秋が過ぎ、そろそろこの海にも冬がやってくる。
さすがに海岸に、無防備な姿で立っているのが寒くて、絢は手にしていたジャンパーを羽織った。
隆文が、最近の寒さのせいか、体調を崩して今日仕事を休んでいる。
絢は、朝食兼昼食は自分で作ったものの、あまりの不手際に自分で情けなくなり(パンは真っ黒焦げ)、夕食は外食と決めた。
隆文の父親が経営するレストランに行こうと勝手に決めていた。
「俺も、昔はもっと手際よかったのにな〜。過保護にされたせいだ。北斗のせいだ」
仕事故に忙しく、かつ身の回りのことをやってくれる人間を北斗が手配してくれていたおかげで、すっかり一人ではなんにも出来ない人間と成り果てていた。
それらをすべて北斗のせいにして、絢はスッキリとした。
車のキーケースを振り回しながら、絢は砂浜をゆっくりと後にした。
途中、絢は老婆と擦れ違った。
老婆の腕の中にいた小さな子供が、絢の後をついてきていたキャメロンを見て「わんわー!」と大興奮して叫んだ。
あ、いけね。コイツは連れていけねーや・・・と思い、絢はキャメロンを抱き上げて、家へと連れて行った。


車を二十分ぐらい走らせ、町の中心地に辿りつく。
隆文に教えてもらった駐車場に車を入れ、絢はしばらく駅前のショッピング街をブラブラと歩いた。
都会と比べて人は少ないが、さすがに日曜日なのでそれなりに人が多い。
職業病みたいなもので、衣料品店のショーウィンドを横目でチェックをしながら、大きな本屋の自動ドアを踏みしめた。
絢は本が好きだった。雑誌、漫画、小説問わずに、なんでも読んだ。毎日、時代に追いつこうと必死だった。
今は、ゆっくり雑誌を読む時間が、とても愛しい。
それこそが、仕事に追われ日常を忙殺されていた自分の夢のひとつでもあったからだ。
本も、隆文に頼めば、隆文が買って来てくれる。
こうして、自分で店まで出向くのは久し振り、と思いながら絢はパラパラと雑誌のコーナーで立ち読みをしていた。
だが、ふと視線を感じて、雑誌から顔をあげた。
「・・・」
制服姿の学生の女の子と目が合った。
今時、おさげなんていう髪型をしている。新鮮・・・と思いながら、絢は自分を見つめる女学生を見つめ返していた。
「あ、あの。モデルのkenさん・・・じゃないですか?違っていたら、ごめんなさい」
ボソボソと、女学生が真っ赤になりながら言った。絢は、うなづいた。
「元、ですけど。そうです」
すると、女学生の顔がパッと輝いた。
「わ、私。お姉ちゃんが買ってくる雑誌、盗み見してて。ファンだったんです!サインしてください」
・・・まだ俺のこと覚えててくれてる人、いたんだ・・・と絢は他人事のように思った。
なぜならば、業界は移り変わりが激しく、去っていく者のことなど、余程のことがない限り、すぐに忘れられるからだ。
いや、この業界に限らず、なんでもそうだろう。時代は、そういう風潮なのだ。
次から次へと、新しいエネルギーに満ちていて、人々は退屈してる暇もない。
「ありがとう」
差し出された、ファンシーな手帳に、絢はサインをしながら礼を述べた。
「こちらこそ。嬉しいです。ありがとうございます」
サインの書かれた手帳を見て、少女は更に顔を赤くした。
「どういたしまして」
滅多にしない営業スマイルを少女に捧げ、絢は場所を移動した。
そんな絢と少女のやり取りを見てる者は数人いた。
だが幸いにもそれ以上声をかけてくる者はいない。逃げよ、っと絢は本屋を出た。
現役の頃は、日常的なことだったが、さすがにそろそろ仕事を離れて一年経とうとしているし一般の生活に溶け込んでしまった自分が、こんなことをしているのは、違和感に感じた。


駅前から少し歩き、繁華街からちょっと分かりにくいところに隆文のオヤジさんが経営するレストランがあった。
近くに、なにか大きなビルでも出来るのか、建設中の工事の音がやかましい。
それでも、ここになにか大きなオフィスビルでも建てば、隆文の家のレストランも少しは儲かるのかな?と絢は思った。
隆文からは、立地条件の悪さがあのレストランを赤字にしている、といつも愚痴を聞かれされていた。
オヤジの料理は激美味なんだからな!と、悔しそうだった。
親思いの子だった。悪い子ではなかった。むしろ、かなりの確率でいい子だと絢は思っていた。
昔の俺より、よっぽどな、と。同じ歳の頃の俺と北斗より、全然いい子だよ・・・と。
「いらっしゃいませ」
隆文とよく似た声が、絢を迎えた。
「あ。これは、石塚さん」
バサバサと新聞を畳んで、奥の席から隆文の父・伊藤康成が立ち上がった。
客0。夕飯にはまだ時間があるにしても、侘しー・・・と絢は同情を禁じえない。
「こんにちは。隆文は、大丈夫ですか?」
「いやあ。家でうなっとりますわ。風邪でしょうが、石塚さんにうつしちゃうからって」
ハハハと、康成は苦笑していた。
「お大事にと伝えてください。ムリはしなくてイイと。それでですね。腹減ったんで、なんか食わせてもらえます?」
「勿論です。なに作りますか?」
「お任せします。伊藤さんの家の料理には慣れましたし、なんでも食べれます。美味しいから」
「うわ。こりゃ、嬉しいですなぁ〜。よし。気合入れて作りますよ」
絢は思わずクスッと笑った。
隆文が単純なのは、父親譲りらしい。康成は笑み崩れて、厨房へと移動していったからだ。


絢はグルリと店内を見渡した。どこの田舎町にでもあるような、平凡なレストランだった。
古ぼけた時計や椅子やテーブルが、むしろレトロだ、と都会の客などは喜ぶかもしれない。
静かな店内に、その古びた時計だが音を刻む。
「いや、お恥ずかしい。静かですみませんね。もう少ししたら、バイトの子も来るし、客も来るとは思うのですが」
そう言いながら、康成はサラダと水を持ってきた。
「構いませんよ。人が大勢いるのは苦手です」
「よく言いますよ。もでるなんてお仕事していた癖に」
カラカラと康成は笑う。
「あれは仕事です。好きでなった訳ではないですし」
「おや。そうなんですか?よくお似合いの職業かと思いましたが」
「あの。・・・突然ですが、奥様は?お手伝いとかにいらっしゃらないんですか?」
絢は少し期待していた。
たぶん隆文似の美人の奥さんが手伝いをしているのでは?と思って、好奇心でこの店に来たこともあったからだ。
すると、康成はハッと目を見開いた。
「隆文から聞いておりませんか」
「なにをです」
絢は聞き返した。康成は頭を掻いていた。
「アイツ、話しておらんですか。いえね。うちの女房。入院しとるんですわ。もう一年近くになりますか。事故で・・・。幸い命に別状はありませんでしたが、意識が戻らずに。もうずっと寝たきりで、機械のおかげで生きてる状態です」
康成の言葉は、絢にとって衝撃的だった。
「本当ですか?そんなこと、隆文は一度も・・・」
「言えないかもしれませんな。うちのがあんな状態になったのは、半分は隆文の責任でもありますしな。半分は私ですが。お恥ずかしい話ですが、私と隆文は当時諍いが多くて。今でこそはこんな感じですが、当時は顔を合わせば喧嘩ばかりしとりました。あの日もやはり喧嘩をして。夕飯の時に私が怒鳴りつけたことに対して隆文が怒り、家を飛び出しました。女房が心配して、隆文の後を追いかけまして。家を出て少しのところで、女房は角を曲がってきた車に撥ね飛ばされました。夢中で隆文を追いかけていたので、気づかなかったのでしょうな。明らかに、女房が確認を怠り飛び出したのが事故の原因でした。あの時の音は、家に居た私の耳にも響きました。ショックでした。目の前でそれを見ていた隆文は、もっとショックでしたでしょう」
「・・・」
母が病院のベッドに横たわる姿は、絢にとっても馴染み深い光景だった。
だが、あの頃の自分にとって、母はそれでも死ぬまでは、ちゃんと喋って、笑っていた。生きて、いた。
しかし、隆文や康成の場合は・・・。
「失って初めて気づくこともあるんですな。それ以来、私と隆文は一度たりとも喧嘩はしておりません。それが女房に対するわしらのせめてもの償いですな。なに、そのうちひょっこりと目を覚ましてくれますよ。私と隆文は諦めてません。しめっぽくなりましたな。すみません。すぐに出来ますからね。お待ちを」
逃げるように、康成は厨房に去っていってしまった。
辛いことを思い出させてしまったな、と絢は申し訳なく思った。
それにしても、隆文は、そんなことは一言も口にしたりしなかった。


人は、失って気づくことがたくさん、ある。
そして、言葉にしないだけで、抱えているものもたくさん、ある。

人は。康成は。隆文は。俺は。きっと、北斗でさえも・・・。

厨房から、いい匂いがし、フライパンでなにかを焼く音が景気よく、静かな店内の沈黙を突き破るように、響いてきた。
隆文が、風邪を治して元気になったら、上等な肉をたくさん買ってやって、焼肉しよう、と絢は思った。