優しい夜だった。
なにもかも失ったと思った日に、自分はなにか新しいものを拾ったと北斗は思っていた。
翌朝。雨は止んでいた。北斗は、眠る絢をおいてアパートを出て、家に戻った。
「坊ちゃま。お帰りなさいませ」
兄付きの秘書の坂井が、玄関にいた。坂井は、ジッと北斗を見つめていた。
「ああ。ただいま」
平然を装い、北斗はうなづいた。二度と帰らないと思ったこの屋敷に、結局は帰ってきてしまった。
まさか駆け落ちしようとしていたとは気付かれてはいまいから、坂井はいつもの夜遊び程度にしか考えていないのだろう。

古い豪邸。本城という名前を持つ、真実の城。この家がキライだった。
生まれた時から恐らくは何不自由なく育てられてきたのだろうけど、北斗はこの家がどうしても好きになれなかった。
自由があるようにみえて、自由などない。あるのは金ばかりの冷たい家。
「つまんねぇ家だよ」
呟きながら、それでも、自分はこの家に戻るしかないのだと思った。
夢見た自由は、昨日で消えた。あれがきっと、最後のチャンスだった。
本城というレールを外れる最後のチャンス・・・。


後日北斗は、大きな忘れ物に気付いた。リュックだ。あの中には、本気で札束が入っている。
来なかった女、晶子と暮らす為に必要であるだろうと、自分が自由に出来るありったけの金をかき集めた。
「やべ・・・」
と思ったが、あの夜、体を重ねたあの絢が、金を使い込むとは北斗にはなぜかどうしても思えなかった。
不思議な男だった。
あの男は、男と抱き合うことに慣れていたようだった。
抱かせてくれたが、抱かれていたのは俺だったように思うのだ。
特にお喋りでもないし寧ろ無口な方だったから、沈黙も多かった。だが、その沈黙が気にならなかった。
長く親しくつきあってきた友ならばわかるが、初めて会った男だったのに。
気になる・・・。北斗は改めて思った。絢のことが、気になる。しかし、その感情を今は分析する気にはならない。
とにかく、リュックを取りにいかねばならないと思った。
いつ取りに行こうかとそんなことを考えているうちに、大学の友人が事故で入院したので、総合病院に見舞いに行った時だった。
北斗は、偶然にも絢と再会した。廊下ですれちがったのだ。だが、向こうは気付いていない。
車椅子の女性と一緒だった。よく似ているから、おそらく母親なのだろう。
「・・・」
そういや俺。あの日、絢が笑っているとこ、見たっけ?と北斗が首を捻るほど、絢は笑っていた。
愛おしそうに、穏やかに、車椅子の女性を見つめながら笑っていた。女性も楽しそうに笑っている。
二人は緑濃い裏庭に出て行った。梅雨の中休みの貴重な晴れの日だった。平和な親子の図だ。
そして、北斗は改めて思う。やたらと人の多いこの総合病院で、簡単に目につくほど絢は目立つ。
スラリとした長身に、整った小さな顔。石塚絢は、綺麗な男だった。

初めて会った日から一週間後。
北斗は絢のアパートを訪ねた。
数日前、病院ですれちがった時に呼び止めて、リュックのことを話してもよかったのだが、そうはしなかった。
そうはせず、取りに来た。
ぼろっちいアパートの木の扉を叩いたが応答はない。
「留守か。電話しようにも、番号知らねえしな。メモでも」と一人呟いた時、ギッと扉が開いた。
中から絢ではない男が出てきた。
「あ、わり。次の客か?ついつい寝ちまってな。すまんがすぐに支度して出てくから」
男はそう言うと、扉を半開きにしたまま部屋に戻り、本当にすぐに身支度をして出てきた。
「アイツ、起きねえ。また次回頼む、と伝えてくれな」
男はそう言うと、ヒラリとアパートの階段を降りて行った。
「・・・そういうことかよ」
北斗はバンッと乱暴に扉を開いた。狭い六畳では、せんべい布団に、絢が全裸で寝ていた。
あの夜。二人でそうしていたように。
枕元には、1万円札が2枚。それを見た瞬間、カッと北斗は頭が煮えるのを感じた。
「オイ」
ドンッと北斗は足で絢の背中を蹴った。
「うん・・・」
小さな声と共に、絢がクルリと寝がえりをうった。
「てめえ。犯されてえのかよ」
低く北斗が呟くと、ガバッと絢が起き上がった。
「?!」
絢は、キョトンと北斗を見つめていた。
「おまえ・・・。なんで、ここに?」
長い睫毛に縁取られた黒い瞳がまたたいた。
「予約してねえけど、ヤらせてくれる?」
財布を尻ポケットから取り出して、絢の目の前にチラつかせて見せた。
「・・・バカじゃねえの。おまえ、ノーマルじゃん」
ようやく目が覚めたのか、あの日の絢らしい言い方だ。
「おまえ。バイトって、こーゆーバイトのことかよ。どーりで、うまい筈だよ。プロだったのか。けど、やるなら、もすこし相手選べよ。なんだよ、今のおっさん。きもちわり。・・・あ。もしかして、あの日。俺のこと、狙ってたのかよ」
絢は目を見開いた。フンッと鼻を鳴らす。
「だとしたらどうする?おまえ、まんまとハマッたんだな」
「いや。ハメたんだけどな」
ニヤリと北斗は笑う。
「くだらねえ。なんの用事だよ」
絢が、シーツを蹴飛ばして立ちあがった。
「リュック。俺、忘れていったろ」
胸のムカムカがおさまらないまま、北斗はぶっきらぼうに言った。
「リュック?ああ、あの汚ねえやたら重いやつな。玄関のとこにあるぜ」
北斗は玄関を見た。雑誌やらゴミ袋の下敷きになりながら、確かに黒いリュックが置いてある。
やはり、絢は、リュックをいじってはいないようだった。
「そうそう。これ」
ズルリと北斗は、リュックを引きずりだした。
その瞬間に、ハラリと落ちた書類。ゴミ袋から零れた。大学の退学届。書き損じだ。
チラリとそれを見て、北斗は絢を振り返った。
「石塚絢」
「いきなりフルネームで呼ぶなよ。なんだよ」
あくびをひとつしながら、絢は文句を垂れた。
「おまえ。金がなくて大学やめたんだよな」
「ああ、そうだよ」
なんだよ、っせーな、と絢は面倒くさそうに答えた。
「で、金作る為に、バイト。そのバイトが男とセックスすることかよ。おまえぐれーの容姿ならば、なにも男相手じゃなくても女でもイケるだろ」
不躾な北斗の質問に、絢は目をぱちくりさせながら、やがてボソリと答えた。
「女には、下手くそって言われた。だから男としてみた。そしたらイイって言われた。だから、男が相手なだけ。深い意味ねえよ。けど男相手のが気を使わなくてもいいし。出させて、入れさせりゃ悦ぶ」
綺麗な顔して、まったく言葉を飾らない男だ。だが北斗は、絢のそのギャップはイイと思っていた。キライじゃない。
「なんで金が必要なんだ?その金、なにに使うんだ?」
「いきなり、なんだよ。おまえ、刑事かよ」
そうだな。確かに俺は唐突すぎる。だが、なにもかもが、符号するんだ、と北斗は思った。
コイツが大学をやめたことと、金が必要なこと。その金を作る為に、体を売ること。
北斗はリュックを絢めがけて、投げた。かなり重いが、投げた。ドサッとリュックは絢の足に当たった。
「いってえ。このリュック。くそ重っ」
「それ、おまえに貸してやるよ。それで、おふくろさんを治してやるんだな」
「は、なに言ってんだ。てか、なんでおふくろのこと知って・・・」
言いながら、リュックを開けた絢は、絶句した。
「な、なんだ、この金・・・。てめえ、銀行強盗でもやってきたのかよ」
枕元に散らばっている紙幣など及びではなかった。
「おまえが言ってたこと、全部マジだったんだ・・・」
絢は、北斗を見上げた。その顔は蒼白だった。
「俺の名前は本城北斗だ。おまえもK大受験したくらいだから、うちの会社の名前聞いたことあると思うぜ。×××や○○を経営する本城グループのご子息だって訳。今は学生だから、親の脛かじりだけどな。その金は、おやじが俺にくれた小遣い。堅実な俺は、ちょこちょこ貯めといて、あの駆け落ちの為に備えていたんだけどな。もう必要ねえから、おまえに貸すよ」
あっけらかんと北斗は言った。
「・・・貸してもらっても、返すあてなんて・・・。こんな大金・・・。気が遠くなる」
絢は唇を噛んで、リュックの中の金を見つめていた。
「気にすんな。必ず返してもらう。それまで、おまえのその顔と体は俺のもんだ。いいか。男と寝るバイトは止めろ。男と寝たいならば、俺とだけにしろ。出来高次第で、返済にあててやる」
狐に化かされたかのように呆けた絢の顔。北斗は苦笑した。
「おま、なんで・・・。俺はおまえの友達でもなんでもねえ。この前会ったばかりの俺に、なんで・・・」
その疑問は当然だ、とばかりに北斗は気持ちよく言いきった。
「気まぐれだよ。おまえ、知ってるだろ。金持ちはきまぐれなんだ。知り合ったのもなにかの縁だ。あの日。俺のところに晶子は来なかったが、おまえが来た。これもなにかの、運命と思えば面白いだろ」
書き損じの退学届に、親の病気が理由と書いてあった。金が必要なのは、その親の病気を治す為だろう。
偶然に、総合病院ですれちがっていなければ、こんな気まぐれは起きなかったかもしれない、と北斗は思った。
やっぱり俺は、あの日。新しいものを拾っていたんだ、と。
こうして、二人の関係は、始まっていった。