「おい。にーちゃん。おい。大丈夫か?」
グラグラと肩を揺すられて、絢はパチリと目を開けた。
「え?」
「あー。良かった。どっこも怪我してねえなぁ。ったくよお。驚いたぜ。よくドラマにあんだろ。刺されて、警察呼ぶ為に電話ボックス入ったはいいが力尽きて死んじまう場面。それかと思ったよ」
カッカッと自分の目の前で笑うのは、一目でガテンだとわかるオッサンだった。
「もう夜明けだぜ。じゃあな」
「あ、ありがとうございました」
「なんの」
パタパタとオッサンは、路肩に停めた車に走っていった。デコトラ。長距離トラックの運転手なのだろう。
ブォオーと絢の前を、勇ましく派手なトラックが駆け抜けていった。
「やべえ。寝ちまったのか」
絢は、右手に緑の受話器を握り締めたままだった。
受話器を握りしめながら、狭いガラスのボックスの中にうずくまり、そのまま膝に顔を埋めて眠ってしまっていたのだ。
『オイ。どーした。大丈夫か?』
受話器から聞こえてきた声にギョッとして、絢は慌てて受話器を持ち直した。
「北斗?」
『なにやってんだよ。ったく。どーした。大丈夫か?』
「バカか。てめー。ずっと繋ぎっぱなしだったのか?」
夜中。泣きながら北斗の家に電話をして。北斗の声を聞いたらもっと泣けてきて。
そんなことをしている間に電話が切れそうになっていたら、ボックスの電話番号を北斗が確認してきた。
電話番号が書かれているシールを見つけ、絢がそれを読み上げると、数秒後に北斗からの電話がボックスの中に響いた。
それからだ。記憶がない。すぐに泣き疲れて眠ってしまったのだろうか・・・。
『バカ?てめー、いい度胸だな。泣き止まないてめーが心配で、切れなかったんだよ。仕方ねえだろ』
「アホっ。構わずに切りゃいいだろ」
絢は、受話器に向かって怒鳴った。
『なんだと?』
「俺はもう家に帰る。じゃあな」
『って、オイ。待て。絢。け』
ガシャンッと絢は受話器を置いた。我知らず顔が赤くなってしまった。
バカみてー。コイツは昔から、そうだ。こうやって、優しい。それこそ、罪づくりなぐらい。
こんなことされたら、誤解しちまうだろ・・・。絢はチッと舌打ちした。
この優しさが、自分だけに注がれたもののように感じてしまうのだ。
北斗は・・・。妻にも。たくさんいる愛人にも。長く続いている銀座のクラブのママにも。こんな風に優しいのだ。
だから、彼は誰からでも愛される。天然なのか意識的なのかわからない。
でも。誰でもきっと、この瞬間だけは、幸せだろう、と絢は思った。
俺でさえもな・・・。


完全に日が昇るのをその目で捕えながら、絢はサクサクと砂浜を歩いた。
涙は去った。悲しみの一夜は明け、新しい日を迎えた。
北斗の声を聞かなかったら、きっと俺は、まだ泣いていただろうな、と絢はぼんやり考えた。
家の方から、隆文が走ってきた。
「絢」
絢の名を呼びながら、走ってきた。裸足だ。心配かけたな、と絢は走ってくる隆文をまっすぐに見つめていた。
「隆文、ゴメン」
そう言う自分の声が、波の音と共に辺りに響いた。景色も音も戻ってきた。
悲しみに暮れていた昨日は、目の前の海も寄せては引く波の音も、絢にとって、全ては遠くに在った。でも、今は違う。
「よかった。絢」
バッと、砂を蹴って、抱きついてきた隆文を絢はゆっくりと抱きしめた。


アリーがいない。いつも、絢の後をとことことついてきたアリーがいない。
それでも、日常が戻ってきた。絢は、隆文の用意した朝食を平らげ、それから二人で部屋の片付けをした。
絢が持ってきた荷物はかなり多く、そのどれもがいまだにダンボールにおさまったままだったのだ。
「これもいらない。これもいらない」
ポイポイと絢は、ダンボールを整理していく。
「け、絢。これ、ブランドものじゃねーか。この財布も。このカバンも」
「欲しけりゃ、やるよ。皆もらいもんだ。わりーけど、俺興味ねーんだ、ブランドとか、そーゆーの」
「なんて勿体無い」
ハア、と隆文は、目の前にうず高く積まれた処分品を眺めていた。
「これ、捨てるの勿体ないよ、絢。質屋とかに出そう」
名案!とばかりに隆文がポンッと手を打った。
「ふーん。売れるかな?まあ、おまえに任せるよ」
「任せろって。儲かったら、たまには町出て、美味しいモン食いに行こうぜ」
「そうだな」
「やったぁ」
隆文は、無邪気だ。最初会った時は、もっと大人びた子かと思ったが、そうでもない。
大人びて見えるのは、長身と、整った顔のせいだろうと、絢は隆文をまじまじと見ては勝手に納得した。
「な、なんだよ。ジッと見て」
絢の視線に気づいて、隆文は、ズササッと後ずさった。
「い、色っぽい目で見られても、困るぞ。俺にはその気がねー!」
「あのさ。おまえ、おふくろ似だよな」
「へ?あ、ああ。母ちゃんに似てるってよく言われる」
質問が意外だったのか、隆文はキョトンとしながら答えた。
「だよな。オヤジには似てねーもん」
クススッと絢は笑った。
隆文のオヤジは、どこの田舎にでもいそうな純朴そうな平凡な男だったからだ。
背もあんまり高くなかった。きっと、母親が素晴らしく美人なんだろうと想像した。
「あー。飽きた、飽きた。ダンボールはまた今度。隆文、昼飯」
絢は、グテッと床に倒れこんだ。
「ヘイヘイ。りょーかい」
絢のリズムにすっかり慣れた隆文は、逆らわずにキッチンに走っていった。
開いたものの、まだ半分以上は未整理のダンボールに、絢は目もくれずに足でドアを閉めて、さっさと部屋を出て行った。
このダンボールが完全に整理される日は、さぞかし遠いことであろう。


階段を降りて、リビングに行こうとした絢は、玄関のチャイムが鳴ったことに気づいて、驚いた。
この家に来客はない。来るとしたら、DELIVERYかなにかだ。
なにか注文していたっけ?と思いつつ、絢は玄関のドアノブに手をかけた。
なんの警戒もなく、ドアを開き、その向こうに立っている男を見て、絢は驚いた。
「守山さん・・・」
「ご無沙汰してます。石塚さん」
ペコリと、男は頭を下げた。
守山芳樹。本城分家の血筋の男であり、幼い頃からの北斗のお守り役であり、現在は第一秘書。
その守山が、ドアの向こうに立っていたのだ。
「北斗もいるの?」
絢は慌てて聞き返した。
「いえ。私一人です」
守山はニッコリと笑って、そして、絢の前にスッとキャリーバッグを差し出した。
「北斗様よりの預りものです」
「え」
絢は、守山からそのバッグを受け取った。中からは、小さな声が「きゃん」と聴こえた。
「・・・」
弾かれたように絢は、守山を見た。
「北斗様が、石塚様へとお届けするように、と。お名前は、キャメロンだそうです」
「キャメロン?てめーが好きな女優の名前じゃねーか・・・」
苦笑して、絢はバッグを覗きこんだ。
バッグの中には、まだ小さな体の犬がフルフルと尻尾を振りながら、大きな目で絢を見つめていた。


「ステキなところにお住いですね」
守山は、目の前のテーブルにズラリと並べられた料理に目をやりながら、ホウッと感嘆な声をあげた。
「これはスゴイですね。海の幸ですな。私は歓迎されているのでしょうか?」
「人が来ることが滅多にないですから。隆文の実家はレストランをやっていて。彼もいずれ父上の跡を継いで料理人になることが夢みたいですから。嬉しいンでしょう。腕ふるえるのが。俺は貴方もご存知のとーり、ただ腹に入ればいいってタイプだし」
絢は、目の前のタコの刺身をつまんで、口に放り込んだ。
「お口にあうかどうかわかりませんが、どうぞ」
キッチンから、まだなにか持ってきながら、隆文が守山に向かって、ニコニコと言った。
「いただきます。突然訪ねて来たのに、このようにもてなしていただき、感謝しております」
背広を脱ぎながら、守山は隆文に向かってペコリとお辞儀をした。
「どーぞ、どーぞ。たんと食ってください」
うひゃひゃと笑いながら、隆文はコソッと絢の耳元に囁いた。
「すげえ、品のいい紳士でございますな、絢。とても絢の知り合いには見えねーぞ。なにもの?」
「生憎、育った環境が違うのでございますな。フン。こちらは、守山さんと言われる。俺の友達の本城北斗の秘書だ」
絢の説明には、隆文はキョトッとした。
「本城北斗?って言ったら、絢の」
「よけーなこと言うな」
ガシッと、絢のパンチが隆文に炸裂した。
ひで〜っと文句を垂れながら、隆文がキッチンに戻っていく。そんな様子を見て、守山は静かに微笑んでいた。
「随分仲むつまじいご様子ですな。失礼ですが、恋人だったりするんですか?」
守山は、勿論、絢と北斗の関係を知っている。
「残念ながら、年下には興味がありませんので」
絢は、守山が苦手だった。なので、口調は自然と尖ったものになる。守山の視線は、鋭い。
いつも、北斗と自分を見る目が冷ややかだった。
目が笑ってねーっつーのは、こーゆー男のことを言うんだよ、と絢は思った。
でも。自分と守山には共通点がある。本城北斗という男を愛している、ということだ。
北斗を見つめていると、自然と守山とも目が合った。視線が同じものを追っていたからだ。
そう考えると、なにがしの共感出来る部分を感じないでもない。絢は複雑だった。
守山は、本気で隆文の料理を堪能していた。パクパクと平らげていく。
「今日は、どうしてここへ?守山さん程の方がわざわざ来るなんて・・・」
だいたい、場所教えてねーっつーの。と絢は思いながら、守山に問う。
「北斗様は、本日より南様と共に海外へ行かれました。かなり大事なビジネスの為に。私もお供するつもりでしたが頼まれごとがありまして残りました」
「そうですか」
絢は、ジッと守山の手を見ていた。フォークの使い方が鮮やかだ。北斗もそうだった。
なにげないのに、なんだかとっても決まっている。上流階級はやっぱり食い方まで違うんだよな、と絢は忌々しかった。
「成田で北斗様を待っていたら、中々お見えにならなくて。珍しく遅刻なさいましてね。一便遅れましたが、無事に出発されまして。その時に、あの犬を石塚さんに届けてくれと頼まれまして、ここへ参った次第です」
嫌みったらしい・・・と絢は、肩を竦めた。
なぜ北斗が遅刻したのか、などと。そんなことは、きっととっくに知っているのだ。
北斗が滅多にしないポカをするのは、大抵俺が絡んでると思ってやがるくせに・・・。
でも、それは真実だ。北斗の遅刻は、俺との度を越した長電話のせいだ。
しかし、いちいちそんなことを説明する必要もないと絢は、知らん振りを決め込んだ。
「まあ・・・。それだけではないのも、むろんご存知かと思いますが」
フォークの手を止めて、守山が言った。
「え?」
「北斗様が、石塚さんのご様子を見てきてくれと。元気にやっているか、どんな暮らしをしてるのか。あの方は、貴方のことをいつも心配されてます」
「それはありがたいですね。では、見たままを伝えてください。食いたいもんを食い、寝たい時に寝て、海を目の前に、俺は幸せだ、と」
絢は、逃げるパスタをフォークで捕まえながら、とくに考えこんだりもせずに、サラッと言った。
「勿論。そう伝えさせていただきます。貴方が幸せなのは、見ていてよくわかりますからね」
スルッと守山は、横からスプーンでパスタをすくい、鮮やかにフォークで巻き上げ、パスタを絢の皿の上にのせてやった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
たぶん。守山は年上だが、そう大して歳は変わらない筈だ。
なのに、昔から妙に落ち着いているのだ。すかしてる、とでも言うのか?と絢は思った。やることがいちいち気障ったらしい。
「・・・」
ふっ、と守山は視線を左にずらし、一面ガラスの窓を見、その向こうに広がる海を見つめていた。
絢もつられて、海を見た。
「北斗様がいないのに、本当にここで、幸せですか?」
海を見たまま、守山が囁くように言った。
「ならば、北斗をここに連れてきてください」
すると、ゆっくり守山は、絢を振り返った。
「貴方が・・・。勝手に、ここへ来たんですよ?」
絢は、守山の言葉に、顔が引き攣るのを感じた。
むろん、言い返すことは出来ない。そんな絢の表情をその鋭い目に捕えながら、守山は続けた。
「覚えておきなさい、石塚さん。貴方の愛した男は、平凡な世界に生きている男ではない。全てが我々一般人とはかけ離れているんだ。その思想、暮らし、なにもかも。我々の常識が通用しないことも多々有ります。どうぞ、お忘れなく」
ニッコリと守山は微笑んだ。
「それ、脅し?」
絢は、肩を竦めた。
「忠告です」
「意味不明だね。難しいことは、俺、よくわからないよ」
「ならば、いずれ身をもって知るでしょうね」
「言っておくけど。言ってる貴方も、一般人ではないことを、わかってますよね?」
「・・・難しいこと、おわかりじゃないですか」
ニコニコと守山は笑った。勝てねー・・・と絢は思った。この男には、勝てない。
二人の視線が、奇妙に交差した。その時。
「絢。絢。なに、この子。新しい犬?うわ、すげえ可愛いっ」
いつのまにか、隆文が、新しくやってきた子犬をちゃっかり腕に抱いてきた。
「そう。キャメロンって言うらしい。可愛いよな」
助かった、とばかりに絢は席を立ち、隆文に駆け寄った。
「キャメロン?長いな。んじゃ、おまえの名前はキャメ。いいか」
「勝手に縮小すんなよ」
「いいじゃん」
隆文の腕の中でもぞもぞ暴れる、アリーの代わりにやってきた子犬に、絢は目を細めた。
北斗が、俺にくれた犬。絢は、バッと隆文から子犬を奪い取った。
「俺の」
「なんだよ。まだいいじゃん。もう少し抱っこさせろよ〜」
「やだね」
隆文と、犬を挟んでじゃれあう絢は、気づかなかった。ジッと自分達を見つめていた守山の視線に。
守山の視線は、射るように鋭く、そして、冷たかった。


続く