絢が振り返った瞬間、「絢さんっ!」と明るい声が、奥の廊下から響いた。
その声に、ハッとして絢は北斗から視線をずらして「田宮」と呟いた。
傍にいたアイコが、「田宮。アンタ、なに呑気にこんなところ。準備はどうしたの」と田宮を一喝した。
田宮はまだ軽装だったが、ハアハアと息を切らしていた。
「スタッフの子に聞いて。絢さんが本当に来てくれたって。だから、俺嬉しくて」
状況を察してか、ブラインとアイコが絢から離れた。田宮はダダダッと走っていき、絢に抱きついた。
「ありがとうございます。見てもらえるの、すごく嬉しいです」
「今日の主役だろ。しっかりやれよ」
師弟の久し振りの再会だった。
抱きついてくる田宮の背をポンポンと撫でてから、絢はすぐに入り口を見たが、そこには背筋の伸びた守山が
花束を持って立っているだけだった。
「そろそろ時間だから、会場行きましょ」
アイコが絢を促す。ブラインが即座に絢の肩に手を回しながら、うなづいた。
絢と守山の視線が冷たく交差したが、絢は無言のまま守山の視線を振り切って歩き出した。


その頃北斗は踵を返して、ビルから飛び出していた。
絢の姿を視線に捉えた瞬間から、自然に後ずさってしまっていたのだ。
ビルの前の道路には、業務用車が停まっていた。
北斗は、その車に向っていき、運転席に人影を見つけたのをいいことに、助手席の窓を叩いた。
「弁当屋さん。あまってる弁当ない?」
「へ?」
窓が、自動でスーッと開いた。運転席にいたのは、まだ少年だった。
北斗のいきなりの言葉に、少年は驚いた顔をしていた。
「緊張したせいか、腹減って。弁当屋でもあるんだろ。弁当も出前もしますって、書いてあるぜ。レストラン胡蝶蘭さん」
北斗は車体に書かれている文字をトントンと叩いて、ニッコリと笑った。
その北斗の言葉に、少年はうなづきながらぼそぼそと答えた。
数分後。人なつっこい北斗は、すっかり寛いで、少年の隣の助手席を占領していた。
「なるほどな。もう店は辞めちまったってことか。ちっ」
「やってたとしても。あまってる弁当なんか積んでる訳ないじゃないですか。変な人だな」
「そりゃそーか。すまんな。ショーの方で雇った弁当屋かと思ってさ」
アハハハと北斗は笑った。少年は怪訝な目で北斗を見つめている。
「おっさん。ショーの関係者?もしかして、モデルとか?」
「おっさん?失礼なヤツだなあ。ふん。あ、モデル?バーカ。俺がモデルに見えるのかよ」
「え。だって、背高いし、カッコイイじゃん」
少し悔しそうに少年は言った。
「ほー。素直なぼーやだな。おっさんと言った罪。解消したるぜ。確かに俺はカッコイイけど、チャラいモデルなんかと
一緒にすんなよ。関係者は関係者だけどな」
なんたって、主催者だからな・・・と北斗はその言葉を苦笑と共に飲み込む。
「ふーん。関係者なのか。じゃあ、俺、中入れてくれないかな。知り合いがいるんだ」
少年の目が輝く。
「知り合い?誰?」
「石塚絢。アンタ、知ってるかな?」
一瞬、北斗は絶句した。イシヅカケン。
北斗が黙りこんだ瞬間、キャンッと後部座席で犬の鳴き声が聞こえた。
「!」
北斗はそちらを振り返った。この犬・・・。北斗の顔が強張ったのを見て、少年が慌てて訊いてきた。
「犬、嫌い?アレルギーとかあったりする人?」
「あ、いや。んなことはない。驚いただけだ」
「キャメ。おとなしくしてろよ」
少年は、後部座席の犬の頭を軽く撫でて、フッと微笑んだ。
北斗は、少年のそんな笑った横顔を眺めながら、「煙草いい?」と訊いた。「うん」と返事が返ってくると、火を点けた
「それより。石塚絢などというモデルは俺は知らないし、悪いが部外者は入れられないことになってる。すまんな。
ところでぼーやは、そのモデルと知り合いなのか?」
「ああ。あのさ。おっさん、さっきチャラいモデルって言っていたけど、モデルは皆が皆そうじゃないよ。俺の知ってる絢はね。
すっごい気取らないヤツでさ。あのね。絢って、モデル突然辞めて、俺の住んでる町にふら〜ってやってきたんだ。男のお
手伝い募集してて、不動産屋の仲介で俺がそのお手伝いさんになってさ。普通お手伝いさんって女の人じゃん。でもね。絢
ってゲイで、男がイイんだってさ。最初はビックリしたけどさ〜。でもすごいいいヤツ」
少年の顔がクシャッと笑み崩れる。それを見て、北斗もつられて笑った。
「ステキなカップルになれたと見えるな」
北斗の言葉に、少年はカッと頬を赤くした。
「バッ。バカ言うなよ、おっさん!おりゃあノーマルだよ。・・・そりゃ、でも・・・。もしかして、もう少し時間があったならば、
そうなっていたかもしれない。絢はそれだけ男の俺から見ても魅力的だったよ」
煙草の煙が車内にゆっくり流れた。
「もう少し時間があったならば・・・ってどういう意味?」
北斗は煙草を指に挟みながら、少年の横顔をジッと見つめた。
「それは・・・」
少年が目を伏せた。
「ってゆーか、おっさん。ショーの関係者なんだろ。時間とか平気なんかよ」
「気にするな。それより、君の話を詳しく聞かせてくれないか?」
キュッと、北斗は煙草を灰皿で揉み消し、少年の顔を覗きこんだ。


数時間後。
絢は、ショーを終え、隆文のところに戻った。
居眠りをしていた隆文だったが、窓ガラスを叩く音に気づいて、起きた。
「待たせて、ごめん。もう終わったよ。リク通り都内を適当に案内してホテルに送るよ。ブラインと食事することになっているから、
バタバタしちゃうけど、悪いな」
「お疲れ。俺、東京タワー見たいだけだから、いいよ」
隆文は、目を擦りながら、へへへと笑った。
「欲のないヤツで助かるよ」
笑いながら、絢は助手席に乗り込んだ。
バサリと腕に抱えていた花束を後部座席に放り投げた。
待っていたかのようにキャメロンがその花束に食いついた。
「あっ。食べちゃダメだぞ。キャメ」
視線を正面に戻して、それからすぐに異変に気づき、絢は眉を顰めた。
「この匂い。Rain・・・?!まさか、北斗??」
車内に残る微かなトワレの匂い。北斗愛用のRainの匂いだった。
「え?ああ、この匂い。いい匂いだよな。さっきのおっさんのつけていた香水だ」
クンッと鼻を鳴らしてから、隆文が言った。
「さっきのおっさん?」
絢は、ギョッとしたように隆文を見た。
「さっきのおっさんって誰?なにを喋った?隆文」
絢の迫力に隆文がおののき、助手席に座った男となにを喋ったかを全部話した。
「・・・っ」
なんてこった、と絢は掌で顔を覆った。
「守山め、勝手なことしやがって!って叫んで、あっというまに出て行っちまったよ、ソイツ」
「すまんな。そいつ、俺の知り合い・・・」
言いかけて絢は、ハッとした。開いたままの助手席のドアに、何時の間にか男が立っていた。
「・・・」
隆文もその男の存在に気づいて、表情を硬くした。
「あいつ、うちのレストランを潰したヤツだ」
カッとなり、隆文は、絢を押しのけた。
だが、絢の方が、早かった。
バシッ、と音が響いた。絢が守山の頬を叩いたのだ。
「バカヤロウッ」
絢は怒鳴った。守山は静かに頭を下げてから、顔を上げた。
「石塚さん。北斗様が行方不明です。携帯も切られており数時間前から連絡がつきません。お心当たりを教えてください」
顔をあげた守山の前髪から、パラリと水の粒が落ちた。
雨。
「知っていたとしても・・・。てめえにだけは、教えるか」
絢は守山を押しのけて、走っていく。小雨だった雨が、本降りに変わっていた。
あまり濡れないうちにタクシーを捉まえて、乗り込んだ。
北斗が姿を消した。普段なら、北斗が逃げ込める場所など、たくさんあるだろう。
でも、と絢は思う。今、この瞬間。北斗がいるとしたら。あの場所しかないと絢は思った。
今度こそ完全に別れようとしている俺達は、一度あの場所に戻らねばならない。
きっと北斗もそう思っている筈だ、と。

絢が降りた先は、ある程度の広さを持つ公園だった。迷いなく、絢は公園を横切り、一つのベンチに向って走った。
「ハア、ハア・・・」
息を切らし、走った。バシャッと、水溜りにスニーカーを突っ込んでしまったが気にしなかった。
バシャバシャと音を立てて絢は走った。傘も差さずにベンチに座っている男がいる。
絢の瞳は、その男の姿をしっかりと映し出していた。
あの日は名前も知らなかった。でも、今は。今は・・・。
「ほくとぉっ」
絢は叫んだ。

続く