この前アイコの事務所で大量の絢の写真をもらってきてしまったせいだろうか。
この半年、仕事・家庭を行ったり来たりの多忙生活に紛れて意図的に考えないようにしていた絢のことばかりを考えてしまう。
執務室で、ノートパソコンのキーボードを打つ北斗の手が止まる。
あれはいつの頃だった?そうだ。あの時から俺は、絢を見る目を変えたのだった・・・。


海外留学から帰ってきた年で、絢と初めて会ってから、3年が過ぎた頃だった。
呼び出され、兄の私室を訪れた時。泣いている兄を初めて、見た。
いつでも強い、兄。泣いた顔など、見たことがなかった。
誰もが、本城を背負うべくして生まれてきたのだと賞賛を惜しまなかった。
母譲りの美貌。父譲りの頭脳。兄は完璧だった。
誰もが疎い、一度は逃げたいと願った本城という家から、兄は一度たりとも逃げようとしたことはなかった。
そこが兄の場所であり、兄はそこに居ることを、誇りに思っているからだとずっと思っていた。
だが、そうでは、なかった。
聡い兄は、逃げられぬことを知っていたのだ。
兄は罪を背負った。
離れていく恋人を永遠に自分の物にする為に、兄は恋人を死の淵に追いつめた。
かろうじて、恋人は生き残ったが、それが決定打となり、二人は別れた。
兄の激情に、身が竦む思いだった。
【自分の元から離れていくならば、死ね】
大抵のものを金と権力で得ることが出来ることを知っていた兄だからこそ出来たことだった。
兄の私室で聞かされた真実に、俺は打ちのめされた。
「北斗。僕は今度こそ、自分に吐き気がするよ。本当は誰よりも本城が嫌いなのに、僕は誰よりも本城の男だ。金と権力で、峻を亡き者にしようとしてしまった。そして、その峻の愛する人までも」
「兄さん・・・」
「おまえの時に、二度と本城の力を悪用しない、と峻に誓ったのに。誓った峻にさえ、同じことをしてしまった。僕は自分が怖い。一体何度繰り返すのだろうか。これからも僕はずっとこんなふうに生きていってしまうのだろうか。止めてくれると思った唯一の男すら、僕から離れていった。僕には、もう誰もいない」
ベッドに伏せて、南は泣き続けた。
「俺の時?なんのこと、兄さん」
「南様」
俺と一緒についてきた守山が、南を制した。だが、南はキッと守山を睨むと、涙に濡れた顔で俺を見た。
鋭い視線だった。俺は眉をひそめた。
「北斗。おまえが18歳の時。柏崎のご令嬢と駆け落ちをしようとした。僕は、全部知っていた。だって、あの頃から、僕はおまえだけは手放さないと思っていたから。おまえ達は、梅雨のあの日。公園で待ち合わせをした。金を持っておまえが家を出て行ったのも気づいていた。でも気づかないふりをしていた。そうして僕は家にいながら、電話だけでおまえの未来を握り潰したんだ」
「俺の未来を?!」
バレていたとは、気付かなかった。あの駆け落ちの予定を知られていたとは。今の、今まで気づかなかった・・・。
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「おまえと同じように家を抜け出そうとしていた柏崎晶子を足止めた。このまま北斗と駆け落ちすれば、おまえの家を壊してやる、と電話で脅してね。晶子は泣く泣く諦めた。そして、裏切られて傷ついている可哀想なおまえを慰めてあげるように、とも仕組んだ。身も心も優しく癒してくれるならば、男でも女でもどんな方法でも構わないから・・・と。そうやって、俺は、おまえを本城に戻ってくるように仕向けたのさ。絶対におまえを本城の家に戻せ、と。行かせはしないと」
「!?」
兄の言葉に、俺は顔を引き攣らせた。まさか・・・。まさか!!
「・・・晶子が来なかったのは・・・。絢が来たのは・・・。全部兄さんの仕組んだことなのか」
あの日、絢の言った「バイト」とは、俺を慰める、ことだったのか・・・。南は項垂れた。そして、うなづく。
「そうだよ。全部僕の仕組んだことだ。生まれながらにして僕を補佐する役目だった克彦と明智は、僕を置いて本城から逃げた。僕にはおまえしか、いなかったんだよ」
南の瞳から、涙が零れた。
来なかった女と来た男。そういうことだったのか・・・と俺は唇を噛み締めた。
「ごめんね。ごめんよ、北斗・・・。でも、これがおまえの兄なんだ・・。俺の本当の正体なんだ。おまえにしたことを俺は峻の前で悔いて、二度としないと誓ったのに・・・。気付けば、また・・・。俺は人の運命を本城で変えてしまおうとしていたんだ」
人から見れば、恵まれた家に生まれた兄弟に見えるだろう。だが、俺達には、自由がない。
俺より、兄のが、もっとない・・・。本家の血筋に一番最初に生まれたというだけで。
兄の両足には本城という目に見えない鎖が絡まっている。
断ち切りたくても、断ち切れない鎖であることを兄は知っていたのだ。聡い、兄。悲しい、兄。
一度は、なにもかも捨てて、飛び出すことが出来た俺の方が、まだ自由があったのだ・・・と思った。
「傍にいるよ、兄さん。離れない。愛してるよ、兄さん。誰が捨てても、俺は兄さんを捨てない。今度、兄さんが同じことをしようとしたら、俺がぶん殴ってでも止めるよ。だから、安心して」
「北斗・・・」
兄を抱きしめながら、それでも俺の心はどこか渇いていた。
冷静になれば、兄のしたことはやはり許すことは出来ない筈だった。
俺は、未来を兄に潰されたのだ。いや、正確には、本城という家に・・・。
晶子には、なんて可哀想なことをしたんだ、と思った。今までは、自分が被害者だとずっと思っていた。
けれど、真の被害者は晶子だった。
若くして病死したと訊いた。可哀想な女だった。晶子を哀れと思い、兄を憎いとは思った。
でもその時、俺の真の怒りは、【絢】の存在に対して向けられていた。
危なかった。このまま気付かず過ごしていれば、危うく、「愛してる」と言ってしまいそうになっていた。
フラリとベンチにやってきた絢が、セックスに導いたのも。
あれは、全部シナリオ通りの絢の行動だったのかと思うと俺は愕然とした。
考えてみれば、男と寝ることが絢のバイトだった。
はした金で、母の入院費を稼ぐ為に、引き受けたバイトだったのだろう。
いつの頃からだろうか。
誰彼構わずに、絢と接触するやつらに嫉妬するぐらい、絢の存在を愛しく思っていた。
金という繋がりから発生した関係をどうにか払拭しようと日々悶々とし、やっとそれを超えられる日が来るのではないかと思えていた。
なのに今度は、作為的な関係という出来の悪いシナリオが、つきつけられた。
今までの時間が、なにもかも白々しく思えてきた。
そして、その時から、俺の心には、あの日の鬱陶しい雨が降り出した。
体に注ぐ雨は、生温くでも冷たい。
しとしとと、か細く降りながら、でも確実に体を濡らしていったあの日の雨が、俺の心を濡らしていた。
来なかった女。来た男。来た、男。絢。
既にずぶ濡れになっていた俺に、おまえは傘を差し伸べてくれた。
あれが、意味をなさなかった行為のように、おまえと俺のこの何年も、結局はなんの意味ももたないものだったというのか・・・。

なぜ俺は、最初の時にはっきり言わなかったのかと思っていたんだ。
おまえのことが気になる。おまえとの関係を一夜限りの偶然として、終わらせたくなかった。だから、金を貸すと。
なぜ、気まぐれなどと。どうして。あの時、あの言葉さえ言わなければ、俺達はもっと別の関係でいられた。
後悔していた矢先にこれだ。
偶然?偶然なんかじゃ、なかったんだ。絢は、金を受け取っていたんだ。
あの晩、体を重ねたのは、絢が俺に悲しみを忘れさせてくれる為だった、と思っていた。
俺は絢の体を抱くことで晶子を失った悲しみにくれる暇もなく眠れた。癒された。
でも、それは優しい夜ではなく、本城の金が作った夜だったのかと思うと・・・。
絢。俺は、おまえを愛してる、と言ってしまいそうになっていた。でも、もう、言えない。
苦しい・・・。

「社長」
声をかけられ、北斗はハッとした。執務室で、メールを読んでいたのだ。
だが、何時の間にかパソコンの画面を見つめたまま、パソコンではなく、自分がフリーズしていたのだ。
過去から、現在へと覚醒する。
「すまん。ちょっとボーッとしていた」
「いえ。お疲れのようですね。では、手短に報告させていただきます」
秘書の守山は、手にしていた書類をパラリと捲った。
「石塚様は、こちらの出方を心得ておいでです。彼は一切カードを使っておりません。口座の金が動いたのは、おそらく北斗様と別れた夜の一度きりです。ですが、現在の彼の住んでいる場所はトレース出来ました」
北斗はうなづいた。金さえかければ、どんなことでも出来るのだ。それはイヤになるぐらい知っている。
「日本か?」
「はい」
「一人か?」
「いいえ」
「女か?」
「男です」
「・・・」
北斗は目を閉じた。
「壊せ」
咄嗟に滑り出した言葉に、北斗は自分自身で驚いた。
「よろしいのですか・・・?!」
守山の言葉に、北斗はすぐに反応出来なかった。
兄が通ってきた道。今ならば。今ならば。痛いぐらいにわかる。あの時の兄の気持ちが。
こうなることがわかっていて、俺は今、あの時の兄を思い出していたのだ。
金と権力。それは魔物だ。あの聡明な兄ですら、陥った魔の力。取り込まれては、いけない。
「ちきしょうっ!」
北斗は、傍らにあった灰皿を手にして、バシッと床に叩きつけた。
この身が焦げる。嫉妬で狂う。
戸惑いながら、苦しみながら。どんなに作為的ではあっても。体から始まっても。
愛してる、と強く思う。消そうと思っても、消せない。
嘘だと言ってくれ、絢。
あの日。おまえが来たのは。偶然だ、と俺に言ってくれ。今すぐに目の前に現われて、言ってくれ・・・。
そうでないと、俺はどうしても、素直になれない。
あの日。兄から真実を聞いた時から、長い間。訊きたくて、でも訊けなくて。とうとう言えずに、俺達は、遠く離れた。
いや、俺が絢を遠ざけたのだ。アイツが動かざるを得ないように追い詰めて。
「社長」
促す守山をジッと見つめながら、北斗は首を振った。
「すまん。取り消す。今しばらく様子を見ててくれ・・・」
「はい」
静かにうなづき、守山は灰皿の始末をしてから、執務室を出て行った。

追いかけて。愛してるって言って。抱きしめて。そんな簡単なことが、体が竦んで、出来ない。拒絶されることが怖い。
北斗は、乱暴な音を立ててノートパソコンをたたんだ。
だが、どんなに物にあたっても、心の奥底に湧き上がる嫉妬は、収まってくれそうになかった。