***第3部1話***
足元に出来た水溜りに、血液がポタポタと落ちた。
女の、泣き声混じりの悲鳴に我に返った。また、正気を失いかけていた。
「行けよ。とっとと行っちまえッ!俺の前から消えやがれ」
バシャアッと、脚で水溜りを蹴った。
「ひいっ」
情けない声を洩らしながら、ド派手なシャツを着た金髪の男は、倒れ伏している男を抱き起こした。意識のない男を頼りなく支えながら、金髪のチンピラはそそくさと路地を逃げ去った。
雨は、相変わらずアスファルトを激しく打ちつけている。
「大丈夫か」
城田は、薄汚れた壁のもたれかかってグッタリしている胡桃に向かって、声をかけた。
「・・・」
胡桃はうつむいたまま答えない。胡桃の周りには、濡れた紙幣が散らばっている。最高紙幣、一万円が何十枚。
「金が濡れている」
城田は呟きながら、そのうちの何枚かを水溜りから拾い上げた。
「せっかく働いて貯めた金だろう」
手渡そうとしたが、胡桃はバシッと城田の腕を振り払った。
「汚ねえ金なんていらねえって言われたわ。そんな金、城田くんにあげるわよ」
「いらねえよ」
城田の掌から、万札が落ちていく。
「汚ねえ金は受け取れないだってサ。笑っちゃうと思わない?あいつ、いつの間にかヤクザさんよ。てめえのがよっぽど汚ねえ金回してンじゃないね」
クスクスと胡桃は笑っている。だが、その大きな瞳には涙が浮かんでいる。
「もうこれで三度目だぜ。俺が見かけただけでもな。亮って言ったけ?あんな男、もうやめろ」
ブルブルと胡桃は頭を振った。
「亮ちゃんは、今、ちょっとおかしいのよ。すぐに元に戻るわ。金森組に迎え入れられて、浮き足立っているだけなのよ。あの人は田舎では、いつもヒーローだったの。弱い者苛めするやつらをバキバキッとやっつけてくれて。弱いやつらには絶対手を出さなかった。強くて優しくて。そーゆー人だったのよ」
胡桃の言葉に、城田はプッと吹き出した。
「それ聞くのも、もう三度目だ。嘘くせえ、んなの。女殴るヤツ俺は、信じられねえな。恒彦さんと一緒だ。外道だ」
「恒彦さんと一緒にしないで!亮ちゃんは、あんな最低な男じゃないわ」
ムキになって胡桃は言い返してきた。
「俺から見れば、大して変わんねえよ。あーあ。ったく。おまえ、目の周りパンダだぜ」
城田は、ハンカチで胡桃の顔をソッと拭いてやった。彼氏に殴られたせいでの青痣はむろんのこと、顔を打ちつける雨のせいで、化粧もドロドロに溶けている。
「女働かせて貢がせて。なのにプライドだけは強くて。チンピラだよ。おまえの彼氏は」
「亮ちゃんには金が必要なのよ。あの人のお母さんは、お金のかかる病気を患っているから!」
「金が欲しいからってヤクザになるのかよ。安直すぎて笑えもしねえよ」
胡桃の脇の下に手を差し込み、城田は胡桃を抱き起こした。
「一度目は店の前で待ち伏せ。二度目は、おまえのマンションの前で待ち伏せ。三度目が出勤途中。ビシバシてめえの女を殴りやがって。さすがに俺は我慢出来なかったぜ。さて、手当てしなきゃな。夕実さん驚くだろうなあ・・・」
ピクッと胡桃が体を震わせた。夕実には、心配をかけたくなかった。
「ママにはこんな姿見せたくないわ。今日は店に出られない・・・」
城田は、うなづいた。夕実が胡桃のこんな姿を見たら、確かに心配するだろう。
「わかった。じゃあ、俺の家に来い」
「小田島の家なんてイヤよ」
「じゃあおまえの部屋に行こう」
「胡桃の部屋には、包帯なんかないもんっ。もういいから、放っておいてよ」
「放っておけるかっつーの」
やれやれ、と城田は濡れた髪をかきあげながら、足元に散らばった紙幣を拾い集めて、強引に胡桃に押しつけた。胡桃も、今度はもう投げ捨てたりはしなかった。
「んじゃ。俺の数いる女の部屋にするか。って言っても、皆この時間じゃ出勤時間だな」
城田は腕時計を見た。もう夜中だ。
「本当に胡桃は大丈夫よ。1人で手当てする。ありがとう」
胡桃は、涙を拭った。
「そんなこと言われて、ハイそーですかって去れるぐらいならば、喧嘩なんかしてねえ」
チッと城田は舌打ちした。
「でも、城田くんだって、血だらけだよ。胡桃のこと心配するより、自分のこと心配しなよ」
「俺はいいんだよ。血の気が多すぎるから、たまには流した方がいいって清人さんに言われている。仕方ねえな。ちょっとここでおとなしく待ってな。心当たりの女に頼むから。座って待ってろ。逃げるなよ」
「マジ、いいってば。しつこいと余計なお世話だよ」
「うるさい!言うこときかねえと殴るぞ」
半分怒鳴られて、ビクッと胡桃は体を震わせた。城田の強さは、たった今、目の前で見せつけられた。胡桃は、かつて亮が喧嘩に負けたのを見たことがなかった。そんな強い亮を、城田はねじ伏せた。その足元に屈服させたのだ。亮があんなに強張った顔で敵に対峙している姿を初めて見た。強いとは聞いていたが、まさかここまで城田が強いとは思わなかった。そして、そんな城田に殴られたら、自分などひとたまりもないだろう。
「女殴れないくせに」
それでも、胡桃は震える声で言い返した。悔しかった。亮を、あんなふうに負けさせた男の言いなりになるのは。助けてもらったのに・・・。わかっていても、悔しかった。
「聞き分けのねえ女なら、俺は殴れるぜ」
「わかったわよ。ごめんなさい。お願いします」
「よし」
フッと城田は笑うと、クルリと踵を返して路地を出て行った。電話ボックスを探しにいったのだろう。
「痛い・・・」
城田に助けられる前、胡桃は亮から殴る蹴るの暴行を受けていた。体中が痛かったが、とくに脚がひどかった。1人では確かに歩けそうにない。殴られて吹っ飛んだ瞬間に挫いたのかもしれない。亮に殴られた顔が、半端じゃなく痛んで、胡桃は痛みにウエエッと泣いた。なんで亮はあんな風になってしまったんだろう。故郷から2人逃げ出すように出てきた時。まだ夢も希望もたくさんあったというのに。私も亮も。どうしてこんなことになったのか。しゃくりあげて泣いていると城田が戻ってきた。
「よしよし。泣くな」
ポンポンと城田が胡桃の頭を撫でた。
「泣くと余計顔が痛いだろ。さあ、行くぜ。渋々だけど、お許しが出た。優しいナースの待ってる所に案内してやる」
城田は、胡桃の体を支えて、歩き出した。
「優しいナースって誰よ」
胡桃が城田を見上げた。身長差がありすぎるので、首が痛いわ、と胡桃は思った。
「行けばわかるさ。優しいナース。すげえ美人だ。おっと、妬くなよ」
自分で言った言葉に受けたのか、城田はゲラゲラと笑った。
「バカみたい。何回か寝たぐらいで恋人気取る純情さなんか、胡桃にはないもん」
「じゃあ、また寝ようぜ。何度でも寝ようぜ。おまえと寝る時。俺は大抵酔っ払っていて、なんも覚えてねえ。前回だっていつ寝たっけ。何回イッた?」
「胡桃は覚えてるよ。3回イッた。前からと後ろからと、抱っこされてイかされた」
「あ、そう。残念。そのどれもまったく覚えちゃいねーぜ」
あっさりと城田は言った。胡桃はなぜだかムカッと腹が立った。
「いやなヤツね。知れば知るほど、城田くんってなんか意地悪だよ」
「惚れたヤツには意地悪だぜ、俺」
「嘘くさー。う。笑うと顔痛い」
胡桃は両手で頬を押さえた。
「せっかくの可愛いツラに、んとに、ひでえことするよな。おまえの彼氏は。ほら、タクシー。乗れよ」
城田は、スッと胡桃の背に腕を回した。
数十分後の後に、よくわからない場所へと連れて行かれた。来たことのない町だった。水の匂い。川が近くにある。タクシーが停まる。城田は胡桃を支えながら、降りた。
「!」
胡桃はギョッとして、城田の背に隠れた。暗闇の中、すぐ脇のガードレールから、人が立ち上がった気配を感じたからだった。
「悪いな、こんな夜中に」
城田は、胡桃を背に庇いながら、人影に向かって、言った。
「本当よ。いい迷惑だわ」
答えたのは、女の声だった。胡桃は、目を凝らした。目の前に立っていたのは、髪の長い美人だった。城田が言っていた美人で優しいナースとはこの女のことらしい。なるほど。城田の言葉は嘘じゃなかった。胡桃は、また、何故だか腹が立った。
「連橋にはバレなかったか?」
「一緒の部屋じゃないから平気よ。連ちゃんは寝ちゃうと中々起きないし」
「じゃあ。頼むな、亜沙子ちゃん」
亜沙子、と呼ばれた女はうなづいた。
「本当に酷い傷だわ・・・。アンタらは、どうして女をいつもこんな風に傷つけるのよ」
胡桃を見て、亜沙子は悲しそうな顔をした。
「言っておくが、今回は俺は無関係だ。第一俺は、女を犯す趣味も殴る趣味もねえって言っただろう」
城田は肩を竦めてみせた。
「アンタの趣味なんて知るもんですか」
ぶっきらぼうに女は答えた。胡桃は、キョトンとしながら、2人を交互に見た。一体どういう関係なのだろうか。友達でも、恋人でもなさそうだった。そんな胡桃の視線に気づいて、城田は苦笑した。
「胡桃ちゃん。この子、亜沙子ちゃん。俺らよりちょっと年上のお姉さんだ。とあることが縁で知り合った。男にはきつい女だけど、女の子には優しいぜ。安心して手当てしてもらいな。ボロアパートだから、居心地は悪いと思うけどな」
「余計な世話よ」
ギロッと亜沙子が城田を睨んだ。
「じゃあな。よろしく」
「わかったわ。さっき聞いた事情は、説明しない方がいいのね。連ちゃんには」
「俺が絡んでいるってこと以外は言ってくれて構わない。どうせアマちゃんなアイツはすぐに胡桃ちゃんに同情して大事に守ってくれるだろうからな」
「連ちゃんをも利用しようってのね!なんてヤツよ」
「利用出来るものは、なんでも利用するんだ、俺は。第一、俺はアイツにゃでっかい貸しがあんだよ。アンタだって、知ってるだろ」
城田の言葉に、亜沙子はグッと詰まった。あの事件のことを言っているのだ。一年以上前、連橋は、この男を刺した。小田島を刺そうして、この男を刺してしまったのだ。そのせいで、この男は生死を彷徨うほどの重傷を負ったのだ。
「胡桃ちゃん。亜沙子ちゃんの部屋の隣には、とある男が住んでいる。俺ほどじゃねえが頼りになるヤツだから、なんかあったらソイツに相談してみろ。ただし、俺のことは絶対にヤツには言わないでくれよ。俺の名前をヤツの前で口にするな。俺らは天敵なんだ。けどな。ソイツは俺みてえに男前だから、フラフラしちゃダメだぜ。傷が治ったら、またHしような。じゃあね」
と言ってから、城田は亜沙子を見た。
「亜沙子ちゃん、アンタもな。いい加減観念して、そろそろ俺に抱かれたら?」
「バカ言わないで。あっちこっちで女抱いて。エイズで死ね」
「エイズで死ぬのは、俺より連橋だろ」
楽しそうに笑いながら、城田は踵を返す。
「待ちなさいよ。アンタだって、怪我してるじゃない」
「だからいつも言ってるだろ。亜沙子ちゃんに手当てしてもらうのは嬉しいが、場所が悪すぎる。せっかく手当てしてもらったって、アイツに見つかれば、元の木阿弥なんだよ。俺に構うな。頼んだのは、その子の手当てだけだ」
背中を向けたまま、城田は答えた。
「わかったわよ」
「この借りは、いつか体で返す」
「いらないわよッ」
ハハハハと城田は笑いながらタクシーに乗り込んでいった。すぐにタクシーは発車していく。走り出すタクシーを見送ってから、亜沙子は胡桃を見つめた。
「案内するわ。城田の言ったとおり、うち狭くて汚いけど」
「いいの。ごめんね。こんな夜中に。ありがとう。助かる・・・。今夜は、なんか男に触られたくない気分なんだ」
「うん。なんとなくわかるよ。困った時はお互い様だしね」
亜沙子は胡桃の手をひいて、アパートに戻っていく。もう見えなくなったタクシーを、亜沙子の瞳がチラリとまだ追いかけていた。
「もう行っちゃったよ」
胡桃が見透かしたように言う。その言葉に、亜沙子は僅かに顔を赤くした。
胡桃と亜沙子は、すぐに意気投合した。互いに城田の話題では、なんとなく気まずくもなったりしたが、すぐに話題を変えて切り抜ける。どんな関係なのか・・・。2人は、尋ねあったりしなかった。
亜沙子は傷の手当てに慣れているという。その言葉は本当で、亜沙子はサラサラと包帯を巻いてくれた。胡桃は感心した。
「看護婦さんみたいだよ。亜沙子さん」
亜沙子は微笑んだ。胡桃が、「もしかして本当に看護婦さんなの?」と聞くと、「違うわ。隣に住んでいる幼馴染の男も凶暴だから、慣れているだけよ」と亜沙子が言った。さっき城田が天敵と言った男のことらしい。胡桃はタバコに火を点けながら、溜め息をついた。
「胡桃は基本的に男は好きだけど、でも時々たまらなく嫌い。だって、喧嘩が大好きなんだもの。男ってきっと、女抱くより喧嘩してる時のが快感大きいんだと思う」
「ホントだよね、それ言えてる」
男という存在の悪口に花が咲く。双方とも同年代の同性との交流があまりなかったので、話は尽きない。夜明けまで喋りこんで、やっと眠りについた。一つの布団で寝たが、胡桃のあまりの体の小ささに、大して窮屈でもないわね・・・と亜沙子はコッソリ笑った。
翌日。胡桃の方が先に目が覚めた。目を開けると、見知らぬ男と至近距離で目が合った。
「・・・」
胡桃は、ジーッと自分を見下ろしている男を見上げた。何度か瞬きをして、更にジロジロとその男を見つめた。睫が長く、異様に目が茶色い。その茶色の瞳も、不審な色を浮かべていた。
「アンタ、だあれ?」
胡桃は疑問を口にした。
「そーゆーアンタこそ、誰だよ。なんで亜沙子と一緒に寝ているんだよ」
胡桃はモソッと起き上がった。
「胡桃は怪しいモンじゃありませんよ」
「充分怪しいよ。なんで知らねえヤツが亜沙子と寝て。うわっ!」
急に男が悲鳴をあげた。
「な、なに?」
びろーん!起き上がった拍子に掛け布団がずれた。上半身を覆っていた布団がずり落ちたことによって、ブラジャーをつけずにパンティだけを身に着けて眠っていた胡桃の、胸がドドーンッと露になったからだ。
「なっ、なっ。なんで、裸なんだよっ」
ドワッと、男が後ずさって、胡桃から目を反らした。
「ああ、ごめん。胡桃、裸で寝る癖があって」
「服着ろ、服」
「なによー。アンタ、童貞なの?女の裸ぐらいでうろたえちゃって」
クスクスと胡桃は笑った。
「うーん・・・。なによ。なんの騒ぎ」
亜沙子がモゾモゾと起き出した。
「亜沙子、その女、変!誰だよ、ソイツ」
男は、部屋の隅で丸くなって背を向けている。
「なにやってんの、連ちゃん」
キョトンと亜沙子は連橋の背を見つめてから、胡桃に視線をやった。胡桃の豊かな胸が亜沙子の目に飛び込んできた。
「ぷぷっ。連ちゃんってば。アハハハ」
事情を察した亜沙子が笑い出した。
「わ、笑うな」
背中を向けたまま、男が怒鳴った。
「ねえ。ヤバイならば、ぬいたげよっかー」
のほほんと胡桃が言った。
「やかましーっ。服着ろって言ってんだろっ!」
男の怒鳴り声が、再度部屋に響き渡った。
胡桃は、亜沙子の友達として、連橋に紹介された。ホステスだということも、ヤクザになってしまった彼氏に暴力をふるわれて逃げてきたことも、亜沙子が連橋に説明した。足りないところは、胡桃が自分で補った。そして、連橋も自己紹介した。
「俺は連橋。亜沙子の幼馴染だ。よろしく」
「ああ。あなたが凶暴な隣人の連橋くんね〜」
ニコッと胡桃は言った。
「凶暴?」
「亜沙子さんが言っていたよ」
キッと連橋は亜沙子を睨んだ。亜沙子は、ホホホと笑ったまま、連橋から視線を反らした。
「連橋くんって、年齢不詳の顔してる〜。幾つ?」
「20」
「あ、胡桃と同じなんだあ。ふーん。よろしくねっ。ねえ、ところで連ちゃんって呼んでいい?」
ニコッと胡桃は連橋に笑いかける。
「あ、ああ」
なんだか照れたように連橋はうなづいた。
「そんでもってさあ。この子は何者?」
胡桃は、自分の膝の上を指差した。胡桃の膝の上には、久人がちんまりと座り込んでいる。
「あ、それは久人。ひーちゃんって皆呼んでいる。知り合いの子。俺と亜沙子とで育ててる。可愛いだろ」
連橋が説明した。なぜか得意気な連橋だった。
「うん。すっごく可愛いねえ」
胡桃は、ギューッと久人を抱きしめた。
「えへっ。くーみねーちゃんあったかあい」
久人は、ニコニコッと嬉しそうに胡桃に抱きついている。超ご機嫌な久人だった。
「ひーちゃんご機嫌だわ。きっと、胡桃ちゃんが気に入ったのね。可愛い子には、敏感なところはさすが小さくても男だわね。それにしても、ひーちゃんって、何気に女好き・・・。将来が私心配だわ。ねえ、連ちゃん」
亜沙子が、ボソリと言って連橋を見た。
「というか、連ちゃんのが羨ましそー。睦美ちゃんに言いつけよう」
「てめ。余計なこと言ってんじゃねー」
亜沙子に指摘され、ハッと連橋は、胡桃と久人から目を反らした。
「アハハ。さあて、ご飯にしよっか」
「あ、胡桃も手伝うよ」
「胡桃ちゃんは座ってて。そんな体でまだ動いちゃダメ。ひーちゃんと遊んでて」
「あ、ありがとう。ごめんね・・・」
連橋は、ジッと胡桃を見つめた。
「んな彼氏、とっとと別れろよ」
「え?」
「女殴るヤツは最低だ。いいか。そんなヤツとはとっとと別れろ。つきあっていたって、幸せになんかなれねえよ」
「・・・連ちゃん」
「おまえ、自分のツラ鏡で見たか?どんな殴られ方したら、そんな痣出来るんだ。ひでえよ」
「くーみねーちゃん、お顔痛いの?」
久人が胡桃の膝の上で立ち上がって、胡桃の顔に手を伸ばした。
「ひーちゃん、サンキュー。胡桃は平気だよ。んで、連ちゃんさあ。理由を訊かないで、そんなこと言うんだ。殴る男は全部悪いの?胡桃が、彼を怒らせるようなことしたかもしんないでしょ」
胡桃はタバコの煙を吐き出しながら、連橋をちょっと睨んだ。
「悪いね。どんな理由があったって、惚れてる女をそこまで殴れる男は、最低だ。断言出来る」
連橋は、ジーンズに包まれた片膝を立てて、天井を見上げながら、タバコをくわえた。
「今度、俺の前にその男連れてきな。根性叩きなおしてやらぁ」
「相手はやくざだよ」
「それがどーした?」
カチッとライターでタバコに火を点けながら、連橋は言った。
「別に怖くねえよ」
胡桃を見て、連橋はニヤッと笑った。
「カッコイイね」
「あ?」
「はったりでもそう言えるのは、カッコイイよ」
「はったりだと?」
連橋はムッとした。胡桃は、クスッと笑った。
「連ちゃんってば、黙ってればすごい美青年なのに、口開くとべらんめえでイメージぶっ壊れるよ。黙ってれば、ホストだって顔負けなのにさ。もったいねー」
連橋が、あの城田に、天敵と言わせしめる男のようには胡桃にはどうしても思えなかった。
「アンタだってそうだよ。黙ってれば、可愛いのにな」
2人は顔を見合わせて、僅かな沈黙の後に、同時に笑った。
「連。最近、流の様子が変だ。おまえ、なにか聞いてるか?」
「いや、聞いてねえ」
連橋の返事を聞いて、志摩は溜め息をついた。
睦美とデートする為に連橋は志摩宅へ迎えに行ったのだが、タイミングが悪く睦美はまだ支度が出来ていなかった。居間で待っていると、睦美の兄・怜治がやってきた。
「アイツ。最近なんか妙にボーッとしてやがってな」
怜治は連橋の前のソファに腰を下ろした。
「佐田とかも気づきだしている。なんつーか、覇気がねえっていうか。まあ、喧嘩に負ける程じゃねえんだがな。この前も流してたら、忽然と消えやがってよ」
「気になるならば、自分で訊けばいいだろ」
「何度も訊いたさ。だが答えねえ。アイツ、人当たりがイイからさ。気づくの遅れたけど、もう大分前からもしかしたら、なにごとか考えていやがったのかもしんねえ」
昼間からビール片手の怜治を見て、連橋は苦笑した。
「心配か」
「当たり前だろ」
「流のこと可愛がってンだな」
「アイツは可愛いぜ。おまえとは別の意味でな」
ニヤッと怜治は笑った。連橋は、フンッと鼻を鳴らした。
「まだ、んなこと言ってンのかよ」
「なに言ってンだよ。まだ、じゃねえよ。ずっと、だ。俺は我慢してるんだよ」
ヒョイッと、怜治はソファを移動して、連橋の横に腰掛けた。
「今だって心中穏やかじゃねえよ。幾ら相手が妹だからって、嫉妬がねえ筈はねえだろ。ホントは腸煮えくり返っているんだ」
「近づくな、真昼間から酔っ払い」
ドンッと、連橋は肘で怜治を押しのけた。
「飲まなきゃやってらんねえんだよ。おまえは、今夜、睦美抱くのか?」
「てめえに報告する義理ねえだろ」
「そりゃあな。義理はねえけどな・・・。気には、なる」
「勝手に悶々としてやがれよ」
フンッと笑って、連橋は立ち上がった。
「身の危険を感じるぜ。俺は、外で待たせてもらう」
「危険を感じるのが遅すぎる。俺がこの部屋に入ってきた時点で、おまえは外に出るべきだったな。俺は諦めが悪い方なんだよ」
怜治も立ち上がる。
「!」
怜治の腕が伸びてきて、逃げる連橋の体を抱きしめた。
「綺麗さっぱりおまえを諦めるつもりは毛頭ねえんだよ」
「離せよ」
「ここでおっぱじめる時間はねえから、安心しろよ。ただ、完全に忘れちまわねえうちに、キスぐらいはさせてくれよ」
「ふざけんなッ」
油断した!と、連橋は思った。怜治からは、もうすっかり、その類の気配を感じなかったから、完全に油断していた。
「油断してただろ。俺に、もう、その気がねえってさ・・・」
心の中をズバリと言い当てられて、連橋はギョッとした。
「俺は少しばかりおまえより大人で、ズルイのさ。チャンスがあれば見逃すつもりはねえし、なければ作ったりもする。今日みたくな」
グイッと、連橋の腰を引き寄せて、怜治は噛み付くように連橋にキスをした。
「っつ」
息苦しさに、空気を求めて連橋が口を開いたところに、怜治の舌が強引に潜りこんでくる。
逃れようとしても、許されない舌の強引さに、絡め取られる。連橋のうなじをしっかりと押さえこみ、怜治は連橋の唇を奪うことに熱中する。
「俺の存在を、忘れるな」
キスを終え、連橋のピアスごと、その耳朶を舐めながら、怜治は囁いた。
「睦美を抱いてやる。今晩、睦美を抱く。おまえの存在なんか、欠片も思い出しなんかするもんかッ!」
ドカッと、連橋は膝で怜治の腹を蹴飛ばした。
「いっつ」
ドサッと、怜治はソファに尻から落ちた。
「相変わらずだな。余韻に浸る暇もねえよ」
「チンポ蹴らなかっただけでも、感謝しやがれ」
「それは感謝するぜ。俺も今夜デートで、女を抱くからなぁ。けど、俺は。時々女抱きながら、おまえを思い出すぜ。ああ、また抱きてえなって・・・」
「死ねよ、マジに」
冷やかに連橋が言った。
「実行しねえ限りは、悪い冗談だと思って軽く流せや、な。連」
「都合のいいこと言うな」
「おまえももっと大人になれって前から言ってるだろ。成人した癖に、いつまでもガキくさくて困る。恋愛はな。綺麗ごとばっかじゃねえんだからな」
そう言いながら、怜治はピクッとドアの方に視線をやった。階段を駆け下りてくる足音がした。
「お待たせ、連橋」
睦美が居間に入ってきた。
「てめえ、遅い。なにチンタラしてやがる」
「な、なによ〜。しょうがないじゃない。アンタが来るのが早すぎるのよ」
「行くぜ」
さっさと連橋は睦美の肩に手を回した。
「連。流の件。気にかけといてくれ。俺にはいえなくても、おまえが訊くならば流は打ち明けるかもしれねえからな」
ソファに腰かけながら、怜治は連橋の背に向かって言った。
「なに?流くん、どうかしたの?」
睦美が連橋を見上げて、聞いてくる。
「なんでもねえよ」
そう言って、連橋は怜治を振り返った。
「流の件については、俺がなんとかする」
「頼むぜ」
ヒラヒラと怜治は手を振ったが、連橋はそんな怜治を睨んで、出て行った。
睦美と街をぶらつきながら、ふとした瞬間に、流の姿が連橋の脳裏を横切る。流の苦悩は、もしかして・・・。思い当たることがあって、連橋は立ち止まった。最近、会社で、匡子夫妻の様子がおかしい。滅多に喧嘩をしないので「オシドリ夫婦」と社員の間で言われている社長夫婦がおかしいのだ。先日は、人目につかないところで、2人が喧嘩しているのを連橋は目撃していた。社長である匡子の夫・隆は流の義兄。社長夫人である匡子は流の実姉。もしかしたら、2人の不和が、流の異変に関係しているのかもしれない。
「連橋?」
睦美に肩を叩かれ、連橋はハッとした。
「あ、ああ。わりい。店決まったか?」
「うん。あっちのパスタ屋さん。美味しそうだから。いいよね」
「いいぜ。俺はなんでも食うから。んじゃ行こう」
流に、ちゃんと聞き出さないと・・・。いつも助けられてばかりだ。たまには、俺がアイツを支えてやんないと。明日、流に会おう、と連橋は思った。
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