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みちるにパンフレットを渡されて、なつきはふと思い出した。梶本と行く筈だった旅行。結局行けなかったな・・・と。
「温泉行きたいんですよね。桜井先輩は、温泉嫌いですか?」
みちるはパンフレットをギュッと胸に抱きしめながら、傍らのなつきを見上げた。
「いや。好きだよ・・・。つーか・・・。行ったことねえけど」
「ええっ!?本当に??もう、桜井先輩って、遊び慣れてるふーで、結構遊んでませんよねー。どこ行っても、俺初めて、俺初めて、なんだもん」
キャハハとみちるは笑っている。
「みちるちゃんとつきあうようになってから、色々経験したよ、俺」
女となんて、ほとんど行くところは決まっていたし、ヤロー同士でつるんで歩く趣味はなかったから、いつも一人だった。
時々、誰かと喋りたくなるとゲーセン。そこに、やつらは集っていたから。そんな毎日の繰り返しだった。
梶本とつきあっていた頃は、それこそ梶本の部屋に入り浸りだった。ヤツは、あまり外に出たがらなかったし、暇さえあれば勉強だの本だの読んでいた。
それでも・・・。一人でいた頃に比べれば、全然退屈じゃなかった。難しそうな本読んでいるあいつの横顔を見ているのが楽しかった。
忘れる為に。なにもかも、忘れる為に。
今までつきあったこともないし、興味すらなかったフツーの女の子とつきあった。
どっかで勝手に見初められたらしく、古典もいーとこな待ち伏せ告白を受けた。
同じ大学に通う後輩の坂井みちる。
梶本に別れを告げられたばかりで、そのあまりのタイミングのよさに、よくも知らないのに「つきあうよ」とオッケー出していた。
つきあいだしたら、みちるは本当に純粋な子で、自分のしてることがあまりにひどい気がして、なつきは正直に経緯を告白した。
男とつきあっていたこと、別れたこと。まだ、好きかもしれない・・・ということ。
みちるは、しばらく黙って聞いていたが「つきあってもらえると思わなかったら、それだけでも儲けもんなの。話してくれてありがとう。全部、ちゃんと覚えておくから」と笑って言った。
俺は運が良かったのかもしれない、と思った。みちるは、癒しになってくれる。明るくて、おおらかで。二人で歩いているところを見られた昔のダチにすごく驚かれた。
「女の趣味が変わりすぎだ」と呆れられもした。五条が見ても、驚くだろう。
けれど、俺達はうまくいっている。セックスだって、ちゃんと出来る。
なにも、不安は、ない。これが、普通の男女交際。デートして、お喋りして、セックスして。
平凡な毎日。なにも、不安は、ない。


待ち合わせの喫茶店。梶本は、気配に顔をあげた。
「幸彦」
「よお」
三谷幸彦が、ドサッと、梶本の前の空いた席に腰掛けた。
「なにしてんの?」
「吉川さんを待ってるんだけど」
「美喜なら、とーっくに帰ったぜ」
梶本は時計をチラリと見ては、苦笑する。
「すっぽかされたか」
「きまぐれなヤツだからな。なあ、もう、アイツのペース?」
「吉川さんとゲームするのは楽しいよ。意地張っちゃって、可愛いじゃん」
クスッと梶本が笑う。三谷は溜め息をついた。
「おまえらがつきあうって訊いた時。正直耳を疑ったぜ。おまえは、もう少しスマートに美喜をあしらってくれると思ったけど。まさか、おまえが美喜におちちゃうなんてな」
「・・・ごめん。幸彦。無視されているのは知ってたけど、おまえになんて言っていいかわからなかった」
「こーゆーのは時間が経てば勝手に立ち直るんだから、気にするこたあねえよ。それに最初から美喜は、俺のモンにはならねえとわかっていたしな」
ガシガシと三谷は頭を掻いた。
「相手がおまえならばしゃーねーし。美喜の幸せは、俺の幸せだしな。この言葉、覚えておけよ、梶本。美喜は、あんなヤツだが俺にとっては大切なヤツだ。
アイツを悲しませることがあったら、俺はおまえを許さねえからな。絶対に、だ。アイツを悲しませた分、おまえを悲しませることしてやるからな。脅しじゃねえぞ。
美喜を大切にしてやってくれ」
三谷の真剣な視線を受けて、梶本はすぐにはうなづけなかった。
「聞いてるのかよ、梶本」
「・・・わかった」
やっと、梶本はうなづいた。三谷は、チッと舌打ちすると、立ち上がった。
「邪魔したな。というわけで、忠告だ。さっさと帰った方がいいぜ。美喜は来ねえよ」
「うん。サンキュー」
ガタッと椅子を蹴り飛ばすような勢いで、三谷はサッサと店を出て行った。
振り返りもしない友達の、その背中を見つめていた梶本は、ゆっくりと視線をテーブルの上にうつしてから、目を伏せた。
代償行為、だ。と知っていた。吉川と体を重ねてからきっちり一週間後。
吉川に改めて告白された。梶本は受け入れた。
勿論。作為を含めていたことも否定はしないが、どこかなつきと似ている吉川を、心底拒みきれないでいた自分に気づいた。
素直な癖して、どっか気まぐれ。プライドの高い猫みたいな男達。
二人は似ていて、とても可愛い。
たった一つ違うのは、吉川は甘え上手。なつきは甘え下手。
たった一つの違いだが、大きな違い。
本当は甘えたくて仕方ないのに、時々はびっくりするぐらい素直なのに、肝心なところでは素直に甘えることが出来ないなつきのあの不器用さを自分は愛した。
吉川の素直じゃないところは、大半が駆け引き。主導権は渡さないよ・・・と言いながらも、最後にはペッタリと甘えてくる。
この違いが、自分に違和感をもたらす。しかしそのうちこれにも慣れてくるだろう。それに慣れた時、自分は吉川を愛せるかもしれないと思った。
だが。
三谷のあの真剣な視線には、恐怖を感じた。
三谷は、吉川を愛している。心から、愛してるいるのだ。愛する人を不幸にするヤツは許さない。誰でも持つ当然の感情だ。
三谷のあの感情は、自然なものだ。自分は・・・。
あの、三谷が持つ真剣な視線をいつかきちんと見据えることが出来るのだろうか?と思った。
それだけ吉川を愛することが出来るだろうか・・・。
「梶本」
また名を呼ばれて、梶本は振り返った。なつきと酒井みちるが立っていた。
ここは、梶本となつきのお気に入りの喫茶店で、よく二人でここでくっちゃべっていた。だから、会っても別に偶然ではない。
「こんにちは」
みちるがペコッと挨拶をする。
「こんにちは。桜井さん、酒井さん」
寸前まで頭の中に思い浮かべていた男が目の前にいる。梶本は、ジッとなつきを見上げた。
別れてからもう半年以上は経つ。
「一人?」
なつきが聞いてくる。
「ええ。ちょっとすっぽかされまして。よろしければ、ここどうぞ」
立ち上がろうとした梶本のすぐ横を、塞ぐようにしてなつきが腰かけた。
「んなにあからさまにツラ見て逃げ出すよーなことしなくてもいいだろ。少しぐらい喋ったっていいよな、みちるちゃん」
ニコッとみちるは微笑んだ。
「勿論です。積もる話をどうぞ」
「積もる話なんてねえけどさ」
なつきは肩を竦めながら、梶本を見た。
「吉川とつきあいだしたんだって?三谷から聞いたよ」
「ええ」
「趣味わる」
吐き出すように、なつきは言った。
その拗ねた言い方が可愛くて、梶本は思わず笑ってしまった。
「すっぽかされた相手は、吉川?」
「そうですよ。俺は、どうもこういうきまぐれタイプに縁があるみたいで。酒井さん。桜井さんもよくやるでしょ。待ち合わせ、すっぽかし」
「アハハハ。たまにね。電話すると、まだ寝てた・・・とか。今日だっけ?とか」
「そうそう」
みちると梶本は顔を見合わせて、笑っていた。
「っせえな。人ネタにして笑ってんじゃねえよ」
ブスッとした顔で、なつきは腕を組んだ。
「あれ、酒井さん。そのパンフ、温泉?」
梶本が、みちるがテーブルに置いたパンフレットを見て、訊いた。
「そうです。桜井先輩と行こうねって。いっぱいあるから、迷っちゃって」
えへへとみちるは、パンフレットをパラパラと捲った。
「そっか。いいね。冬はやっぱり温泉だよな」
そう言ってから梶本は、『俺達は海に行けなかった・・・』とふと思い出した。
同じようにパンフレットを二人で集めては眺めていたっけ。
梶本は、なつきを見た。なつきも梶本を見ていた。
パチッと二人の視線が合った。
なつきが先に目を反らした。たぶん。同じことを考えていたんだろう、と梶本は思った。
「あ、じゃあ、俺、そろそろ」
このままだと気持ちが下降していきそうだ、と思った梶本は今度こそ席を立とうとした。
だが、それもなつきに阻止される。言葉で。
「待てよ梶本。俺達さ。このまま、ちょっと休んでから隣の隣の駅まで、美味いラーメンの店まで歩いていこうかって話してたんだ。おまえもつきあえよ。
カノジョにすっぽかされてどうせ暇なんだろ。運動がてらな」
「え、でも」
戸惑った梶本はみちるに視線をやった。
「行きましょうよ。そこ、本当に美味しいんですって。それに、私、両手に花よ」
少しも嫌な顔をせずに、みちるは言った。
「あ、でも」
「行くぜ」
強引で俺様ななつきは、顎で梶本を促す。
「わかりました」
梶本はうなづいた。
もちろんあまり気は進まないが、なつきのこういう態度には逆らわないようにしていた癖が、いまだにぬけていないんだな・・・と梶本は思った。
なつきとみちると梶本。三人は喫茶店を出て、隣の隣の駅を目指して歩き出す。
たかが駅2個向こうだと思うが、案外簡単ではない。
途中で道に迷いながら、3人はウロウロとしてしまう。あっちだ、こっちだとやりながら、歩く。
みちるは天然の方向音痴でまったく役に立たない。
なつきといえば・・。梶本といる時には、ほとんど梶本任せだったなつきだったが、みちるの手前もあるのか、結構協力してくる。
だが、それは大半があてずっぽうなのでなつきの言うとおりに歩くと、更に混乱した。
梶本は、アンタは黙っててくれとなつきに文句を垂れた。
すると、なつきとみちるは二人で肩を並べてすごすごと梶本の後についてくる。
歩いているうちに、夕日はすっかり隠れ、辺りは真っ暗になってしまった。なんとか梶本の誘導で、目的の駅前に辿り着くことが出来た。
「二人で歩いていこうなんて自殺行為じゃん。俺がいて助かったでしょ」
と、梶本は後ろの二人を振り返った。
「ああ。助かった。やっぱりおまえがいてくれて正解」
「ホントだね。それに比べて、桜井先輩ったら。あてになんなーい」
「そうそう。俺をあてにしちゃだめだぜ、みちるちゃん。甲斐性ねえかんな」
「なに、それ〜。エバッて言うことじゃないでしょー」
なつきとみちる。つきあっている二人は、自然に、当然に、肩を並べてピタリと寄り添うように笑いながら歩いてくる。
そんな二人を見て、梶本は思わず目を細めた。ふと、なつきがそんな梶本に気づいて、眉を寄せた。
「なに?眩しいのか、おまえ」
なつきに言われて、梶本はハッとした。
「こんな真っ暗いところで、なにが眩しいんですか」
「今、目細めたろ」
「そう?」
悔しかった。心の奥がザワザワと騒いでいる。眩しかったのは、当然のように寄り添う二人の姿、だ。
「とりあえず、お二人さん。駅前ですけど。こっからどーいくの?」
すると、みちるがパッと手を挙げた。
「ここからは私の出番よ。もうこっからは行きかたわかるもん♪」
タッとみちるは梶本を追い越して、駆け出した。
「こっちですよー」
ブンブンとみちるは手を振って、二人を手招く。
「わかった、わかった。そこで待ってろ」
笑いながらなつきがみちるに向かって歩き出す。
「明るくて可愛い子だね」
先にみちるが行ってしまったので、なつきと梶本は並んで歩く。
「ああ。いい子だよ。すげえいい子。つきあえてよかったと思ってる」
白い息を吐きながら、なつきはみちるの方を見つめながら、横顔でうなづいた。
「良かったね」
梶本は立ち止まり、ニコッとなつきに笑いかけた。
なつきは、そんな梶本を見て、目を見開いた。なつきの足も止まってしまっていた。
「あの、さ。お邪魔だとは思うんだけど、もう少し一緒にいていい?」
なつきは、梶本から目を反らした。
「ラーメン食おうって言ったろ。まだ食ってねーじゃん」
ボソッとなつきは答えた。
「そうだよな」
コートのポケットに手を突っ込みながら、梶本はうつむいた。なつきはスッと梶本を追い越して歩き出した。
本当は・・・。今すぐにこの場を去ってしまいたいのに、と梶本は思った。
それでも、自分の心はなつきと『もう少し一緒にいたい』と思っているのだ。
こんなふうに肩を並べて二人で歩くのが当然だった夏の日は、遥かに遠くに去ってしまったのだと思いながら、それでも・・・。
梶本は顔をあげた。先に歩いていってしまっていたと思っていたなつきが立ち止まって、こらちを見ていた。
「あ、すみません」
「ボサッとしてんなよ」
再び梶本はなつきの隣に並んだ。
みちるは、なつきと梶本が追いつくのを待つのに疲れたのか、すぐ横にあった、冬物の女の子用の可愛いコートが飾られているショーウィンドを覗きこんでいた。
「お待たせ」
なつきが言うと、みちるは振り返り、「あっちだよ。急がないと並ぶかもしれないから、早歩きね」と言った。
「俺達脚長いから平気だよ。みちるちゃんは走らねえとなんねえかもしんねえけど」
「失礼ねっ」
パアンッとみちるはなつきの背を叩いて、また一人で先に歩き出した。


はるばる歩いてきた甲斐があった。
ほとんど待たずに店に入れて、食ったラーメンは噂に違わず美味しかった。みちるはホクホク顔だ。ラーメンがダイスキなのだと言う。
「そろそろ時間だ。今日これから、私、友達の家に誕生日パーティーしにいくの。彼女がバイト終わる時間までの暇つぶしに、桜井先輩につきあってもらったんだ」
「暇つぶしで俺を使うとはいい根性の女だよな」
なつきはジロッとみちるを見た。
「説明しておいたじゃない。どうもありがとう、桜井先輩。それから、梶本さんも。つきあわせちゃってごめんなさいね。でも楽しかった。また遊んでください」
ペコッとみちるはお辞儀する。躾のいい子らしかった。
「こちらこそ。桜井さん、送っていってあげなくていいの?」
梶本も挨拶しながら、桜井に訊いた。
「あ。平気なんです。タクシーだから」
みちるは、そう言うと、「それじゃ」と言って、パタパタとタクシー乗り場に向かって走っていってしまった。そんなみちるを見送りながら、
「昨日、その子の誕生日プレゼント買うのに散々つきあわされてよ。えらい目に遭った」となつきはクスッと笑った。
その足は駅に向かって歩き出している。
「彼女のペースにのせられちまってるって訳か」
梶本も歩き出す。不意に目が合って慌てて二人は同時に反らす。
「そー。この俺が」
自分の横に梶本が並んだことを横目で確認しながら、なつきはうなづいた。
「五条あたりがみたら、きっと驚くぜ。見せねえけどな。アイツ、女にも手早いから。ホモのくせに」
「ハハハ。けど五条さんより、りお先輩のが危なそうだ」
「りおちゃん、女に飢えてるかんなー」
改札に辿り着く。
目的の駅が一緒なので、切符を買って、二人は電車に乗り込んだ。結構電車は混んでいて、乗った途端に離れ離れになった。
だが、降りる駅は同じだしなにも無理してくっつくこともない。
それぞれの位置で、二人は窓の外をぼんやり眺めていた。
ゴトンッと大きく電車が揺れながら、駅に着いた。ドッと人に押されながら、二人は電車を降りた。
ホームを通過し、改札を出た。ここからが別れ道だ。二人は、別々の路線に乗り換えて、家に帰るのだ。
「今日は、ありがと。時間が潰れたよ」
先に降りたなつきは、改札脇の柱に寄りかかって梶本を待っていた。梶本は、背中を人に押されながら、なつきの前に立って礼を言った。
「無理矢理誘っちまって悪かったな」
「いつものことでしょ」
言って、梶本は笑いながら、カバンの中の定期を探していた。
「桜井さんが強引なのは、いつものことです。慣れてるから、俺」
「うるせえな。あったのかよ、定期」
「あった」
梶本は、定期入れをなつきに見せた。それから、少しなつきを見つめてから目を伏せた。
「それじゃ」
短く言って、梶本はクルリと踵を返して、歩いていく。
「梶本」
なつきに呼ばれて、梶本は振り返った。続く言葉を待ったが、なつきは顔だけを捻って横顔のままジッと梶本を見つめている。
「桜井さん?」
梶本が、首を傾げた。
なつきは、キュッと眉を寄せた。梶本は目を見開いた。なつきが、泣きそうだったからだ。
だが、瞬時になつきの表情は切り替わり、裏腹に微笑んだ。
「俺、楽しそうだろ。幸せそうだろ。そう見えるよな」
「見えるよ」
素直に梶本は頷いた。
「みちるとつきあって、楽しい。嬉しい」
「うん」
「すごく幸せ。普通に抱き合えて、キスして、セックスも出来る。俺、悪いけどすっげー幸せ。むちゃくちゃ幸せ。なのにさ・・・。なんで、だよ」
「!?」
「どうして、おまえはそんな顔してんだよ。おまえが俺をフッたんじゃねえのかよ。おまえは吉川とつきあってるんじゃねーかよ。なのに、なんでおまえはそんな辛そうな顔してる?
なんでそんな目で俺を見るんだよ。せっかく俺は幸せなのに・・・。おまえに、んなツラされたら、俺は不安になる。どうしてだよ。梶本、おまえは今、幸せじゃねえのか?」
「!」
梶本の顔が強張った。
その顔を見て、なつきは、自分の不安が当たったことを知った。
「バカじゃねえの・・・。お得意のポーカーフェイスは、こーゆー時に発揮しやがれよ」
呟き、なつきの瞳から、スッと涙が零れた。
梶本は、こみあげてくる感情をなんとか封じ込めようと努力したが、惚れた相手が涙を零す姿を目の当たりにして、平静でいられる筈もない。
そして、それが。自分の為に流してくれた涙であればこそ。
「つっ・・・」
梶本はなつきに駆け寄った。バンッと柱に両手をついて、触れないようになつきの体を挟み込む。
ビクッとなつきは梶本を見上げた。
「嫌いになって別れたんじゃねえよ。今だって、好きだ。好きだ。好きだ。どうしようもなく、好きなんだ・・・」
バンッと梶本は、柱を拳で叩いた。もう既に、人目はとっくに気にならないでいた。正気では、こんなことは言えない。
「じゃあ、なんで別れようなんて言いやがったんだ、てめえは!」
語尾をかすれさせながら、なつきは梶本をキッと睨みつけた。
「それしか方法がなかったからなんだよ」
梶本は呟き、うつむいた。だが、すぐ傍に立った気配にギクリとして顔をあげた。
「吉川さ・・・ん」
いつの間にか、柱のすぐ横には吉川が立っていた。無意識に、梶本は背になつきを庇った。
吉川はニッコリ微笑んでいる。
「幸彦に伝言頼んでおいたのに・・・。いつまで経ってもおまえは家に戻ってこない。だから、心配して学校まで戻ってきたんだ。なのにこんなところで、
別れた男とより戻す話してたなんて吃驚だよ。皆さんジロジロ見てるよ。恥ずかしいだろ。さあ、お家に戻っておいでよ、梶本。もらった合鍵使って
部屋に入って、俺、料理作って待っていたんだよ」
「・・・」
梶本は、その言葉には答えずに、吉川をジッと見つめている。
吉川は、ふっ、と笑顔を引っ込めて、泣きそうな顔になった。
「やっぱり。おまえは、桜井を庇っていたんだ。おまえは・・・。桜井を守ろうとして、身を退いたんだね」
吉川は泣かない。だが、その顔からは、さっきの穏やかさが消え、梶本を睨みつけている。
なつきは、二人を見ながら、涙を掌で拭った。
「訳がわからないツラしてんね、桜井。梶本はな。本人が言うとおり、おまえのことがまだ好きなんだよ。きっとずっと好きだったんだろうね。でも、おまえを守る為に、
身を退いたんだ。理由を聞きたい?教えてやるよ。明日ね。俺に訊きにおいでよ。けどさ。一人でな。一人でおいでよ。ちゃんと説明してやるから」
「よせよ」
梶本は首を振った。
「冗談じゃねえよっ。理由なんか話すなっ」
「取引は終了だよ、梶本」
吉川は冷たく言っては小さく息をつくと、それでも、梶本の腕をとった。
「メシ。作ったから、食べよう。最後の晩餐だ」
「吉川さん。許してくれ」
「今夜だけは許してあげるよ」
梶本の背を押しながら、吉川は、なつきに声をかけた。
「梶本が欲しければ、取りにきなよ。おまえに返すよ。ただし、その時、おまえが本当に梶本を欲しいと思えるかどうかはわかんないよ・・・」
「桜井さん。絶対に来ないでくれ。もう二度と会わないから。ちきしょう。なんでこうなるんだっ!」
梶本の悲鳴じめた声が、改札に響いた。
やはり、ラーメンなど食べに行かなければ良かった。
誘いに乗らずに帰ればよかった・・・と梶本は心の底から後悔した。
徹し切れなかった自分の甘さだけが悔やまれた。
「桜井さんっ。絶対に来ないで」
もう一度、今度は懇願じみた梶本の声。
「・・・」
なつきは、その声を聞きながらぼんやりと、去っていく二人の後姿を見つめていた。

続く

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