連橋優(レンバシ・ユウ)・・・某都立高校3年
川藤亜沙子(カワトウ・アサコ)・・・連橋の隣室の住人
城田優(シロタユウ)・・・・海外からの帰国高校3年生
緑川歩(ミドリカワ・アユミ)・・・同上
町田久人(マチダヒサト)・・・連橋の恩師の遺児。
*****************第2部8話**************

イヤだ。なんだよ、これ。この気持ち。這い上がってくる寂しさと、怒りと、そして。

『先生!他の生徒に優しくしないで。他のヤツの頭なんか撫でたりなんかしないでよ。町田先生は、僕だけの先生だ。僕だけに優しくしてよ。・・・先生。どうして笑ってるの。僕、おかしなこと言った?』
『いや・・・。ごめん、ごめん。連橋の今の台詞を聞いていたら、昔を思い出してな。つきあってる頃、よくカノジョに言われた台詞だなって。まさか、君にまで言われるとはね・・・』
『カノジョ!?他の人にも言われたの?』


小学生のあの頃は、先生の言った言葉の意味がとうとうわからなかった。でも。今ならば、わかる。優しかった先生。誰にでも優しいあの人の態度は、当時つきあっていた女を不安にさせていたのだろう。

独占欲。

両親から得られなかった愛情を、当時の俺は、先生から得ようと必死だった。そのせいで、当たり前のように持ち、当たり前のように振りかざした、嫉妬という感情。そう。嫉妬、だ。今。それと同じ感情を、なぜこの場で自覚しなきゃなんねえンだよっ。そして、俺は。一体、どちらにその感情を抱いたのか。
別れた女にか?敵対する男にか?
「!」
心の中の答えが出ぬまま、城田が動いた気配を感じとって、連橋は我に返った。
「それ以上は動くな。ここらは、俺の領域だ。てめえが堂々と入ってきていい場所じゃねえんだよ。とっととうせな!」
城田は手に持っていた亜沙子からのお礼の包みを、ソッと草の上に置くと、連橋の言葉を無視したままゆっくりと歩いてきた。
「近づくな」
「やだね。近づくよ」
「近づくンじゃねえっ」
連橋は叫んで、拳を振り上げた。
「それ以上近づいたら、ぶっ殺すぞ。とっとと退きやがれよ」
「そう言われて、おとなしく退くような性格してねえんだよ、俺。せっかくおまえに偶然遭ったんだから、ちょい確かめておきたいこともあるしな。わりぃけど、侵入させてもらうぜ。おまえの領域にな」
連橋は、両手をジーンズのポケットにひっかけながら、こちらに向かって歩いてくる城田を、キッと睨んだ。後退するのは、性に合わない。連橋は、その場に踏みとどまった。実際、自分は酒のせいで、結構体が頼りない。踏み出せば、よろめいてしまうかもしれない。だが、そんな姿は、城田には決して見せたくなかった。
「・・・」
まっすぐに自分に向かってくる城田を、連橋はじっと睨みつけていた。その時、城田の右足が、フッと軽く持ちあがった。連橋は、ハッとした。それと同時に、ビュッと自分に向かって、なにかが飛んでくるのを感じて、連橋は咄嗟に体を捻った。
「っ・・・!」
石だ。石が、飛んできたのだ。城田が、足で石を蹴ったのだ。連橋は、左足を軸にして、体をずらして石を避けた。石をやり過ごし、体を戻しかけたその僅かな瞬間に。
「無防備におまえには近づけねえからな。今の石ころで、おまえのバリアを崩して、そして俺はあっさり領域到達。おまえの反応の早さにゃ舌巻く時もあるけどよ。今のは、らしくなく遅かったな。連橋」
城田はすぐ横に立っていて、グッと連橋の髪を掴んでいた。
「どうした、連橋。おまえにしては、鈍すぎるぜ」
「やかましい。手をどけろ」
振り払おうとして、連橋は手首を、城田に掴まれた。グイッと、顔を近づけられて、連橋は息を飲んだ。
間近に迫る城田の顔に、理性の全てが裏切って、無意識に体が反応する。頬が、カッと熱くなった。
「手をはなせ」
「・・・どうした。おまえ。顔、赤いぜ」
「うるせえっ」
両手首を掴まれ動きを封じられていたので、連橋は、右膝で城田の股間を蹴り上げようとした。
「痴漢撃退法の、女の動きだな」
その動きを読んでいた城田は、笑いながら、腰をひねって避けては、連橋の手首を掴んだまま、自ら前のめりに倒れた。当然、連橋の体をクッションするようにして、城田は土手っぷちの草の上に倒れた。
「いてえっ」
もろに地面に頭をうちつけた連橋は、悲鳴をあげた。痛みにうめきながら、落下のショックで左に反れていた顔を正面に戻して、連橋は城田を見上げた。
「てめえ、城田っ」
文句を言おうとして口を開きかけたところに、城田の唇が降ってきた。
「!」
軽く触れて、退いていく城田の唇に、連橋は目を見開いた。言葉が喉に絡まって凍結してしまった。
「なんだ。やっぱり、おまえ。酒飲んでンのか。飲み会って、亜沙子ちゃんが言ってたっけ。そのせいで動きは鈍いし、顔が赤いのかよ・・・。つまんねえな」
舌で唇を舐めながら城田は、自分を見上げている連橋に向かって、呟いた。
「なあ。おまえ、気づいてねえだろうけど・・・。俺のこと、そーゆー目で見るの止めてくんねえか?ただでさえ、俺は、おまえの瞳には少々ふくむところあんのによ。そんな目で見られたら、結構ヤバイんだけど」
クッと城田は唇の端をつりあげて笑った。
「なにがヤバイ?どんな目で俺がおまえを見てるっつーんだよ。気味ワリィこと言ってんな。、犬ヤロー」
やっと言葉が自由になり、連橋は口を開いた。
「俺のこと、見てねえだろ」
「!?」
「今、おまえの前に立っているのは、俺なのに。おまえは、俺を見ていない。そーゆー目をしてるんだ。幽霊でも見るような。そんでもって、やけに感情こもってて。今にも擦り寄ってきそうな、切なさそうな目。そんな目むけられたら・・・誤解しちまうぜ」
「なにをどう誤解するってんだ?」
「義政捨てて。おまえを愛してあげようかなってさ」
ニッコリと、城田は連橋を見下ろして、微笑んだ。連橋はフンッと鼻を鳴らした。
「地獄の閻魔に愛されても、てめえだけはごめんだね。俺の上から、退けっ!」
「安心しろ。俺も閻魔サマには愛されてる自信はある。なにしろ俺は確実に地獄行きだからな。共に堕ちちゃおうか?連橋」
「一人で行きな」
「つれねえことを言うなよ」
「やかましい。俺の上から退けって言ってんだろ」
「まだ退けねえよ。俺、確かめたいことがあるって言ったろ」
「てめえにつきあってる暇なんかねえんだよ。どけったら、どけっ。どけよ、この野郎」
連橋は、城田の体の下で暴れた。暴れれば、暴れるほど、体の中でくすぶっていた酒が回って行く気がしたが、これ以上城田と密着しているのはどうしたって危険すぎる。必死に連橋はもがいた。
「酔っ払い相手に、仕掛けたりなんかしねえから安心しな。痛いことなんて、なに一つやらねえよ。だから、おとなしくしてな」
「なにするつもりだっ」
「気持ちイイこと・・・」
城田の腕が伸びてきて、連橋の顎を掴んだ。
「!」
フワッと、城田の唇が再び触れてきたかと思ったら、あっという間に、舌ごと持っていかれた。
「うっ」
逃れようと、連橋は首を振ったが、項に城田の手が回ってきて、ガッチリと固定されてしまう。
「っん」
あまりの息苦しさに、連橋は目を見開いた。空気が欲しいっ!と喘ぎかけた時に、唇が外れた。慌てて空気を吸い込んで咽た連橋に、城田は再び唇を寄せてきた。ガブリ、とまるで噛みつかれるように、唇を奪われる。体中の全ての感覚が、唇に集中してしまったような錯覚を覚えて、連橋は体をゾッと震わせた。
「んくっ」
執拗なまでの城田のキスだった。倒れていた筈の体が持ち上げられて、連橋は城田の膝の上に体を乗り上げた。慌てて逃げようと腰を引いたが、城田に抱きしめられて、適わなかった。
「や、やめろ。てめえ、なにサカッて」
かすれた連橋の声は、城田の唇に飲みこまれる。とにかく城田は連橋の首を片手でしっかり固定してしまっているので、連橋はどうしても逃げることが出来なかった。4度目になるキスで、連橋は泣きをいれた。
股間から湧き上がってくる、あのおぞましい感覚の前兆を感じたからだ。ゾクゾクと、全身を支配していく、淫らな感覚に、震え上がるほどだった。

望みもしないというのに男どもに教え込まされた感覚が、むくむくと体の奥から湧き上がってくる。快楽が欲しいと。疼く箇所を宥めて欲しい、と。体の奥から、囁きかける淫らな声。連橋は自分の顔色が青褪めていくのが自分でもわかった。
『冗談じゃねえよ・・・。冗談じゃ、ねえっ!』
城田の前では。コイツの前では。城田のせいで。コイツのせいで。変わりたくない。誰よりも、コイツの前でだけは・・・。絶対に、イヤだっ!連橋の抵抗に怯んだらしく、やっと城田の唇が離れていく。その隙をついて、連橋は力いっぱい城田を押しのけて叫んでいた。
「流・・・。助けろ、流ッ!」
と。
城田と同じく、いまだ、自分を変えないもう一人の男。流。今、この場にいない流に。けれど、いつでも傍らにいてくれる流に。連橋は、助けを求めた。城田が、ゆっくりと瞬きした。僅かに呆然とした表情を見せていた城田だったが、
「こんな場面で、他の男の名前なんか呼ぶなよ。せっかく勃ったもんが萎えるだろーが」
そう言って、連橋の体を突き放した。それを幸いにと、連橋は城田と大きく距離をあけては立ちあがった。
「てめえ・・・ッ。こんなことして。一体どういうつもりだ。俺がむかつくんならば、拳使って仕掛けてこいよ。ちゃんと、ぶっ殺してやるからよ。二度とこういうことすんじゃねえ」
「なに言ってんだよ。どういうつもりだって?嫌がらせに決まってンだろ。変な期待すんなよ」
城田もフラリと立ちあがった。
「変な期待だと?」
カッと連橋の頬が赤くなった。それを見て、城田は鼻で笑った。
「俺は流とは違う。勘違いすんなよ。おまえを悦ばせる為にキスなんざしねえっつーの。イ・ヤ・ガ・ラ・セ。これに尽きるだろ」
ニヤニヤと城田は笑いながら、連橋を見つめていた。
「・・・うせろ。二度と俺に。亜沙子に近寄るな!亜沙子にいらん手出したら小田島より先にてめえをぶっ殺してやる」
「手を出すな?まだ出してねえよ。おまえ次第だけどな」
「俺次第だと?」
聞き返す連橋に、城田はうなづいた。
「俺の本命はおまえ。おまえさえ、俺達の側に来ればあんな女いらねえよ」
「!」
「前に言ったろ。連橋。あの女はおまえの大事な駒だ。別れてなお、おまえはあの女を傍においている。傍に置きつづける限り、俺達にとっては、大事な駒だってな。なあ。いい加減におとなしくコッチに投降しろよ。そーすりゃ義政だって落ち着くんだよ。そんでもって、アイツが飽きるまでオンナやってくんねえ?それで丸くおさまる。聞きいれてくれれば、亜沙子ちゃんは近寄らないと約束する。けどな。もし拒むならば、骨の隋まであの女を利用してやるぜ。あの子、俺に惚れてるからな。知ってた?惚れてるンだよ・・・。ま。そういうふうに、仕向けたんだけどな。始めからさ。あの女、強姦した、あの日から。少しずつ、少しずつ。接触する度、せっせとタネ蒔いて水やってさ」
心底楽しそうに城田は笑っていた。連橋は、ヒクリと自分の顔の筋肉が強張ったのを感じた。
「亜沙子の気持ちを・・・。仕向けただと?」
「ああ、そうさ。優しさちらつかせれば、ああいう情の深い女はすぐにひっかかる。軽いモンだよ。けど、別れる時には一番性質の悪い女。おまえも別れるの、苦労しただろ。あの女、しつこそうだしな。それを考えると、タラすのちと面倒くせえ気もすっけどな」
城田は肩を竦めるしぐさをしながら、連橋を見た。
「てめえってヤツは・・・」
握った拳が、怒りで震えた。
あの日。泣きながら別れを告げた亜沙子。次は、優しい男を好きになりたいと言った亜沙子。
『さあ。私もよく知らない人。だって初めて会った人だもん。散歩してたら、私がひーちゃん迷子にしちゃって。そしたらひーちゃん、その人と連ちゃんを勘違いして、助けを求める為に、車の前に飛び出しちゃったの。それを体張って助けてくれた人。とってもいい人だったわ。確かにカッコ良かった』
あの時の亜沙子の様子からは、助けてくれた男に対して好意を持っている、というのをありありと感じた。鈍いといわれる自分ですら、すぐに気づいた。亜沙子は、助けてくれた男=城田の為だけに、楽しそうに嬉しそうに、せっせと菓子を作っていたのだ。連橋には、城田と亜沙子の距離が今、どれほどのものかは計れない。けれど。確かに亜沙子の中には、城田への想いの種子が、ある。そう確信した今、黙ってなどいられなかった。
「許さねえぜ・・・。亜沙子を不幸にするヤツは絶対に許さねえ。亜沙子はな。今度こそ、幸せになるんだ。アイツには、今度こそ幸せになってもらいてえんだよ。なのに、なのに。てめえみてえな男なんかに。亜沙子を渡せるか。絶対に・・・。絶対に渡さねえ」
「もうてめえのモンじゃねえだろ。所有者みてえな言い方すんな。うぜえ」
吐き捨てるように城田が言った。
「ふざけんな、てめえっ!」
ガッと、連橋は拳を振り上げて、城田に殴りかかった。
「酔っ払い相手に喧嘩するつもりはねえぜ」
ヒラリと城田は拳を避けると、バッと連橋に背を向けた。
「逃げるな」
「逃げるさ。じゃあな、連橋」
「逃がさねえッ」
「!」
スッと、首筋に感じた感触に、城田は目を細めた。予測不可能な連橋の動きだった。酔いのせいで、体はフラフラしていた筈なのに。さっきの鈍い反応とは裏腹に、尋常ではない速さで連橋は仕掛けてきた。
「野暮なモンは出すなよ、連橋」
チッと城田は舌打ちした。首筋に当たっている感触は、ナイフだった。
「いつかは小田島を殺す。一人殺せば、何人だって同じだ。ご主人様を殺す時、ブザマに俺の手が震えて下手に痛い思いさせて殺すより。ここはひとつ。忠実な騎士のてめえが、試し切りされておけよ」
連橋は城田の耳元に囁いた。城田は眉を寄せた。
「つーかさ。その逆な訳。俺が、ご主人様の大切なおもちゃ壊しちゃったら、怒られちゃうからな。それ、しまえ。お望みどおり。拳で、やりあってやるからよ」
振りかえりざま、城田の蹴りが連橋の腹に炸裂した。
「上等だ、このヤロウッ!」
蹴りによって体をぐらつかせたものの、連橋はすぐに体制を立て直し、ナイフを投げ捨てては、城田の顔に拳を繰り出した。
「酔っ払いだと舐めてかかってきやがれ。吠え面かかせてやる!」
「これが酔っ払いの拳かよ。ったく、さっきまでのヘロヘロ具合が懐かしいぜ。可愛かったのにな、連橋」
城田は、避けながらも、何発かは連橋の拳を受けてしまい、とりあえず後退した。ザザッと、城田のつまさきが草の上を滑って行く音が響いた。
「前に出て来いよ。退くンじゃねえっ」
「体制整えてるんだろ。がっつくな」
右手首を何度かせわしなく振りながら、城田は後退していく。連橋は追いかける。ある程度のところまで、城田は退いた。そして、左足の踵で大地を踏みしめ後退を止め、左の掌に右拳を打ちつけた。パンッと乾いた音が鳴った。
「さて。マジでやろーか。んとに、てめえは好きだよな。喧嘩」
しょーもねえな、と言わんばかりに、城田は連橋を見つめては、薄く笑った。
「手加減・・・。しねえぞ、雌猫ちゃん」
「んなもん、欲しくねえよ。・・・犬。来いよ」
連橋は顎で城田を誘った。
「足開いてのお誘いならば、喜んでそっち行ってやったけどな。てめえが来い!連橋ッ」
城田が叫んだ。その声が耳に突き刺さり、連橋は目を見開いた。

『連橋』
と、自分を呼ぶ声が。亡き恩師と重なった。
かつて同じようにこの川原に佇み、町田が自分の名を呼んだあの時。
「!」
そうか。コイツは。城田は。声が。目が。町田先生と似ていやがる・・・・!!!
「ちきしょう。なんだって。なんだってよりによって、てめえが」
連橋は、叫んで城田に向かって駆け出した。
『俺を見てねえだろ』
気づかれるほどにあからさまに。俺は、城田に別の男を重ねていた。ずっと。今まで。無意識に。先生だ。町田先生だ。愛した男と、憎む男を。対極にいる筈の存在を。

城田は、町田を見殺しにした男だ。先生を殺した男を守る男だ。絶対に許されるべきではない男。なのに、そんなヤツと、先生を。俺は、どうして、重ねてしまうんだ・・・ッ!


流は、後部座席に座ってぼんやりと窓の外を見ていた。隣では、すっかり睦美が眠ってしまっている。助手席の増山と運転席の志摩がやたらとハイテンションな会話を続けている。
「さっきからエロくせー会話ばっかりしてんなよ。睦美ちゃんがいるだろ」
さすがに、二人の、きわどく卑猥な会話に呆れて、流が怒鳴った。
「なーに、ブッてんだよ、流ェ。睦美なんざもうとーっくに眠ってるよ。今頃はスィートな夢見てやがるさ。むかつく妹だ。無視だ、無視。なあ、増山」
「おう。流。てめえもそのうち志摩公のあとついでジレンの頭に収まるンならば、エロエロ勉強しとかねえと、女ついてこねーぞ」
「ジレンはハーレムじゃねえだろ。見かけ倒しの腰使いズめ」
ケッと流は言い返した。
「おーや?複数形?増山は仕方ねえかもしんねえけど、俺は本物だって。俺のチンポで、何人女泣かせたか。ほんとーは本命アヘアヘ言わせてやりてーんだけど、アイツはつれねえかんな」
志摩の言葉に、流はピクッと眉を寄せた。
「それ以上言ったら、アンタを運転席から引きずり出して、ご自慢の一物切り取るぜ」
流は後部座席から、志摩の後頭部を睨みつけた。
「おっかね。流の地雷踏んじまった」
志摩が首を竦めた。
「なんだ、なんだ。意味シンな会話?ブハハハハっ」
訳もわからず増山は爆笑している。
「こんなうるせー車で連のところへ行ったら、アイツ怒るぜ」
流は後ろを振り返った。グラスハートの増山の舎弟達の車が2台と志摩の舎弟達の車が3台尾いてきていた。合計6台のやかましい車達が、連橋達の住む川べりのアパートに向かっていたのだ。そろそろ夜中と言ってもいいべき時間帯に、である。
「俺が一人で行くからいいって言ったのによ」
流は愚痴った。
「なんだよー。いいじゃん。アイツの財布は俺が保護してるんだぜ。ひでー酔っ払いだぜ。財布忘れて帰るなんて、連のアホ。けどお。そーゆーなんかぬけてるとこがやっぱり可愛いンだよなあ。愛しっ」
ククククと志摩は楽しそうだ。
「あぶねーなァ。妹の恋人にまで手出すなよ」
なにも知らない増山の忠告に、流はムッとした。だが、さすがに志摩は、流のその様子に気づいたのか、それについては茶化すことはしなかった。「りょーかい」と、短く言っただけだった。
「・・・」
腹立たしく思った流は、再び窓の外に視線をやった。もう連橋の家はすぐそこだった。いつもの土手が。川が見える。
「・・・!?」
月の下に広がる川べりの風景に、流は目を凝らした。今、なにかが川の方角で動いた。流は、ハッとして窓を開けて、身を乗り出した。再び夜の景色に目を凝らす。誰か居る。川べりに。二人・・・!?だが、動くものは、すごい速さで移動しているらしく、捕らえきれない。流は、「志摩さん。速度落としてくれ」と叫んだ。
「なんだ、どうした?」
「川の方に誰かいる。連かもしんねえ」
「連が?こんな時間に川べりでなにしてんだよ。酔っ払って寝転がってンのか?」
志摩が、運転席から流を振りかえった。
「わかんねえ。連じゃねえかもしんねえけど。人影が二つ。なんか動いてる。喧嘩かな?やな予感する」
「いい月夜だしな。カップルがくんずほぐれつかもしんねーぞ。邪魔しちゃわりーぞ、流」
とことんエロモードな志摩だった。
「だったら、いいけどよ」
そんな志摩の態度に、流は苦笑しながら、相変わらず川の方を見つめていた。


亜沙子は、ぽろぽろとこぼれる涙を指で押さえながら、目の前のテーブルでアイスを食べている久人をぼんやり見つめていた。美味しそうにアイスを食べる久人を見ては微笑ましい気分になるのに、その気分はすぐにひっくりかえって胸に痛みが込み上げてくる。そんな気持ちを必死に宥めすかしているうちに、いつのまにか随分と長くぼんやりとしてしまっていたようだった。気づくと、目の前の久人が居ない。
「ひーちゃん?」
ギョッとして亜沙子はドアを見た。開いている。ドアが開いた音にすら気づかなかったとは、自分が信じられない亜沙子だった。亜沙子は部屋を出た。ちょうど久人が道路を渡っていくところが廊下から見えた。
「ひーちゃん。どこへ行くの!」
久人は、きっと自分になにごとかを囁いた筈なのだ。だが、自分はそれにすら気づかずに、ぼんやりしてしまっていたのだ。
「危ないわよ、ひーちゃん。こんな遅くに一人でどこかへ行かないでっ」
先日の恐怖がよみがえって、亜沙子は慌てて階段を駆け下りて行った。


久人は、アイスを食べながら、目の前の亜沙子が泣いているのに気づいていた。どうして泣いているかわからない。聞くと、「なんでもないのよ」と最初の頃は答えが返ってきてた。だが、それから何度か声をかけたが、亜沙子からは返事がなくなった。アイスを食べ終わり、久人は考え込んだ。泣いている亜沙子ねーちゃんをどうにかできるのは、にーちゃんしかいない。そう思った。今は出かけていていないけど、迎えにいけばいい。そう思って、久人は部屋を出たのだ。駅への道を歩いていけば、帰ってくるにーちゃんとばったり会えるかもしれないし・・・。とことこと道路を渡って、なにげなくチラリと川の方へ目をやった久人は、顔を輝かせた。
「にーちゃん!」
川に背を向けて、こちら側を向いている兄、連橋の姿を発見したからだった。やったあ♪と思いながら、久人は連橋の方へと走った。
「あれ?」
だが、しかし。そこにいたのは、兄だけではなかった。見覚えのあるもう一人の金色の髪をした男の人。
「飴のにーちゃん?・・・どおして、にーちゃんと・・・」
ちょっと立ち止まり、二人を見ていた久人は驚いた。
「けんかしてるぅ。とめなきゃ」
幼い久人でも、二人が殴り合っているのがわかった。久人は背の高い草を避けながら、二人の方へと向かって走った。草がチクチクと久人の剥き出しの肌の部分を差してきて痛かったが、久人は我慢して走りぬけた。二人の側に駆け寄ろうとして、久人はビクッと体を強張らせた。目の前で殴り合う二人の殺気に、久人などはひとたまりもなかった。大好きなにーちゃんと。優しい飴のにーちゃんが、どーしてけんかしてるの?そんなに殴り合ったら、痛いよ。だが、声に出ない。二人は、久人の姿など目もくれず、いや、久人の存在になど気づかずに、ただひたすら、殴り合っていた。久人はその場にペタンと尻餅をついた。怖くて、立てなかった。にーちゃんは。連にーちゃんが怒ってるところは何度も見てきたし、知っている。けど、こんなに怖いにーちゃんの顔見たことないよ。そう思ったら、久人は涙が込み上げてきた。
「にーちゃん、けんかやめてよぉ」
久人はうええっと泣き出した。


車の音が近づいてきている。城田はそれに気づいて、舌打ちした。何台か連なっている。独特のエキゾーストノート。ここは連橋の領域だ。「またかよ・・・。今度は俺一人じゃん」イヤな予感がして、城田はじょじょに逃げの体制を作っていた。だが。相手は連橋だ。おとなしく逃がしてはくれまい。おまけに、酔ってる筈のくせして、連橋の拳は的確だから始末におえない。挙句にさっきくらった打撃が、この前、ガキを助けた時に痛めた腕を直撃していたせいで、使い物にならねえんだよっ!と、城田は痛む腕を片方の腕で庇って、息を吐いた。
「どうした。顔色変わったぜ、クソ犬。もうおしまいか?ご主人様のところへ尻尾振りながら逃げる気か?笑っちまうぜ」
連橋は、フッと笑った。城田もそれを受けて、ニヤリと笑った。
「おまえの為に、救急車が到着した模様。願わくばこの一撃で、おとなしく、沈んでくれよな」
城田は、拳で連橋を誘導して、そして回し蹴りを連橋に決めた。
「っく」
ドサッと音が響いて、連橋が倒れた。
「にーちゃぁあん!」
声と共に、草むらから小さな影が飛び出してきた。
「!?」
城田は、連橋の反撃に備えて構えていた体を硬直させて、声の方を振りかえった。そしてハッと、視線を戻す。予想通りに、連橋はすぐさま起きあがってきていた。
「連橋、待てっ」
城田は叫んだ。
「待てっか。ふざけんなあ、てめえっ」
城田の制止の言葉など耳に入る筈もなく、起きあがりながら体を反転させて連橋は、足を蹴り出していた。すぐ側に立っていた城田の体目掛けて・・・の筈だった。だが、連橋の足は、飛び出してきた予想もしない小さな影を蹴り上げてしまったのだ。
「きゃうっ」
奇妙な悲鳴と共に、小さな影がポンッと空中に飛んだ。
「あぶねえっ」
城田は叫びながら、瞬時に大地を蹴って、小さな影・久人の体を追った。
「・・・」
連橋は、トンッと足を地につけながら、一体今、なにが起こったのかがわからないまま、呆然と城田の行方を目で追っていた。ドサドサッとものすごい音が辺りに響いたその時、連橋は我に返った。
「ひ、久人っ!」
声に出したものの、連橋はその場に硬直してしまう。お、俺は、今・・・。一体、なにを。蹴りを・・・。城田に決める筈だった蹴りを、久人に・・・!?どうして、久人がここに。いつから?いつから、居た?城田がもし受け止めてくれていなければ、小さな久人の体は地面に叩きつけられて、もっと酷いことになっていただろう。
「連橋っ」
城田に名を呼ばれて、連橋はギクリと城田を見た。
「ボケッとしてんじゃねえ。ガキは気を失った。とっとと連れていけ」
久人は城田の腕の中でクタリと目を閉じていた。だか、その顔を見て、連橋は体中の血の気がひいた。
「血が。血が。久人っ。しっかりしろ」
連橋は、城田に駆け寄り、その腕の中の久人を覗きこんで叫んだ。
「これは俺の血だ。くそっ。失血死しそうだぜ。最近はこんなんばっかりだ」
城田は、久人を受け止めて地に落ちた時、川原に転がる石で目の縁を切ったのだ。皮膚が弱いせいで、目の近くの傷は、かなり出血するのだ。久人の顔の血を指でぬぐってやってから、城田は目を押さえた。
「か、返せっ。久人を返せ。おまえは久人に触るなっ」
バッと連橋は城田から久人を取り上げた。その勢いたるは、凄まじかった。微かに触れた連橋の爪が城田の腕を引っ掻いたぐらいだった。
なにをそんなに。取って食ったりなんかしねえぞ・・・」
「っせえ。てめえの汚ねえ手で久人に触れるな」
連橋の取り乱し方は尋常じゃなかった。城田は唖然としてしまう。連橋という男は、怒れば、怒るほど冷えていく男だった筈だ。
「汚ねえ手だと?俺はそのガキを助けてやったんじゃねえかよ。その言いぐさはなんだよ」
「俺はてめえを蹴るつもりだったんだ。くそっ。なんでこんなことに。久人、しっかりしろ」
連橋は久人をギュッと抱きしめた。城田は、そんな二人の様子を見ながら肩を竦めつつ立ちあがった。
「・・・ふざけんなよ。やってろ。ったく・・・。冗談じゃねえぜ。なんで俺が、んな言われ方しなきゃなんねえんだよ・・・。たかがガキ一人に、なにそんなにマジに・・・」
と言いかけて、城田はギクリとした。
「・・・?」
頭の中に過った、不吉な想像。喧嘩の時の不利な状況や犯されている時ですら。城田は、連橋がこんなに動揺しているところを見たことはなかった。この連橋を、ここまで動揺させることの出来る子供。単なる近所のガキじゃないだろう。亜沙子と連橋が、力を合わせて守っている子供。このガキはなんだ・・・!?そう思うことで、城田はゾッとした。まさか。まさ、か・・・。
「ちっ」
気配に、城田は土手を振り仰いだ。既に土手の上には、車がズラリと並んでいた。夜目にもハッキリとわかる車体に張られたステッカー。危惧通り。ジレン。そして、グラスハート。包囲されてしまった。今更逃げる訳にはいかないだろう。覚悟を決めて、城田は連橋達に背を向けて、土手をあがっていった。道に出るなり、並んだ車達のヘッドライトが輝き、自分を照らし出した。城田は、目に手をやり、車の方をゆっくりと振り返った。


「これは驚いた。すげえのが引っかかったな。城田だ」
志摩は、ハンドルをパンッと叩いて、口笛を吹きながら、フロントガラス正面を見つめた。
「城田って?小田島の・・・。なんでこんなところにいんだよ」
増山が身を乗り出して、フロントガラスを凝視した。
「俺が知るかよ」
「アイツが城田ってやつなの・・・?」
睦美も起きだしていて、ライトに照らし出されていた城田をジッと見つめていた。城田の噂は色々と聞いている。
「・・・」
流は、バンッと車を降りた。降りて、城田の方に向かって歩いていったが、城田が、スッと手をあげて川の方を指差したので、流はそちらに視線をやった。城田が指で示した方には、連橋の姿があった。流は、城田のすぐ側まで来ていながら、城田を無視して連橋の方へと体を反転した。擦れ違い様、流は強烈な視線に気づいて、城田を振り返った。城田は、流を睨みつけていた。いつもの城田の、余裕のある視線ではなかった。どこかせっぱつまった、なんとも言えない視線だった。流は、城田が自分に向けるその視線の意味がわからなかった。好意的な視線を寄せられることは有り得ないにしても、憎まれているのは当然だと思っているものの、それでも戦いの時にですら、城田がこんな視線を自分に向けたことはなかった。
「なんだよ」
流は思わず城田に向かって、問いかけていた。
「なにが?」
「その視線はなんだよ。睨んでんじゃねえよっ」
「そうか?」
「気づいてねえのかよ」
「無意識だ。わりーな」
そう言って笑う城田は、やっと、いつもの嫌味なくらいに落ち着いている城田だった。流は「ちっ」と舌を鳴らしながら城田を睨んでは、背を向けて連橋の元へと走って行った。


流に僅かに遅れて、志摩が車から降りた。増山も、睦美も。ジレン・グラスハートのやつらは、全て車から降りてきた。
「よお。城田。ひっさしぶりじゃん」
志摩は、ヒラヒラと手を振りながら、城田に近づいていく。
「どーも」
城田は目の縁から落ちる血を拭いながら、言った。
「コンバンハ。お初。俺、グラスハートの増山」
増山も志摩の背に寄りそうようにして、城田に声をかけた。
「アンタが増山サン。先日はどーも。派手にポリ公連れてきてくれて、笑っちまったぜ」
しきりに顔を拭いながら、城田は増山に言葉を返す。
「・・・あはん。噂どーり可愛くねえな、コイツ」
増山が、志摩に向かって苦々しい顔で言った。
「いたぶり甲斐があるんだよ。こーゆーのこそ」
志摩は、フフンと鼻を鳴らした。
「不敵なツラしてるわね。さすがに、あの連橋とやりあうだけあるみたいね」
睦美は、腕を組みながら、じろじろと城田を見ていた。睦美の、遠慮のない視線にむかつきながら、城田は
「威勢のいいねーちゃんだな。アンタこそ、連橋の女やるなんて、いい度胸してんじゃん」
と言い返す。
「なんで知ってるのよ・・・」
睦美は、ビクッと体を退いて城田を見上げた。城田はクスクス笑いながら、
「企業秘密さ。なあ、ところで、やんの?俺、見てのとーり、怪我してるからさ。またにしねえか?」
と、軽く言った。
「そー言われて、そーか。じゃあまたね!なんて言うよーな仲かい。アホぬかせ」
志摩がケッと言い捨てる。増山などは呆れてアハハと笑っていた。
「言ってみただけだよ。言うだけはタダだろ」
城田はそう言って、辺りをグルリと見渡した。志摩はそんな城田を見て、
「増山。城田は策士だからよ。油断すんなよ。コイツはな。圧倒的不利な立場を有利にする術を探すのが得意なんだ。もしくは、作るのがな。なあ、城田」
と、チラリと流し目をくれてよこす。
「そうだっけ?」
かつての戦いのことを言っているのだ、と気づきながら、城田は空とぼけた。
「だいたい、こんなところでおっぱじめるなんて近所迷惑もいーところだぜ」
「ん。だからさ。とっととケリつけよーぜ、城田。今度はお芝居なんかじゃなく、マジにぶっ倒してやっからよ」
志摩はバキバキと指を鳴らした。
「増山。まあ、万が一だけどよ。万が一俺がやられちまったら、あとはてめえに任せるが。それまでは手を出すなよ」
「タイマンかい。んなことしてたら、時間もったいねえから」
増山は、ニヤーッと笑いながら、
「皆でたたんじまおーぜ」
と言った。言った瞬間、バキッと城田の拳が増山に飛んできた。志摩兄妹は、心の準備もなく自分達目掛けて吹っ飛んできた増山の巨体を支えきれずに、道路に同時に倒れた。
「なっ、こ、このヤロウッ」
志摩が、バッと立ちあがった。
「ちんたらしてんな。とっととやんだろーがっ。来やがれよ」
城田は、拳を握って構えて、こちらを睨んでいた。
「よくもやったわね。不意打ちヤロウ!」
睦美も増山の巨体を放り出して、立ちあがった。
「女はひっこんでな。コーフンしてっから、手加減しねえぜ、俺は」
城田は、睦美に向かって叫んだ。
「ガキがっ」
志摩がブワッと、城田目掛けて突っ込んでいく。
「やめて!やめて、お願い」
志摩の拳を一発受けて、城田がよろめいたところに、亜沙子が飛び出してきた。
「志摩さん。お願い。やめて」
亜沙子は、志摩の体に抱きついて、志摩の動きを封じた。
「睦美ちゃんも!お願い、やめて」
「亜沙子ちゃん、離せ」
「お願い、お願い。やめてよ。お願いっ」
亜沙子は必死に叫んだ。
「城田。さっさと行って!早く逃げなさい」
「・・・」
志摩の一撃で、たちまちに唇を切った城田は、道路に血の唾を吐きながら、亜沙子を見た。
「余計なことしてんじゃねえよ」
「余計なこと?これはアンタに借りを返しているのよ。これで、私はもうアンタに借りなんかないわ。二度と私の前に現れるんじゃないわよ。ろくでなしっ」
亜沙子は、片手で志摩を押さえつけ、片手で城田の背を押した。
「早く行ってよ!」
城田は、体を捻り手を伸ばして、亜沙子の長い髪を掴んだ。
「いっ。痛い。離してっ」
亜沙子は志摩から手を離し、城田を振り返った。城田は亜沙子を見下ろして笑った。
「亜沙子ちゃん」
その耳元に囁き、
「ケーキ。土手に置きっぱなしだ。悪いが、置いていく。また今度、俺のために作れよな」
亜沙子は、城田の言葉に目を見開いた。そんな亜沙子を見つめながら、城田は踵を返した。そして、走り出す。
「待て、城田っ」
志摩の怒鳴り声が響いた。
「いいんだ。逃がせ」
そんな志摩の怒鳴り声を追うように、連橋の声が響いた。土手から道路にあがってきた連橋に、志摩達の視線が集中した。
「亜沙子の言う通りだ。ここで城田をやる訳にゃいかねえんだよ。逃がせ」
走り去って行く城田の背を見送りながら、志摩は
「これはどういうこったよ、連。あいつには散々な目にあってるんだろうが。ふぬけたこと言ってんじゃねえ!」と不服な声をあげた。
「うっせえ。てめえには関係ねえんだよ。黙っていやがれ」
志摩の不服を一喝して、連橋は亜沙子を見つめた。
「亜沙子」
「連ちゃん・・・。ごめんね。私、私・・・」
言い澱む亜沙子に、連橋は首を振った。
「おまえは、いつだってなんも悪くねえんだよ・・・」
そう言って連橋は、城田の走り去った方に視線をやっては、うつむいた。
「久人を病院に連れていく。ついてきてくれ」
流の腕に抱かれて気を失ったままの久人を見て、亜沙子は顔を歪めた。
「ひーちゃん・・・!怪我してる・・・の?」
亜沙子の悲痛な声に、連橋は目を伏せた。


緑川は、部屋の外の騒がしさに、女を抱く手を止めていた。階段を駆け上がる騒々しい音。
「ちょっとお。どーしたの・・・。歩」
体の下の女からは、不満の声があがる。
「外。騒がしい。オヤジ帰ってきたのかも」
「ええ?」
ベッドの中の女は、慌てて体に毛布を巻きつけた。
「あ、歩。どーしよう」
「どうしようたってさ。この状況じゃどーしようもねーだろ」
とまったく慌てずに緑川がのんびり言っている間に、ノックもなしにドアが開いた。
「緑川」
入ってきたのは、城田だった。
「し、城田」
今度は緑川が慌てる番だった。
「な、なんだよ。おまえ。なんだってこんな真夜中に」
緑川は、部屋にずかずかと入ってきた城田を見上げては、ギョッとした。
「頼む。調べてくれ。どうしても調べて欲しいことがあんだよ」
一体今がどういう状況であるかを知りながらも、城田は緑川に詰め寄った。
「な、なにを。って、なんだよ、おまえ。一体なにがあったんだ。顔また血だらけだぞ・・・」
「こんなんどーでもいいっ。調べてくれよっ」
「城田、落ち着け。落ち着け、城田」
緑川は起きあがると、城田を宥めるように抱きしめた。
「どうしたんだ、おまえ。俺になにを調べろって言うんだ」
「・・・町田に。町田康司に。息子がいたか、だ」
「町田の息子はおまえだろ」
「違う。俺よりあとに生まれた・・・。たぶん。ずっとあとに。生まれている」
「わかった。わかったから。隣の部屋に行ってろ。俺もすぐ行く」
「すまない。こんな時に・・・。悪かった」
城田は、言うだけ言って落ち着いたのか、謝罪を口にすると、フラリと部屋を出て行った。


目を開けると、部屋には明るい光が差しこんでいた。この光の感じでは、もう昼過ぎぐらいだと思った。自分がいつ寝たのかまったく覚えてなかった。城田は起きあがった。自分の部屋ではないことに気づいて、ふと顔に手をやった。目の側には大きな湿布が貼ってあった。ぼんやりしていると、部屋のドアが開いて緑川が入ってきた。
「起きたか」
「緑川」
「昨日のことは覚えてるか」
チラッと緑川は、城田を見て苦笑していた。
「ああ。迷惑かけたな。ありゃ翔子ちゃんか?」
「まさか。翔子は、オヤジのお気に召さずにこの家出入り禁止さ。それに、アイツはもっと美人だ。まあ、んなことはいいさ。じゃあ、報告するぜ」
城田はうなづいた。緑川は、手にもっていた書類に目をやった。
「町田久人。町田康司・麻紀子の間に生まれた。19××年3月20日生まれ。今、4歳だな。うちの晴海と同じ歳だ。城田・・・」
緑川は、城田を見つめた。
「おまえの異母弟だ」

予感が当たった。城田は目を閉じた。あの夫婦に子供が出来ていたとは知らなかった。
町田久人で、ひーちゃんか。あの小せえのは、俺の異母弟か。知らずにアイスなど恵んじまったぜ・・・。ろくでもねえ夫婦の間に生まれた、俺と半分だけ血の繋がりのある、弟。

城田はこみ上げてくる笑いを押さえられなかった。
「すげえ笑える・・・」

連橋は、町田康司の遺児を引き取って育てていたのだ。アイツは、俺の。
俺の、弟とやらを・・・。必死に育てていやがるのか・・・。

9話に 続く

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