北斗のことを考える以外で泣いたのは、ここ十数年。覚えている限りはたった一度だ。
母が死んだ時。
北斗から借りた金で、すぐに母の治療に乗り出したが、事態は絢が考えていたより深刻だった。
母の状態は、のっぴきならぬところまできていたのだった。
息子には、それを知らせまい、と思っていたのか絢が見舞いに行く時の母はいつも元気だった。
唯一顔色を曇らせるのは、息子の生活に言及してくる時だった。
「ご飯はちゃんと食べているの?」
「どんなバイトをしてるの?」
「お願いだから、無理はしないで。母さんは大丈夫よ」
出来る限りの治療をしてもらった。本人が怖がっていた手術まで受けさせた。
けれど、なにもかも、全てが手遅れだったのだ。
あんなに怖がっていた手術までさせてしまって可哀想なことをした、と絢は後から何度も悔いた。
母は、絢が突然に工面した大金のことを案じていた。
何度も安心しろと説明した。北斗の説得もあってか、母はようやく納得してくれた。
最後まで、一人息子である絢の身を心配しながら、逝った。
病院で人目も憚らず泣いていた絢を、北斗はずっと見守ってくれていた。
やがて、涙がつき呆然と母の亡骸の傍に座り込む絢に、北斗は言ったのだった。
「絢。大丈夫だよ。さっきおまえが、席外した時にさ。おふくろさんに、ちゃんと言っておいた。なにも心配しないでくださいって。俺が絢の傍にいて、面倒見るからって。そしたら、おふくろさん、何度もうなづいていたぜ」
その言葉を訊いて、絢は、枯れたと思っていた涙が再び溢れてきたのを感じた。
「こんなに悪かったなんて・・・。俺、知らなかったんだ。おふくろに、なんて言って詫びていいかわかんねえよ」
「詫びる必要はねえよ。一生懸命生きれば、いいだけだ。おまえはあの人から産まれた。生んでくれてありがとうって思えるような人生を生きれば、おふくろさんだって嬉しい筈だ。そう思えるように生きていこうぜ。なあ。俺と一緒に」
「おまえと一緒に?」
「うん」
うなづく北斗に、絢は目を見開いた。
「だって、おまえ、なんか危なっかしいンだもんよ。平気で男のチンポしゃぶっちまうよーなヤツだし。一人にしたら、なにしでかすかわかんねえだろ。バイトのこと。おふくろさんに隠していたんだろうけど、親っつーのはそゆのはなんとなくわかるんだってさ。だから、あんなにおふくろさんはおまえを心配していたんだ。その点、俺みたいな良識者が傍にいりゃおまえの人生も滅茶苦茶にならんですむしな」
北斗は、ニコッと笑った。
「どこが良識モンだよ。警戒心ゼロで俺と寝たくせに」
絢は、涙で濡れた目を瞬きさせながら、北斗をジッと見た。
「ま、まあな」
僅かに顔を赤くしながら、北斗は言い返した。
「・・・止めようぜ、こんな話。おふくろさん、成仏出来ねー」
そう言って北斗は、絢の髪を撫でた。
「いいか。俺と一緒にいれば、幸せになれる。幸せにしてやるから、ついてこいよ」
「プロポーズ?」
「男にする趣味はねえよ」
ケッ、と北斗は肩を竦めて、そして、また絢の髪を撫でた。
「俺も節操ねえよな。少し前まで、この台詞。女に言ってたんだぜ。ま、信じてもらえなかったから、俺は捨てられたんだろうけどなァ」
少し、切なそうな北斗の横顔。その横顔を見ていたら、思わず絢は呟いていた。
「・・・信じるよ」
「ん?」
「俺はおまえのこと、信じる。だから、ついてく。金も返さなきゃなんねえし。仕方ねえだろ」
「仕方ねえってなんだよ、仕方ねえって。ったくよ。てめーは・・・」
グシャグシャと北斗は絢の髪を掌で乱した。絢は、笑った。
「北斗。このまま、おふくろの葬式つきあってくれる?俺ら、身内いねえし。俺一人の見送りじゃ、おふくろもあんまり可哀想だから・・・」
「当たり前だろ。つきあうぜ。なんでも言いつけろよ。なんでもやってやるから」
絢はうなづきながら、母の傍らから立ち上がった。
「さようなら、母さん」
白い布を外し、絢は母の死に顔を見つめてから、その冷たくなった頬に軽くキスをした。
「・・・」
ポトポトと、再び零れた涙を指ですくっていると、北斗が背中から絢を抱きしめた。
絢は、そのぬくもりにハッとして、振り返った。
すると、北斗は腕を伸ばし、絢の肩を抱いた。そのまま、グイッと肩を引っ張り、北斗は歩き出した。
北斗に肩を抱かれるに任せ、絢は病室を出た。
たぶん。一人では、きっと、あそこから出ることは出来なかっただろう・・・。いつまでも、いつまでも。母の傍にたたずんでいたことだろう。

葬式を終え、母が細い煙になり、これで母とは永遠にお別れだ。絢は、小さな箱を腕に抱えた。
「アパートに帰る」
「ん。そうだな。でもさ。それちゃんと安置したら、俺のところへ来いよ。一人じゃ、今日は淋しいだろ」
「・・・うん」
絢は素直にコクッとうなづくと、北斗と待ち合わせをしてアパートに帰った。
遺骨を仏壇に置き、買ってきた花を添えた。
その前で手を合わせ、休む暇もなく絢は北斗との待ち合わせの場所に向かって走った。
「どうしたんだ、そんなに息切らして。まだ全然遅刻じゃねえぞ」
驚いたように北斗は言った。だがそれには答えずに、絢は息を整えた。
待ち合わせの場所に北斗はちゃんと居てくれたのだ。
絢は、なぜだか、北斗は待ち合わせの場所に現われない気がしていたのだ。北斗の方が誘ってきたにも関わらず、だ。
母が死んで慌しく過ぎた葬儀までの間。確かに北斗は一緒に居てくれたのに、全てを終えてしまった今、北斗という男が幻のような存在に思えていたのだ。だから、北斗の姿を見て、心から絢は安堵した。
「大丈夫か?」
「ああ」
「なら行こうぜ。俺の家」
絢は、北斗のマンションに案内された。
初めて訪ねる北斗の家は、立派なマンションだった。
やっぱり金持ちなんだな・・・程度にしか、その時の絢は考えなかった。
通された部屋は、広くて綺麗だった。
だが綺麗なのは当たり前だ。ほとんど物がない。そこには、およそ生活臭というものが存在してなかった。
自分の部屋と同じだ、と絢はぼんやりと思った。
「色々サンキューな」
落ち着き、やっとお礼の言葉が言えた。
絢はソファに腰かけながら、すぐ傍にたたずむ北斗を見上げた。北斗は、タバコに火を点けていた。
絢も手を伸ばし、タバコを分けてもらった。俺は大概いいかげんな性格してるけど、コイツも相当だよな・・・と絢は思った。
見かけは育ちのいいお坊ちゃまみてーな面してるのに、平気で見知らぬ男とセックスするし、タバコも飲酒も当然とばかりだ。
一体どういうヤツなんだろう・・・と絢は北斗に今更ながらに興味を持った。
「そういや。初めて会った時。俺も、おまえからタバコもらったっけ」
思い出したのか、北斗が苦笑した。
「そうだったな」
「おまえとはなんか昔からのダチみたいな感じ。なんだろうな。不思議だな」
北斗は、そう言いながら、絢を見下ろしている。
「お互い、あんまり幸せじゃなかったからだろ」
「へ?」
キョトンとする北斗に、絢は真面目な顔で言った。
「お互い不幸だから、なんとなく傍にいられたんだ。自分が不幸な時に幸せなやつの傍にいたら、つれーじゃん」
「なに、それ。んじゃ、なにか。俺達は淋しい者同士。慰めあってるってヤツなのか」
「それしかねえだろ」
「身も蓋もねえなぁ。ま、でもそうだな。深い理由なんかある筈もねえしな」
北斗は、タバコを揉み消した。
「おまえのおふくろさんに怒られるな。大事な一人息子になにするんだってさ。実は俺が一番悪者かもしんねーな。でもさ。なんか、今日はそんな気分なんだ。つきあってくれるか?」
北斗の指が、絢の顎を持ち上げた。
「つきあってくれるか、だって?当たり前だろ。これで、幾らおまえに返せる?」
絢は、北斗をまっすぐに見つめながら、言った。
「俺を最高に気持ちよくしてくれたならば、高く買ってやる」
クスクスと北斗は笑う。笑いながら、北斗の唇が絢の唇にゆっくりと重なった。
【熱い・・・】
北斗の唇の熱さに、絢は一瞬怯んだ。そのまま、少し乱暴なぐらいに、ソファに押し倒された。
「イヤならば、イヤって言えよ。無理させるつもりは、ねえんだ」
「イヤじゃねえよ。好きだよ」
「好き?」
「ああ。好き。セックス」
「・・・ふーん・・・」
またキスされ、そして、手馴れた北斗は、絢の服をいとも容易く取り去っていく。
自分の真上にある北斗の、歳の割には大人びた整った顔を、絢はジッと見つめていた。
「なんで、そんなにジロジロ見るんだよ。照れるだろ」
「よく見ると、おまえって綺麗な顔してるな」
「よく見ないでも綺麗だろ。って。おまえだって・・・。口開かなきゃ、綺麗だぜ。ま、今日は盛大に口開いてもらうけどよ。へへっ」
「エロオヤジみてーな台詞」
「うっせ」
母を失った夜。絢は、夢すら見ることもなく、北斗とのセックスに夢中になり、疲労してあっさりと眠った。
でも、絢は知っていた。
眠りに落ちる寸前。北斗は絢の髪を何度も何度も撫でながら、「ゆっくり眠れよ」と呟き続けていたことを。
悲しみに泣かないように・・・と、北斗は傍にいてくれたのだ。
別の意味で泣かされたけどよ、と絢は思ったが、北斗の気づかいに感謝した。
あのまま母の遺骨の傍で一人でいたらきっと泣き続けていただろう。
北斗と一緒でも、きっと涙は零れ続けていただろう。
北斗が、無理やりその気になったとは思えないがそれでも欲情よりも心配のが勝っていたことは口に出されなくてもわかった。


そして今日。二度目の涙が絢の瞳から零れ落ちていた。
アリーが死んだのだ。突然だった。事故死だった。
海辺の道を歩いていて、スピード違反の車に撥ねられた。
絢は、アリーの亡骸を庭に埋めそれからずっと海に居た。
心配した隆文が何度も様子を見に来たが、絢は隆文の存在を拒んだ。
泣く時は一人。北斗が傍にいないならば、一人。涙は他人には絶対に見せない。
アリーは、北斗が拾ってきた犬だった。
海外留学寸前にどこからか拾ってきて、勝手に絢に押し付けて、渡米してしまった。
絢も忙しかったから、あまり相手にはしてやれなかったが、この犬はなぜかとてもよく絢になついた。
海外留学という長い時間北斗が傍から離れる代わりに、絢の元にやってきた犬だった。
可愛かった。あんまり傍にいられなかったから、これからはずっと・・・と思っていた矢先だった。

辛いよ。哀しいよ。苦しいよ。北斗。絢は、目の前の真っ暗な海に向かって、呟いた。
「おまえがいなきゃ、俺は悲しくて眠れねえよ」
母の死んだ夜。傍にいてくれたように。傍にいてほしいよ。抱いて欲しいよ。
でなきゃ、アリーを失ったこの悲しみに押し潰されてしまう。絢は、立てた膝に顔を埋めた。
アリーを失って、北斗を思っていたら、悲しみが二重に絢を襲ってきて、嗚咽をもらした。

望む生活を手に入れた。ありあまるほどの自由な時間。アリーと一緒。目の前は海という家。星の空。
でも。おまえが、いない。北斗。おまえだけが、いない・・・。
潮時と言ったのは北斗だ。
北斗は、もう自分をいらないのだ、とそう思った。好きにしろ、と。いつまで飼われているつもりか、と。
すべて、自分へ向けられた、北斗の拒絶の言葉だった。
だから、選んだ。
この生活への選択が、間違いだったとは思わないが最良とも思えず、絢は暗い海を目の前に、子供のように泣き続けた。