北斗は、カーペットに叩き落された灰皿や本や書類を眺めては、苦笑した。
やはり、自分と兄は血が繋がっているのだな、と思う。
物に当たるのは、本城の血筋だ。
だが、度を越して投げた灰皿が、書棚のガラスの扉にぶち当たりガラスを散乱させたことのある兄南のが、凄まじい。
今回はそこまで至らないようではあるが・・・。
兄の秘書、坂井がさっきから、カーペットに放り出されたものを拾い上げるのに忙しそうだった。
「なにをヘラヘラしてる、北斗」
兄の怒鳴り声。さっきまで、英語で怒鳴りまくっていたのに、いきなり日本語だった。
なまじ美貌なだけに、兄の怒りの形相は迫力がある。
「すみません」
「おまえは。俺がバカにされたのに、やつらの連れてたブロンドの美人秘書に色目を使っていやがって!」
キィッー、と女のヒステリーかのように、兄が雑誌を北斗に投げつけてきた。
「おっと。そりゃないでしょ、兄さん」
雑誌を避けながら、北斗は南の座るデスクにむかって、歩を進めた。
「今回俺を呼んだのは、色仕掛け含むじゃないか。男は自分で担当するから、女は任せるって。あのブロンドは、中々あっちの内情に詳しそうでしたよ」
ニヤニヤと北斗は笑いながら、南のデスクの端に腰を下ろした。
南は、椅子に深く腰掛けながら、ゆっくりと北斗を見上げては鼻を鳴らした。
南は、ゲイだった。当たり前と言うべきか。なまじな女は歯が立たないほどの美貌なんだから、仕方ない。
その気のない男ですら皆、南の美貌には感嘆する。むろん、本人もそれを知り尽くしている。
元々、南は長年男の恋人をその傍に置いていた。
例の事件でその恋人と別れてから、南は特定の恋人を持っていないが、相変わらず男遊びをしていることは、北斗もそして周囲の者も皆知っている。
「色仕掛けは止めたよ。あっちは中々骨がありそうだ。こうなったら、徹底的に遊んでやる。僕をバカにしたということは、本城グループ全てをバカにしたということだ。覚えてろ!小さな国の単なる金持ちだとみくびったこと、死ぬほど後悔させてやる」
パンッ、と南は肘掛を手で叩いた。
「単なる金持ちだとは思っていないでしょうよ」
北斗は短く答えた。
この国の、一番ランクの高いホテルの最上階とまでは言わなくてもそれなりに高層階のフロアをすべてを借り切って、拠点とし、本城グループは今回の取引きを進めているのだ。
この国に住まうものであれば、それがどれだけ金のかかることかなど想像に容易いに違いない。
実際、南の執務室となっているこの部屋も無駄に広く、そして豪華な内装だった。
むろん北斗には慣れた光景ではあったが。
「じっくり、じわじわと屈服させてやる」
南は、指を組みながら、虚空を睨むように呟いた。
その視線は、鋭く、凄まじい迫力だった。さすがの北斗も眉を潜めた。
「長期滞在するつもりですか?」
「当たり前だろう。簡単になんか折れてやらないよ。僕は単純に怒ったよ。複雑に怒るより、根が深いさ。この取引。本城に9割来なければ、ウンとは言ってやらない」
「そりゃ、ムリだ。相手にだってプライドがある」
北斗は、首を振った。兄の言うことは無茶すぎた。
「プライド?そんなもん、こっちにだってあるんだよ。引き下がらないよ、僕は。その為には、どんな手だって使ってやる。北斗、おまえの会社、誰かに預けろ。おまえは僕の勝負を見届けるんだ」
こうなったら、兄には逆らえない。だが、一応の抵抗を北斗は試みた。
「・・・俺、そろそろ女房に子供が生まれそうなんだけど」
「おまえがいなくても勝手に生まれる」
フンッ、と南は即答だった。
「・・・了解。じゃあ、守山に会社を一任する。見守るよ、兄さん」
仕方なく北斗はそう答えた。
「いい子だね、北斗」
南は、北斗の返事に、機嫌よくニッコリ笑うと北斗の頬にキスをした。
「さて。それじゃ僕も坂井に指示を出すよ。守山はいつ来るの?」
「1日遅れて。そろそろ着くのではないかと」
「なぜ、ずらした?いつもおまえにピッタリとくっついて離れないのに」
訝しげに南は首を傾げた。
「さあ。どうしても外せない私用があるって言われた。そんなこと、あって普通だから、許した」
「そう。珍しいこともあるもんだね」
ふーんと南はうなづき、北斗の肩を叩き、「頑張ろうね」と言って、部屋を出て行った。
北斗は、南の背を見送ってから、ホーッと深く息をついた。
いつものことだが、ビジネスが絡む兄とのやり取りは緊張する・・・と思った。


1日遅れて到着した守山と、北斗はルームサービスで食事を取った。
「北斗様。商談の方は」
守山は席に着くなりそう言った。
「初日から大荒れ。やつら、兄貴のことを完全に見くびってた。あのツラだからしゃーねーだろーけどな。兄貴は完璧ご機嫌を損ねてさ。長期戦でいたぶってやるってさ。気の毒にな。おとなしくこの話進めていりゃ、やつらもこれ以上火傷しなくて済んだのにさ」
北斗は肩を竦めながら、カパカパとワインをあおっていた。
「南様を怒らすとは、命知らずな方々ですね」
守山は、北斗を見つめながら、クスクスと笑った。
「ところで、守山」
グラスを手にしながら、北斗ズイッと身を乗り出した。
「はい。石塚さんの件ですね」
心得ている守山は、すぐに北斗の言いたいことを理解した。
「ああ。どうだった、アイツ?喜んでたか?」
「いまいちわかりかねますね。石塚さんは、あまり喜怒哀楽が顔に出るタイプではないので」
「そりゃおまえもそーだろ。・・・ってことは、絢。あんまり喜んでなかったのか?いきなりすぎたかな。アリーが死んで、すぐだったもんな。けど、俺・・・」
絢を一人にさせてしまうのは可哀想だったから・・・と言う言葉を北斗は飲み込んだ。
「いいえ。石塚さんは喜んでおりました。ええ、とても」
守山の言葉に、パッと北斗は照れたように顔を輝かせた。
「そ、そうか。そりゃ良かった」
「ええ。同居されている少年と、子犬を取り合うほどに」
「!」
北斗は、ピクッと守山を見た。
「同居してる少年?」
「伊藤隆文。18歳。住み込みで石塚さんの身の回りの世話をしている少年です」
「・・・」
ついさっきまで、照れたように笑っていた北斗の表情が、どんどん険しくなっていた。
守山は、そんな北斗の表情の変化をジッと見つめていた。
「海が目の前の一軒家でした。大きな家でしたが、それほど作りは新しくありませんでした。石塚さんの収入からいけば、もっと幾らでも立派な家が買えたでしょうに、実にあの方らしい家でした。でも、私は好きなタイプの家でしたね。同居している少年は、とても石塚さんに懐いているように見えました。どちらかといえば、人嫌い気味の石塚さんもとても可愛がっているように見えました。恋人か?と単刀直入に聞かせていただきまして、違うと答えられましたが、そうなるのも時間の問題かと見受けられました。ですが、これはあくまでも私の見解であり、事実とは異な」
言いかけて、守山は黙った。北斗が明らかに不快な顔をしていたからだ。
「もういい」
北斗は、食べる手を止めていた。
「申し訳ありません。余計なことを言い過ぎました」
守山はペコリと頭を下げた。
「・・・違う。おまえが言ったのは、正確に、俺の聞きたかったことだ」
北斗は額に手をやり、溜め息をついた。
「・・・そうだよな。アリーがいなくなって絢は一人。そう思ったのが間違いだった。やつには、一緒に住んでいる男がいるんだものな。にしても、18歳かよ。やりきれねー・・・」
北斗は、ダラリと背もたれに寄りかかり、天井をあおいでは嘆息した。
「北斗様・・・。あえて言わせていただきます。もう、石塚様は、貴方とは別の時間を刻んでます。この際、生まれてくるお子様と奥様に目を向けて、あの方のことはお忘れになる努力をすべきです。北斗様が手放したのではない。あの方は、ご自分で北斗様の元を去られたのですから」
「・・・わかっている」
北斗は、ワイングラスを指に挟んで転がしていた。
「わかっているんだ、そんなことっ!」
テーブルに、バンッと北斗はワイングラスを乱暴に叩き置いた。
「あんまり乱暴にされますと、割れますよ」
守山の冷静な声が返ってきた。その声に北斗はハッとした。
「すまん。おまえも到着したばかりで疲れているんだよな。悪い、ゆっくり食ってくれ」
「ありがとうございます」
守山は、北斗の手が止まったと同時に自分の手も止めていたが、北斗に促され、フォークを動かした。
「俺は、こっちにしばらく滞在する羽目になりそうだ。守山。来てもらってすぐにで悪いが、坂井と相談してから、先に日本に帰ってくれ。あっちも坂井が兄貴の代わりに先に帰るようだからな。俺のいない間、会社のすべての業務をおまえに一任する」
北斗の言葉に、守山はうなづいた。
「お任せください。お戻りになられるまで、滞りなく運営しておきます」
「頼む・・・」
守山は、消沈する北斗の横顔を見つめながら、
「食いたいもんを食い、寝たい時に寝て、海を目の前に、俺は幸せだ、と北斗に伝えてくれと。石塚さんからの伝言です」
「・・・受け取った」
北斗はうなづいた。
日本と外国。絢と俺の居る位置。遠い。でも、それだけじゃ、ない。
北斗は、絢との間に流れてしまった半年という時間を後悔していた。
離すべきじゃ、なかった。やはり、離すべきじゃなかった。
俺じゃない誰かと一緒にいる絢が幸せなんて、許せない。
この前押さえた、暗い嫉妬の炎がチリチリと胸を焦がすのを感じて北斗は唇を噛み締めた。
いつも、いつも。どこかで、俺達は愛し合っているのかもしれないと言う確信めいた期待に胸をときめかせていた。
でも、踏み切れなかった。自分もそうだが、絢の態度にも疑問があった。
絢は、ある一定以上の感情を越えて、俺になにかを求めてきたことはなかった。

ああ。また、だ。心の中に、出会いの日に降っていた雨が降り始める。温いようで、でも冷たい、雨。
絢のことを深く考えると、俺はいつもこの雨に突き当たる。北斗は、目を伏せた。
越えられなかった関係は、離れた時に諦めるべきだった。
それなのに、今だにこうして心のどこかに抱え込んでいる。
この執着。断ち切らなければ、俺は鬼になる。
淋しい俺達は、淋しい俺達のままでいなくてはいけなかったのか。
俺だけ淋しいままで、絢だけが幸せになるのは悔しいか?
だとしたら、俺は浅ましい、さもしい。なんてイヤな人間なんだろう・・・。
「北斗様。貴方が出来ないならば、私がやりましょう」
守山の声に、北斗は目を見開いた。
心を読まれたか?いや、違う。守山と俺は、近しく育った。守山は、俺の心の光と影を知っているのだ。
「石塚さんは、貴方には、もういらない。貴方の人生に必要のない人物です」
「よせ」
「あの方は、もう、貴方の傍には、いらない。北斗様。最初から、そうだったのです。偶然ではなかった出会いが、貴方になにをもたらしましたか?あの方の存在が目の届く位置にあるから、貴方は苦しむ。私が消してさしあげましょう」
北斗は、首を振った。
「やめろ。それ以上、言うな!!」
守山は、北斗をまっすぐに見つめていた。瞬きすら、していない。
「可愛い私の北斗様。幼い頃より、私には貴方がすべてでした。私は、貴方が楽になるならば、罪を犯すことも怖くない。貴方は、そのままでいてください。全部、私が片付けてさしあげましょう」
「!」
その言葉に、北斗は凍りついた。
気づかなかった。この男は、俺を愛していたのだ・・・。