるぞっ」
間に合う?間に合わない?
一瞬足が竦んだが、次の瞬間には海は走り出していた。
おい。止まれ、俺の足、止まれ。
もう間に合わない。可哀想だけど、あの子とあの犬は。
俺は、止まらないと。俺が止まらないと。
幾が。幾が泣いちまうよ。
ごめん、ごめんよ、父さん母さん。
自分勝手な死に方しやがって、なんて言っちまって。
今、あんたらの気持ちわかったよ。俺、やっぱりあんたらの息子だよ。
キキキキ。

車の急ブレーキの音で、世界が止まる。
幾、ごめん。幾、ごめんな・・・。


******************************************************

寄せてはかえす波の音。
握った掌から、砂がサラサラと零れてゆく。
幾が吸ってる煙草の煙が、風に流されてゆく。
ここは、いつでも、星が綺麗な海辺だ。


交通事故を起こした日。
海は病院に運び込まれたが、命に別状はなかった。
骨を折る大けがではあったが、意識はすぐに戻った。
犬も子供も無事だった。
一週間入院してから、海は退院した。
迎えにきたのは、幾だった。


「海ちゃん」
掌の砂をパンパンッと叩いて落としながら、海は返事をした。
「ん」
「天国のお父さんとお母さんのこと悪く言ったこと謝ってきた?さっき」
墓参りのことを幾は言っていた。
「謝ってきたよ」
「今生きてんの、二人が守ってくれたおかげだからね、絶対。Drだって、首傾げてたんだから。これぐらいの怪我で済むなんてありえないって」
「はいはい」
「事故を聞いて、海ちゃんはやっぱり父さんと母さんの息子だって思ったよ。血が繋がってない方が信じられない」
海の傍らには、松葉づえが置いてある。
「海ちゃんさ。ほんと、マジで結婚しない方がいいね。奥さんや子供可哀想だから」
「なんだよ、突然」
「俺、事故のこと聞いて、一瞬心臓止まったもん」
「バカか」
「バカじゃないっ。そうやって軽く流さないでよ。三咲さんから事故のこと電話で聞いて、俺は涙も出なかったよ。いつかはこうなると思ってたもん。
覚悟をきめて新幹線に飛び乗った俺の気持ち、海ちゃんになんか死んでもわかんねえよ」
「あ、それ、ちょっとシャレにはなんねえかも」
死んだらわかんないしねぇと笑う海に、幾は声を荒げた。
「海ちゃんのが、バカだろっ」
「あ。ごめん」
幾は、吸っていた煙草を、コーヒーの空き缶に押し込んだ。
さくっ、と幾が砂浜を歩いてくる音がする。スニーカーが砂に埋まりながらも、さくっさくっと歩いてくる。
「海ちゃん。色んな覚悟を決めて、俺言わせてもらう」
幾は、海のすぐ後ろにドサッと座った。
「ん!?」
「弟じゃなくて、森本幾として、言わせてもらうけど。愛してるんだ、海ちゃんのこと」
一瞬の沈黙ののち、海は言った。
「おまえ。本当の名前、森本って言うんだ」
「うん。東京で調べたんだ」
「へえ」
海はクスッと笑いながら、
「じゃあさ。俺も。兄じゃなく、入江海として答えるよ。おまえと同じ気持ち。愛してるよ、幾のこと」
また、しばしの沈黙ののち。
「海ちゃん、入江さんだったんだ」
「そうらしい」
幾は背中から、ギュッと海を抱きしめた。
「・・・俺、信じられない。いつから俺のこと愛してくれていたの?」
震えている、と海は思った。幾の腕が、震えている。
「おまえに背を抜かれた頃からなあ。遺伝子違うのを急に意識してさ。ああ、コイツと他人かって。本当の兄弟じゃないって知ってるのに、
他人をこんなに好きで可愛いと思うなんて、これって俺、コイツのこと好きなんじゃねえの?って思ったのが最初だった」
震える幾の腕を海はギュッと握り返す。
「東京行って損したっ。ってそれは嘘だけど。海ちゃんには感謝してる。この一年たくさんのことを学べた。楽しかったよ。
柏井さんには本当に感謝している。俺はとっても料理が好きだ。だけど、それ以上に海ちゃんが好きってこともよくわかったよ。
離れて一年も暮らせたこと褒めて。俺、なにをしてもどこにいても、海ちゃんのこと考えていたんだ」
「料理作ってる時も?」
「海ちゃんに食わせてあげたいなあって。なにかっつーと絡ませて海ちゃんのこと思ってた」
「怖っ」
抱き締める力が強くなり、体が痛かったが、海は痛いとは言わなかった。
この力強さは、幾の想いの強さと比例する。痛くても、解かれたくない、と思ったからだ。
「いいんだよ。俺ぐらい海ちゃんに執着しないと、海ちゃんはまたパンッと車の前に飛び出してしまうんだから。
俺は海ちゃんが思う通りに生きることは賛成だよ。好きなようにしたらいい。でも、傍にいる。
もし海ちゃんがどこかで死にそうになっても。ちゃんと看取れるぐらいは近くにいたい。傍にいたいんだ」
「おまえ。看取るって」
「だって。海ちゃんってすぐに死んじゃいそうなんだもん」
「幾。俺、一人はやっぱり淋しかった。もし例えまた死ぬ時もさ。おまえが傍にいて欲しい」
「うん、いる。もうどれだけ俺を邪魔扱いしても、どこへも行かない」
「おまえって、ほんと強いな。あんなに弱っちかったのにさ・・・」
「強くしてくれたのは海ちゃんだよ。海ちゃんのこと愛して、俺は強くなったんだ」
振り返る海に、幾はそっとキスをした。優しいキスを、海は目を閉じて、受けた。
「海ちゃん。俺、店に行きたいな」
幾に耳元で囁かれて、僅かに赤くなりながら海は、「うん」とうなづいた。


幾は横丁の看板を見た途端に、走り出す。
「幾、待てって、おい」
横丁の店の人々が幾に気付いて
「おかえり」
「幾ちゃん、おかえり〜」
「帰ってきたんだね」
と次々と声をかけた。
「ただいまっ」
幾はそんな彼らに手を振り、横丁を駆け抜けていく。
海は、松葉杖をついて必死に幾を追いかけたが、追いつく筈もない。
途中で諦め、横丁を走り抜けていく幾の後ろ姿を目で追いながら、綺麗な熱帯魚が泳いでいく、と思った。


キーケースから、鍵を取り出し、幾は店を開けた。
カランと鈴の音。
しばらく使っていなかった店の中の空気が、幾を取り巻く。
その懐かしさに、幾の心が震えた。
カウンターのはじっこには、父と母の写真。
「ただいま。お父さん、お母さん」
小さい頃から、ここで働く母と父を見ているのが好きだった。
学生の頃、閑古鳥が鳴いているこの店の隅の席で、勉強するのが好きだった。
夢中で勉強していると、海ちゃんが帰ってくる。
カランと鈴の音が響いて。
『ただいま。あー、疲れたっ』
部活帰りの海ちゃんが、よれよれになって帰ってくる。
それを皆でむかえて『おかえり』って言うのが好きだった。
たまらなく、海ちゃんが好きだった。


カラン。鈴の音。
「幾、おまえ早い。俺、松葉杖って忘れてるだろ」
ヒィ〜と海は呻きながら、ようやく辿り着いて、店に入ってきた。
「海ちゃん、おかえり」
「はあ!?おまえが、おかえり、だろ」
「あ、そっか。改めて。ただいま」
「うん」
「もう、離れないよ」
そう言って幾は、海に手を伸ばした。
「幾」
バタンと杖が落ちる音が静かな店に響いた。
星空の星に触れたく手を伸ばし、でも触れられず切なくなった。
幾にとって、海は、空にある星のように遠かったのだ。
たが。
今伸ばしたこの腕は、触れられない星を掴むのではないので、もう切なくはない。
切ない魔法は、もう消えて。
この腕に在るのは、あれほど望んだ海だった。
やっと届いたこの手で、幾は海を力いっぱい抱きしめた。

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