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年が明けて、春も間近という頃だった。田宮からの手紙を、絢は受け取った。
田宮は、絢の所属していたモデル事務所の事務員だった。
アイコの秘書的な仕事をしていたが、絢は常々、この田宮のことを逸材だと思っていた。
事務所で事務をさせておくより、田宮自身がモデルとして活躍出来ると信じていた。
小さな顔、絢より背が高く、スタイルも抜群だった。
だが、田宮自身は、人前に出るのが苦手な性格で趣味のカメラやビデオをいじってる方が好き、という物静かな青年だった。
その田宮が、とうとうモデルとしてデビューするという。きっと、アイコが強引に口説いたのだろう。
でも、当然の結果だった。
4月6日。小さなショーに出演する。是非、観に来て欲しい、とのことだった。
いい時期だ、と思った。その頃ならば、ちょうどいい。
俺は、どうせその頃には、日本を離れるんだから・・・。


全てが狂ったのが、年明け早々だった。
隆文が、顔面蒼白にして、「うちの近くにレストランが出来た。すごく大きなレストランなんだ。どうしよう、絢。客、取られちゃう」と言いながら、家に飛び込んできたのだった。
話をよく聞いて、絢はすぐに思い至った。
前に隆文が風邪をひいて、メシに困った時に、隆文の父の店に食いに行き、その時近くでなにかを建設していたことを思い出したからだ。
レストランの名前を聞いて、絢は愕然とした。
そのレストランは、今流行のヘルシーなメニューを安価で提供することで好評を博している、北斗が経営するレストランだった。
チェーン店なのだ。
どういうことだ?と思った。
あの地に、わざわざあの店をぶつけてくるとは。決して立地条件は良くない。ほとんどメリットはない筈だ。
北斗を初めとして、本城グループは徹底的な利益主義で、金にならないことには見向きもしない。
企業としては当たり前の姿勢だが、その姿勢が露骨すぎる、と叩かれることもしばしばだった。
絢は、即座に計算した。あそこに、あのレストランを建てる訳。どういうことだ。
北斗、おまえは一体・・・。その時、絢には唐突に、守山の姿が脳裏に過ぎった。
「!」
あの男が、半年前。ここに来た理由。
あの男は、ただここへ犬を届けに来たのではなかった。
用意周到にすべてを調べ上げ、そして、実行していったのだ。
メリットはある。
ここにレストランを建てれば、すぐ傍にある寂びれた伊藤家の経営するレストランなどは、すぐに潰れてしまうだろう。
伊藤家を潰すということは、即ち。俺への攻撃だ・・・!絢は、喉に絡まる唾を飲み込んだ。

しばらくして、まるでこちらの状況を見ていたかのように、守山から連絡が入った。
「なぜこのようなことをするか?単刀直入に言わせていただければ、貴方が邪魔なのです、石塚さん。貴方が北斗様の傍を離れても、それで満足するのは、貴方だけなんです。北斗様は、どうしても貴方が気になって仕方ない。石塚さん。貴方は、北斗様の物だった。貴方は金で北斗様に買われた物だったんです。北斗様は貴方の支配者だった。一度手にした物が勝手に逃げ出し、幸せになることを、北斗様のような方々は許さないのです。そこに、理由などありません。刻み込まれた性分なのです。彼らは、自分の物であったものの、勝手な行動を許さない。御覧なさい。北斗様の兄の南様を。聞いたことがあるでしょう?あの方は、ご自分から離れていった峻様を、金と権力を使ってこの世から抹殺してしまおうとしたんですよ?自分の元から去るならば、死ね・・・と。貴方の今の立場は、それと同じことです。ただ、南様は自分の意思で実行しましたが、今回は北斗様の意思ではなく、私の独断で。なぜならば、貴方もご存じの通り、北斗様はお優しい。今だ、悩んで迷って苦しんでおられる。見ていて気の毒になるぐらいに」
電話の向こうの守山の声が、絢には遠くから聞こえてくるように思えた。
「北斗様自身がいつも悩んでおられた貴方への思い。そして、今も苦しんでいる思い。それは、嫉妬というものではありません。単なる、所有欲です。本城の男として君臨する限りついてくるものです。仕方がない。その仕方ないものに、北斗様は苦しんでおられる。私が捨ておける筈もない。おわかりでしょう、石塚さん」
嫉妬ではない感情。本城の男が持つ、所有欲。
へえ、知らなかったぜ。そういう言葉があったんだ・・・。
嫉妬は嫉妬だろうが。違うのかよ!?
ああ、北斗は本当にどこまでも特別な男だ・・・と絢は思った。
所有欲。その感情ゆえに、北斗はあれほどまでに、俺の自由な行動を責めたのか。
「聞いていますか、石塚さん」
「ああ、聞いている。そう、守山さん。アンタは北斗を放っておけない。いやというぐらい知ってるさ。で?」
絢は答えた。
「南様は、峻様を殺してしまおうとした。そうでなくば、あの方はその欲を消せないと判断した。ですが、私はそこまでしようとは思いません。私は貴方をそんな目に遭わせて私の人生を狂わす気は毛頭ありません。そんなことをしなくても、大丈夫な方法が確実にあるからです」
もう絢は、守山の言葉に言い返す気力はなかった。
「それは、どんな方法?」
「貴方が、プリンス・ブラインと愛しあって暮らせば良いだけです。ブライン様は、貴方を今でも愛しているんですよ」
「俺が、ブラインと・・・。愛し合って暮らすだと??」
どんな冗談だ。
愛してなんかいねえっつーの・・・と絢は、これだけは守山に言い返したかった。
確かにブラインは、本城の権力を振りかざすには、危険すぎた。小国なれど一国の王子なのだから。
「この世界。あの方の目の届かないところなどない。貴方がどこにいても、あの方はきっと探し出す。でも、探し出しても無駄なことを、あの方は納得しなければならないのです。いかな北斗様といえど、ブライン様には手を出せない」
「・・・」
「かつて北斗様と貴方がした契約のように。今度は、貴方とブライン殿が交わすのです。よいですか。貴方がYESといえば、契約成立です。すべて白紙に戻しましょう。伊藤康成には、うちのあのレストランの経営を任せます。料理、経営方針。すべて、彼の意思のもとに動けるようにこちらから指示を出します。奥様の入院費も負担しましょう。もっと良い病院へ移すことも考えてます。いかがですか?良い条件でしょう。貴方はブライン殿に愛されて、可愛がられて毎日を暮らせるし、北斗様も、生まれたばかりのお子様と奥さまを愛していく生活に戻るだけです。誰もが幸せではないですか。貴方さえYESといえば、これはすぐにでも決行致します」
優しい、ここぞとばかりに優しい声音で、守山は言った。
「どうぞお考えください。ただし、時間はそう長くは与えられません。では、のちほど」
勝手に電話はブツリと切れた。
絢の頭は冷えていた。
守山に言われた数々の言葉に腹が立っていたにも関わらず、だが、絢の頭は冷えていた。
そして、心も。
嫉妬だと思っていた北斗の感情は、そうで、なく。
絢にとっては、唯一の縋りどころだった北斗の嫉妬。それすら否定され。
所有欲という言葉が本当ならば、北斗は、絢を対等の人間として見ていなかったということなのだ。
物、だったということだ。
やっぱり俺は、北斗に飼われていたんだ、と絢は思った。
わかっていても、どうしても期待を捨てられず今まできたが、その小さな期待は木端微塵に打ち砕かれた。
絢は、受話器を握りしめて、番号をプッシュした。
「守山です」
受話器の向こうのその声を聞き、絢は冷静に言った。
「yesだよ、守山さん」
絢は、折れた。
心が、折れたのだ。
どうしようもなかった。レストランが開店し、伊藤家のレストランには、客が入らなくなっているのだ。
バイトの子の契約も途中で切って、康成は、誰も来ないレストランで、一人客を待ち続けているのが現状だ。
そうしているうちに、妻の入院する病院からは、容赦なく請求書が届く。
絢は、自分にここまでよくしてくれた伊藤家を見捨てることなど到底出来ない。
「貴方の要求をのむよ。いいシナリオだね。皆が幸せになれる」
一番幸せなのは、アンタだろうけどね、という言葉を絢はかろうじて飲みこんだ。
「ご協力ありがとうございます」
どこまでも冷たい声で守山はそう言った。

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