「アリー」
呼ぶと、ミニチュアダックスフンドのアリーが北斗の足元に擦り寄ってきた。
「やっぱりここにいやがったのか」
ヒョイッ、とアリーを抱き上げると、北斗はドアを開けた。
「絢は?」
ワンワン、とアリーが、とある一室の前で吠える。北斗はドアを開ける。
家具もなんにも置かれていない明らかに使われていないであろう部屋のフローリングの床には、長々としなやかな肢体が寝そべっていた。
「ブラインが探していたぞ。おまえ、また仕事サボッたな」
北斗は、しなやかな肢体に声をかけるものの、応答はない。
「絢」
爪先で、北斗は、寝そべる男・絢の腰を突付いた。これまた応答がない。
「死んでるんじゃねーだろーな」
覗きこむと、寝顔。だけど、息をしていることがわかる。
「ったくよ。なに考えてやがる、コイツ」
ハア、と息をつくと、北斗はアリーを抱えたまま、フローリングの床に座り込んだ。
腕の中のアリーはおとなしく、絢の寝顔を眺めている。
「潮時だよな。もう、そろそろ・・・」
北斗は呟いて目を閉じた。
あの梅雨の雨の日に出会って以来、俺達は14年。14年の時を刻んだ。
色々あったが、結局はなにもなかった。そうとしか言えない、と北斗は思っていた。


無駄に広いこの部屋には、大きな窓があって、そこから川ベリの町並みが見える。
フォーターフロントの見事な景観だった。
下町と未来が混在するかのような錯覚を起こすこのマンションを北斗はとても気に入っていた。
妻ですら、たぶん、このマンションの存在を知らない。鍵を持っているのは、絢だけだ。
夜、仕事に疲れてくたくたの体で、この部屋に逃げ込む。明かりを落とせば、部屋には夜景という光の渦が押し寄せてくる。
キラキラと溢れる無数の光が、部屋を宇宙に、いや、プラネタリウムにしてしまうかのようだった。
そんな中、絢と同じように体を無防備にフローリングに横たえた。
光が、体を浄化してくれる・・・。そんな神聖な気分になれるこの部屋の夜景を北斗は愛していた。
「来てたんだ」
絢の声に、ハッとして、北斗は閉じていた目を開いた。
「ついさっき」
「ふーん」
いつもと同じ、そっけない声だった。
「おまえさ。プロだろ。それに、若いやつらみてーに、仕事ドタキャンするような歳でもねーだろうが」
言いながら北斗は体を起こす。
「・・・潮時かも」
絢は、前髪をかきあげながら小さく呟いた。
「え?」
北斗はドキッとした。絢の口から漏れた言葉は、さっき自分が言った言葉と重なったからだ。
「なに?その顔。変な顔」
驚いたような北斗の顔に、絢は眉を寄せた。
「るっせ。潮時ってなんだよ」
「仕事。疲れたし、体力ない。おまえの言うとおり、もう若くもないし」
そう言いながら絢は身起こし、北斗の背に自分の背を預けて、ダラダラとしている。
「引退するならば、好きにしろ。稼いだ金で、とっととどこへでも行っちまえよ」
背中に絢の重みを感じながら、北斗はぶっきらぼうに言い返した。
「ふーん。おまえの言う潮時って、そういう意味だったんだ」
絢は、爪先でフローリングの床に円を描いていた。
「聞いてたのかよ」
「なんとなくね。聞こえた」
ぼんやりとね、と絢はくどかった。
「・・・女房に子供が出来たんだ」
絢は驚いたふうもなく、へえ、と短く言った。
「おまえの子?」
「当たり前だろ」
なにバカなこと言ってんだよ、と北斗は絢を小突いた。
「女、抱けたんだ」
知ってて、絢はわざとそんな風に言ってくるので、北斗は苦笑した。
「女しか、抱けない。おまえのせいでな」
「なに言ってンだか」
絢は肩を竦めた。
「・・・いいよ」
「え?」
「出て行くよ。邪魔ならば。潮時ならば、どこへでも行くよ。ただし、俺からは決めない。おまえが決めるんだ。その通りにする。だって俺は、北斗。おまえが俺の飼い主だから」
「俺次第ってことか。相変わらずだな。おまえ、俺にまだ借金があると思ってるのか?」
「ないの?」
明確に金額を口にしたこともないが、常識で考えてわかる筈だった。北斗は真剣に呆れた。
「自分がモデルとして幾ら稼いだか知らないのか?利子つけて返してもらった記憶があるんだが」
「俺はおまえに幾ら借金したか、知らないんだ。おまえはとうとう教えてくれなかったじゃないか。だから、おまえが言わなきゃ、わかるもんか」
「そうだったっけ?」
北斗はとぼけてみせる。確かにこいつには、なにも話してはいなかった。そして、こいつもまた、聞いてくることもなかった。
「まさに潮時なんだね。借金返済は完了したって訳だ」
絢は静かに目を伏せた。
「まあな。そういうことだ」
言いながら、北斗は窓の外に視線を投げた。
眼下の町並みに紛れて、一際大きい広告塔。そこに張られたシンプルなポスター。今話題の香水のCMだ。
ここからでも、そのポスターに写っている男の顔がぼんやりとだがわかるのだ。
近くで見たら、どれだけ巨大なポスターなのかがわかる。ポスターの中で、無表情に遠くを見つめる男の横顔。
男か女か、一瞬判断に苦しむようなユニセックスな美貌の横顔。それと同じ横顔が、自分のすぐ横にある。
「確かにモデルとしてのおまえは、もう行き着くところまで行ってしまったのかもしれないな」
北斗はタバコに火を点けた。
「行きたくもなかった場所に勝手に連れていかれただけ。疲れるのは当たり前だ」
「おまえには素質があった。それだけの素質が。いい加減、認めろよ」
なにもかも俺のせいにすんなよ、と言いたいのを北斗はこらえた。
「おまえが作り出した才能だ。そんなのは嘘っぱちだ」
絢は、かたくなに自分の才能を認めようとはしなかった。
「可愛くねーよ・・・。何年経っても、おまえはさ」
そう言って、北斗は腕を伸ばし、絢の体を胸に抱きしめた。
薄く引き締まった体が、腕の中に確かな重みとして、その存在を主張する。
「おまえの好きにしろ。引退しようが、続けようが。俺はもう関知しないさ。でも、どこへ行けとも、言わない」
「・・・」
「今までは、おまえのことは俺が決めてきた。今度は、おまえが自分で決めるんだ」
「いやなヤツ」
北斗の腕の中で絢が呟いた。
それから、北斗の唇からタバコを引き抜くと、自分もタバコを吸った。
吸殻を、近くに転がしておいたペットボトルの中に押し込みながら、絢は「俺は疲れた。やっぱ、行くよ。俺」と、
どこまでも、他人ごとのように言った。
「どこへ?」
北斗は、腕の中から、絢の体の重みが退いていくのを感じていた。
「どこへでもいいだろう。好きにしろと言ったのは、おまえだ」
フンッと絢は、鼻を鳴らした。
「おまえは行かない、と思っていたから言ったんだが」
絢が、自らの意思で、自分から離れるとは考えたこともない北斗だった。
絢の表情が、ふっ、と曇った。
「おまえのそういうところに、俺は疲れたんだよ」
バッ、と絢は北斗の腕から、勢いよく体を離した。
「14年間、飼ってくれていてありがとう。さっぱりしたよ。サヨナラ」
絢はそう言うと、部屋にあらかじめ置いてあった移動用のボストンバックをヒョイと手にすると立ち上がった。
アリーが、パタパタと尻尾を振って、絢の後をついていった。
北斗は、振り返れなかった。
バタンッとドアが閉じる音が聞こえた。
フローリングの床に座りこんだまま、ジッと、窓の外の広告塔を眺めていた。
Rainという名前の香水を纏った顔が、遠くを見つめている。
その横顔は、絢という男そのものに、暗く静かで冷たい。
仕事では、求められるままに、鮮やかに微笑むことが出来るのに、絢という男は、日常生活に戻ると同時に途端に無表情になってしまう。
昔から、そうだった。初めて、会ったあの時も。全然、アイツは愛想がなかった・・・と北斗は一人苦笑した。

来なかった女。来た男。この二つが、あの雨の日から、まるで呪文のように自分を苦しめていた。
そして、あの雨の日から十年以上が過ぎた今。
今では、あの時来た男のことだけで、俺はいつも戸惑っている、と北斗は思っていた。