欲望の波が過ぎ去ると、穏やかな時間になる。
たったさっきまで、ベッドの上で獣のように交わっていたことなど、既に遠い彼方のように。
「守山ちゃんが、貴方のことを愛していたのを知っていたか?って。当たり前でしょう、そんなの」
いつも、きちんと結い上げられている髪を下ろして、僅かに汗ばんだ髪をかきあげながら、由依子はベッドサイドのタバコに手を伸ばした。
「誰にも憚らず、北斗様、北斗様。ぶっぎりの熱い視線を送りまくっても、誰も気づかない。貴方と彼は、上司と部下。でもね。同じラインで見てると、気づくものなのよ」
由依子は、北斗の口にタバコを突っ込むと、火を点けた。
「ああ。彼も同じ。私と同じよ・・・ってね」
「俺は知らなかったな」
北斗は、煙を吸い込み、吐いた。
「貴方は、そういう人よ。まったく、いつまでたっても、鈍感なんですから」
クスッと由依子は笑った。
「ガキってことかよ」
「出会って、もう十年経つけど、基本的に貴方はなにも変わってないわよ。ガキだわ」
「そのガキに、金借りたくせに」
由依子と北斗は、北斗が20歳の時に出会った。
まだ学生だった北斗だったが、父に社会勉強に、と連れていかれた銀座の店で会った。
その時由依子は、もう既に30近い、いわゆる年増の女だったが、北斗は一目で気に入った。
話をして更に気に入った。由依子は頭の回転の速い女だった。
北斗は、頭の良い女が好きなのである。上品でどこか儚げな容貌も、早くに亡くなった母を思わせた。
父に「ませたガキだ」と笑われたが、由依子とは公然とつきあった。
突然亡くなった父からの遺産として、譲り受けた莫大な資産の中から、北斗は望まれるままに由依子に金を与え店を持たせた。
由依子も、店の収益で北斗に金を返し続けている。さすがに由依子は、絢と違い、まだ返済を終えていない。
「お借りしたわ。だから、ちゃんと毎月返済してますわ、坊ちゃん」
「そうだよな・・・。いや、悪い。別に嫌味を言うつもりはなかった」
「わかってるわ。ガキって言われたことに腹を立てただけよね。やっぱりガキだわ」
「・・・」
黙ってしまった北斗に、由依子はちょっと慌てた。
「あら?本気で怒ってしまわれたのかしら?冗談ですよ」
由依子が、そそくさと裸の北斗に抱きついてきた。
由依子の乳房が胸にあたり、北斗はその乳房に指を伸ばした。
「由依子は。俺と寝る時に、いつもなんにも言わない。なのに、アイツは俺と寝る時」
「アイツは?」
北斗に、自分の乳房を触られるのをそのままに、由依子は北斗の顔を覗きこんだ。
「これで幾ら返せるかな?っていつも訊くんだぜ。・・・傷つくだろ、そんなの」
拗ねたような顔で、北斗は言った。
「絢ちゃんね」
由依子は、苦笑した。
唐突に、北斗の胸に感情が溢れた。
守山と揉めて以来、絢のことを口にするのは控えてきた。それが、一気に爆発した。
借金。返済。由依子と絢。
同じキーワードで繋がるのに、由依子と育んできた時間と、絢と育んできた時間が違いすぎる。
男と女の相手の違い。それだけなのか?互いの性格の違いなのか?
いや、違う。
俺が間違えた。
最初に絢に、あんな風に言って金を貸した俺が悪かった。
だから、由依子と絢が違って当たり前なんだ。
「やべ。悪い。どうしたんだろ、俺」
北斗は、由依子の乳房から手を離し、片手で目を覆った。
涙が零れそうになるのを押さえたのだ。
由依子は、それをジッと見つめては、小さく溜め息をついた。そして、由依子は北斗の髪をゆっくりと撫でた。
「北斗さん。私、この前見かけましたわ。守山ちゃんとブラインさん。タクシーから降りてきて、守山ちゃんがブラインさん連れて凪のママのところへ行くのを」
「守山とブラインが?」
「怪しい組み合わせでしょ。私、言うかどうか迷っていたの。だって・・・」
由依子は北斗から離れて、タバコに火を点けた。
「でも、一年経っても貴方が絢ちゃんのことを口にするのをきいて、私はっきりとわかったわ。やっぱり、あの子には勝てないわね」
ふふふと由依子は苦笑した。
「勝てないってなにを?」
「同じラインって言ったでしょ。私と守山ちゃんと絢ちゃん。同じ目線で貴方を見ていたの。たぶん、3人とも気づいている筈。私達は、それぞれの場面でよく目が合ったのよ。なぜかわかる?皆、貴方を追いかけていたからなの」
「・・・」
「私達の視線の中心にはいつも貴方がいたの。きっと私達は、互いをどこかで嫌いあっていた筈よ。だって、私達は貴方を愛していて。貴方の愛を独占したかったから。あとのヤツは邪魔なのよ」
由依子の物騒な言葉に、北斗は苦笑した。だが。
「待てよ。守山と由依子、おまえらはなんとなくわかる。でも、絢は・・・」
由依子は首を振った。
「北斗さん。絢ちゃんが、なぜ貴方と寝る度に、お金のことを気にしたかわかる?絢ちゃんは、貴方から与えられたモデルという地位でお金を返すことを、本当の意味に捉えていなかったんじゃないかと思うの。自分でお金を返す。それは貴方と寝ることだったのかもしれないわね」
「・・・」
「だから、貴方は絢ちゃんと寝ることにビジネスを感じていたのね。絢ちゃん自身がそう思っていたから、鋭い貴方は余計にそう感じたのかもしれない。たぶん、絢ちゃんも途中まで半分ぐらいはそう思っていたと思うのよね。でもね。途中からはきっと・・・。違ったんだと思うわ。憶測だけどね。でも間違っていないと思う。絢ちゃんの視線は私と同じよ。男と女の色んな感情見てきた私が言うんだから、信憑性はあるわよ」
「なんで、そんなこと・・・いきなり」
絢が、俺のことを、愛していた・・・?!
自分でそう感じたことはあったが、他人からはっきりと言われたのは北斗は初めてだった。
「だって。いつまでも、貴方は苦しそうなんですもの。長いつきあいだけど、私、貴方が泣くのを初めて見ましたわ。可哀想。私も可哀想だけど貴方も可哀想。それに、もういい加減エンドが近づいてきている気がするの。守山ちゃんの行動怪しいしね。確認なさるのならば、早い方がいいわ、北斗さん。ブラインさんは、まだ絢ちゃんを探しているってアイコさんから聞いたことあります」
「ああ。守山に訊いてみる」
「そうすることね。ごめんなさい、北斗さん。私、もう大分前から気づいていたの。絢ちゃんのこと。貴方が時々、絢ちゃんのことを愚痴こぼす為に確信を深めてはいたけれど、今まで言えなかったわ。言ったら、絶対に絢ちゃんに貴方を取られること、わかっていたから」
「由依子」
「私達は、表には出れない人種よ。他人様から見れば、私は水商売の女。絢ちゃんは貴方に買われた男。守山ちゃんは、部下。日のあたる場所にいられるのは、貴方の奥様だけ。でも、可哀想だけど、彼女は私の敵ではなかった。だって、貴方は奥様を愛していないもの。私が欲しかったのは、そういう日の当たる場所ではなかったの。ただ、貴方からの、たったひとつの愛が欲しかったのよ。本気の、愛してるが欲しかったの。守山ちゃんも絢ちゃんも。どんな形で貴方を愛していようと、望んでるものは恐らくそれだけだと思うわ」
そう言いながら、由依子は目を伏せた。

『どうしてそんなに怒るんだよ?おまえ、本気なんだろ。俺のこと、愛してるだろ?』
唐突に絢の言葉が脳裏に過ぎって、北斗はギクリとした。
プラインと絢が寝たのは知っていた。契約がかかっていたというし事後報告だったから、仕方なく納得した。
でも、絢がブラインの宿泊先のホテルに通っていたのを、たまたま商談でそのホテルに来ていた俺は知ってしまった。
偶然ホテルのロビーで会った絢に、「こんなところでなにしてる?」と訊いた俺に、絢は「ブラインに会いに」とのうのうと答えた。
契約を取る為だけの、1回や2回のことならば、我慢出来た。だが。それ以上は我慢出来なかった。
絢が自分の意思で、ブラインに会いに行っていたことが、我慢出来なかった。
絢を、急遽取ったホテルの部屋に押しこめ、ブラインと会わせなかった。
商談を終え、俺は部屋に行き、そのまま絢と大喧嘩をした。
「勝手なことをするな!なぜ、俺以外の男と寝る必要があるんだッ」
「誰が寝るなんて言ったよ。契約取ったんだから、もう寝ねえよっ」
本当に、単なる俺の、嫉妬心が原因だった。
あからさまにそうであったことに対して、絢が
「どうしてそんなに怒るんだよ?おまえ、本気なんだろ。俺のこと、愛してるんだろ?」
そう訊くことに、なんの疑問があっただろう。
答えてやれば良かった。その通りだ、と。
でも、俺は。俺は、絢になにを言った?
「誤解するな。体から始まって気まぐれで続いてきた関係に、本気になれると思ってるのか?」
そう言ったんだ。確かに、そう言った。
あの時の、絢の凍りついたような表情はいまだに覚えてる。
俺は・・・。俺は本当に、なにもかも間違えていたんだ。
愛されていると思った。愛しあっている。何度も、何度も思った。それ自体は恐らくはもう、間違いじゃなかったのに。
絢の気持ちがどこにあろうと、自分の気持ちははっきりしていた。それを絢にぶつけるべきだったのに。
「おまえはずるい」絢は言った。そうだ、俺はずるい。
いつでも、絢から言葉を引き出そうとした。そして、絢は、いつも曖昧に答えた。
「そうかもな」
断定ではなく、曖昧。それが絢の精一杯だったのだ。
どっちつかずの俺の態度に、絢はどれだけ迷っただろう。
愛されているのか?と期待すれば、本気になんかならない、と否定される。
絢は、俺の嫉妬を一体どういう思いで受け止めていたのか。
迷い続ける気持ちを持て余し自分を愛してくれる他の男に優しく抱かれたい、と絢が思っても、それは少なくとも、俺だけは責められる立場にはいなかったのだ。
沈黙の最中に、電話が響いた。由依子が、さっ、と枕元の電話を取った。
「こんばんは。ええ。いらしております。いいえ。とんでもない。はい。お待ちくださいませ」
由依子の応答が聞こえ、北斗は由依子を見た。
「坂上さんからお電話です。なんでも、至急コールバックください、とのことです。大川さんからの連絡が入ってますので、とのことです」
坂上とは、北斗の第二秘書で、大川とは峻だ。
「わかった。すぐにかけ直す、と」
「はい。そう伝えます」
北斗は、近くにあったバスローブを羽織ると、隣の部屋に移動した。隣の部屋から、坂上に電話をした。すると、坂上は答えた。
『お休みのところ、申し訳ございません。大川様が緊急にお仕事で出動されました。その前に、時差を考えずにすまない、と。とりあえず、北斗様に伝えてくれ、と。石塚様の件、坂井様にお聞きくださいと』
「・・・ああ。そのことか。すまんな。明日でいい。明日、俺が自分でする。悪かったな、あせらせてしまって。」
『いえ。こちらこそ失礼致しました』
「ああ。ところで、守山は?」
『は。今夜は早々に帰られまして。もう既にこちらにはいらっしゃいません』
「珍しいこともあるもんだ。おまえもさっさと帰れよ。俺はこの通り。遊んでいるんだから」
『はい。わかりました』

峻。緊急出動とは大丈夫なのだろうか?そう思いつつ、峻が示してきた店のことを北斗は考えた。
調べてみよう。
事実を確かめ、傷ついても、もう退かない。
絢のことを愛してることは、もう変えようがないのだから。
北斗は、そう思って、部屋のベッドに横になって天井を眺めた。
今から、由依子と二回戦を始める気にはならなかった。
察したかのように、由依子もそれから朝まで、こちらの部屋に来ることはなかった。