身重の妻に頼まれたものがあるので、北斗は移動の途中にとある店に立ち寄った。
目的の物を買うと、ふと、この付近に自分の経営する会社があることを思い出した。
最近は、すっかり足も遠のいた場所だったが、なんとなく呼ばれているような気もして北斗は顔を出してみようと思った。
運転手に声をかけてから、北斗は会社に向かった。
本城グループが所有するビルの一番上のフロアには絢の所属していたモデル事務所があるのだ。
ドアを開けると、相変わらずそこは、バタバタと人が走り回っている。北斗に気づいた社員が、ハッとした。
「会長」
「ああ、いい。アポなしだ。それより、アイコは?」
「はい。執務室にいらっしゃいます」
「ありがとう」
知りぬいた事務所だ。北斗は、アイコ専用の執務室に向かって歩いた。
ドアを開けようとすると、中からバタンバタンと派手な音がしていた。
「なんの音だ?」
訝しく思いながら、北斗はノブに手をかけてドアを開けた。
「あら。北斗じゃない。どうしたの?今日約束あったかしら」
アイコは、腕捲りをしては、ミニスカートから伸びる細い足をガバッと開いて、壁に張り付いていた。
「なにやってんだ、おまえ」
「見りゃわかるでしょ。掃除よ、掃除」
「掃除って・・・。年末じゃあるまいし・・・」
疑問を口にしかけて、北斗はハッとした。アイコの足元には、幾枚もの写真が落ちていた。
そういえば。アイコのこの執務室の壁には絢の写真がいっぱい貼られていたことを思い出した。
まるでファンクラブ会長の部屋だな・・・と訪ねる度に思っていたものだった。
その絢の写真で埋めつくされていた壁が、すっかり綺麗になっていた。
「いい加減ふっきらなきゃ!と思ってさ。考えてみれば、いつも居る部屋が絢だらけなんだもの。モヤモヤする筈よね〜とか思って」
ポイポイとアイコは、ダンボールに絢の写真を突っ込んでいた。
「それ、どうするんだ」
「ゴミに出すに決まってるじゃない」
「ゴミかよ・・・。潔いことだ」
北斗は苦笑した。ふっ、とダンボールを覗きこむ。そこには、北斗の知らない絢がいる。
短い髪、長い髪。赤い髪、黄色い髪。上半身だけの写真や全身の写真。怒っている顔から、泣いている顔まで。
想像通りだが、あまり笑っている写真はない。
需要がなかったのだろう。笑うと可愛いんだけどな、アイツ・・・と北斗は思わず微笑んだ。
ダンボールを覗きこんで、微笑んでいる北斗を振り返って、アイコはニヤニヤとした。
「なんなら全部持っていけば?オナる時に必要ならば、全裸のもあるわよ」
アイコの言葉に、北斗は呆れた。
「そんなのもあるのかよ」
アイコはうなづいた。
「絢は、なんでも有りだったもの。脱ぐこともちっとも嫌がらなかった。ま、たぶんにそういう意味でのプライドとかがなかったんでしょうけどね。興味がなかったというか」
言いながら、アイコは壁から最後の一枚の写真をベリッと剥がした。
ダンボールに放り込まれるだろうと思ったその写真は、だがアイコの手に収まったままだ。
「それは捨てないのか?」
「これは捨てないわ。捨てられないの」
「なんだ?見せてみろよ。おまえと絢のラブラブツーショットか?」
「ラブラブなのもツーショットなのも当たりだけど、相手は私じゃないわ」
フフッと笑うと、アイコはその写真を北斗に差し出した。
北斗は、その一枚の古びた写真を受け取った。そして、ゆっくりと目を見開く。
「絢がそこまで笑っている写真って、本当に珍しいのよ」
これはいつの写真だろうか・・・と北斗は思った。場所はこの事務所。
ソファに腰掛けた絢に、自分が後ろから抱き付いている。確かに絢が笑っている。俺も笑っている。
手にした写真が、微かに震えるのを北斗は感じた。自分の指が、震えている。
「これは田宮が撮った写真よ。絢サンが笑ってる。スクープだって騒いでいたのを覚えてるもの」
「いつ頃だろうか」
「日付見てみなさいよ」
写真に記された日付けを見て、まだ、何も知らなかった頃だな・・・と北斗はぼんやりと思った。
「仕事をしていた絢は、私の網膜に焼きついている。だから、他の写真はいらないの。でも、この絢は、私の知らない絢。長いつきあいだったけど、こーゆー笑い方をする絢を悔しいことに、私は知らないのよ」
スッと、北斗の指からアイコは写真を奪った。
「それは俺に渡すべき写真じゃないのか?」
正直に言えば、北斗は、その写真が欲しかった。
「なに言ってんのよ。アンタはいつだって、絢のこの顔を手に入れることが出来るじゃないの」
アイコはベエッと舌を出した。
「・・・今はムリだろう」
「どうかしらね?」
クスッと、アイコは笑って、写真を引き出しにそそくさとしまいこんだ。
「絢の居場所は知ってるんでしょ」
「知らないと言っているだろう。勿論、調べようと思えば簡単だが、調べない」
フンッ、とアイコは鼻を鳴らした。
「強情ね、アンタも。絢が消えて、もう半年経つのよ」
「半年ぐらいなんだ。俺は絢と正月に会って、年末まで会わなかった年もあるぞ」
「よく言うわ。フライト時間合わせて、成田でイチャイチャしてたの、知ってるのよ。まあ、いいわ。だったら、いつまで我慢出来るか試してみるのも一興ね。ところで、なんか用?」
アイコは、ドサッと椅子に腰掛けながら、パタッとノートパソコンを開いた。
「直々にお出ましなんて。穏やかじゃないわよね。仕事はきちんとやってるつもりだけど」
「いや。妻に頼まれていたものを買ったついでに・・・。ここの近くだったから、寄ってみただけ」
「この半年、寄り付きもしなかったのにね。随分偶然ね」
画面を見つめながら、アイコは軽やかにキーを叩いている。
「偶然?!」
「ダンボールに山ほどある絢の写真。北斗。貴方が処分して頂戴。煮るなり焼くなり捨てるなりお好きにどうぞ」
横顔のままでアイコが言った。
「俺が?」
「最後まで責任を取るべきでしょ」
言われて、北斗はうなづいた。そういうことか・・・と北斗は思った。
呼ばれた気がした。誰かに呼ばれた気がして、ここに立ち寄った。
俺を呼んでいたのは、絢だ。過去の絢が、俺をここへ呼び寄せた。
「偶然なんでしょうけど。やっぱり、アンタと絢ってなんかあるわよね」
同じことを考えていたのか、アイコがそう言った。
「呼んだのは過去の絢だ」
「現在の絢はどうなのかしらね?あのボケ男。きっともう私達のことなんて忘れてるかも」
「かもしれんな」
北斗はダンボールを抱え上げた。
「あら、本気?」
アイコはフフフ、と唇の端をつりあげて、北斗を見上げた。
「全裸のアイツの写真もあるんだろ。今夜はそれで、イクよ」
「奥様に見つからないようにネ」
北斗の肘にぶら下がったブランド物の紙袋にチラリと目をやりながら、アイコは澄ました顔で言った。


会社を後にして、北斗は待ち受けていた車に、乗り込んだ。
運転手が、「お荷物お持ちします」と言ったが、北斗は首を横に振った。
「いいんだ。平気だよ」
膝の上に抱えたダンボール。結構な大きさの箱だというのに、写真は溢れんばかりの量だった。
ガタンと車が揺れた時、箱から写真が一枚ヒラリと飛び出した。
なんの写真だろう、と北斗は目を細めながらその写真を手にした。
黒ずくめの絢が、両手を虚空に向かって伸ばしている。
今まさに、目の前の空気を抱きしめようとしているようなポーズだった。
だが、絢の瞳は、正面を見ている。長い睫に縁取られた切れ長の、黒い瞳。
俺の知らない絢が、この箱には詰まっている。そして、今この瞬間にも。俺の知らない絢が、どこかでなにかを見つめている。
「・・・っ」
たまらなく、たまらなく・・・。北斗は、絢に会いたかった。
今、この瞬間に。あの絢が、自分以外のなにかを見つめていることが、悔しかった。
北斗は、絢の周りに在るもの全てに、嫉妬を覚えた。
「兵頭」
北斗は運転手の名を呼んだ。
「はい」
「社に帰ったら・・・。守山に伝えてくれないか?」
「はい」
「石塚絢の行方を捜せ、と。どんな手段を使ってもいい。だが、探すだけでいい。とりあえずは、な」
「畏まりました。必ず伝えます」
うなづいて、北斗は写真を箱に戻した。そして、その箱をギュッと腕に抱えた。
捨てることなど、自分には到底出来そうにない・・・と北斗は思った。