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エリーの傷は、命を奪うまでには至らなかった。かなりの出血だったが、なんとか体は持ち堪えた。
精神的ショックのほうが、エリーにとっては深刻だった。
「雪が」とか「父さん」とか「血が」と、母国語の英語で繰り返し叫んではベッドの中で暴れた。
そして、「ルイ」と、何度も泪の名を呼んでは泣いていた。

付き添っていた潤が、病室から出てきた。
「まだだいぶ、混乱しているみたいだ」
泪は、エリーの興奮を煽らぬように、病室の外にあるソファに腰かけていた。
「そうか・・・」
付き添っている間中、泪はほとんど喋ることがなかった。
ただジッと、エリーの部屋に入っていく医師や看護婦達を眺めては、ソファに深く腰掛けたままだった。
「泪兄。エリー、もう大丈夫だから。会社行けよ」
潤の言葉に、泪はうなづいた。
「そうだな。後始末しねえと。けど、潤。おまえも俺の家で少し休めよ」
「俺は平気だよ」
そう言って潤は泪の隣に腰掛けた。
2人で、黙ってソファに腰かけていると、エレベータが到着した小さな音が、廊下に響いた。潤が顔を上げた。
「親父・・・」
自分達の父親、小野田洸がエレベータから降りてきた。
洸は、黙ったまま、つかつかとソファに向かって歩いてきた。潤が、洸を見上げた。
「親父!?」
潤の目の前をスッと通り過ぎて、洸は泪の前で立ち止まった。
「泪」
名を呼ばれ、泪はうつむいていた顔を上げた。瞬間、洸が腕を振り上げた。
「!」
潤は思わず目を瞑った。ガンッと鈍い音がして、泪が壁にぶつかった。構わずに洸は、再び腕を振り上げ、何度も泪を殴りつけた。
「やめろよ、親父!」
慌てて潤は、洸の体に飛びついた。
「止めろよ。もういいじゃねえか。止めろって」
「離せっ」
洸は叫ぶと、今度は泪を平手で叩いた。バシンッときつい音が静かな廊下に響いた。
「親父。ここは病院だぞ!」
「病院だから尚いいだろう。コイツがぶっ壊れたら、すぐに治してもらえる」
「そういう問題かよ。もう止めろよっ」
抵抗しない泪の前に、盾になるかのように潤は飛び出した。
バシッと洸の手が、潤を叩いた。泪は慌てて、潤の頭を自分の胸に抱えこんだ。
「止めろ。潤には手を出すな」
「泪」
洸は怒鳴った。
「おまえには心底呆れたぞ」
「・・・」
泪は、切れた唇から垂れた血を掌で拭きながら、黙っていた。
そんな泪を冷ややかに見ては、チッと舌打ちすると、洸はエリーの病室のドアノブに手をかけた。
「明後日、ヴィアス伯がこちらにみえる。どのように言われても、甘んじて聞け。そして、もう、こんなことになってしまった以上、エリーを自分のところに留めておけるとは思うなよ」
そう言って洸は、エリーの病室に入っていった。
「泪兄。大丈夫か・・・」
潤は、泪を振り返った。
「大丈夫じゃねえよ・・・。ジジイの癖して、バケモノ並の怪力だぜ、アイツ」
「だよな。すげえ、痛えよ」
「悪かったな、潤」
「いいさ。こんぐらい。でも、泪兄・・・」
心配そうな目で、潤は泪を見た。
「大丈夫だ。心配すんな」
泪は潤の頭を撫でた。
「エリーが・・・」
「心配するな」
「泪兄・・・」
「あとを任せた。俺は会社の始末をつけてくる」
そう言って、泪はヨロリと立ちあがった。


泪は辞表を提出した。所長は無言でそれを受け取った。休みのことといえど、たぶんそのうち事実が皆の耳に入るだろう。これでいいと泪は思った。引継ぎはすぐに終わった。やることなど、元々少なかった。仕事は、ただひたすら、自分で増やしていただけだったからだ。皆に短い挨拶を残し、泪は会社を出た。

相変わらず雪は降っていたが、気にせずに泪は海に向かった。夜と雪の海は不気味なくらいに静かだった。
防波堤に辿りつき、座ろうとしたら、声をかけられた。
「昇」
「ごめん。あとをつけてきた」
「いや。俺もおまえのところへあとで行くつもりだった。課長は相変わらずか?」
「大分落ち着いたよ。点滴が効いてるみたいだ」
昇は、泪の横に立った。
「今回のこと・・・」
「おまえはなにも気にするな。なにかあっても、それは全部俺がケリつけるから。と言っても、エリーはきっとこの件を揉み消してしまうだろうから、結局はエリーのおかげというべきか」
「あの人は一体・・・」
「アイツの正体は俺達の会社の、スポンサーの令息だ。たくさんいるスポンサーの1つだが、影響力は大きい。その社長令息なんだ。昇。多分だけど、課長はおまえの条件をちゃんと守ったんだ。だが、俺とおまえのことは公表されてしまった。これには、たぶん裏にエリーの父親のヴィアス伯が絡んでいる。エリーはな。事情があって、ヴィアス伯を嫌い、そして彼の元へと戻るのを拒んでいた。だが、伯爵はどうしても息子を手元に戻したい。それで、きっとエリーをギリギリまで追い込む為に、公表したんだ。だからエリーは、課長は被害者だと言ったんだ」
「・・・そうか。そういうことだったのか・・・」
昇は俯いた。
「昇。俺は課長にも、そしてそれ以上におまえに。謝らなきゃいけねえことがあるんだ」
「聞くよ。それを聞く為に、僕はここへ来たんだから」
昇は泪の髪に積もる雪を指で摘みながら、言った。
「おまえとつきあったのは、おまえが大堀昇になったからだ。おまえが、高野昇として、あのまま俺の同僚であったならば、俺はおまえとつきあうことはなかっただろう」
泪の言葉に、昇は眉をしかめた。
「意味がわからないよ」
「俺はな。人の物を奪るのが好きなんだ。端的に言えばそうなんだ。病気だって自覚してる。おまえが、大堀課長の物になった時点で、俺はおまえを愛した。おまえを彼女から奪う為にな。止められねえんだよ。どうしても、そういうことになっちまうんだ。何度も弟達からも言われたぜ。バカな恋愛は止めろって。けどな。人が持ってるもんは、本当に綺麗で、羨ましくて。自分の物にしたくなっちまうんだ」
「それって、俺が里美と結婚しなければ、泪は俺を愛さなかったのか?」
「そうだ」
バシッと昇は、泪を叩いた。
「想像していたより、ひどい言葉だ」
そう言って昇は、泣いた。
「・・・」
泪は昇の涙に、なにも言うことが出来なかった。なんどこうやって、男を、女を泣かせただろう。その涙を見て、自分も深く傷つきながら、止めることが出来なかった。誰に呆れられ、怨まれ、そして刺されてもおかしくはなかった過去だった。こんな不誠実なことがあるかよ・・・と自分でも何度も思った。
「そんなおまえを知っていて、エリーさんはおまえを庇ったのか?庇う価値なんか、ないじゃないか」
「エリーは・・・。そうだ。俺にはアイツの気持ちがわからない。俺の全てを間近で全部見てきたヤツだ。なのに」
エリーはいつも、怒り、呆れ、だが最後には苦笑して。1度も泣かずに。とうとう離れずに、ここまで来やがった。
泪は胸が疼いた。
「昇・・・」
「なんだい」
吐息をつくかのように、泪は言った。
「俺は、エリーが・・・。エリーが好きなんだ。愛してるんだ。ずっとその事実から逃げてきたが。やっぱり俺はアイツが好きだったんだ」
「・・・彼は誰かの物なのかい?」
「・・・」
答えない泪に、昇は小さく溜め息をついた。
「そう。じゃあ、やっと、君は自分だけの人を見つけて、いや気づいたんだね。ならばいい。僕らみたいに君の被害者はもういなくなるってことだから」
「昇。すまなかった」
「泪。僕は君にどんな事情があってそんな恋愛しかしてこなかったかは知らない。聞くつもりもないさ。けど彼に愛されて、君は幸運だったんだよ。君は運が良かったんだ」
そう言って、昇はヒラリと防波堤を降りた。
「僕は里美と一緒に東京に帰るよ。今回の件で、彼女がどれだけ僕を愛してくれていたかがよくわかったよ。君の告白を聞いて、余計に思った。僕は君みたく間違えない。彼女と連れ添えば幸せになれる。今からでも遅くないと思うから。だから、君も・・・」
昇は言いかけて、止めた。
「さよなら、泪」
「ありがとう、昇」
泪は、雪を踏みしめて歩いていく昇の姿を見送り、やがて昇の姿が視界から消えた頃。
「・・・」
泪はゆっくりと振り返った。暗い海を見つめる。海に降る雪を。

俺はいつから、エリーを愛していたのだろうと泪は振り返る。暗い過去を知った今日に、愛したか?
いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。泪は自分の問いかけに自分で答える。
自分が宝物(エリー)を大切にした瞬間から、誰かに(エリーを)奪われる、と本気で思っていたんだ。
だから、気づかないふりをしていた。この想いに。長い、長い間・・・。潤の。弟達の分析通りだ。
俺から離れていってくれれば、俺はこの想いに迷わされなくて済む、とずっと思っていた。だから、いなくなればいいと思っていた。エリーが俺の手の届かないところへ。ずっとずっとそう願っていた。俺のそばから、いなくなれば。
フッと泪は苦笑する。本当に、苦い笑いだった。
だが、いざエリーが帰国を決めると、俺は滑稽なまでに動揺したでは、ないか。
あいつが俺のそばを離れていこうとしている・・・。
暗い海を見つめながら、握り締めた泪の拳が不覚にもブルブルと震えていく。
この先、俺が愛したことによって、あの白い雪は、汚れてゆくことになるかもしれない。
今日のように、肉体的にも精神的にも、血を流して苦しむかもしれない。
だが。愛さなければ、あの雪は白い雪のままでいられるだろう。

あの明るい向日葵は、このまま別れたら、別の場所で綺麗に咲けることだろう。
だが、引き留めたら、この場所で、枯れてしまうかもしれない。
泪は、震える手を伸ばし、空から降る雪を掌で受け止めた。小さな白い雪は、泪の掌で、簡単に溶けた。
掌には小さな水滴がポツリと残っている。
「いくら考えても、答えは一つ。・・・単純なことだよな・・・」
グッと泪は、掌を握りこんだ。そして、深く息を吸い込んだ。

****************

明後日。病院に、ヴィアス伯が到着した。
エリーの興奮はおさまっていたが、彼の視線はずっと天井を見たまま虚ろだった。
「帰国間近に、まさかこんな事態になろうとは。なんということだ」
ヴィアス伯は、そう言って大袈裟に嘆いてみせた。
彼は、ありとあらゆる罵りの言葉を、泪に向かってヒステリックに叫んでいた。
泪はひたすら、謝りの言葉を口にして頭を下げていた。
エリーはそれを聞きながら、「うるせえよ」と心の中で舌打ちしていた。
こんくらいなんだよ。てめえが、あの頃俺に与えた暴力と対して変わらねえだろ。
そう口に出して言いたかったが、勿論言える筈もない。
勝手に言ってろ、タヌキジジイ。金の力でなんでも思うとおりに動かして、さぞや満足だろうよ。おまえが大事に大事に蓄えた財産、俺がぜーんぶ綺麗に汚く使ってやらあ。
早口の英語で、ベラベラといいまくってはスッとしたのだろうか、いきなりヴィアス伯はエリーを振り返った。
「病室ということも忘れて、少し私は興奮してしまったようだよ。おまえがこんな姿になっていて、動揺してしまったんだ。また来るよ、エリー」
そう言って、エリーの額にキスをすると、伯爵は洸に連れられて病室を出ていった。

少し?どこが。めちゃくちゃ興奮してただろ。
おまえがこんな姿になって?散々俺に折檻したヤツがなにぬかす。
また来るよ?もう来んな!
エリーはヴィアス伯の去っていく背に、日本語でそう叫んで言い返していた。
ヴィアス伯が、洸に通訳を頼んでいる。「息子はなんと言ったのか?」と。洸は、クスクス笑いながら
「貴方が心配してくれて嬉しい。ありがとうと言っている」と大嘘な通訳をした。
すると、ヴィアス伯は満足したようにうなづいて、エリーに手を振って出ていった。
ぽつねんと取り残された泪が、クルリと振り返り、エリーを見た。
「ひでー顔・・・」
エリーは泪を見上げては、笑った。泪の顔は、痣だらけだった。先日洸に殴られた傷がまだ癒えていないのだ。
「おじさんにやられたの?」と聞いたが、泪は答えずにプイッと病室を出ていった。

なにも言わない泪。なにも言えない俺。エリーは溜め息をついた。
泪にはいっぱい隠しごとをしていた。聞かれなかったから言わなかった・・・が通用する相手ではない。
このままで、いい。このまま。互いに色々な思いを胸に秘めて。それでも、言い合ったら、全てが崩れてしまう。言い合いをしてしまったら、そこでオシマイになる。この苦労が。この決心が。今までの思いが、全て堰を切って溢れてしまうから。敢えて沈黙して、去るのだ。いつか、全てのことが思い出になる時間を経たら、その時はこの今の自分の気持ちを、泪に捧げればいいのだ。それまでは、きっと、とても苦しく、辛いだろうけれど。
長い、長い時間が必要なのだろうけれど・・・。
エリーは目を閉じた。体の痛みはもう感じないが、相変わらず胸が痛む。心が軋んでいるのが寝てる間中、よくわかった。とりあえず、早く海を越えねば。この想いが、堰を切ってしまわぬ前に・・・。

病室を出てエレベーターの前に佇んでいたら、泪は山下とバッタリ会った。
山下はエレベーターからちょうど降りてくるところだった。
「小野田さん・・・」
「山下、見舞いか」
山下は、泪の痣だらけの顔を見てビックリしたようだが、なにも言わなかった。
代わりに、「辞表・・・。出したんですね」と呟くように言った。
「所長に聞いたか?」
「ええ」
「いられねえだろ。あんなことしでかしちゃ。後釜におまえを推しておいた。おまえも年貢を納めろや。うちの会社は、なかなかいいぜ。頑張れば本社に行けるよ。おまえならばな」
「けど。エリーは、貴方の為にっ」
「山ちゃん」
「え?」
「イギリス行きは諦めるんだな」
そう言って、泪はニヤッと笑った。
「・・・」
「行っても無駄だぞ」
「どうしてですか?」
「聞くなよ」
思い当たり、山下は激しく首を振った。
「エリーが好きなんです。俺、エリーが・・・」
泪はうなづいた。
「わかっているが、おまえにエリーはやれない」
「!」
「なぜなら、あいつは俺のものだからだ」
山下は泪の目をジッと見た。泪もその山下の視線を反らすことなく受けた。
「それは、エリーを愛しているということですか?」
「そうだ。愛してる」
「今更ですか?」
「今更だ」
「本気ですか?」
「本気だ」
山下は目を伏せた。冗談なんかじゃないことは、泪を見れば、わかる。
「それじゃ・・・。もうどうしようもねえよな。他の誰にも負けないと思っていたけど、あんたじゃ勝ち目はないよ。小野田さん。あんたがエリーを愛してくれるなら、エリーの幸せは保証されたようなもんだもん」
グイッと山下は掌で目を拭った。
「ちきしょう!ちきしょう・・・ッ!」
何度も山下は繰り返した。やっぱりこういう展開なんじゃねーかっと心の中で叫んだ。
「エリーを。エリーを幸せにしやがれよっ!じゃないと、俺は諦めねえぞっ」
「・・・ああ」
「適当に返事してるんじゃねえぞっ!小野田泪っ」
「わかってる。山下。すまなかったな」
「ホントだよ、ちきしょうッ!」
「雪の中でも、アイツが笑えるように。俺はアイツともう1度約束をするよ」
「雪の中で笑う!?・・・また約束かよ?」
「ああ。今度は、俺がアイツにはたすべき約束を」
そう言って、泪は、山下の肩を軽く抱いた。
************************************************************
それから2週間後。
全快までとは言わないが、とりあえず動けるようになったので、エリーは帰国を決めた。
早くしなければ・・・という思いが、たえずエリーの心にあったからだ。

成田空港には、小野田一家が勢ぞろいしていた。
まだ出発には時間があるので、久し振りに顔を合わせた家族とエリーとで、空港内のレストランで食事をした。洸も、たまたま出張・・というより、かなり強引に出張を作り、一旦ヴィアス伯と共にイギリスに戻ったものの、再び来日していた。体調が不安なエリーに付き添い一緒に、イギリスに帰る為だ。
「エリー。元気ない。繭のご飯あげる」
潤の膝の上に乗っていた繭が、隣のエリーの皿に、自分のお子様ランチのご飯を、移した。
幼いながらも、繭にはエリーの気持ちがわかったようだった。
「マユ、あんがとねー」
パクッとエリーは、繭のくれたオレンジ色のご飯を口にした。
「美味しいよ。マユ、ありがとう」
「いいのぉー♪」
エリーは繭の頭を撫でた。繭は嬉しそうにエリーを見上げてはエヘヘと笑った。
「繭ちゃん、偉いぞー」
潤は、エリーと繭を交互に見て、ニコニコと笑っていた。
が。
テーブルを挟んで、自分らの前に座る兄達3人は、皆ブスッとしていた。
「アニキら。ツラ、怖いって」
潤が言うと、玲がムッとして言い返す。
「気分も悪くならあ。ったく、こんなに情けない見送りすんのは初めてだぜ」
「言いたくないけど、俺もね」
玲の隣に腰掛けた光も、珍しくご機嫌の悪い声だ。

2人の言い分がもっともなことは潤も承知していた。この場で、1番動揺してもいい筈の泪が、まったくのポーカーフェイスなのだから。エリーと一緒に空港に来たにも関わらず、二人はまるで冷め切ってしまった関係の恋人同志のように言葉も交わさないでいた。エリーは、時折チラチラと泪を見るのだが、泪はまったくエリーを無視状態だ。ま。ここで、号泣して謝罪するようなキャラじゃねえけどさ。うちの長男は・・・と、潤は思っていた。けれど、確かにこの泪の不気味な沈黙は気になる・・・。そして潤は、チラッと泪を見たが、泪は、もくもくとメシを平らげている。
「泪っ!てめえ、呑気にメシ食ってんじゃねえっ」
同じように思ったのか、珍しくクールな玲が興奮して、ガンッと隣の泪の脚を蹴り上げた。
「いてえな。なに興奮してんだよ」
「てめえ、なんでそんなに落ち着いているんだよ。エリーは帰るんだぜ。遊びにイギリスに戻るんじゃねえんだぞ」
「当たり前だろ。だから成田にまで見送りに来てるんだろ。遊びに行くだけならば、わざわざ来るかよ」
平然と泪は言った。
「こ、コイツ・・・」
カッと玲は拳を握りしめた。
「なにカッカッしてる。まったく・・・」
洸が呆れたように玲を見た。
「人目を気にして、騒げ。玲」
只でさえ目立つ小野田一家である。それなのに、玲がさっきから騒いでいるせいで、店内の客の視線は、小野田一家のテーブルに集中していた。
「うっせえな!」
ギッと玲は洸を睨んだ。
「光。玲を落ち着かせろ」
洸が光に命令する。玲を制御できるのは、光だけだと知っているのだ。
「やだよ。俺、今回に限っては玲兄に賛成だもん」
ぶすっと言い返した光に、玲はムッとした。
「今回に限って?なんだよ、てめえ、その言い方は。それじゃいつもの俺には反対だってぬかすのか?」
「大抵は反対だよ。玲兄の意見なんて」
喧嘩越しの玲の口調に、光もムッとして言い返す。
「んだと?」
バチバチと2人の間に火花が散った。洸は既に諦めて、食事を再開していた。
玲と光はギャアギャアと言い合っていた。
「なんだよ、玲兄のバカヤロー!俺が頭悪いと思って、ベラベラと理屈並べたてやがって。そうすりゃ俺が黙ると思いやがって。むかつく、コイツ」
光が半べそをかいた。
「光兄。本気で泣くなよ。玲兄は、光兄苛めるのがダイスキなんだから、思うツボだぜ」
潤はニヤニヤと笑って2人の言い争いを眺めていた。
「すげえ陰険だよ、玲兄は」
光はキッと玲を睨んだ。玲は、フンッと光から目を反らしては知らん振りだった。
「そうやってすぐにメソメソするから、苛められるんだろー。玲兄は、光兄のことが可愛くて仕方ねえんだから」
潤の言葉にエリーがうなづいた。
「そうそう。レイのやりかたって、本当に幼い。ガキが好きな子苛めているみたいだよ」
「そのまんまじゃねえかよ。ガキが好きな子苛めてるって」
泪がボソッと横から口を挟んだ。玲はバッと泪を振り返った。
「俺がガキって言うのか?なんだよ、泪。てめえだってそうだろーが。だいたいな。でかい図体しててめえが1番ガキじゃねえかよ。ここまで騒動デカくしても、まだ意地張ってるなんて、ちょっと頭おかしいぜ、てめえ」
「玲兄っ。もう止めろって」
光がグイッと玲の袖を引っ張った。
「好きな子苛めてなにが悪いっ。俺はちゃんと自覚してるぜ。てめえみたいに苛めっぱなしで放っておくような卑怯な真似はしてねえよ。それに、その分別のところでちゃんと可愛がってんだから、光にゃ文句言わせねえぜ。なあ、光」
「言うよ、黙れっ」
光は顔を赤くしながら、ボカッと玲の頭を殴った。
「ほらほら、僕の為の為に喧嘩なんてしないで。スマイル、スマイル、二人とも」
自身がニッコリ微笑み、そう言う明るいエリーであった。
「ちっ。エリーに言われちまったらな。どうしようもねえよ。でも、スマイルはできねーよ、俺」
玲はぶすくれたように言った。
「ふふふ。ま、なんだかんだでレイとヒカリは仲がよくてケッコーだね」
エリーは満足そうだ。
「エリー、羨ましい?」
潤がからかうようにエリーにコソッと囁いた。
「まあね。色々あったって、結局幸せになったヤツの勝ちさ」
ニコッと笑って、エリーは潤に囁き返す。
「自分はどうなのさ」
「俺?俺だってハッピーエンドさ。好きな人の為に役に立てたんだからね」
潤は、フムとうなづいた。
「泪兄も素直じゃねえけど、エリーも素直じゃないなあ」
「そう?」
「俺は、素直なエリーが好きだよ。泪兄追いかけ回していた、あの頃のエリーが」
「ジュン・・・」
「泪兄のひねくれ病が伝染しちまったのかな。エリーにも」
「そんなモン、伝染されてねえって。バカ」
クスクスとエリーが笑いながら、潤の頭を軽く叩いた。
「だってさ」
と言いかけて、潤は、視線を感じてハッとした。泪とガラス越しで目が合う。
泪は、家族の方から視線を反らし、反対側のガラス窓の方を見ていたが、そのガラスに映る皆のことを、いや、正確にはハッキリと潤を見ていた。まるで、余計なことは言うなというような、強い視線だった。
「やっぱ、なんでもねえ」
その視線を受けて、潤は慌てて言葉を止めた。エリーは追求してこなかった。


洸以外は滅多に来ない空港内を、観光気分でウロウロしていた小野田一家であったが、洸が腕の時計をチラリと見た。
「そろそろ時間だ」
その言葉に、一同はギクリとしたように、洸を振り返った。洸は、息子達の視線を受けて、苦笑した。
「おまえ達は・・・」
クスクスと洸は笑う。
「私は人攫いではないのだぞ。エリーは自分の意思で帰るのだ。私はヴィアス伯に頼まれて、エリーの付き添いをしているだけだぞ」
だが、息子達は黙っていた。黙って、ジロッと洸を睨んでいる。洸はやれやれと肩を竦めた。
エリーは、抱っこしていた繭を、光が持っていてくれていた自分の荷物と交換した。
小さなリュック1つがエリーの荷物だった。
「小さな荷物だな」と玲は言いながら、そのリュックを軽く指で弾いた。
「なにも持ってこなかったし、ここから持っていくものもないよ。全部、俺の胸の中にあるから」
エリーは、気障だなと自分で言い、照れたように笑った。


ぞろぞろと歩いていると、山下と合流した。山下も見送りに来ていたのだった。
「アンタ達一行は、まったくよく目立つよ。探すのに、全然苦労しなかった」
「山ちゃん、わざわざ来てくれたんだ。サンキュ」
エリーは手をあげて、そして山下を抱き締めた。心からの感謝を込めて。
「エリー・・・。俺、イギリス行くのは諦めた。だから見送りに来たよ」
一瞬、エリーはポカンとした顔をした。山下の決意を、エリーはもう反対していなかったからだ。
彼と寝て、そして、自分の気持ちのままに走れる時間を持つ山下を、止める権利はないと思ったからだった。自由に走れる時間は、極めて少ない。エリーは自分自身の経験で知っていたからだ。だから、思いがけない山下の言葉に、エリーは一抹の寂しさを覚えた。だが堪えて、うなづいた。
「山ちゃん・・・。そうか。うん。わかった。でも、遊びに来てくれよ。歓迎するから。君達と栄光荘で過ごした最後の日本の思い出、忘れないよ。とても楽しかった」
山下は、ニッと笑いながらうなづいた。そして、エリーは小野田一家を見回した。
「レイ。ヒカリをあんまり苛めるなよ。ヒカリのこと悲しませたら、許さないからね。君は誤解されやすい行動ばっかり取るんだから。まあ、俺はおまえのそういう性格好きだけどさ。幸せにね」
「わかったよ。エリーも元気でな。泪のことなんて忘れてもいいが、俺のこと忘れるなよ」
ちょっと照れたように玲はうなづいた。
「ヒカリ。君はレイを信じてしぶとくついていくことだよ。君にはそれが出来るし、そうすれば君は幸せになれるんだから」
「うん・・・」
光はグッと唇を噛み締めて、うなづく。
「ジュン。このまま、突っ走れ。おまえは、走ってる姿が1番カッコイイよ。迷わず行け」
「ありがと、エリー」
潤は、にっこりと笑う。
「マユ。君のことは俺は1番心配だよ。素直に育っていくんだよ。お兄ちゃん達に影響されないようにね。って、こんなこと、まだわかんないよな」
「エリー。どっか行くの?パパと一緒に遠くにいっちゃうの?」
繭は、光の腕の中で、泣きそうな顔をしていた。
「うん。お別れだよ。マユ」
そう言って、エリーは繭の栗色の髪に口づけた。
「やだあ。どうしてみんないなくなっちゃうの?パパも泪兄も潤兄も。エリーまで」
グシュグシュと繭は泣き出す。慌てて、玲と光の2人がかりで繭を慰め出す。
そして、エリーは泪を見た。泪はコートのポケットに両手を突っ込んで、家族の1番後ろに立っていた。
「ルイ・・・」
エリーは泪の名を呼んだ。なにか眩し気に目を細めて、それから意を決したように笑った。
「ルイ」
もう1度名を呼んで。そして、一歩踏み出す。
「これからは仕事・・・」
言って、エリーは詰まった。そして、黙ったまま俯いてしまう。そんなエリーに気づいて、「エリー。もういい。来なさい」洸は、エリーの腕を軽く掴んだ。
エリーは洸の手を振り払って、顔を上げた。そのまま泪をまっすぐに見つめて、叫んだ。
「俺は、おまえの為に帰ると決めたのに。おまえのせいで、帰れない!おまえがまだ、こんなに好きで、好きでたまらないよっ!おまえと離れるのは、淋しくて辛い・・・ッ」
青い瞳から、ボロボロと涙が零れた。
いつも明るく、涙なんて見せたことのなかったエリーが見せた、初めての涙。
玲と光と潤の3人は同時に長男の泪を振り返った。
今まで無表情だった泪が、3人の視線を受けて、軽く笑い、エリーを見つめて優しげに微笑んだ。
「先を越されちまったぜ・・・。俺は、おまえにはずっとかなわねーのかもしれねぇな」
ゆっくりと泪が歩き出す。皆の前を通り過ぎる時、コートのポケットから手を出しながら泪はボソリと言った。
「雪嫌いな俺の向日葵。泣き顔は似合わねえぞ。おまえは俺のそばで笑ってりゃいいんだよ」
泪がそう言うと、玲と光と潤は顔を見合わせて、そしてニヤリと笑った。
すぐ側に立っていた山下が小さく溜め息をつき、洸はやれやれと肩を竦めては苦笑していた。
エリーは、自分に向かって歩いてくる泪を見て、僅かに顔を強張らせていた。
「帰さない」
歩きながら泪は言った。エリーのそばに行き、泪はエリーの青い瞳を覗きこむようにして、優しくもう1度囁いた。
「俺はおまえを見送れない。おまえが俺に別れの言葉をきちんと言ってくれれば、俺が言えた台詞をおまえに先にもっていかれたぜ。・・・俺には、おまえが必要なんだ。だから、祖国には帰さない」
「!」
再び青い瞳から零れる涙を泪は長い指ですくいあげる。
「俺のせいで、おまえに痛い思いをさせてすまなかった。俺のせいで、長い間おまえを苦しめてすまかった」
エリーは、グイッと泪に抱き締められた。
「会社は辞めた。本社になんか戻らなくてもいい。俺は自分の犯した罪を償うつもりで、人生やり直す。だからおまえは、父親との交換条件を守らなくていいんだ」
「ルイ・・」
「俺は諦めない。あのプロジェクトは、必ずどこかで成功させてみせる。実行させてみせる。けれど、それまではとても大変だろう。しばらくは失業するから貧乏もする。何度も考えた。俺はおまえを引き留めていいのか。その権利があるのだろうか。おまえは俺と一緒にいて幸せになれのだろうか。答えは出なかった。でも一つわかったことがある。どんな状況にあろうとも、俺にはおまえが必要だということが。俺が、おまえから、離れられないんだ。愛してる」
「・・・ルイ。俺は貧乏には慣れているよ。金なんかいつもなかったし、部屋だっていつも狭くて汚いところしか知らないし。ごきぶりだって、ねずみだって、大丈夫だよ」
「色気のねえことを言うな」
泪は苦笑しながら、エリーを力強く抱き締めた。
「どんなことでも僕は大丈夫だけど。きっと、君を信じることが1番難しいんだと思う」
「この後に及んで俺をフるのか」
エリーはニヤリとする。
「出来る訳ねえことを知ってるくせに!」
「まあな」
泪もニヤリとやりかえす。
「帰らない。イギリスになんか、最初から帰りたくなかったんだ。おまえのそばにいたかったんだから。愛してる。おまえのことを誰よりも誰よりも、愛してるんだ」
エリーはきつく泪を抱き締め返した。僅かに爪先を浮かせて、泪の唇に自分の唇を重ねた。
泪もそれに応える。

たわいもない約束が、異国の地で交わされ、そしてその約束は、また別の異国の地ではたされた。
そして今度は、
「とりあえず、帰ろう。まだ俺の荷物はあのマンションに残っているんだ。けどついてこい。雪なんか、もう怖いと思うな。俺が、そばにいるから。おまえのオヤジみたく、俺はおまえを置いてどこへも行かないから。おまえを捨てない。ずっとそばにいる。約束だ。また新しい約束をしようぜ」
泪は小指を立てた。エリーはその小指を見て、唇を噛み締めてうなづいた。
「約束だよ。今度は、破ったらおまえがハリセンボン飲むんだ。約束だ。俺を置いていかないって。そばにいてくれるって。俺を一人にしないでくれよ・・・」
ポロポロと涙を零しながら、エリーは泪の小指に自分の指を絡めた。
「ああ。約束する。絶対だ。おまえが俺に会いに来たように。俺も必ず約束をはたす」
泪はそう言って、エリーの唇に自分の唇を重ねた。
「約束だよ」
エリーは泣きながら、笑った。
そして今度は、新しい約束がかわされる。


「んじゃ、俺達も帰るか。じゃあな、オヤジ」
潤が明るい声で言った。
「おいおい。そういう訳にはいかないだろう」
そう言いながらも、洸はニヤニヤと笑っている。
「てめえ一人で帰れって」
玲がヒラヒラと手を振った。
「伯爵によろしく言っておいてよ」
光が楽しそうに言う。
玲と光と潤は、背中に泪とエリーを庇っていた。
「あとは任せろ。おまえら、さっさと行っちゃえ」
玲が泪に向かって言った。
「悪いがそうさせてもらうぜ」
泪は笑うと、エリーに向かって手を差し伸べた。
「逃げるぞ」
「ルイ。俺、腹の傷が」
「途中で倒れたら、抱いていってやるから、とりあえず走れ」
「そんな恥かしいこと、冗談じゃないねっ」
エリーは笑って言い返しながら、泪の掌に自分の掌を重ねた。2人は走り出した。
「エリー、こら待て。待ちなさい。とりあえず今後のことをハッキリさせる為にも、一旦は伯爵の所に戻りなさい」
洸の声が、空港内の雑踏を押しのけ、一際大きく響いた。
「んなこと言われて、本気で待つバカがいるかっつーの」
山下に繭を預け、3人がかりで洸を押さえつけていた小野田兄弟だった。
「こら。おまえ達離せっ。イテテっ」
洸は痛みに呻いた。
「泪達、行ったか?」
玲。
「行った。って、行ってねえ。まだあそこで立ち止まってキスしてるぞ」
潤。
「んなのは、帰ってからゆっくりやれーっ」
光。
3人はそれぞれ叫んだ。
「離せっ」
「うぐぐ」
幾ら3人がかりといえど、体格のいい父を押さえつけているにも限度がある。
「諦めろ、オヤジ。邪魔するヤツは馬に蹴られるぜ」
「これで小野田家は断絶だ。良かったな」
「繭ちゃんに期待しようってことで」
「うるさいっ。おまえ達、とにかく離せっ。私は飛行機に乗り遅れる〜ッ!」
洸の悲鳴が、再び空港内に響いた。

END

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BGM・・・コブクロ「風」

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