兄の南に連絡を取り、坂井の居場所を聞いた。
「私が行くべきところを、わざわざお越しいただきすみませんでした。北斗様」
坂井は自分の執務室にいた。あの南に長年仕えている男だ。この男も、南とは別の意味で迫力がある。
「ああ。別に平気だ」
駆け落ちがパアになったあの夜。
バレていたとも知らずに俺は、すました顔で家に戻った。その時、迎えてくれたのが、この坂井だった。
今でもよく覚えている。
「峻から聞いていると思うけど、絢のことだ」
「はい。お聞きしております。そして、驚きました」
「驚いた?」
「長い間、北斗様を苦しめていたことに」
「どういうことだ」
坂井は、言いにくそうに目を伏せた。
「あの朝。家に戻ってきた貴方様を見て、私はまず思いました。ご機嫌が良いと。北斗様は、納得されてここに戻ってこられた、と思いました。すべてがうまくいったと思いました。南様からの命令を実行出来た。任務が無事完了したことにホッとしたことを覚えています」
「俺もあの朝、迎えてくれたおまえのことはよく覚えている」
坂井はうなづいた。
「南様は、手段を選ばずに傷心の貴方様を御慰めし、とにかく家に戻せと言われました。私は数人の部下達と打ち合わせをして、あの公園のベンチにある者を派遣させる予定でした」
「ああ。わかってるよ。絢だろう」
北斗の言葉に、坂井は首を振った。
「いえ。・・・申し訳ありません。石塚様ではありません」
「え?」
「私達が手配した者は、石塚様とは別の者でした。私達は南様と違い、北斗様は女性がお好みだと思っておりました。なんといっても、晶子様と駆け落ちなさろうとしていたのですから」
「!」
北斗は、あの日の峻の言葉を思い出した。
そうだ。峻は、言っていた。あの坂井達が、俺に絢をよこす筈がない、と。そうだ。普通に考えれば、ここでよこすのは、女の筈だ。
じゃあ、絢は?絢はどう繋がってくる。北斗は、坂井を見た。うなづき、坂井は続けた。
「彼女は慌てて私に連絡してきました。私は、間に合いませんでした。北斗様は、男の方と連れだって行ってしまわれた。どうすればよいでしょうか、と」北斗は目を見開いた。
「北斗様。石塚様は、私達本城の人間が用意した者ではないのです。あの方は、あの日、偶然に貴方の傍に行かれたのです」
「なんてこった・・・」
体中の血がゾクリとざわめくのを北斗は感じた。
「私達は慌てました。北斗様は誰と連れだっていかれたのか?友人か?まさか晶子様の代理人か?と。私と守山などで慌ててその場ですぐに次の手を打つべく動きました。だが、次の手は必要なかった。貴方様は・・・。明け方、自分の意思で戻ってこられた。なにごともなかったかのように。守山はすぐに石塚様の素性を調べあげましたが、特に本城に関係のある者でも、晶子様の関係者でも、魂胆がある者でもないと判断しました。その報告を受けて私も安堵し、ならばと。南様には、余計なことを申しあげませんでした。私達は用意した手段を実行出来なかった。ですが、南様は北斗様が家に戻られることを希望しておられた。それは無事に叶った訳ですから、いちいちと、偶然の出来事でしたが・・・と説明することも必要ないと私は判断したのです」
「・・・」
坂井の判断は正しいだろう。
結果的に、兄が望む結果となったならば、経緯はくどくどと必要ない。
俺が兄の立場だったら、聞かされても、どうでもいいことだと思うからだ。
坂井に罪はない。だが、だか、これでは・・・。
「守山は知っていたのか。絢が来たことが偶然だったと」
「むろん知っております。調べたのは、彼ですから」
北斗は苦笑した。あいつ、偶然ではない出会いって、言ってたじゃねえか。知ってたくせに。
「私は峻様にお話しを聞くまで、北斗様の石塚様への想いを存じあげませんでした。ご関係はむろん存じておりましたが、割り切った関係だと思いこんでおりました。もし私がきちんと南様に経緯をお話しし、南様が真実の話をされる時、石塚様のことだけは訂正していたら・・・と思うと。悔やまれます。本当に申し訳ございませんでした」
深々と坂井は頭を下げた。
「やめてくれ。おまえのせいではないだろう。だが・・・。俺は、あの兄の言葉で、絢を信じられなくっていた。駆け落ちが駄目になったあの夜。俺は、絢に癒してもらった。泣きたかった俺を、絢は感じていたんだと思った。優しい夜だったんだ。でも、それが仕組まれたものだと知った時の落胆はどうしようもなかった。本城の仕組んだ夜に、俺はまんまとひっかかったと思うと悔しかった・・・」
坂井は目を伏せた。
「相手が石塚様でなくば、おっしゃる通り、北斗様は本城の夜にひっかかったのです。ですが。石塚様は、違う。あの方は、本城が選んだ相手ではありません。北斗様。貴方がご自分で選んだ方でした」
坂井の言葉に、北斗は息を深く吸い込んだ。
もっと早く。
峻の言うとおりに、もっと早く。確かめておけばよかった。
絢。おまえの優しさは本物だった。おまえが俺にくれた夜は、真実だった。
優しい夜を、ありがとう。暖かい体をありがとう。
泣かずに眠れたことに、俺はずっと、ずっと感謝していたんだ。
「坂井。おまえの判断は正しかった。俺に、勇気がなかっただけの話だ。おまえは気にするな」
「お心づかい、感謝致します。北斗様」
坂井がまた、深々と頭を下げた。


絢。
おまえに会いたい。おまえに会いたい。おまえに、会いたい。今すぐに、おまえに会いに行く。
坂井の執務室を後にし、北斗は携帯を取り出し、車を呼んだ。だが、車はすぐには来なかった。
全身を雨に濡らしながら、北斗は繁華街を歩いた。
零れ落ちそうな涙を堪えて、歩いた。
俺の心の中で、長い間降り続けていた雨が、今止みそうになっている・・・。
北斗は黒い空を見上げた。
「RRRR」
携帯が鳴って、車の位置を知る。
北斗は歩いた。たくさんの車が行き交っているので、北斗は中々自分の車を見つけられなかった。
そんな時、スッと傘を差し出されて、北斗はハッとした。振り返ると、守山が立っていた。
「北斗様。お風邪をひかれます」
「守山。ちょうど良かった。今から、俺は絢のところへ行く」
すると、守山は首を振った。
「お止めください」
「なんだと?」
「それより、ブライン様が急なアポを取ってまいりまして。大事なお話がある、と。石塚さんについてのお話だそうです」
「ブラインが?」
「ええ。今すぐKホテルにおいで願えませんか?」
「・・・」
不吉な予感だ、と北斗は思った。
「では行こう。ブラインの話を聞いてからでも、絢のところへ行くのは遅くない」
差し出されたタオルで、濡れたスーツを拭きながら、北斗はうなづいた。