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これから、どうするべきか。
梶本は、考えていなかった。
とにかく。とにかく・・・。あの人を危険から遠ざけなければ。頭の中は、それだけだった。
吉川が俺に飽きるのを待つか、それともこちら側に引き入れるか。
考えようとすればするほど、なつきの顔が頭をグルグルと回って、思考が中断する。
梶本はシャープペンを齧りながら、溜め息をついた。
いつだって、計算通りにいった試しがねえ。あの人とのことは。なにもかも。
今日の最後の講義が終わり、梶本はさっさと席を立った。
今は、この大学に長居したくない。人々を押しのけて梶本は足早に教室を出て廊下を歩いた。
幸い、誰にも会うことなく正門を出ることが出来た。
待ち合わせのあの木の下のベンチ。勿論、なつきはいなかった。
互いの講義が終わるのを確認しあって、いつもあそこで待ち合わせして一緒に帰った。
今日からは、もうそれも出来ない。
その事実に、梶本は苛つきを押さえることが出来ずに、おとなしくまっすぐにアパートに戻る気分をすっかり手放していた。
少し考えた末「久しぶりに寄ってくか」と思い立った馴染みの店。
知り合いが経営している店。
同じ嗜好の者同士が集まるあの店には、松木を失ってから近づくことすら出来なかった。
初めて会った場所がそこだったから。
思い出が痛くて、梶本はもう長いことその店に顔を出していなかったが・・・。
今ならば行ける気がする、と感じた。行って、そして。ついでに酔っちまおう。
なつきは、ストンッとベンチに腰かけた。そして、構内から出てくる人々を眺めていた。
あの中に、梶本がいる筈。
水曜日は、梶本はこの時間が最後の授業だ。
唐突につきつけられた別れの言葉に、なつきは一晩考えても、どうしても納得することが出来なかった。
当たり前だ。あんな一方的なことってあるかよ・・・。そう思いながら、なつきは梶本の姿を目で探す。
梶本もきっと俺の姿に気づく筈だ。俺はおまえを待っている。おまえともう一度話がしたい。
なつきは目をこらして、梶本の姿を探すが、どこにもいない。
「・・・!?」
チラリと時計を見た。確かに自分は、ここに来るのが僅かに遅れた。
明日は休講だという噂を確かめる為に、久野というダチと僅かに廊下で喋りこんだ。
しかし、たったの5分ぐらいの時間だ。
それだけのロスなのに梶本はもう学校を去ってしまったのだろうか。それとも今日は休みだったのか・・・!?
「よお」
その声になつきは、慌てて振り返った。
「吉川」
すべての元凶である存在の男が、なつきに向かって歩いてきた。
「うせろ」
吉川の姿をみとめるやいなや、冷やかになつきは言った。
「ちょっと待ってよ。そんなつれない態度」
言葉とは裏腹に、吉川はうっすらと笑っていた。
「てめえのツラ。二度と見たくねえんだよ」
「なに言ってんだよ。同じ講義取ってるんだから」
「やかましいっ。うせろっつってんだろ」
「待ってても無駄だよ。梶本は、さっさと帰ったってさ。今、知り合いに聞いたから。なんだかものすごい勢いで教室飛び出して行ったって。
俺は君が待ちぼうけしない為に忠告しに来たんじゃないか。感謝されるならまだしも、怒鳴られる・・・」
言いかけて、吉川は目を見開いた。なつきの腕が伸びてきて、吉川の前髪を掴んだ。
「うせろって言っただろ。この可愛いツラ、ボコられたくなかったら、消えろ」
顔を顰めながら、それでも吉川は動じたりせずに、なつきを睨み返した。
「本性出したね、野蛮人。殴りたかったら殴れば?どうせならば盛大にやってくれよ。その方が梶本の同情を買えるし、邪魔なテメーを大学から一掃出来るぜ」
可愛い顔に似合わない、呆れるぐらい太い神経な吉川だった。
「てめえこそ、本性出したな、陰険ヤロー。梶本になに吹き込んだ。てめえのせいで・・・。てめえのせいでっ!!」
言いかけて、なつきはグッと堪えた。いちいちこんなヤツに、説明したって仕方ねえと思ったからだ。
挙句にまた、かきまわされてしまうのがオチだ。バカな俺だってそんぐれえはわかる、と思った。
「なんだよ。俺がなにしたって言うんだ。俺は別になんもしてねえよ。それにこの前の件ならばこっちが聞きたいね。いきなり消えやがって。なんなんだよ、てめえら」
なつきは、バッと吉川の髪から手を離した。
「てめえが消えねえなら、俺が消える。梶本がもう帰ったならば、ここにいる必要はねえからな」
とっととなつきは踵を返した。そんななつきの背に、吉川は楽しそうに声をかけた。
「随分深刻そうだね。いつもの待ち合わせのベンチ。梶本は逃げるように帰って、それを知らない君は、危うく待ちぼうけするところだった。
君達、擦れ違ってるじゃん。もしかして、危機!?」
笑いを含んだ吉川の台詞は、なつきの耳にしっかりと届いていた。
いつもの自分ならば、とっくにキレて、今すぐUターンして吉川をぶん殴った。
だが。今日はそんなことしてる暇はまったくない。
あんなバカなんぞ殴る価値すらねえだろ・・・と心の中で怒りを押し殺して、なつきは正門目掛けて走った。
梶本を捕まえなければ。一刻も早く捕まえなければ。こうしている間にも、アイツは、あの計算大好きな頭で、色々と考えては、さっさと進んでいってしまうだろう。
そんな梶本だから。いつも必死に側にくっついていた。梶本がなにを考え、なにを見てるのか。多少なりとも理解し、そして同じものを見て。
そうじゃないと、おいていかれそうでなつきは不安だったのだ。
初めて、夢中で手に入れた恋人。例え終わるにしても、こんな納得の出来ない一方的なものは冗談じゃなかった。
アイツがなにを考えているのか。ぜってー吐かせてやる!そう思いながら、なつきは梶本のアパートへ向かった。
辿りつき、呼び鈴を押しても、一向に反応がない。まだ帰ってない・・・!?
「ちきしょう。どこで寄り道してやがるんだ」
自分は、合鍵を持ってない。
くれようとした梶本に、自分が拒んだのだった。
どうして拒んだのか今となっては自分のことなのにわからないが、こんなことならば素直に貰っておけば良かったと今更後悔しつつ、
仕方ないからと、なつきはズズズ・・・とその場に座りこんだ。
ペタッと廊下に脚を伸ばした。
「待つしかねえよな」
しばらくボーッと、アパートの廊下の天井を眺めていたが、そのうちなつきは脚を折り、両膝を両腕で抱えた。
梶本を待つ。
そういえば、昔も。俺は梶本を待っていたっけ。
なつきは目を閉じた。携帯が鳴るのを。梶本から連絡が来るのを。俺は待っていたよな。
あん時も辛くて、辛くて。どうしようもなく淋しかった。連絡が欲しくて。梶本に会いたくて。
って、俺。梶本を『待つ』運命にあんのかなァ・・・となつきは、少し可笑しくなった。
ハハハと笑ってみて、だが虚しくなった。
待つのは嫌いだよ。だって・・・。辛いじゃん・・・。
街をブラブラして時間を潰してから、梶本は店のオープンと同時に、扉を潜った。
懐かしい店内。どこも変わってない。
カウンターの向こうにズラリと並んだ酒瓶がランプの灯火に煌いている。
どこといって、他の、酒を飲ませるのが目的の同じような系統の店とは変わりのない造りだ。
薄暗く、ジャズが流れ、テーブルに置かれた小さなランプや、ところどころに置かれた花瓶の中のさりげない花など。
だが。梶本は、いつも思っていた。ここは、妙に背徳めいた気分にさせられる店なんだ、と。
それには理由がある。ここには、特殊な嗜好を持つ人しか来ないから・・・。
わかっていながら、毎回感じるその気持ちを振り払うことは出来なかった。
こんなところに、当たり前のように出入りしていた中学・高校の頃の俺ってどーよ?と梶本は苦笑した。
「久しぶり。カジくん」
カウンターの中のマスターは、ニッコリと笑って梶本に挨拶した。
「マスター。俺のこと覚えててくれたんだ」
「当たり前だろう。君が来なくなっても、君の噂はいつも聞いていたよ。そのうち皆集まってくるだろう。メンバーは変わらないよ。相変わらずだ」
梶本は腰掛け、カウンターの中のマスターに、水割りを注文した。
マスターは手際良く水割りを作り、梶本の前にコトン、と置いた。
「色々あって大変だったと聞くよ。慶は残念だったが、そういう運命だったんだろう」
淡々としたマスターの物言いは、昔のままだ。だが、今はそれがありがたい梶本だった。下手に同情の言葉は鬱陶しいだけだ。
「ええ」
梶本はうなづいた。
「そういう運命だったんです」
口に出して梶本は、この店につまった松木慶との思い出がサラサラと、今。たった今。ようやく風化していった気がした。
胸が痛んだが、時間が過ぎていくというのは、こういうことなんだな・・・と現実的に思ったりもした。
水割りのグラスに、手を伸ばした瞬間
「マスター、こんばんはっ。遅れてすみません。急いで支度しますから」
店の正面のドアが勢いよく開いて、そんな声と共に、誰かが入ってきた。
梶本は振り返った。そして、目を見開いた。聞き覚えのある声だとは思ったが。
「清美」
思わず、その名を口にした梶本だった。
「え。嘘・・・。梶本・・・さん?なんで、ここに・・・」
従業員専用のドアを開きかけて、松木清美は、カウンターの梶本を振り返った。
「なんでって。おまえこそ、どうして」
「お、俺はバイトだよ。ここで雇ってもらって」
「清美ちゃん。お喋りあとで。支度して、厨房入って」
マスターの声に、清美はハッとしてうなづいた。
「は、はい」
梶本に視線を残しつつ、清美はバタンとドアの向こうに消えた。
「珍しいね。梶本さんが酔っちゃうなんて」
清美は、梶本の肩を支えながら、驚きの目を向ける。
「うるせーな。誰だって酔いたい時はあるだろ」
足元がフラつくのを感じて、梶本は何度も立ち止まった。自分よりガタイの小さい清美は、支えには足りなかった。
半分以上自分の力で立っていたので、途中で苦しくなってしまうのだ。
「それより同じ大学ならば、なんで今まで声かけてくんなかったんだよ」
「声かける状況じゃなかったよ。だって、梶本さんは、いつも誰かさんと一緒だったからね」
松木清美は、そう言って
「下手に声かけて誤解されちゃ困るって遠慮していた俺の気持ちも理解しなよね」
「・・・」
清美は、梶本と同い歳で、かつての恋人松木慶の血の繋がらない弟だ。
両親を幼い頃になくした松木は、親戚中をたらい回しにされた挙句、母方の親戚の独身女の養子になった。
女はやがて、松木を連れたままバツイチ男と結婚した。
新しい父親に馴染まないまま、今度はその両親が離婚してしまい、松木はどうしてか血の繋がりがない父親の方に引き取られた。
つまり、親戚の女には捨てられたのだといつか説明されたっけ。
そしてそのバツイチ男の連れ子が清美だったのだ。
ただ、一人。松木の寂しい人生の中で、この血の繋がらない弟が、救いだったと何度もあの頃聞かされた。
「慶兄さん」と、清美は松木を慕っていたのだ。
「なんかあったの、梶本さん」
聞かれて、梶本は目を伏せた。
「おまえ・・・。もう帰れよ。俺、一人で大丈夫だから」
やんわりと梶本は、清美の手を避けた。
「そんなにフラフラしててさ。危なっかしくて見てらんないよ。梶本さんはいつだってそう。しっかりしてそうに見えて、その実結構ヤバイんだよね。
兄さんの時だって。俺はいつ貴方が兄さんのあとを追って自殺してしまうんじゃないかとハラハラしていたよ」
「よく言うぜ。口もきいてくれなかったほど、怒っていたくせに」
当時。清美は、梶本の謝罪の言葉を一切聞き入れてくれなかった。
それほどに、彼は、血の繋がらない兄の死を嘆いていたのだ。
「それはね。当時はそうだよ。だいたいあの頃の俺は、男同士だってことさえ理解出来なかった。それに、梶本さんの不注意が兄さんを殺した。
俺は今でもそれが事実だと思ってる。けどね・・・。悲しいことに、そんな気持ちも時間が経った今は仕方ないという言葉で解決出来てしまったんだ。
結局、俺の存在だけじゃ兄さんを幸せには出来なかったから。兄さんは、梶本さんとつきあってるとき、とても楽しそうだったから」
清美はニコッと笑った。
「こういう話をしたくないから、梶本さんはあの店にもう長いこと来なかったんだろ。なのに今頃」
「いいだろ。別に」
単に酔いたかっただけだ、と梶本は思った。
あの後合流した昔の仲間達は、梶本をすんなりと受け入れてくれた。
あの店の中の時間だけが、まるで止まってしまっていたかのように、誰もが当時のままだった。
そんな雰囲気を心地よく感じながら、梶本は今心に抱える闇を振り払うかのように飲んだ。久しぶりに浴びるほど飲んだ。
そして、予定通りに酔えた。酔えたが、肝心な部分だけはやけにクリアで、払拭しきれなかった。
今夜の飲みは失敗・・・と梶本は心の中でぼやいた。
「あー。もう重いっ!梶本さん、住んでるとこ、前と同じだよね。もうタクシー拾っちゃえ」
酔いまくってしまった梶本だったが、とりあえず帰ろうと思える気持ちだけはまだあって、フラフラと店を出たところを清美に拾われた。
マスターにことわって、途中でバイトを抜け出してきたのだと言う。心配だから、送っていくよ、と清美は言った。
ヨイショ、ヨイショと清美は梶本をタクシーに押し込むと、自分も乗った。
運転手に行き先を告げて、清美はやっと安心したかのように、隣の梶本を見つめた。
「あのね。マスターに梶本さんの近況報告していたの、俺。急に店に来なくなった梶本さんを一番心配していたのがマスターだったから。
マスター安心させる為に時々梶本さんのこと遠くから見てたよ。今まで」
梶本は、窓に寄りかかりながら、フーンと鼻を鳴らして笑った。
「清美。マスターとデキてんの?」
我ながら下世話だな・・・と思いつつ、梶本は言った。
「つまんね冗談」
ムッとしたような声で、清美は言い返す。
「だな。調子わりーや、俺」
コンッと、梶本は自分の頭を窓ガラスに押しつけた。
「さっきマスターが言ってた。カジくんは滅多に酒に逃げない男だから、なにかあったに違いないって。心配してた。兄さんの時みたいなことにならなければいいと思う。
辛いことあったならばゲロしちゃいなよ。俺、聞くだけならば聞けるよ」
「久しぶりに偶然遭ったヤツにいきなり人生相談なんかしてどうすんだよ」
梶本のその言葉に反応して、ピクッと清美の肩が動いた。
触れていた肩先に清美の動きを感じて、梶本はのろのろと頭を起こし、清美の横顔に視線をやった。
「そんな冷たいこと言わないでよ・・・。その顔で、そんなふうに言われたら、なにも言い返せないじゃん」
うつむきながら、清美はボソリと言った。
「悪い。ゴメン」
手を伸ばし、梶本は清美の頭を撫でた。そんな梶本に、清美はホッとしたかのように、梶本を見ては微笑んだ。
「!」
梶本は、一瞬息を呑んだ。
こんなふうに触れて。拒まれずに。振り払われずに。逆に安心したかのように微笑まれる。
そんな当たり前の事実が、梶本をうちのめした。
梶本は慌てて清美から視線を外し、うつむいた。
手を伸ばし、触れて。抱きしめて、抱きしめ返されたい。唇に触れて。体に触れて。確かめ合いたい。
そう願っていたのは、自分だけじゃなかった筈だ。
より強く、あの人の方がそう思っていたに違いない。
梶本の脳裏には、どうしても消すことの出来ないなつきの顔が過った。
酔えば酔うほど鮮やかに、その顔が浮かんだ。
怒ってる顔、拗ねている顔。笑ってる顔。泣いている、顔。
わかっている。わかっていたんだ。互いに強く願えば願うほど、ドツボにはまるって。
だから、必死に堪えていた。あせらないように。いつか必ず、抱き合えると。二人でゆっくりと歩いていこうと。
なのに!
吉川の存在が、俺を脅かす。
好きになったら手段を選ばないというタイプは、どこにでも存在して。
なりふり構わずに「自分を愛してくれ」と主張する人間は割合そこらに簡単に存在する。
たぶん、吉川となつきは似たタイプだ。だが、屈折してる分、吉川のが性質が悪い。
吉川が本当に仕掛けるかどうかなんてわからない。ただのハッタリが90%だろう。
けど・・・。
二度と。アンタを、傷つけられたくないんだ。
一度の強姦で、あれだけ傷ついた人だから。
口では「もう忘れた」「あんなこと、なんでもねえよ」と強がりを言っているけど、体は誤魔化せない。
体が、受けたショックを忘れきれずに、あれほど激しい嫌悪を示す。
もはや自分自身ですら制御出来ないほどの反応を、だ。
もし。もう一度、同じ目にあったら、あの人はどうなってしまうのか・・・。
考えるだけで、梶本はゾッとした。
死んでしまうかもしれない・・・。
唐突すぎるかもしれないが、そう思ったらもうどうしようもなく怖かった。
なつきがそんなことをするタイプだとはどう悲観的に考えても思えないが、それでも窮地に陥った時の人の行動はわからない。
自分も含めて。
経験がある分、想像はつく。精神の窮地、肉体の窮地。
理性が及ばぬ識域下の命令で、突発的に、人は動いてしまうかもしれないじゃないか。
自分のせいで、誰かが死んだりするのは、もう二度とみたくない。経験したくない。
出来るならば、逃げたい。そんな自分の心の弱さが。
愛して・愛した人を傷つけてしまうのだ。
わかっていても。この恐怖だけは、もうどうすることも出来ない。
少しでも可能性があるならば、それを排除したいのだ。なつきが、男を拒むように、自分は死を拒む。
「大袈裟な・・・」と例え誰に笑われようと、それだけはどうしても譲ることが出来ないのだ。
正直にすべてを打ち明けて、二人で解決することも一瞬考えた。
けれど。あのホテルに入る時のなつきの反応を見て、すぐに諦めた。
挑発されたり、喧嘩を売られたら、なつきは逃げない。立ち向かってしまう。
もし吉川の魂胆を話せば、なつきはヤツを挑発しかえすだろう。
「やれるもんならば、やってみな」と。
それは培われたものでもあり、生まれもった性質かもしれない。
いずれにしても、逃げることを知らないあのまっすぐななつきを愛しくもあり、怖くもあった。
いや。今は、もはや恐怖の方が大きい。
梶本は、ブルブルと頭を振った。
「梶本さん?」
心配したような清美の声に、梶本は「なんでもねえよ」と笑って答えた。
これで良かったんだと思った。
今は自分も辛く、なつきには恨まれるだろう。
けれど、松木先輩の時と同じように、必ずいつか時が解決するんだと。
そう願わずにはいられなかった。ふと、どうしようもなくなって、梶本は窓の外に視線を投げた。
その時。あの時の泣きそうななつきの声が、耳に唐突に響いた。
そして、次から次へと、交わした言葉が耳に響いた。
梶本は、耳に手をやった。
「・・・」
昨日の今日で当たり前。当たり前だけどさ。
なにしてても、どう努力しても、俺の頭の中、あの人のことでイッパイ。
顔が声が。溢れて、俺を圧迫する。ぐらつきそうだ。ぐらつきそうだ。ぐらついてしまう。
このままじゃ・・・。俺がこんなんじゃ、あの人を迷わせてしまうだけだ。
「清美」
梶本は、意を決して、清美の名を呼んだ。
「なに?あ。もう着いたよ」
タクシーはちょうどよく梶本の家の前に着いた。清美が金を払い、先におりた。
梶本は、ヨロヨロしながら、次におりる。タクシーは、音もなく次の乗客を探しに発進していった。
「ごめん。梶本さん。で、なに?」
清美は、梶本の背を支えながら、遮ってしまった梶本の台詞の続きを促す。アパートの階段はすぐ目の前だ。
「悪いけどさ。今夜、つきあってくんねえか?泊まっていけよ、清美」
一瞬、清美がキョトンとした目で、梶本を見上げた。
「・・・それって、誘ってんの?」
「露骨にな」
梶本は苦笑した。これしか、もうない。自分には。酒にも酔えずに、今は好きな勉強ですら手につきそうにない。
なにもかも忘れてしまえるのは・・・。
やっぱり、俺って餓えていたんかい・・・と呆れつつ。
「久しぶりに偶然遭ったヤツと、人生相談出来なくても、SEXならば出来るんだ」
清美は、やはり梶本と同じように苦笑しながら、言った。
「・・・一本とられたな」
クスッと梶本は笑って、前髪をかきあげた。
やれやれ。今夜はとことんついてねえ・・・と思った。
「いいよ。でも、マスターへの言い訳は梶本さんがしてね」
意外にも清美はОKを出した。ちょっと驚いた梶本だった。
「マスターが、返す言葉がねえくらい綺麗に言い訳してやるよ」
そう言って、梶本は清美を引き寄せると、その唇に自分の唇を重ねた。
ガツン。
その音を耳で拾って、梶本はハッとした。
カツン、と誰かが階段を降りてくる足音だった。
もういい加減真夜中だったから周りを気にせずにいたが、「ヤバイ」と思って、慌てて清美の体を離した。
そして、ふっと梶本は階段を見上げた。
「・・・」
階段の途中に佇む人の姿を見て、梶本はサーッと血の気がひいていく感覚をおぼえた。
手摺に手をかけつつ、なつきが降りてきたからだった。
ガツンと、階段を降りる音の、最後の方の音は聞こえなかった。なつきがヒラリと階段を飛び降りたからだ。
バキッ!とまず最初に、音が耳の中で生まれ、そして、次に顔が痛みを訴えた。
殴られた・・・と自覚したのは、もうなつきが背を向けて走っていってしまった頃だった。
梶本は、清美の存在を一瞬のうちに忘れ去りその場に立ち尽くして、角を曲がって消えていくなつきの背をジッと眺めていた。
「梶本さん」
清美の呼ぶ声に、梶本はようやく我に返った。
「ごめん」
清美に対して謝罪の言葉を口にした途端、梶本は胸がヒリヒリと痛んだ。
「ごめん。ごめんよ。ごめん・・・。ごめんね、桜井さん・・・」
続く