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****3部4話***
授業を終え、町をフラフラして、行き付けの店で食事を済ませてから、城田は帰宅した。小田島は、ここ最近、なんだかんだと忙しい。久しぶりの個人行動なので、どこか開放された気分で城田はなんとなく楽しかった。それでも、いつも傍にいた男の存在がないことを、ふと淋しく思ったりすることも否定は出来なかったが、ガキじゃあるめーし・・・と思ってやり過ごす。門の前に立ち、インターフォンを押そうとした時に、背後から声をかけられた。
「すみません。こちらは、小田島さんの家でよろしいのですよね?」
城田は振り返った。中年の男が、アタッシュケースを持って立っていた。
「そうですが」
城田は、男を見つめながら、うなづいた。どこと言って変わった感じはしない単なる普通の中年男だ。ふと城田は目を細めた。俺はこの男を知っている?と思った瞬間、男が名乗った。
「私は連橋健一と申します。小田島義政さんを訪ねて参りました」
「!」
名前からして、連橋の身内には間違いはない。年回りからして、父親だろうか。それにしても、似てるところはほとんどない。
「小田島は、現在この屋敷に戻ってきておりません。なにかと忙しい身なので、所有のマンションの方におりますが」
「そうですか。では、そちらの場所を教えていただけますか?小田島さんにお渡ししたいものがあるのです」
男は、チラリと手に持っているアタッシュケースに視線を走らせた。その視線に気づき、城田は目を見開いた。
『アイツ。オヤジに泣きついたか・・・』
アタッシュケースの中身は金だ。ほぼ間違いないだろう。
「私は城田と申します。お話を伺います。ご用件は、借金の件でしょう」
ゆっくりと、丁寧に城田は言った。
「は、はい」
城田の言葉に、男は軽く驚いたような表情を見せたものの、うなづいた。
「わざわざ来ていただいたのです。あちこち移動なさるのは大変でしょう。私が伺っておきます。この件に関しては、私も小田島から話を聞いておりますから」
舌噛みそうだぜ・・・と思いながら、城田は言った。
「ですが・・・・。ご本人でなくては・・・」
男のとまどいはもっともだ。城田は軽く微笑んだ。
「ご心配なく。私はこの家の者ですから」
城田はインターフォンにむかって、
「俺だ。城田だ。開けてくれ。お客様もいらしているから、広間にお茶の用意しておいてくれ」
と言った。すると、対応に出た使用人が「畏まりました」と言うと同時に、門がギイッと自動で開いた。
「どうぞ」
城田は、連橋健一を屋敷に招きいれた。


連橋健一は、キョロキョロと部屋を見回している。
「どうかされましたか?あ、そちらへどうぞ」
健一にソファをすすめつつ、城田は自分もソファに腰かけた。
「いえ。この都会に、こんな立派なお屋敷を構えているなんてすごいなと感心してます」
かすかに溜息をつきながら、健一はソファに腰をおろした。
「小田島家は、代々資産家ですからね・・・」
答える城田の声は淡々としている。
「城田さんと言われましたね。失礼ですが、貴方は小田島家の・・・」
「ああ。母が先代の小田島家の当主の愛人をやっておりまして。もう亡くなりましたが。そのおかげで、私はこちらに引き取っていただき育てていただきました。小田島義政とは、兄弟のように育ちました。だから、義政のことはなんでも知っています。もちろん、今回の件も」
そう言って、城田はまっすぐに健一を見つめた。ピクリと、健一の眉が寄った。
「は、あ・・・。そうですか」
連橋健一は、ポケットから取り出したハンカチでしきりに汗を拭っていた。
「失礼ですが、連橋さんは優くんのお父様でよろしいですね」
城田は訊いた。
「はい。私は、優の父親です」
『似てねえ・・・』
城田は心の中で改めて、呟いた。父親にこれだけ似てないとなると、連橋はどうやら母親の方に似ているようだった。
「今から義政に電話をして、私が話を伺うことに了解を取ります」
城田は電話の子機を持ち上げ、プッシュした。しばらくしてから小田島が出て、城田は子機を連橋健一に手渡した。健一は受話器を握りしめながら、何度も頭を下げては電話を切った。
「城田さんに全てをお任せする、とのことでした」
「了解していただけたなら、結構です」
健一から受話器を受け取り、城田は改めてソファに深く腰掛けた。目の前に座る健一の顔も緊張している。
「小田島に渡したいものとは、金ですね。そちらのケースに?」
「はい。ご指定の金額を」
「確認してよいですか?」
「お願いします」
健一はアタッシュケースを城田に手渡した。城田は中身を見ては、しばらくしてケースを閉めた。
「お預かりします」
パタンとケースが閉じる音に、健一はホッとしたのかうなづいた。
「差し出がましいでしょうが、お聞きしてよいでしょうか」
城田の声に、ハッと健一の顔が強張った。
「なんでしょうか」
「息子さんの借金の理由をご存知ですか」
「・・・」
健一は目を伏せた。
「私は、優とはもう何年も会っておりません。正直、優が今どこでどんな暮らしをしているかも知りません。優は、私達が離婚の話でゴタゴタしている時に家出してしまって、それっきりです」
「存じております。大変申し訳ございませんが、この金を動かすにあたって優くんに関わるある程度のことは調べさせていただいておりますから。連橋さんがご自分の会社を経営されていて、いざとなればこの借金の保証人になられることも多いに考えてはいたことではありますが、音信不通の親子関係であったことも調査はしておりましたので・・・。すんなり音沙汰のなかった息子の為に金を用意していただけるのか懸念はしておりました。手荒なことにならずに済んでホッとはしてますが・・・。ですが。その為には、借金の理由ぐらいは訊くのが普通でしょう。知らないではすまされないですよね。この金額は」
城田は、ポンッとアタッシュケースを軽く叩いた。健一は黙ったまま俯いている。
「お気を悪くしないでください。こちらもある意味、仕事のようなもんです。いいですか。この返していただいた金が、いわく付きの金であっては困る、と。そういうことです」
健一は納得したようで、顔をあげた。
「この金は、私と静香、別れた妻が共同で優に用意した金です。養育資金と言うべきでしょうか。本来ならば、優本人にとっくに手渡されていた金ですが、当時事情がありまして優には渡らなかった。だが、後のことも考えて、私と静香はこの金については手を出さなかった。いつか優になにかあったならばこの金を使おうと二人でそう思っていたんです。やはり、使う時がきた。優は、あの子は、なにかとんでもないことをしでかすのではないか・・・と。そんな予感はしておりました。おとなしい子ではありましたが、いつもなにかあればすぐに泣いて。けれど、こうと決めたら、なにを言っても動かない頑固な一面もある子だった」
健一の言葉に、城田は目を見開いた。
「おとなしい子?すぐに泣く?想像出来ませんね。頑固なところはよくわかるんですが・・・」
義政が聞いても、きっと納得はしないだろう。
「城田さんは優をご存知で?」
「よく知ってます。かれこれ、もう6年以上のつきあいですかね」
初めて会ったのは、互いに14歳の、月夜の晩だった・・・と城田は思った。
「それでは、時の流れと共に優は変わったのでしょう。私が知ってる限り、優はそういう子でした」
「立ち入ったことを聞きますが、この際です。勘弁していただきたい。ご夫婦二人はどちらもそういう理由で連橋くんを引き取らなかったのでしょうかね?なにかしでかす厄介な子になるかもしれない・・・。そういう理由で?」
マジに立ち入り過ぎだぜ・・・とは思うが、連橋の過去だ。聞かずにはいられない城田だった。
「私の方はそうですが、妻の場合はやはり再婚を考えたのでしょう。再婚する時に、前の夫の子供がいてはなにかと。いやでも、静香も優には手を焼いていたんです。優なんて名前をつけたせいか、どうにも優しいというか、妙になよなよしたところがある子で。いつも静香のあとをつけまわしては、静香のエプロンの裾を掴んでは、グシグシ泣いていました。やれ友達と喧嘩してしまった、だの、なんだのってね」
思わず城田は、吹き出した。想像出来ないとは、まさにこのことだ、と思った。
「?」
健一が、明らかに不審な顔をした。
「失礼しました。優くんは、本当に変わってしまったようです。すみませんが、想像出来ないんです、そんな彼は」
クククと城田は笑った。
「話を戻します。では、この金は、純粋にお二人の連橋くんへの養育資金だったと考えてよいのですね。素晴らしい両親をお持ちで羨ましいですね、彼は」
これは城田の皮肉である。もちろん、この金が養育資金だけではないことは、知っている。
「・・・あとでなにかを調べられて色々言われては困るので言っておきますが。これには、島田譲さんも関わっております」
「連橋くんの身元保証人ですね」
「そんなことまで調べてあるのですか・・・」
「一応は」
城田はニコッと微笑んだ。
「では、話が早くて助かります。三分の一は、島田さんに助けていただきました。私どもでは、こんな大金は、すぐに用意は出来ませんでしたから。島田さんは、当時私達が用意した養育資金を、戻してきたのです。全ての面倒は私が見るから、この金はいらない・・・と」
「島田譲さんという人物。きちんとした会社を経営していて、経歴にもなんの問題もない実業家です。ですが、彼は、連橋くんの書類上だけの保証人です。彼は、日常的には、連橋くんにはなにひとつ関わっていない。恐らく、二人は顔も合わせたことはないだろう、という調査の結果がありました。不思議に思っていたのですが、連橋さんなら理由をご存知でしょうか」
「確かに。話し合いの場に彼が出てきたことは一度もなかった。私は、彼は、町田という男に関わりがあったのだと確信しております」
「町田」
「優が通っていた小学校の教師の名前です。私達が離婚のドタバタの最中に優が家出したのも、その教師のところへ行く為だったんです。優は、どうしてか町田という教師をひどく慕っておりまして・・・。若い臨時雇いの教師でした」
「ご両親のところを出て、臨時雇いの教師のところに家出。それはまた、彼は不思議な行動をしたものですね」
城田の言葉に、健一は鼻を鳴らした。
「簡単なことですよ。恥ずかしい話ですが、優は挙動不審なところがありまして。小学校六年生の時に、教室で自殺未遂をやりました。カッターで手首を切ったんですよ。なんでそんなことをしたのか。私と妻は慌てて学校に優を迎えに行きました。その時、優を最初に発見したのが町田でした。町田は、私達に向かって怒鳴りました。一体、なぜこの子が自殺しようと思ったのか考えたことがあるのか?と。優は、生きている意味がないと言ったそうです。友達はいなく、パパとママは喧嘩ばかり。だから、生きている意味がない、と。たかだか臨時の若い教師に、説教されましてね。でも考えてもみてください。小学校6年の子が生きている意味がないと言って自殺未遂。その言葉を真に受けるなんて・・・。大方大人のドラマでも盗み見て、真似してみただけでしょう。あの頃の私達は、離婚に向けての話し合いに忙しくて優に構っている暇はなかった。だから、優は私達の気を引く為にあんな馬鹿なことをしたんでしょう」
スラスラと健一は言った。当時のことは、彼にとっては忌まわしい記憶でしかなかったようだ。さっきまでの謙虚な表情がなりを潜め、苦々しい表情だった。城田は、心の中でそんな健一を嘲笑していた。
「その件で、町田教師が連橋くんに同情したと言う訳ですか?」
城田は、健一に先を促した。
「そうでしょうね。私達も、町田があんまり生意気な口をきくので、ついカッとなって。口論になってしまったのですが、呆れたことに彼は、優を引き取ると言い出したのですよ。私達に優を任せてはおけない・・・と乱暴な口調で怒鳴りまして。驚きましたね。その場では妻が驚いて慌てて優を引き取ると言ってなんとかおさまりましたが。こういってはなんだが、あの教師は、どうも優に肩入れしすぎているとよくPTAの方々に言われましてね。妻なんぞは、少年愛の趣味でもあるのでは?と疑っていたぐらいでした。まあ、そんなこともありましてね。優は、その時の町田の言葉を鵜呑みにして、家出したんですよ」
「・・・」
城田は瞬きを繰り返しながら、健一の話を聞いていた。
「島田さんが優に関して全ての面倒を見ると言われた時。私達もそれなりに疑いもしましたが、なんせ身元を調べてもなにひとつ怪しいところはない男でした。話し合いの場には、島田の代理人の大林という男と、町田が同席していた。ですから、私は、島田さんは町田の知り合いなのではないかと今でも思っています。町田が直接優に関わることが出来なかったのには、彼はまだ若かった。優を任せるには役不足だと思われ私達に断られることを恐れて、彼は自分の知り合いを話し合いの場に出してきたんだと今でも思っています」
「なるほど。では、島田さんは町田という教師の知り合いだった・・・と。それ故、彼は連橋くんに関わると。そうおっしゃりたい訳ですね」
「ええ。ですから、今回の金も三分の一は、島田さんが助けてくれました。面倒を見ると言ったのに、こんなことになってしまって申し訳ない、と。私達はありがたく援助を受け入れました。私達の資金だけではこの金は返せなかった。今となっては、町田という男には感謝しなければならないかもしれないな・・・とは思ってます。実の息子の不祥事とは言え、私達だけではどうすることも出来ない大金でしたし・・・」
まるで他人ごとのように健一は笑った。
「よくわかりました。では、連橋くんは、理由もなにも説明せずに、ただずっと会っていなかった父上に金を貸してくれと泣きついたと言う訳ですか」
「いえ。優からは、なにひとつ私に話はありません」
「なにひとつ?では、島田さんからこの話を?」
「そうです」
城田は即座に、この金は胡散臭い、と思った。
「島田さんは、連橋くんと接触したことはないと思うのですが・・・」
「では、町田から話が言ったのでしょう」
「それは無理でしょう」
「なぜですか?」
「町田康司は、数年前にとっくに死んでおりますから」
「!」
城田の言葉は、健一にとっては初耳のようだった。かなり驚いた表情をしている。
「島田という男は、一体何者ですか?当時あなた方が用意した養育費も投げ返し、連橋くんの日常を支え続けてきた。町田が生きていた頃は、島田と町田が成り代わっていたのもわかります。だが、町田が死んだ今。今度は連橋くんの作った借金を三分の一を負担する。もう町田はいない。彼は、6年前にとっくに死んでいるんだ。島田は、町田の管財人なのか?町田の遺した財産がそれだけあったのか?否ですね。彼は、単なる教師だった。資産家ではない。それでは、なぜ。島田は、なぜそこまで貴方の息子さんを助けていくのか?貴方は疑問に思わないのですか?この金は、疑問だ。三分の一は少なくとも疑問だ。島田という男が出した金の分だけ、疑問が残ります。そうは思いませんか?連橋さん」
サーッと健一の顔色が白くなっていくのを見て、城田は今度こそ、心の中でではなく、本気で笑ってみせた。なんという愚かな男だ、と思った。話を聞いてて、明らかにわかる。この男にとって、優という血を分けた息子は、疎ましい存在でしかないのだ。愛情の欠片もない。ただ、ただ、疎ましく、消してしまいたい存在なのだ。出来れば、戸籍からですら抹消したいぐらいに、彼の人生にとって息子の優の存在は、汚点なのだ。同じだ。俺と、同じ。連橋と俺は、同じなのだ、と城田は思った。痛いくらいに思った。俺達は、親という存在に見捨てられたのだ。
「・・・おっしゃるとおりではあっても、この金は受け取っていただかなくてはなりません」
語尾を震わせながら、健一は言った。
「調べようとは思わないのですか?ご自分の息子さんが、今いる位置というものを。彼は、とても疑問の残る人間関係の中にいるではないですか」
健一はブンブンと首を振った。
「私は・・・。私は、もう新しい生活をとっくにはじめている。今更、私達の元を勝手に離れた息子の為に、ゴタゴタに巻き込まれたくないんだ!こんなこと、今の妻に、どう説明すればよいんですか。かつての息子が起こしたこんな不祥事を。ただでさえ、妻には内緒で動いているというのに。勘弁してください。もう勘弁してください。私はこれで終わりにしたいんです。この金を貴方に受け取ってもらって、もうこれ以上優とは縁を断ちたいっ。一千万円も他人様から借金するなどという、とんでもないことをしでかした息子がいると今の妻にバレては、私の人格まで疑われてしまう。そんなろくでなしの息子がいることを妻に知られたくない。前の妻も同じことを言いました。彼女も今後は二度と優には関わるつもりはないと言ってました」
城田は冷ややかに、激しく自分の立場を主張する健一を、見つめていた。
「貴方がたは、新しく始められた生活がそれほど大事ですか?新しいパートナーや子供達・・・」
「妻は大事です。むろん、大事だ。今の私があるのは、妻のおかげです。私の今の仕事が軌道に乗ったのも、妻のおかげです。彼女には頭があがらない。子供はおりません。子供など、優のせいで、もう懲り懲りだと思っていましたから」
「・・・」
城田は、健一のその言葉と同時に、目を瞑った。
「よくわかりました。多少疑問は残るものの、貴方がたの新しい生活を脅かすことがないように、この金は受け取りましょう」
「あ、ありがとうございます」
ゆっくりと城田は目を開いた。
「ところで、優くんは、貴方には似てませんね」
「は?あ、ああ。妻に似ているのでしょう。小さい頃からよく似ていましたから」
城田が突然言ったことに、健一はキョトンとしつつも、答えた。
「でも、話を聞くところによると、奥様に似ているのは顔だけのようですね」
城田は健一を見つめて、ニッコリと微笑んだ。
「はあ・・・」
「俺の知っている連橋くんは、貴方がたとはちっとも似てないですね」
「え」
「俺の知ってる彼は、純粋で、愛情深い。恐ろしく、愛情深い。どうやったら、あんな風に育ったのでしょうか?貴方がたのような冷たい夫婦の血を受け継いでいながら」
「・・・」
「隔世遺伝かな?」
そして、城田の表情が、微笑みから怒りに豹変した。健一は、ギョッと目を見開いた。
「おぼえておけよ、連橋さん」
「な、なにをです・・・」
城田の低い声と、その迫力ある視線に、健一はすっかり竦みあがっていた。
「この借金はな。大きく言えば、アンタの言わせるところのろくでなしの息子が、アンタらの代わりに自分を愛してくれた男の為に作った借金だ。町田康司という男から発生した借金なんだ。連橋は、この金を作ることに絶対にアンタの手を借りなかっただろう。アンタら夫婦にだけはな。それだけは断言出来るね。この金は、不正だ。連橋が作った金じゃない。望んだ金じゃない。連橋の意思を無視して動いてる金だ。だが、俺は受け取るぜ。わかっていて、受け取るぜ。そうじゃないと、アンタのろくでなしの息子は、また傷つくことになるからな」
「・・・」
城田はそう言いながら、ゆっくりと自分の右手首を、健一に示した。健一は、強張った顔を動かし、城田の手首を見た。うっすらと残る、手首を走る一筋の線。健一は、それを何度も瞬きして見つめた。そんな健一を見ながら、城田は笑った。声を立てて笑った。
「アンタ、良かったな。島田という男がいてくれて。何者か知らねえが、俺も感謝するぜ。わかっているか?島田という男がいなければ、アンタの息子は、また手首を引き裂く行動に出たかもしれねえんだよ。もっとも、そうなったところで、アンタはどうでもいいんだろうけどさ。アハハ」
笑い続ける城田を見て、健一の顔がヒクヒクと引き攣った。
「俺の両親もろくでもねえやつらだったが、あんたらもサイテーだな。いい勝負だ」
城田はバッと立ち上がった。
「出ていけよっ。てめえ、でていけっ!」
ドアを示して、城田は叫んだ。その声に、健一は、ふとなにかを思い出しかけた。かつて、同じような声音に、同じような言葉で怒鳴られたことがあったような気がした・・・。
「この金は、小田島にきちんと渡しておくさ。そして、お望みどおり、アンタはもう二度と連橋に関わるな。二度と、関わるな。そのツラ、二度と連橋の前にあらわすんじゃねえよ。前の女房にもよく言っておきな」
うなづくと、健一はそそくさと立ち上がって、部屋を出て行った。
「ちきしょう」
城田は、うめいて、ドサッとソファに腰掛けた。傍にあったアタッシュケースを持ち上げ、それを掴んでは放り投げた。ドカッ、とアタッシュケースが壁にぶつかって、ゴトンと床に落ちた。城田は瞼を指で押さえては、俯いた。
『あの男に、偉そうに説教垂れる立場じゃねえだろうが・・・』
わかっていたが、言わずにはいられなかった。
なぜ、連橋があれほど町田にこだわるのか。それが今、ようやくわかった。アイツは、町田康司を愛していたのだ。両親から得れなかった愛を、町田から得て、それで幸せだったのだ。単なる教師と生徒の絆を越えて、二人は結びついてきていたのだ。壊したのは誰だ?連橋が得た幸せを壊したのは、一体誰だ・・・?城田は、自分の手首を見つめた。うっすらと傷が残っている。同じように、連橋の手首にもあるのだろう。

絶望の中から、再び生きる意味を見出し、生きていく。自分もやったことだ。連橋も、きっと同じ選択をしているに違いないのだ。連橋が見出した生きる意味は、恐らくは復讐なのだ。城田はそう思って、呟いた。
「死んでる男を生かす為に、生きてるおまえは死んでいく」
復讐を続ける限り、連橋優という男の心は、確実に蝕まれていくのだから・・・。


「!」
電話の呼び出し音に僅かに驚き、城田は放り出しておいた子機を掴んだ。
『小田島はいるか?』
受話器から聞こえてきた声に、城田はピクリと反応する。
「・・・連橋か」
『てめえかよ、城田』
「なんの用だ」
『ここに電話する用件は、一つっきゃねえだろ』
「金。用意は出来たか?」
『出来ねえ。用意するつもりは元々なかった。バカ主人に伝えな。1000万円で俺を買えってな』
連橋の言葉に、城田は笑った。コイツは、1000万円で買われることの深刻さをちっともわかってねえ・・・と哀れになった。
「だと思ったぜ。最初から、てめえは金なんぞ用意するつもりはねえんだろうなってさ。第一、おまえ、金ねえしなぁ。貧乏だし」
『っせえ。笑ってんじゃねえよ』
「交渉しようぜ。今、ここに、俺は1000万円持っている。おまえに貸してやる。だから、おまえは義政におまえを売るんじゃねえ。俺に、売りな」
『冗談こいてんじゃねえよ』
「今どこだ。会いに行くから、場所教えろ」
『ふざけんな』
「会いたいんだ」
『なんだと?』
「会いたいんだ、おまえに。場所を教えろよ・・・」
まるで連橋の耳元に囁くかのように、受話器に向かって城田は、優しく囁いた。


続く

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