連橋・・・某都立高校1年
流・・・・・同上
亜沙子・・・某都立高校3年
小田島義政・・・暁学園高校1年
城田・・・・・同上
*****************6話**************
連橋に、この事実は話せない。話そうとも亜沙子は思わなかった。でも、一人で抱えるには、辛過ぎる。新しい命。自分の体の中で育っている。亜沙子は腹を撫でた。連橋の子供ならば、例え反対されても産んでしまうだろう。だが、このお腹の子の父親は連橋ではない。ましてや、産んでも、愛せる自信がない。出来た事情が、事情だ。ならば道は1つだ。堕胎だ。だが、それには金がいる。数年前に両親を失い、僅かばかりの遺産を渡されて、親族から放り出された身だ。日々を生きていくのに精一杯の身で、どこから堕胎の金を捻出すれば良いのか。書類上で亜沙子の生活を管理している叔父夫婦に、とても事実は話せない。話せば、また亡き両親を詰られるし、亜沙子自身も辛い目に遭う。それだけは避けたかった。だとすれば・・・。亜沙子はスウッと息を吸う。一応は父親である、あの男に金を出させるのだ。決心したら、亜沙子は楽になった。一刻も早く、小田島の家を調べて、事情を説明しなければ。事態が、連橋に発覚する前に。なかったように。なにも、なかったかのように、日常を取り戻さなければならない・・・。
耳にイヤホンを突っ込み、城田は車の中で熱心に書類を読んでいた。
「おい。城田」
「・・・」
助手席の大堀が、城田を振り返って城田の名を呼んだが、城田には聞こえなかった。喧し過ぎる音が、耳の奥で響いているからだ。
「城田ッ」
大堀が、バンッとシートを叩いた。さすがに城田はハッとして、イヤホンを外す。
「てめえ、やかましいんだよ。音洩れしてんだよ、音洩れ」
そう言って、大堀は自分の耳を指差した。
「すみません」
ブツッと城田はカセットテープの電源を落す。
「さっきから、なにを熱心に読んでやがる」
体を捻り、大堀は後部座席の城田を覗きこむ。
「つまんねえもんですよ」
「見せろ」
「いやです」
「見せろ」
「いやです」
城田は、バッと書類を縦に引き裂き、あっと言う間に、粉々に裂いてしまった。
「ふん・・・」
大堀は口の端をつりあげて、城田を見た。
「ガキにゃ、ガキの事情があんだな」
「そうですよ」
「せいぜい、あの頭のワリー次男坊に貢献してやるこったな」
クックッと大堀は笑っていた。
「恒彦さんのご主人は、頭が良くて羨ましいですよ」
「切れすぎるのも、時にうざってえこともあんだよ。中間が一番だよ。中間がな」
「それはそうかもしれません」
忠実な小田島家の専任運転手は、二人の会話を右から左へと流して平然と運転していた。窓を叩く雨に気づいて、城田は窓の外に視線をやった。もうすぐ、小田島家の、デカくていかめしい門に辿り付く。そんな場所だった。
「あの娘、またいるな」
白い手袋をした運転手が、ボソリと呟いた。
「女?」
女好きの大堀が、運転手の言葉に興味を覚えて、窓の外を見た。なるほど、小田島家の門の横には、ジーンズ姿の地味な格好の女が立っていた。門の脇にいるガードマン達は、その存在には慣れてしまったのか、全く女を無視していた。
「地味な格好だが、綺麗な子だな。高校生ぐらいか?なあ、城田」
「そうですね」
城田は、窓の外を見ていた。勿論、それが誰だかは気づいていた。車は、女の前をゆっくりと通り過ぎていく。近くで見ると、女はずぶ濡れだった。雨が降ってるのだから、当然だった。女は、車の中の城田をジッと睨んでいたが、とくに口を開いたりはしなかった。城田は、チラリと女を見たが、すぐに視線を外した。車が邸内に入ると、再び門は重々しく閉じられた。
「知ってる女か?おまえのガールフレンドだったりしてな、城田」
「んなもんいねえっすよ。それには、あれは、どちらかっつーと義政に関係する女だ」
「ほお。じゃあ、義政を待っているんだな。可哀相に。アイツは、まだしばらくは戻ってこれねえからな。兄貴殿にしぼられて、別荘に監禁中だしな」
「暁学園に裏口入学したんだから、当然でしょう。カンニングの手助けまでは、幾ら俺とて出来ねえっすからね」
大堀は、フンッと鼻を鳴らした。
「おまえは順当に入学試験をパスしたのに、本当にアイツときたら。でもまあ、それでこそ、俺の立場も安泰ってもんだぜ。城田。おまえは俺が育てたんだ。恵まれて持って生まれたおまえのその顔と体と頭を、充分に生かせるように、俺が育てたんだ。これからもそれを忘れてもらっちゃ困るぜ」
「忘れませんよ。忘れたくたって、そんなことアンタが許さないでしょうに」
「そういうこった」
運転手がドアを開けると、シートベルトを外して、大堀は助手席を降りた。煙草を手にすると、運転手が即座に火を点けた。
「週末はおまえの自由だ。ご主人様もいねえし、当分はのんびりしてていいぞ、城田」
「ありがとうございます」
城田は車を降りると、ペコリと大堀に挨拶した。
「あの女はいいのか?」
大堀は、指で門を差した。
「どーでもいいっすよ」
言い捨てると、城田はさっさと玄関に向かって歩いて行った。
春の雨だから・・・。そう自分に言い聞かせたものの、雨は体に染み渡っていく。亜沙子は、ブルブルと震え出した。咄嗟にお腹を庇ってしまった自分に呆れてしまう。そうね。このまま、風邪ひいて熱出して、お腹の赤ちゃんも流れてしまえばいいんだわ・・・。そして、更に呆れた。この子には、なんの罪もないのに・・・。生まれてくるのを、この子だって楽しみにしているのかもしれない・・・。それなのに、私は。私ったら、なんてことを。目の前が滲んできた。それは瞳から溢れてきた涙のせいだ。なんでこんなことになってしまったんだろう・・・。何度も、何度も、何度も自分に問いかけてきた言葉だ。ずぶ濡れのまま、亜沙子はチラリと小田島邸を振り返った。初めて来た昨日は、そのあまりの大きさに驚いて足が竦んだ。ガードマンに阻まれて、何度も事情を説明した。だが、ガードマン達は亜沙子をまったく相手にしない。小田島は別荘に出かけているのだという。悠長なことだと亜沙子はムッとした。待つわ、と言うとガードマン達は怒った。昨日は、一回殴られた。だが、さすがに女を殴ったことに反省したのか、今日はガードマン達は言葉で威嚇してくるだけだ。そして、さっき。こちらに向かってくる車に気づき、亜沙子は身を乗り出して車の中を覗きこんだ。小田島が帰ってきた!そう思った。だが違った。違ったが、それでもその車には、亜沙子にとっては忘れることの出来ない男が、乗っていた。城田だ。あの晩、自分を犯したもう一人の男。城田は、こちらに気づいた筈なのに、全く顔色を変えずに、視線を返してきた。整った冷たい横顔。セックスという行為にすら、溺れることなどないような人形のような男だった。睨みつける視線をまるで、俺にはなにも見えないぜ、とでも言うように綺麗に無視して視線を外した。城田ではダメだ。あの男は、小田島の飼い犬だ。城田に話したところで、なに1つ事態は進まないだろう。亜沙子はそう思った。やはり、小田島に話をしなければ。いつの間にか、もう辺りは真っ暗だった。連橋に電話をしなければ。今日も帰らないと・・・。きっと、彼は電話の向こうでまた不審な声をあげることだろう。だが、こうしなければならないのだ。一筋の光が見えるまでは、連橋と顔を合わすのが辛い亜沙子だった。
小田島邸から距離がだいぶある公衆電話に行き、亜沙子は連橋に説明した。風邪が治らないので移してしまうと困るからバイトの友達の家にしばらく厄介になる・・・と。連橋は、いいから帰ってこいと何度も言ったが、亜沙子は無視して電話を切った。私が自分で解決することなのよ・・・と亜沙子は唇を噛み締めた。小田島が帰ってくるまで、私はあそこで待ち続ける。そんなことを考えながら、トボトボと亜沙子は小田島邸に戻った。そして、邸を囲む高い塀にもたれかかった。ズルズルと座りこむ。そんな時も、お腹を自然と庇ってしまう。突如として突きつけられた事実。そして、自覚。この子を産めば、私はお母さんになるんだ・・・!ごめんね。ごめんね。どんなに考えても、やはりこの子は産めない。産むことが出来ない。亜沙子は自分の膝に顔を埋めた。そして、泣いた。しとしとと、頭に肩に降り注ぐ春の雨は、勢いこそ激しくはないものの、じっとりとゆっくりと亜沙子の体を濡らしてゆく。もう何時間も同じものを見つめていた。黒い道路。雨に濡れた道路だ。うつむいて、亜沙子は道路を見つめていた。そんな黒い視界に、華やかな色が不意に亜沙子の目に飛び込んできた。白。白い靴だ。真っ白い靴に、独特のスポーツメーカーのあのマーク。亜沙子でも知っている。NIKEだ。NIKEの・・・、でっかい靴だわ・・と思いながら亜沙子はゆっくりと顔をあげた。
「!」
城田が立っていた。
「まだ居たのか。ったく、いつまで濡れているつもりだよ。亜沙子チャン」
城田は、馴れ馴れしく亜沙子の名を呼んだ。
「アンタに用はないわ」
亜沙子は、城田を見上げてキッパリと言った。
「小田島なら、まだ当分戻ってこねえぜ。別荘に監視つきで監禁されて、カテキョに勉強しごかれているからな」
「帰ってくるまで待つわ」
「冗談だろ」
「昨日だって、ずっとここに居たわ。待てるわよ」
「強情な女だな」
「放っておいてよ」
「そうはいかねえだろ」
「放っておけって言ってんのよっ」
亜沙子は叫んだ。城田は、黙った。そして、そのまま亜沙子を見下ろしていた。亜沙子は無視して、膝に顔を埋めた。それから、どれぐらい時間が経っただろう。相変わらず目を開ければ、白い靴がそこに在る。顔を上げると、城田も既にずぶ濡れだった。
「・・・」
亜沙子は再び城田を見上げた。城田は、濡れた前髪を掻きあげながら、亜沙子を見た。そして、腕を伸ばして亜沙子の腕を掴んだ。
「いやっ。なにすんのよ。離してよっ。触らないでっ」
「なんもしねえよ。とにかく、来いよ。こんな所で座りこんでいたら、そのうち警察呼ばれるぞ。そしたら、連橋に連絡が行くぜ。おまえが、なんでここにいるのかは、大体俺にゃわかってんだよ。おとなしくついてこい」
「離してよ、離してよっ!」
亜沙子は暴れた。城田は無視して、亜沙子を引き摺って行く。
「城田さん」
ガードマンが、亜沙子を連れた城田を見て、眉を潜めた。
「責任は俺がとるから、門を開けてくれ」
城田が言うと、ガードマンは無言で門を開けた。
ポタポタと雫が落ちるのも構わずに、城田は亜沙子を引き摺っては邸の中へと連れ込んだ。磨き抜かれた廊下に、点々と雫が落ちて行く。
「どこへ連れていくのよっ。小田島はいないんでしょ!それとも、あれは嘘で、本当はこの邸のどっかにいるの!?」
「いねえよ。おまえを連れていくのは、俺の部屋だ。けど、安心しな。この前みたく強姦なんぞする予定はさらさらねえからな」
「される予定なんて、もっとないわよっ」
亜沙子は言い返した。城田は、亜沙子を見てはクスッと笑う。
「顔に似合わず、気の強い女。連橋とそっくり。おもしれー」
城田は呑気にそんなことを言った。バンッと、城田は脚で部屋のドアを開くと、亜沙子をドサッと部屋に押し込んだ。亜沙子は、フローリングの床に転がった。
「ら、乱暴にしないでよ」
もう既に癖になってしまった、お腹を庇うしぐさだった。城田はそれを見ては、肩を竦めた。
「悪い。女の扱い方をあんまり知らねえもんで」
「野蛮人ッ」
「まったくその通りで。ほらよ」
城田は、クローゼットを開けては、タオルを取り出した。亜沙子に向かって、乱暴に投げた。
「濡れた髪と、体を拭けよ。風邪ひくからな。服も貸してやりてえけど、生憎そういう趣味はねえもんで、スカートなんてもってねえから俺のジーンズで我慢しな」
薄手のセーターとジーンズが再び亜沙子にバサバサと投げられた。
「投げないでよっ」
「側に寄ったら、怒るくせに。うるせー女だな」
城田は、片眉を器用につけあげて見せた。
亜沙子は、投げられた服に躊躇したが、全身を襲う寒さを堪え切れなかった。服を引き寄せ、着替えることにした。
「あっち向いててよ」
「今更恥かしがるような仲かよ。俺達、恥かしいところ、見せ合った仲じゃん」
ニヤニヤしながら城田が亜沙子をからかう。
「そういう時に使う言葉じゃないでしょう。バカね、アンタ」
亜沙子は冷やかに言い返した。城田はクルリと亜沙子に背を向けた。
「俺も濡れちまったぜ」
「当たり前でしょ。15分もボーッと突っ立っていれば」
「アンタはもっとすごい長い時間をボーッとしてたよな」
「ボーッとしてたんじゃないわ。待っていたのよ。小田島をね」
「いねえって言われてて、待ってるのも相当バカだと思うが」
「放っておいてよ」
着替えながら亜沙子は、城田がいつ振り返るか気が気じゃなかった。だが城田は背を向けたままだった。手早く亜沙子はセーターを身につけた。濡れたジーンズは脱ぎにくかったが、それも出来る限りの素早さで交換した。恐ろしいぐらい裾が余る。亜沙子は、慌てて裾を捲くりあげた。チラチラと城田の背を見ていた亜沙子だったが、そのうち城田も動いた。だが、振りかえらずに城田は自分のシャツを脱いだのだ。
「!」
亜沙子は、城田の無防備な背を見て、目を見開いた。
「なに、その背中・・・。アンタ、やくざ?」
思わず亜沙子は呟いた。城田の背には、刺青があったのだ。だが、不思議な刺青だ。左半分しか刺青されていない。
「俺はヤクザじゃねえよ。俺を育ててくれた人が、そういう類の人ってだけでな。これだってその人に、面白半分で無理矢理いれられたんだ。痛くてな。死にそうだったぜ」
言いながら城田は、替えのシャツを頭から被った。
「これはな。背中を重ねた時に、一対になるように彫られたんだ。片翼の鳥。鳳凰だって言っていたな。背中を重ねる。背中を預けるって意味だな。だが、俺と対になる筈だったご主人様の小田島は、刺青を拒んだ。だから、俺と義政は背中を重ねても、1つにはなれねえんだよ。俺は、かたわなんだ。可哀相だろ」
「どこが・・・。気持ち悪いわ、そんなの」
「大抵の女はそう言うぜ。おまえはあの日俺に、女には不自由してなさそうだっつったろ」
城田の言葉に、亜沙子はまじまじと城田を見つめた。あの時、あれほどの修羅場ですらそう感じたのだ。そして、今。改めて見ても、城田はやはり整った顔を持つ男だった。
「言ったわよ。黙ってれば、アンタ綺麗な男だわ」
悔しいが、亜沙子は素直にそう答えた。
「ありがとよ。けどな、不自由してるに決まってるじゃん。服脱いで彼氏の背中にこんなのあったら、女は皆逃げていくさ。だから、俺の相手はいつも玄人なんだ」
亜沙子は、城田の言葉を鼻で笑ってやった。
「同情しろって言うの?アンタ、私をやっぱり強姦するつもりなんでしょ!」
城田は振り返った。亜沙子は既に着替え終えていた。
「俺は、妊娠してる女を、犯す趣味はねえ」
亜沙子は目を見開いた。
「元々、俺は女を犯す趣味なんてねえしな。ましてや、男なんてまっぴらゴメンだぜ。おまえの彼氏の連橋が、どれだけ綺麗なツラした男でもな。だけど、小田島は違う。義政は違う。あの件以来、ヤツは連橋の体に興味を持ったぜ。忠告しておいてやる。連橋を小田島に近づけるな。アイツを、オンナにしたくなかったらな」
亜沙子は、バシッとタオルを城田に向かって投げつけた。城田は、パシッと手でタオルを受けとめた。
「なにもかもアンタ達のせいよッ。アンタもアンタよっ。そこまでわかっているならば、小田島を止めればいいじゃないのよっ。私には、連ちゃんを止めることが出来ないのよっ。アンタが止めなさいよ、小田島を。あのバカを!始終側にくっついているならば、アンタが止めればいいじゃないのよぉッ」
ポロポロと亜沙子は涙を零した。
「アンタがだらしないせいで、連ちゃんはあんな目に遭うし、私は妊娠して・・・」
亜沙子はフローリングの床に突っ伏した。
「どうすればいいのよっ。どうしたらいいのよ、私はっ。小田島の子供なんていらない。欲しくない、産みたくない。けれど、堕ろすのは怖い。せっかく芽生えた命を殺すような罪深いことはしたくない。私はどうすればいいのよ、どうしたらいいのよっ。どうしてこんなことになってしまったのよっ」
堰を切ったかのように、亜沙子は泣き叫んだ。
「病院に連れていってやる」
城田は、静かに言った。
「俺の知り合いの病院だ。もぐりの医者だが、腕は確かだ。秘密は厳守してくれる。費用はこちらで払う。1日で済むことだ。こんなこと、実は初めてじゃねえんだ。もう既に小田島は、2回女を孕ませた。アイツの精子、百発百中だな。だが、2人の女は、おまえみたく泣き叫んでもいなかったし、迷ってもいなかったぜ。即中絶だ」
「・・・」
亜沙子は泣き腫らした目で、城田を見た。
「堕ろせって言うのね」
「産みたいって言うのか?」
逆に聞き返す城田の瞳は、凍てついていた。
「考えたいならば、時間をくれてやる。決心したら、いつでも俺に連絡しろ。だから、おまえはもう小田島を待つな。ましてや、あんな雨の中にずぶ濡れで待っていたりなんかするな。風邪ひいたらどうする。腹に響くぞ」
「どうせ堕ろすのに?どうせ殺してしまう命よ?」
「それはおまえが決めることだ」
目を伏せながら、亜沙子はヨロリと立ちあがった。
「帰るわ。アンタの連絡先、教えてよ」
「俺は城田だ。おまえは、俺の苗字なんてどうでもいいだろうがな」
城田は、そこらにあった紙に、ボールペンで電話番号を書いた。城田・××××-××××と書かれてあった。予想以上に綺麗な字だった。亜沙子は、そのメモを見ながら、ぼんやりと聞き返す。
「城田。アンタの名前は?」
「なんで?」
「なんとなく」
本当に、亜沙子は自分でも、なんでそんなことを聞いたのかわからなかった。だが、不意に口をついて出た言葉だった。
「ゆう」
城田が発音する。亜沙子は、ドキッとした。バッと城田を振り返る。
「どういう字を書くの?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「いいから、教えてよ」
「女は変なことにこだわるな」
「どういう字を書くのよ」
「・・・笑うなよ」
「笑わないわよ」
「やさしいって漢字の、優」
亜沙子は呆然として、そして約束を破って、ケラケラと笑い出した。さっきまで泣いていたことを忘れたかのように。亜沙子は笑いつづける。
「超似合わない」
笑う間に、やっと一言亜沙子は、そう言った。
「ああ。だから、名前で呼ばれるのが好きじゃねえんだよ。誰にも呼ばせてねえ」
城田は、あまりに笑われてムッとしたのか、仏頂面だった。
「同じような理由で、名前を呼ばれるのがキライな人、知ってるわ」
「連橋?」
亜沙子は答えない。そのまま城田に背を向けた。
「また連絡するわ」
「ああ」
「こんなこと・・・、アンタに言いたくはないけど・・・」
背を向けたまま、亜沙子は呟いた。
「今日は、ありがとう」
「別に聞きたくもねえけどな。一応は受け取っておく。決断は早めにな」
「わかってるわ」
亜沙子は、城田に門の外まで送ってもらって、アパートに戻った。音を聞きつけて、隣の部屋の連橋がひょっこり顔を出す。
「亜沙子、もう平気なのか?」
ドアの向こうから、連橋が聞いてくる。
「平気よ。ありがとう、連ちゃん」
「なにかあったら、声かけろよ。風邪移っても、俺平気だからな。丈夫だし」
「うん。その時はよろしくね」
バイバイと亜沙子は手を振って、ドアを閉めた。閉めたドアにもたれかかりながら、亜沙子はお腹を撫でた。何度も撫でながら、亜沙子は涙を流していた。もう何度目になるかわからず、ましてや、少しぐらい枯れてもいいじゃない・・・と思いながらも、次々と溢れてくる涙を拭くことすらせずに、亜沙子は泣き続けた。
7話に続く
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