「頭にきたわ、北斗。絢のヤツ、まじに雲隠れよ。今すぐに絢を出して!」
北斗の執務室に入ってくるなり、アイコはそう言いながら、ヴィトンのミニショルダーをポンッと、机に投げた。
「もう放っておけ。好きにさせてやれよ。俺は知らない」
目をおとしていた書類の上に、ドサッと落ちてきたバックを、北斗はポンと手で横に避けた。
「聞いてるの、北斗!」
キイキイ声に、北斗はうんざりだった。今までは電話で済ませていたが、とうとう本人が乗り込んできた。
「知らないってば」
「なに言ってんのよ。あんたら、グルでしょ」
アイコは、忌々しげに北斗を睨んだ。アイコ。本山アイコというこの女は、北斗の子会社でモデル事務所の社長だ。
社長でありながら、石塚絢のマネージャーをやっていた。デビュー時から、ずっとだ。
北斗は、絢と会ってからしばらくして、海外留学をしなくてはいけなくなった。
その間の絢が心配だった。コンビニでバイトして細々と日々を暮らしていた絢だが、それも北斗が見張っていたからだ。
北斗が傍にいなくなれば、絢の生活がどう変化するかわからない。
単純に言えば、北斗は自分の居ない間の絢に、好き勝手をさせたくなかった。
だから、絢を自分が監視出来る状況に置きたかった。
考えたのが、絢をモデルにしてしまうことだった。子会社に小さなモデル事務所があった。
そこに絢を放り込みアイコを監視につけた。本城の金を使い、絢を盛大に売り出せと命令した。
金を使い売り出し、鳴かず飛ばずであればそれでもヨシとした。だが。絢は、見事に飛んだ。
北斗が日本を留守にしている間、有名なモデルとなっていた。
これほどまでとは・・・とはさすがに北斗も考えてはいなかったぐらい売れたのだった。

「ブラインが嘆き悲しんで大変よ。あのボケチン。ブラインにも一言も残さずドロンよ。仕事も軒並みキャンセルで大変だわ。さあ、出して。絢を出してよ。今すぐ、私の目の前に連れてきて」
「慰謝料はきちんと会社が、先方どもに払った。おまえには迷惑かけてないだろうが。それに、俺は本当に知らないんだ。絢がどこに行ったのか、マジで知らない」
北斗は、机の上に書類を放り投げた。
マンションで別れて以来、絢とは会っていない。連絡も取っていなかった。
「嘘だね。十年以上のつきあいの癖して。そう簡単に切れるよーな関係かい、あんたら。北斗。マジに絢出さないと、奥様にチクるわよ。あんたらの関係。あの、ご清潔で純真そーな奥様にね」
アイコは、ヴィトンのシガーレットケースから、細身のタバコを一本引き抜いた。
カチッとライターの音が小さく響き、すぐに部屋に紫煙が流れた。そういうのがいちいち様になる女だった。
「やめろ。彼女は今、妊娠中だ。そんな話聞かせたら、流れちまうだろ」
アイコのきつく細い瞳が一瞬、見開いた。
「・・・孕ませたのね。種あったんだ、北斗」
フフフと、アイコの唇が楽しそうに動く。
「ホントにやめてくれ。一体、どう説明する気か。俺と絢のこと。俺だってわからねーのに・・・」
「フン。いつだってそうね。絢もそう。関係を説明しようとすると、途端にわからない、よ。なにがわからない、よ。簡単じゃない。だいたい絢の雲隠れだって、今回の奥様の妊娠のせいなんでしょ」
アイコは、乱暴にソファに腰掛けた。
「まさか。どう関係があるってんだ」
「あら。関係ないっていうの?ぬけぬけと。どっちが言いだしたか知らないけど、清算しようとしたんでしょ。ダラダラした関係。最近でいえば、不倫関係。子供が産まれるんじゃね」
キッ、と回転椅子の軋む音がした。北斗が体をずらしたからだった。
椅子ごと体をずらし、北斗はソファを見た。
正確には、ソファに座るアイコを。北斗の長い脚は組まれたままだった。
「それで?」
北斗が、肘掛に肘をつきながら、その切れ長の瞳で、アイコを見据えていた。
「キスもセックスも互いに嫉妬もするのに、アンタらは恋人にはならなかった。そして、アンタは純情可憐な名門のお嬢様と盛大に結婚。絢も、見て見ぬふり。でも結婚後も、アンタらの関係は変わらなかった。会えばセックスして。見事にドライな関係。ねえ、どう?」
「さすがに、12も年下の新妻を可愛がる趣味はないもんでな」
「彼女が成人した途端に孕ませるなんて、嫌味すぎるのよ、アンタは」
アイコは、ギュッと灰皿にタバコを押し付けると、立ち上がった。
「北斗。アンタは私の大事な大学の頃からの親友だわ。好きよ。男として見るならば、絢よりもずっと魅力的。明るくて、楽しくて、ハンサムで金持ち。若い奥様がウットリしちゃうのわかるわ。酒飲めば普通にバカもやる。そゆとこ、好き。でもね。アンタは、所詮レールの上をそつなく走ってるだけなのよ。イヤダと言いながら、誰よりも完璧に走ってるのよ。お兄様がほくそ笑んでいるのがよくわかるわ。道を外れたいと思ったことはないの?外れようとしたことはないの?」
アイコの言葉に、北斗は、ふっと足を組替えたが、なにも言い返さなかった。
チッ、とアイコは舌打ちして、北斗の目の前の机をバンッ、と叩いた。
アイコの爪の先のどぎつい赤い色が、北斗の瞳に飛び込んできた。
「絢を返して。私にとって、絢は憧れなのよ。人間として、アイツが好きなの。絢も、アンタが用意したレールの上を走ってるだけだったけど、絢とアンタじゃ土台が違う。英才教育を受けたアンタと違って絢は努力したのよ。決して、それを口に出したり態度にはしたりしなかったけど。チャンスを与えてくれたのは北斗よ。でも、あそこまで辿りつけたのは絢の資質と努力よ。彼は、まだモデルを止めるべきじゃない。お願いだから、返して。私に絢を返してよっ!」
バンバンッ、とアイコは机を叩いた。
「うるさい」
北斗は、一喝した。ビクッとアイコの指が引っ込んだ。
「アイツはおまえのモノじゃないッ。14年前に俺が拾った、俺のモノだっ!」
そう言ってから、北斗は自分で自分の言葉に驚いていた。今、俺はなんて言ったんだ??
アイコの言葉を待ったが、アイコはなにも言い返さなかった。
「アイコ・・・。おまえ・・・」
アイコの瞳から、スーッと一筋の涙が零れ落ちたのを見て、北斗はギョッとした。
大学の頃からの長いつきあいになるが、この女が泣いたところは一度も見たことがなかった。
頭が切れて、小さな情になど流されない自立した強い女。だから、ビジネスパートナーとして、選んだ。
その結果は、多いに満足の得られるものだった。アイコは、あの絢を、完璧にプロとして育てあげた。
「怒鳴ってすまない。おまえの言う通り。俺と絢は切れるべきだったんだ。もっとずっと前から。潮時、と絢は姿を消した。俺は探すつもりはない。俺の力をあてにしないでくれ。絢を探すならば、自力でやれ。ただし、仕事に支障をきたさない程度にな」
「バカじゃないの。仕事なんて出来ないわ、こんな状況じゃ・・・」
「商品に恋なんかしない。それがおまえのモットーだろうが。恋したって、無駄だ。絢はおまえを愛さない。俺を知るおまえを愛さない。不毛なことしてる暇があったら、第二の絢を育てろ。おまえだったら、出来る」
「絢を発掘したのは、アンタよ。第二の絢を育てたけりゃ、私の目の前に連れてきなさいよ!だたし、今度は、アンタのお手つきじゃないヤツにしてよね。もう懲り懲りよっ」
アイコは涙に濡れた目で北斗を睨んでは、机の上に置いたショルダーバックを持ち上げると、バンッと騒々しく部屋を出て行った。
『道を外れたいと思ったことはないの?』
毎日思ってたさ。
『外れようとしたことはないの?』
あるさ。たった一度。惚れた女と、駆け落ち。
でも、女は来なかった。ずっと、ずっと、待っていたのに・・・。
北斗は、溜め息をついて、椅子に倒れこんだ。
タイミングよく、秘書の守山が「社長。お時間よろしいでしょうか?」と部屋に入ってきた。