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イリアスの執務室には、いつにない緊張感が漂っていた。
「イ、イリアス様。あ、あの。こちらの書類にご印鑑を」
ドンッ!
返事もなく印鑑が書類に押された。かなりの勢いで・・・。
「イリアス様。そろそろ新人騎士達の訓練のお時間でございますので中庭に・・・」
無言でバッと、イリアスは席を立って、執務室を出て行く。

イリアスの出ていった執務室に、途端に「はあ〜」という溜息が響いた。
「なんだか昔を思い出してしまうな、この緊張感」
「確かに・・・。ここ最近イリアス様のご様子が明かにおかしい。なにがあったのだろうか。少し前までは、顔がお壊れになられるかと思うくらいニコニコしていたというのに」」
「さっきの顔見たか。昔の氷の騎士と呼ばれたあの時代のお顔だったぞ」
部下達は、皆一斉に顔を見合わせては、首を傾げた。

黙々と騎士達の訓練を終え、イリアスが正王宮を横切っている時だった。
「イリアス」
名を呼ばれてイリアスは振り返ったが、自分の名を呼んだ人物を目にとめては、そのまま無視して歩き出した。
「おい。無視はないだろう」
アスクルは、イリアスの前に回り込んだ。
「なにしに正王宮にきた。雪王宮にこもってろ」
冷やかにイリアスはアスクルを睨んで、言った。
「ご機嫌斜めのようだな」
フッとアスクルは笑った。そんなアスクルを押しのけて、イリアスは歩き出す。
「おまえ。今週末、空いてないか?」
アスクルはよく通る声で、イリアスの背に誘いをかけた。
「今週、末?」
カッと、イリアスは踵を鳴らして、立ち止まった。バッと、アスクルを振り返る。
「・・・共犯か、おまえら・・・」
「なんのことだ?」
「しらばっくれるな!」
「だから、なんのことだと言っている」
クスクスとアスクルは笑っていた。イリアスは、つかつかとアスクルの側まで歩いていくと、その胸倉を掴みあげた。
「ルージィンをけしかけたのは、おまえか」
「まさか。今回のことは、ルージィンが勝手に行動しただけだ。俺は、それに便乗しようとしているだけさ」
イリアスは、チラッと横目で、廊下にズラリと並ぶドアの1つを見た。
アスクルの腕を掴むと、その横目で見たドアに向かって歩いていく。片手で、バンッとドアを開けると、そこは使われていない部屋だった。
かつて、誰かが使っていた執務室らしく、中央には机が置かれているようだったが、白い布がかかっていた。
「人気のない部屋に俺を連れ込んで、どうしようってんだ?」
言いながら、アスクルは両手をイリアスの肩に回した。
「それは俺の台詞だろう」
バシッと、イリアスはアスクルの手を振り払った。
「つれないな・・・。で、なに?本当のところ、なんだよ?」
ヒョイッと、アスクルはイリアスを覗きこんできた。切れ長の目が、楽しそうだった。
「なんだよ?それもこっちの台詞だ。さっきおまえが俺を呼びとめたのだろう」
イリアスの銀色の瞳は、険悪な色を浮かべている。アスクルは笑みを引っ込めた。
「あー・・・。そうね。俺が呼びとめたんだっけね。いや、今週末空いてねえか?と思って。珍しい食材が手に入りそうでな。久し振りにおまえとディナーでもって。でも、ダメだよな」
ちょっと踏み込めない雰囲気を感じ取り、アスクルはいつもの強引さを発揮出来なかった。マジなイリアスは、いかなアスクルといえど怖かった。
「今週末はダメだ。予定が入っている。だが、前の晩ならば空いている。食材はその晩に届けてもらえることが出来るか?」
「え!?」
アスクルは、目を見開いた。
「これは驚いたな。どういう風の吹きまわしだ。なにか魂胆でもあるのか?」
「おまえと同様にな」
イリアスは、フッと笑った。アスクルは肩を竦めた。
「交換条件という訳か。おまえの条件を言ってみろ」
「今週末のルージィンのパーティに忍びこめ。そして、適当に騒ぎを起こせ。なんでもいい。ルージィンを刺しても、そこらにいた女性をいきなり押し倒しても、屋敷に火を点けても、
とにかく手段は任せる。ただし、来客にケガ人1つ出さずに騒動を起こせ」
「なるほど。そこで、おまえの出動という訳か。騒動が起きれば、騎士の出番だ。リアド王の命令により、おまえはパーティーには出席出来ないからな」
「そういうことだ」
「そーんなに、カデナ様が心配か?」
「心配だ」
「子供じゃあるまいし」
「子供のようなもんだ」
「いいじゃねえか。1回ぐらいルージィンに譲ったって。アイツはおまえより長い間、カデナ様を想っているのだぞ」
「お断りだね。それに、想いの長さなど関係ない」
「なんか納得いえねえな。で。見返りは?」
アスクルの問いに、イリアスは
「おまえの望むままに」
「・・・本当か?」
「おまえが、きちんと約束を守ってくれるならばな」
「俺の場合は、前払いだ。おまえが俺の望みを叶えてくれるならば、きちんとやろうじゃないか」
「よし。商談成立だ」
アスクルは、イリアスをジロジロと見た。
「信じられないな。こんな裏取引、昔ならばぶん殴られた上にキッチリと断られたっつーに。それも、全てはカデナ様の為か」
フンッ、とアスクルは鼻で笑う。
「当たり前だ。カデナ様の為でなくば、こんなことしやしない」
「ぬけぬけと言うな」
「言う。カデナ様を守る為ならば、俺に出来ることはなんでもする。どんなことだってするさ」
「どんなことでも?どんな過激なリクエストにでも応えてくれる?」
フフフと、アスクルは笑って、イリアスを見上げた。
「・・・出来る限りは、な」
一瞬、イリアスは怯んだが、言った。
「ああ、そう。楽しみだ。じゃあ、色々と考えておこう。おまえが俺を楽しませてくれた分、きっちり仕事はしてやるぜ。安心しろ」
「当たり前だ」
「複雑だが、まあ、とりあえずは喜んでおこう。労せず、おまえと寝れる」
「俺は別に嬉しくもなんともない。俺が欲しいのは、カデナ様だけだからな」
イリアスの挑発に、アスクルはピクリとも揺るがない。
「そう言ってられるのも今のうち。渇いた体、俺が潤してやるから。そしたら、おまえは思い出す筈だ。自分がどれだけ渇いていたかをな。
そして、そんなおまえを潤すことが出来るのは、真実誰か、をな」
「カデナ様だけだ」
「違うね」
アスクルは、バッとイリアスの肩に両手を回すと、今度こそ振り払われる前に、その頭を引き寄せて、無理矢理キスした。唇が離れて、
アスクルは背伸びをしながら、イリアスの耳元に囁いた。
「俺、だよ」
切れ長のアスクルの瞳が、イリアスの瞳をジッと見つめた。イリアスは、ハッとして、思わず顔を赤くした。アスクルはそんなイリアスの反応に満足すると、
スッとイリアスから身を離し、殴られることを想定してなのか、早々と部屋を出ていった。
イリアスは、チッと舌打ちすると、そこらの壁をガンッと爪先で蹴った。
「ちきしょう・・・」
イリアスは呟いた。思わず顔が赤くなってしまった。
別れて何年も経つが、アスクルの美しい瞳は、それなりに迫力がある。
おまけにアスクルのキスのせいで、カデナと体を重ねたあの時の記憶が甦ってしまい、イリアスは体に火がついてしまった感覚を持てあまして、再び壁を蹴飛ばした。

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「今夜は、特別な任務でこれから出かける。泊まりになる予定だ。明日のカデナ様のご出発までには戻ってくるから、心配なく」
イリアスは、夕食の席で、皆に告げた。
「お父様、これからお出かけになられるの?私、本をご一緒に読もうと思っていたのに」
「すまんな、ダイアナ」
「お仕事ならば仕方ないですね」
ショボン、とダイアナは俯いた。ズキッ★とイリアスの胸が疼いた。
「王宮になにか異変でもあったのか?」
カデナが、チラリとイリアスを見ては、聞いた。
「カデナ様には、ご心配なきよう。とくになにもございません」
今は、カデナの顔がまともに見れないイリアスなので、カデナとは視線を合わさずに早口で答えた。
「なにもないならば、特別な任務とはなんなのだ」
と、誰もが突っ込みたいことを、カデナが遠慮なしに聞き返す。
「そ、それは・・・」
イリアスは口篭もった。
「きっ、騎士の秘密任務でございます。いかなカデナ様といえど、申し上げることは出来ません」
誤魔化す為に、イリアスは思わずカデナを睨んでいた。
「って。なにも睨みながら言わないでもいいだろう。わかった。おまえがそう言うならばもう聞かぬ」
途端に、カデナは「特別任務」について興味を失ってしまったようだった。イリアスはホッと胸を撫で下ろした。
「では、私は支度があるので失礼致します」
スッ、とイリアスは食卓から立ちあがって、部屋を出て行く。
本人は落ち着いたふりを装っているらしいが、周りから見れば一目瞭然だった。
取り残されたカデナ達は顔を見合わせた。どこか、イリアスの様子が変なのは、食事が始まる前から皆とっくに気づいていた。
「あれでも騎士か。まったく・・・」
カデナは呆れたように呟いた。イリアスのその異変が、まさか自分に関わっていることなどとは夢にも思わないカデナであった。
「どうしたのでしょう。なにか一人で抱えこんでいなければよろしいのですが」
モニカが心配そうな顔をしながら席を立ち、皿を片付け始めた。ふと、モニカは窓の外に目をやった。
「あら?どなたかいらっしゃったのかしら?馬車がおいでだわ」
モニカの声に、カデナとダイアナは同時に窓を振り返った。

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「ご無沙汰してるね、モニカ」
「まあまあ。アスクル様。本当にご無沙汰しております」
モニカは、馬車から降りてきた麗人に向かって、頭を下げた。
「突然のご来訪、驚きましたわ。イリアス様はなにも仰っておりませんでしたから」
僅かに顔を赤くしながら、モニカがアスクルを見上げて言った。
「いや、なに。ついでがあったので、イリアスを拾っていこうと思って」
「特別任務に、でございますわね」
ニッコリとモニカが言った。
「え?あ、そうだな。そう。その特別任務に、だ」
アスクルは、ニッコリと微笑み返す。
「どうぞ。イリアス様はまだ支度をされておりますから。居間にはカデナ様がいらっしゃいます」
モニカが、アスクルを屋敷に招き入れた。居間に案内される。
「カデナ様。お寛ぎのところを、夜分に突然失礼致します」
アスクルは、居間に通され、そこのソファで寛いでいたカデナに、サッと正式な礼をした。カデナは立ちあがって、うなづいた。
「おまえも任務に狩り出されたのか」
「はい。ですから、こうしてついでにイリアスを迎えに来ました」
「ご苦労なことだな」
カデナは、アスクルを見ては、フンッと鼻で笑った。
「カデナお兄ちゃま。この綺麗な方はどなた?」
ダイアナが、カデナの足元で、アスクルをチラチラ見上げては、聞いた。
「こいつは、アスクル・フォーゼット。雪王宮にいるエミールの世話をしてもらっている騎士だ。ついでにイリアスの昔からの友人で」
と、カデナは言いかけて、ハッと目を見開いた。
「エミール王子様のお世話の方?それにお父様のお友達・・・」
ダイアナは、もじもじしながら、アスクルを見上げていた。
「こんばんは。ダイアナ様。初めまして。イリアスによく似ているね。とても可愛い姫君だ」
アスクルは、ダイアナを見下ろして、ニッコリと微笑んだ。女どもには惜しみなくスマイル攻撃のアスクルであった。
「あ、ありがとうございます」
ポーッと顔を赤くして、ダイアナは頭を下げた。
そこへ、
「なんの騒ぎだ?モニカ、馬車の用意を」
と、イリアスが身支度を整えて、2階から居間に降りてきた。そして、居間に立つアスクルを見ては、ギョッとした。
「ア、アスクル・・・!」
「やあ、イリアス。迎えに来てやったぜ。逃げられると困るからな」
「バッ、バカ。あれほど、迎えに来るなと言ったのに」
根が正直なイリアスは、そう言いながら、思わずカデナを見てしまった。
カデナは、そんなイリアスの視線を受けて、スッと目を細めた。
イリアスの顔色がサーッと青褪めていく。幾らカデナがドンカンといえど、この事態に気づかぬ筈はない。というか、ここまでドンカンだったら、ある意味カデナは救いようもなかった。
が、幸い、あった。
「そうか。なるほど。特別な任務・・・か」
カデナは微笑んだ。その、強烈に毒を含んだ笑みにすら、クラクラしながらイリアスは、
「いや、あの。カデナ様。そうではなく」
イリアスは、頭から血の色がひいていくのを感じながら、慌てて言いつくろうとしたが、
「特別な任務です」
ズイッと、アスクルは、イリアスを押しのけて、カデナの前に立った。
「ものすごく、特別な任務です」
アスクルは、ジッとカデナの翠の瞳を覗きこみながら、真面目な顔で言った。
「そうだろうな。とくにイリアスにとっては、切実かもしれぬ。せいぜい協力してやってくれ」
カデナはアスクルを見上げて、ニッコリと言い返す。
「カデナ様。あの、誤解です。こ、これはっ」
「イリアス。ゆっくりと、任務を遂行してくればいい。俺に遠慮せず」
「そ、そんな・・・」
イリアスは、悲しそうな瞳でカデナを見た。カデナはその目を思いっきり無視した。
「さっさと行け」
「では。さっさと行こう、イリアス」
アスクルは、グイッとイリアスの襟を掴んで、歩き出す。イリアスはアスクルの腕を叩いた。
「てめえ、この野郎。あれほど来るなって言ったのに!おまえってヤツは〜!」
「これぐらいしたって罰は当たるまい。俺だって多少はムカついているんだ」
叩かれてもめげずに、アスクルはイリアスを引っ張って行く。
「カデナ様。これは誤解です。のちほど、私の話を」
バタバタとイリアスは暴れたが、ズルズルとアスクルに引き摺られて、居間を出て行く。
「カデナ様〜ッ」
イリアスの悲鳴が虚しく玄関に響いた。
「お兄ちゃま。お父様が名を呼ばれているわ」
「無視しろ、ダイアナ」」
ドサッと、カデナはソファに腰かけた。
「ま、まあ。一体なにがあったんですの?」
さっぱり事情が飲み込めないモニカとダイアナは、黙り込んでソファに座ってしまったカデナを見ては、オロオロとしていた。



夜明け。
アスクルは、ベッドの中で硬直しているイリアスを見て、クスクスと笑っていた。
「イリアス。昨夜のおまえは・・・」
アスクルは、イリアスの剥き出しの背中にツーッと、指を這わせた。
「言ってることとやってることがえらい違ったぞ。自分でもそう思うだろ」
「うるさい、うるさい!黙れっ」
「おまえが、こんなに渇いていたとはさすがの俺も想像しなかった」
アスクルはイリアスの耳元に囁いた。
「惚れ直したぜ、イリアス」
「黙れっていうんだ。俺だって頭の中はパニック中だ」
イリアスは、掌で顔を覆った。
「おまえが、あんなに情熱的だったとはつきあっていた頃ですら知らなかった。おまえ、当時は手を抜いていたな」
「あれからどれだけ経ったと思う。人はそれなりに成長する」
「こういう成長ならば、大歓迎だな。なあ、もう1回しよう」
と、アスクルがイリアスを背中から抱き締めようとした。
「やめてくれっ!」
イリアスはバッとアスクルを振り払った。
「お、俺は、俺は。猛烈に反省してる。き、昨日の夜の俺はどうかしていた。忘れてくれ」
アスクルは、驚いたようにイリアスを見上げた。
「なに言ってるんだ。忘れられる筈ないだろう。忘れない」
「いや、忘れてくれ」
「忘れないよ。いつもは大抵俺一人が獣だが、昨夜はおまえのがすごかった」
「いうなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
イリアスの叫びが、アスクルの寝室に響き渡った。
「興奮するならば、もっと別のことで興奮してくれよ」
「やかましいっ。ああ。なんでおまえなんかと、あんなことやこんなことやそんなことを!うわあ。思い出してしまった。なんてことだ。もう死んでしまいたいっ」
「あのな。あんなことやこんなことやそんなことをされたのは、俺の方なんだが」
アスクルは呆れたように、言った。
「まあ、いいか。俺はおまえのそういうところも死ぬ程愛しい。イリアス。おまえのこの体。あんなネンネなカデナ様に捧げるのは勿体無い。宝の持ちぐされだ。これからも、末永くよろしくな」
「アホぬかせ。1度きりだ。もうない。もうないからなっ」
バッと、イリアスはシーツを蹴ると、近くにあったローブを羽織って、シャワールームに駆け込んでいった。
「冗談だろ。1回きりで済むかよ」
アスクルは、ニヤリと笑っては、ペロリと舌で唇を舐めた。


イリアスは自己嫌悪と戦いながら、アスクル邸を飛び出した。しつこく引き止めるアスクルに、とうとう剣まで出して脅しつけて、やっと逃げてきた。
昨夜の自分はどうかしていた・・・と、つくづく思う。カデナ様に、あんなふうに送り出され。ショックで動転して、あんな暴挙に・・・。
自分が昨夜、アスクルとしたことを鮮明に思い出して、イリアスはカアアッと顔を赤くした。
どっ、どんな顔してカデナ様にお会いすれば良いのだ・・・と、イリアスは馬車の中で、ジタバタした。
ああ、もうダメだ。俺達はオシマイだ・・・とイリアスは頭を抱えこんでしまった。馬車が家に着くのが怖かった。
だが、勿論馬車は、家に向かっているのだ。当然着く。着いてしまうのだ。
このまま、この馬車が不慮の事故で崖から落っこちてしまえばいい・・・と訳のわからないことを考えては錯乱しまくっていたイリアスだった。
そして。
無情にも馬車は家に着いた。おそるおそるイリアスは屋敷に足を踏み入れた。
幸い誰にも帰宅を気づかれなかったようで、イリアスは足早に自分の部屋に向かった。
が、ちょうど通りかかったカデナの部屋の前が賑やかだった。扉が少し開いていたので、イリアスは思わずコッソリと覗きこんでしまった。
「すっごい綺麗よ、カデナお兄ちゃま」
「まあ、本当に。さすが、ルージィン様。カデナ様をよくご理解されているのですわね」
モニカとダイアナの声だ。部屋の中央では、カデナがパーティーに出席する為の準備をしていた。
正装ではないが、礼装。見たこともないような美しい薄い翠の布で仕立てられている衣装を、カデナは身につけていた。
イリアスは目を瞬かせた。呆然とする。あまりの美しさに。
この美しさに、見慣れることはないのだろうか・・・と、イリアスは思いながら、支度をするカデナをコソコソと見つめていた。
「カデナ様。こちらもどうぞお使いください。この髪留め。キニッシュですわ。翠色なんて初めて見ましたわ。きっとすごい高価なものなんでしょうね」
モニカは、自分の掌の中の見事なキニッシュを見ては、溜息をついた。
「そんなもの、私はつけないぞ。欲しいならば、モニカ。そなたにやろう」
「ええ!?ですが、ルージィン様がカデナ様に、と従者にお持たせになった品です」
「いらぬ。誰がそんなモン身につけるか」
バサッとカデナは銀髪を後手に払った。
「そんなモノつけるぐらいならば、このままでいく」
「は、はあ・・・」
「これ以上、ルージィンの思惑にはまってたまるか。この衣装だって、仕方なく着てやっているのに」
「でも、カデナお兄ちゃま。とってもステキよ。よく似合ってます」
ダイアナが正直に感想を述べる。
「私の好みではない」
ハッキリとカデナは言い返す。
「悪いが、馬車を呼んでくれないか。とっとと行って、さっさと帰ってきたいのだ」
「は、はい」
モニカがうなづいて、クルリと踵を返した。
「あら。イリアス様。お戻りでしたのですか。すみません、気づきませんでして」
カデナにボーッと見惚れていたイリアスは、モニカがドアの側まで来ていたのに、うっかり気づかなかった。
「う、うわ。あ、ああ。すまない。支度中だったようなので、なんだか声をかけそびれていて」
「お父様、お帰りなさーい」
ダイアナが走ってきて、イリアスに抱きついた。
「今度はカデナお兄ちゃまがお出かけよ」
「ああ。そうだな」
イリアスは顔をあげて、カデナを見つめた。カデナは、一旦はイリアスの視線を受けたものの、スッと外した。
「行って来る」
カデナはそう言って、イリアスの横を通り過ぎた。
「カデナ様。その前に少し私の話を聞いていただけませんか?お時間はまだ少しある筈ですが」
「ない」
冷たく言って、カデナは部屋を出て、廊下を歩いていく。
「カデナ様」
イリアスはカデナの後を追いかけた。
「今回のことは」
言いかけたイリアスを、カデナが振り返って、睨んだ。
「なにも言う必要はない。俺が、おまえに、そうして良いと言ったのだから。おまえはなにも気にする必要はない。俺も気にしてない」
カデナの翠の瞳は、イリアスを完璧に拒絶していた。
「そうですか・・・」
これ以上はもう無理だ、とイリアスは諦めた。頭の芯が冷えていく。
「お気をつけていってきてください」
「わかってる」
クルッと踵を返して、カデナは姿勢よく歩いていき、そのまま階段を降りて行った。
イリアスは手摺にもたれて、そんなカデナの後姿を見送っていた。
玄関のところで、付き添いのモニカがカデナを待っている。カデナは、玄関を出て行こうとして、ふっとイリアスを振り返った。
「!」
イリアスは、手摺にもたれていた身を乗り出して、カデナを見つめた。遠く離れた場所ではあったが、カデナと目が合ったことがわかった。
「カデナ様!?」
だが、カデナはなにも言わずに、今度こそ玄関を出ていった。


ルージィンの、王宮復帰祝いのパーティー会場は、異常なほどの興奮の坩堝と化していた。
1年以上ぶりに、カデナが貴族のパーティーにその姿を現したからだった。
「なんて久し振りに見るカデナ様のお姿でしょう」
「相変わらず信じられないくらいのお美しさ。見てごらんなさいませ。あの布。ルージィン様が、他国からカデナ様のためだけに取り寄せたと言われている貴重な布ですわ。
まあ、本当に不思議なくらいの輝き」
「それもこれもカデナ様がお着になられているから、更に輝いてみえるのですわよ」
「イリアス様が、カデナ様を独占されてもう1年以上。カデナ様をどこのパーティにも出席させなかったのがわかる気が致しますわ」
「あら、でも。カデナ様は、アルフェータの至宝です。一人の方が独占されるのは好ましくないわ。今回は、ルージィン様に感謝しなくては」
ご婦人方は、遠巻きに馬車から降りてきたカデナを見つめては、そんなことを囁いていた。どの婦人の頬も紅潮していた。
「カデナ様。お久し振りでございます。ご来訪、ありがとうございます」
ルージィンが、なぜか大きく手を広げて、馬車から降りてきたカデナを迎え出た。
「久し振りだな、ルージィン」
そんなルージィンを、あっさり無視して、カデナはスッと会場に入っていく。
「相変わらずつれなきお方ですな。抱き締めさせてはくださらないのですか」
「そんな挨拶をする習慣は、アルフェータにはない」
ビシッと、カデナは言い返した。しかし、ルージィンはめげない。カデナをまじまじと見つめては、
「おお。なんと見事な。その服、よく御似合いでございます。贈った甲斐があります。金髪と翠の瞳によく栄えて。ところで、髪飾りも贈ったのですが、それはいかがしましたか?」
「あんなギラギラしたモンは好かない。家に置いてきた」
「そうでございますか。まあ、あんなモンは幾らでも我が家にございます。お気に召したら幾らでも差し上げますのでどうぞ仰ってくださいませ」
「気に入らないと言った筈だが。相変わらず耳がおかしい男だ」
「そういうカデナ様も、お変わりにならず。私は、昔も今も貴方様の輝かしい美貌の虜でございます。貴方様はいつでも、私とっては眩しい宝石のようなお方です」
ルージィンの、人目も気にせずの歯が浮くような台詞に、カデナは平然としていたが、付き添いでカデナに連れ添っているモニカがなぜか顔を赤くしてしまっていた。
「ささ。お席はこちらです」
パーティー会場に、ルージィンがカデナを誘う。すると、既に会場にいた人々からどよめきがあがった。
「カデナ様だ」
「きゃー。カデナ様よ」
あちこちから歓声があがる。
ルージィンの席の横が、カデナの席だった。カデナは案内されたその席に、スッと座った。ルージィンもそそくさと自分の席に腰かけた。
「カデナ様にワインを」
ルージィンが命令すると、給仕がササッとカデナにワイングラスを渡して、ワインを注ぐ。
「ご覧ください。この会場の全ての人々が、貴方様に注目されている。麗しい貴方に。輝くばかりの貴方に。今日の主役は私の筈ですがね。いえ、でも。
この私が、率先して貴方に目を奪われているのですから、仕方ないことだ・・・。罪な方だ、カデナ様。このワインより甘く、これだけ多くの人々を酔わせてしまうなんて」
ルージィンは、ウットリと自分の世界に入ってしまったかのように陶酔しきった横顔で、カデナにむかって囁いていた。
だが、カデナは相変わらず無表情で、ワイングラスを傾けていた。側にいたモニカは、こっそり向こうをむいて、ワインを吐き出し咽ていた。
カデナは、ワインを飲みながら、自分に注目している人々を明かに睨んでいた。
久し振りの、この雰囲気。遠巻きに、なんだかバケモノでも見るかのような、好奇な視線。纏わりつくような、不快な視線。
私は見世物ではない!と、叫びたいのをカデナは必死で堪えていた。結婚してから、パーティーには絶対に出たくない!とイリアスに訴えておいた。
そのせいで、イリアスはあまたのパーティーの誘いを全て断ってくれていた。おかげで、こんな不快な思いはしばらく忘れていたぐらいだったのだ。
それに、この視線のせいではない、さっきからずっと胸につっかえている正体不明の感情が、余計にカデナを苛々させていた。
「カデナ様。そんなご機嫌の悪い顔をされて、いかが致しました。皆様が、不思議に思いますよ。さあ、笑ってくださいませ。貴方様のお美しい笑顔を、私に見せてくださいませ」
横でルージィンのそんな台詞が聞こえて、カデナは更に苛々した。
「なんで、私が笑ってやらねばならん。おかしいこともなんにもないのに。訳のわからん注文をするな。こうして来てやっただけでも、有り難いと思え」
尊大な物言いのカデナだった。王族である以上、当然ではある。
「・・・イリアスが側にいなくて、不機嫌なのでございますか?」
いきなりルージィンがそんなことを言った。カデナは目を剥いた。
「関係ない!だが、そなたが仕組んだのであろう。私をここへ引っ張り出し、挙句にヤツをこのパーティーに来れなくするように」
「その通りでごさいます。ヤツは邪魔でございます。あのような無粋な騎士の妻の座として埋もれているより、貴方様はこうやって私の横で、人々に注目されているのがよく御似合いです。
御覧なさい。皆、貴方の美貌に見惚れている。貴方は、そうやって人々の注目を受けていなければならないのです。王族として生まれ、王子として生まれ、そのようにずばぬけて美しく
お生まれになったのですから。埋もれているのは、もはや罪」
勝手なことをぬかすルージィンに、さすがのカデナも呆れ返った。
「・・・余計な世話だ。まったくの余計な世話だ。私は珍獣ではない。人々に注目などされたくない。イリアスの家で、ぐーたら本を読んだり昼寝しているのが好きなのだ」
カデナは、ギロッとルージィンを睨んで、声高に言った。
「そのような台詞、あちらにいる人々に聞かせたら、ガッカリされます。お声はもう少し静かに」
ルージィンは平然と言い返した。
「パーティーはいつまでだ。早く帰りたい」
「貴方は明日の朝まで帰れません。私は、リアド王様より、カデナ様を1晩お借りする約束を取り付けましたので」
「私は夜会に出席するだけだ。夜会が終われば帰る」
「私の夜会は、朝まで終わる予定はありません」
「なんだと?」
「貴方を明日の朝まで、帰しません」
「バカなことを言うな」
カデナは、ワイングラスに口をつけた。
ルージィンは腕を伸ばし、カデナの手をギュッと握った。
「なにをする」
バッとカデナはルージィンの腕を振り払った。
「今宵は、私のベッドの中で、一緒に踊ってください。カデナ様」
カデナは飲みかけていたワインを吹き出した。
「・・・そなた、正気か?」
「いたって、正気でございます。誰か。カデナ様の服の汚れを拭いてさしあげろ」
ルージィンが、給仕を振り返って、叫んだ。
一人の給仕が慌ててすっとんできて、吹き出したワインによってぬれてしまったカデナの胸元を、おそるおそる拭いていた。
「これは王リアド様にもご了解を取っております。好きにしてよいと。もっともリアド様は、カデナ様に限ってそのような色っぽい状況にはならないので心配ない、
とそのようなことを仰られておりましたが。ですが、なくても、その気になっていただければいいだけの話ですからね。だから、貴方様も今宵はあの無粋な夫イリ
アスを忘れて、楽しまれることです」
「冗談ではない。私は帰る」
ガタッ、と立ちあがったカデナを、ルージィンが制した。
「お座りを」
「うるさい」
「お座りください、カデナ様。イリアスだって、アスクルと楽しんでいるのです。貴方だって、私と楽しむ権利はあるのですよ」
「!」
ルージィンの言葉に、カデナは目を見開いた。
さきほどから、胸に渦巻いていた訳のわからないものの正体。
それがなんとなくわかってしまったような気がして、カデナはルージィンを睨みつけた。舌打ちしながら、再びカデナは席に腰を降ろした。
「そうです。それでよいのです、カデナ様」
ニッコリとルージィンは、カデナの横顔を見つめて、微笑んだ。

続く

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