潮時。その言葉にカッときて、ボストンバッグ一つ持って、全てを捨ててきてしまった。
俺って結構短気だったんだ、と絢は他人事のように自分を分析してみた。
まあ、仕方ないさ。その言葉ひとつでカタがつく。
いつか、海の近くに住みたいと思っていた。
飛び出した都会から偶然乗った電車に導かれるまま、着いたのがこの地。
念願通り、海の近くに住める土地。「ここに住もう」と思った。
都会から離れて、ましてやあの本城一族など関わってもいないように寂れた地。
時間に置いてけぼりをくらったかのようなこの土地を、絢は一目で気に入った。
そのまま駅前の不動産屋に入り、海の近くの一軒家をすぐさま購入した。
窓の目の前は、海。日は落ち、眼前には真っ黒な海が広がっている。
絢は、しばらくガラスに持たれて、その様子を眺めていたが、のろのろと床に体を横たえた。
天井がガラスで出来ているせいで、都会と違って澄んだ空気を持つこの地の星空が、あますことなく絢の瞳に飛び込んできた。
ふっ、と目を閉じると、何故か懐かしい場面が思い浮かんだ。


そうだ。北斗は泣くのを我慢していた。プライド故か、泣けずにいた。あの日。
北斗が女と駆け落ちを約束して、ふられた日。北斗と初めて会った日だ。
いつまでも、いつまでも、涙を隠すものだから、哀れになった。それならば、と思った。
それならばいっそ。悲しみを忘れさせてやろうと。だから、誘った。北斗の意識を、悲しみから逸らせれば良いと思っていた。
そこにはその感情しかなく、欲情とか愛とか、そんなもんは一切なかった。
俺は、悲しい人間を見るのが好きじゃない。母親がいつも悲しそうだったからだ。
そこから、始まったのに・・・。
俺はいつから、北斗を愛してしまっていたのだろう。借金返済の為に北斗と寝ているうちにか?
いつのまに、いつのまに。俺の心はこんなに北斗でいっぱいになってしまったのだろうか。

本城北斗。本城グループ総帥本城南の実弟。
いくつもの会社を経営し、たくさんの愛人を持つ。自信家で明るく優しい男。
ビジネスでは恐ろしいほど冷たいのに、ビジネスから一歩引くと驚くほど優しい。
でも、骨の髄まで本城の男。

北斗の黒いリュックに入った金を借りた。それはすべて北斗に預け、その金はすべて母の病気療養に使ってもらった。
実際は、あのリュックの中身以上に金が使われたに違いない。俺は総額を知らない。
母は本城グループの病院に移され、出来る限りの治療を受けた。苦しまずに逝けただろう。
なにより。一人息子が怪しげなバイトで金を作ってきていることを母は知っていた。
俺は大学にこそ復学しなかったが、そのバイトをやめてまともに働いていることを喜んでいた。
実際は北斗と寝ていたが・・・。
北斗は元々外面がよいので騙されたのか、それとも俺が感じたように、母も北斗の育ちの良さを感じ取っていたのか、全面的に北斗を信頼していた。
「絢の友達になってくれてありがとうね」と最期まで何度も言っていた。
友達っていうのか、あの関係?と思いながら、それでも母の言葉をもちろん否定などしない。
母を安心させて見送ってやれたことを、俺は心から北斗に感謝していた。
そして、母が亡くなった後。北斗からの請求書を待っていたが、北斗はとうとう紙切れ一枚も提示しなかった。
「幾らかかったんだよ」
「ああ。今度な。まあ、いいじゃん。おまえは、地道に俺に借金返済してるんだから」
「相手がおまだけで、身売りには変わらねえな」
「そうか。なら、他の男と寝るか?一年前みたく他の男と寝て、金を作って俺に返すか?」
北斗にそう言われて、出会った頃の自分を思い出した。今更、あんな無謀なことは出来ない。第一、他の男になんて抱かれたくない。
「面倒くせえから、おまえでいいよ。精一杯サービスするから、高く買ってくれよ」
「そういう言い方すると、ほんと身売りだな。ま、良くいえば、ビジネスってとこか」
クククと北斗は笑った。あの頃は、互いにまだ余裕があったと思う。
セックスすることに、明確な理由があった。俺にも北斗にも。


思いだすことがある。北斗が海外留学から帰ってきてから、しばらくした頃だった。
モデル事務所の事務員の田宮と事務所のソファで雑誌を読んでいた時だった。
俺は、田宮が気にいっていて、ヤツもよく懐いてくれた。だから、特に意識もせずに体を密着させていた。
厳密にいえば、俺は雑誌を読む田宮に抱きつく形で後ろから雑誌を覗き込み、読んでいた。
バンッという乱暴な音と共に、ノックもなしにドアが開いた。
事務所に突然現れた北斗は、俺達を見て、びっくりしたようだった。
「勤務中だぞ。なにしてる」
北斗が、いきなり田宮から雑誌を取り上げて、ゴミ箱に捨ててしまった。
確かに、そうだった。
だが。いつもしていることだ。今日は暇だった。鳴っている電話を無視して読みふけっていた訳じゃない。
「申し訳ありません」
田宮が慌てて立ち上がり、一礼して、別室に去っていく。可哀想に、と思いつつ俺は北斗を見た。
留学から帰ってきても北斗は忙しかった。アイコから北斗が来るとは聞いていないから、いきなりの来訪だった。
「久しぶり、北斗」
言うと、北斗は、俺を睨みつけた。
「おまえ。俺が海外に行っている間に、田宮と寝てねえだろうな」
「?!」
俺にとって、ありえないセリフだった。それも、いきなり・・・。
「契約違反するなよ。おまえは、俺のもんだと言っておいた筈だぜ」
「寝てねえよ。勝手に妄想すんな」
「俺の前でイチャイチャすんな。むかつく」
「いきなりてめえが来たんだろ。第一イチャイチャしてねえし」
「うるせえ」
「小娘みてえに嫉妬してんじゃねえよ」
「やかましい。忙しい合間をぬって、やっとおまえに会いに来たのに!」
その言葉を聞いて俺は、驚きと同時に、嬉しかった。
契約違反と言いながら、北斗がしているのは、単なる嫉妬だ。北斗も否定しなかった。
多分、この時からだ。
どんな理由で北斗に魅かれたのか。愛したのか。具体的な理由は思い浮かばない。
ただ、北斗だったから・・・。それにつきる。
でも、心が北斗でいっぱいになったのを自覚したのは、多分この時から。
北斗の言葉に、愛を錯覚したんだと思う。
北斗は、素直な男だ。よく笑ってよく怒る。
泣いたところは見たことがないが、それ以外の感情表現がたくさんで羨ましいほどだった。
そんな北斗だから、嫉妬をしたら、嫉妬をした、と簡単に言葉や態度に出す。
嫉妬ってサ。愛情があるから、するもんじゃねえの?俺は単純だからそう思っていたけど・・・。
でも言いだせずにいた。俺と北斗の関係は微妙だ。
出会いは偶然、つきあいが続いていった理由は、気まぐれ。そのどちらもまともな経緯ではない。
せめて、知り合いだったとか、友人だった、とかであれば言い訳も出来たかもしれない。
恋など、していい相手なのか?俺達は、決して平等ではない。
だから、怖くて言いだせなかった。俺はずるくて。北斗からの、言葉を待っていた。
北斗が示す方向を必死に走りながら、北斗からの言葉をずっと待っていた。
いつか、いつか。その素直な唇から、滑り出すのを。「愛してる」という言葉を。
『誤解するな。体から始まった関係に、本気になれると思ってるのか?』
いつしか待つことに疲れた俺が、北斗を誘導した時、北斗はこう言った。
それじゃあ、今まであからさまに振りかざした、あの嫉妬心は、なんだったというのか!
聞き返すことは、出来なかった。これ以上、傷つきたく、なかった。
今でも、北斗のことは、よくわからない。あんな冷たい言葉を言った後でも、結婚した後でも、北斗は俺を求めた。
辛かった。セックスは、北斗にとってやはりビジネスでしかなかったのか。
寝ることが、借金返済になる、といったのは、北斗だ。
だから、従うしかない。幾らかわからない借金。幾ら返済したことになるのかわからないセックス。
すべては、北斗次第だった。俺のすべては、北斗だった。
その北斗が、「潮時」とあの部屋で言った。俺には契約終了としか聞こえなかった。
やっと、終わった・・・とあの時。あの部屋で、タヌキ寝入りをしながら、思ったのだ。


絢は、頬に違和感を感じて、ビクッと体を震わせた。
「アリー。ああ、平気だよ。なんでもないんだ」
頬を流れる涙を、アリーの舌がソッと舐めあげたのだ。
「おいで。平気だよ、俺は」
寝転がりながら、絢はアリーを胸に抱いた。瞳に映る、天上の星の海を眺めながら、絢は呟いた。
「人工の星より、本物の星のが綺麗だぞ。名前に星を持ってるくせに、バカなヤツ・・・」
北斗は、今夜もあの部屋にいるのだろうか。
電気を消すと、目の前に広がる夜景が部屋に飛び込んできて、室内に光の海を作り出す、あの部屋に。