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朝から雪だった。
エリーの帰国日は来週に決定したので、今日が最後の週末だ。
本日は、送別会という名の栄光荘では恒例の酒盛りだ。
既に気が重いぜと思いながら、山下は丸山と駅前に買出しに出かけた。
あの時。屋根から降りて、そのままエリーの部屋でそういう関係になった。
エリーにくっついてイギリスに行くと山下が言うと、丸山は笑っていた。
「頑張れよ」
その一言で、彼等が割り切った関係というのが理解出来た。勿論丸山は嫉妬もしなければ、なにも追及してこなかった。
だから、丸山とエリーの関係はいい。問題は、エリーと小野田だ。

あと少しで別れが近づいてきているのに、怖いくらいに普通の2人。エリーが、イギリスに戻ると小野田に告げた時、小野田は顔色1つ変えなかった。勿論、初めて聞くことじゃなかっただろうけれど・・・。
「たまには、遊びに来いよ」と小野田が言うと、エリーは肩を竦めながら、「もう来ねえよ」と言い返していた。
そんな2人の間に挟まれながら、山下は思う。

どんなふうに異国で出会い、別れ、再びこの二人は再会したのだろうか。そして再会してからの時間。

『とにかくルイといつも一緒だった。いつもくっついていたんだよ』
エリーがそう言っていた。
想像もつかない二人の時間なのに、何故だか山下の胸は痛んだ。
当の本人達は、少なくともエリーは、なにかを越えて吹っ切れているというのに、何故自分が・・・と思う。
しばし考えて、それは、と思い至る。ここまで来て、小野田の気持ちが読めないから、だ。
小野田はエリーの気持ちを知っている。そして、その気持ちを受け入れることがなく長い時間を過ごしてきた。だとしても。少しぐらいは寂しく思ってもいいだろうが。嫌いなヤツにそれほどまでに付き纏われて容認出来るヤツは少ない。小野田だって、決してエリーのことを嫌いなはずはないのだ。気持ちがある筈なのに、小野田は少しもそれを表そうとはしない。それが。どこか漠然と怖い。不安でも、ある。
小野田はなにかを隠し、それを貯めているような気もする・・・。
「山下。なにボヤッとしてやがる。とっとと車回してこい。この荷物、持ちきれねえ。ちくしょう。幸田も連れてくるんだった」
店の前で、スーパーの包みを両手に抱えて丸山が怒鳴った。慌てて山下は、駐車場に走っていった。


泪はいつものように、防波堤に腰かけていた。雪だったので止めようとも思ったが、週末はここに来て海を見ないと落ち着かない。今日は夜から、栄光荘で送別会だ。もうそろそろ戻って支度するかと思っていたら、側に置いてあった携帯が鳴った。
「ああ。おまえ、本当に来やがったのか。話なら電話で済むだろうに。まあいい。今どこだ?ああ、そこなら、そのまままっすぐその道を来い。突き当たりが海だ。俺はそこらに座ってるからわかるだろう」
言って、電話を元に戻す。

目の前の海に視線を投げる。最初にここに来た時は、上着なんていらないくらい暑かった。
それなのに、季節は3ヶ月を経て、すっかり変わってしまっていた。コートを着込んでいても、寒い。
仕事前、自転車を飛ばしていつもここに立ち寄ったエリーの姿はもう見れない。自転車は、おととい猫を轢きそうになって電柱に激突して、木っ端微塵に壊れたそうだ。譲ってもらう予定だったのに、バカヤロウが・・・と泪は一人苦笑する。そして、エリーは帰国の為に、元々3ヶ月契約だった仕事も昨日で無事終えている。英語教室の子供達主催の送別会で、いっぱい折り紙をもらったって喜んでいたっけ。
『どこかで野垂れ死にそうになったって。海の藻屑になりかけても、必ず俺が見つけてやるから』
ここに来た頃、エリーは言った。覚えている。
離れちまって、そんなことが出来るのかよ。出来ねえだろ・・。俺がどこかで、今度こそ誰かに刺されるような不始末起こしたって、その時はこの海の向こうにいやがるおまえになんか、見付けることなんか出来ねえ。
「嘘つきやがって」
出来ないことを知りながら、口に出しやがって。泪は煙草をくわえて、火を点けた。

「さみーっ」
不意に背後で大きな声が聞こえた。泪は慌てて降り返った。
「無事、着いたか。早かったな」
「さすがにこっちは雪だよなー。うちの方もそろそろ降るらしいけど」
末弟潤が立っている。
「久し振りだね、泪兄」
潤は、肩にかけたリュックの位置を直しながら、言った。
「そうか?夏に会っただろ」
「そうだっけ。なんかその間色々あったからなぁ。で、今度は泪兄?」
「なんで俺?」
潤は、ヒラリと防波堤の上に飛び乗った。
「エリーがイギリスに帰るなんて、俺は玲兄から聞いた時は猛烈にビックリしたよ。それで思わず聞いたよ。泪兄がとうとう刺されて死んだか?ってね」
「ふざけんな」
プッと泪は吹き出した。
「へへっ。ねえ、なにがあったんだよ」
泪の横に立って、潤は泪を見上げた。
「エリーに聞け」
「よく言うよ。ちゃんと気づいてるんだろ。玲兄使って調べ出したこと、ちゃんと辻褄合ったんだろ」
「るせえな。人の心配してねえで、てめえの方は大丈夫なのかよ?」
「とりあえずは居座っているよ。いつ追い出されるかはいっつも不安。けどさ。信じるしかないよね。愛し合ってるってさ。それだけだよ」
潤は、ジッと目の前の海を眺めていた。
「エリーは・・・。どんな気持ちで日本にやって来たんだろう」
そんなことを潤はボソリと言った。
「そしてどんな気持ちで帰るんだろう」
「知るかよ」
泪は煙草を足元に捨て、ギュッと踏み潰した。
「知れよ」
潤は泪を振り返った。
「泪兄は、知らなきゃいけねえんだよ」
リュックから、潤は書類を取り出した。
「大堀さん、いや、高野さんって人に会ったよ。彼、実家の玲兄には会ってもらえなかったからって、うちまで調べ上げて遥々来たんだよ。むげに返すわけにゃいかなくてさ。秋也間に入ってもらって、話を聞いたよ。泪兄。あん人、まだ泪兄に気持ちを残している。泪兄と別れたのは、奥さんが取引を持ちかけてきたからなんだって。泪兄と別れれば、泪兄との仲を公表しないし、彼の仕事も今まで通り保証するって。その代わり二度と会うことは許さないって。だけど、それが守れなければ、自分の名誉と引き換えに泪兄をぶっ壊すって言われたんだって。だから、高野さんは、その取引を選んだ。別れることを選んだんだよ。ほとんど隔離されるように、別荘にずっと閉じ込められていて、今までのことを知らなかったって、高野さんは言っていた。あの人は、泪兄が晒されて、そして仕事をダメにされたことをなに1つ知らなかった。交渉決裂だろ。高野さんは約束を守ったのに、奥さんはそれでも怒りが解けずに、結局は公表してしまったんだ」
潤の口から漏れる事実に、泪はあっけにとられた。
「高野さんはそれから、必死に泪兄の痕跡を追った。会社でのことなにもかもね。でも、1つ辻褄が合わない。どう考えても、泪兄が左遷で済む筈はない。高野さんの奥さんって人どうやら会社のトップの身内みたいだね。かなりの権限があったようだ。それに強いね。自分のダンナ寝取れたことを公表してまで、泪兄を葬り去りたかったんだから。けど、それが出来なかった。どうしてか?彼は調べたよ。そして、その結果がこの書類の中にある」
潤は、泪に書類を差し出した。
「エリー・ダグラス。いや、エリー・ヴィアス。泪兄の側にいつもくっついていたエリー。そのエリーのことについても、高野さんは調べたんだ。この中には、俺達が知らなかったエリーの過去が記されている。もう気づいているんだろ。エリーが、泪兄の仕事を守る為に、実家のオヤジさんと取引したってこと。エリーは泪兄を本社に戻す為に、あんなに戻りたくないって言っていたイギリスに帰るんだ。・・・知らなかったよ。泪兄の会社って、エリーの実家と縁があるんだね。知ってて、あの会社に入ったの?オヤジが、せっかくコネを用意して泪兄を待っていてくれてたのに、それを蹴って、わざわざ苦労して、あの会社に入ったのかよ。偶然?訳ねえよな」
泪は潤から書類を受け取った。
「可愛い俺のお人形サン。泪兄のエリーへの口癖だ。俺達弟は、泪兄からいっぱい大切なオモチャを取り上げた。でもさ。泪兄が大事にしてればしてるほど、それが欲しくなったんだよ。ガキの頃とは言え、悪かったって思ってる。なんで今更こんなこと言うかって?いつかね、俺と玲兄と光兄とで泪兄の恋愛傾向を分析したことがあんだよ。泪兄、いつか玲兄に言ったことがあるよね。どんな大切なものでも、大事にしているものでも、おまえらに取り上げられた。おまえらは悪くねえよ。ガキの頃のことだから。けどな。その頃の癖で、俺は大事なものっていう執着はしねえことにしてるって。玲兄に言ったろ。それが、まともな恋愛できません症候群の正体だ。大事なものを誰かに取られてしまうのが怖くて、作れない。作れないから、人のものを欲しがる。ガキじゃない分、手におえないよね。小さい頃自分が弟達にやられたことを、他人にやりかえしてるんだ。泪兄、アンタは病気だ。その書類を読めよ。そして、知れ。病人にゃ薬が必要だろ。知ろうとしないから、泪兄は、エリーのことを能天気だって言って嘲笑えるんだよ。エリーは、言葉も喋れない布で出来た人形とかじゃねえんだぜ。意思を持っているんだ」
泪は潤の言葉を聞きながら、唇を噛み締めた。
「泪兄は、ツケ払わなきゃなんねえよ。ガキの頃とは違うんだ。自分のやったことは、自分で責任取れよ。高野さんは、きっとここに来るよ。あの人は、ずっと、ずっと、泪兄のそばにいたエリーのことを、とても気にしていた。俺に何度も聞くんだ。2人は恋人なのか?そうでなければなぜいつもこんなふうに一緒にいるのか?調べあげた書類を差して必死に聞くんだよ。俺みたいな性格からすりゃ、泪兄とエリーの関係なんて、近くで見てても謎でしかなかった。答えようがなかったんだ・・・」
潤は瞬きをして、泪を見た。
「泪兄。エリーが好きなんだろ。大事なんだろ。失いたくないから、ずっと手を出せなかったんだろ。玲兄は踏み出したぜ。そろそろ、アンタの番だ。長男らしく、ちゃんとケリつけろよ。それがどんなに重荷でも。やっぱり泪兄は俺ら弟からしてみれば、目標っていうか、理想っていうか。ちょいうまい言葉思いつかねえけどさ。だからさ・・・」
言いあぐねている潤の頭を、泪は書類でポンと叩いた。
そして、潤の髪にうっすらと積もった雪を、指で払ってやった。
「エリーのところに行け。あいつは、雪が降り出してしまったから、もう外へは出られない。おまえが来るのを楽しみに待っている。ここからまっすぐに歩いて、信号を右に曲がってひたすら歩く。田舎だから、複雑な道なんてねえんだよ。歩いてりゃ、エリーの下宿のやつらがおまえを拾ってくれるだろう。連絡しておくから」
「泪兄は?」
「この書類に目を通す。どうせ飲み会は、夜からだ。まだ少し時間はあるからな」
「わかった。積もらねえうちに来いよ」
リュックを持ち上げて、潤は歩き出した。
雪は、そうこうしているうちにどんどんと容赦なく降り積もっていった。


一旦マンションに帰り、泪はコーヒーを片手に、潤の持ってきた書類を封筒から取り出した。
高野昇。いや、大堀昇。あの修羅場の別れの経緯に、そんな事実が隠されていたとは知らなかった。
きっぱりと別れを告げた昇の横顔は今もハッキリと覚えている。
そして、エリー。思ったとおり、やはりおまえは、俺の為に帰るのか・・・。
仕事、仕事。どいつもこいつも・・・!ろくでもねえバカばっかりだ。
そう思って、本気で大バカなのは自分だと反省する。
潤の言う通りだ。これは、俺の払わねばならないツケだ。なにもかも、自分中心に適当にやりすごしてきた、自分のツケだ。書類は英語で書かれていた。イギリスの方で取ってきた調査書類のようだった。
読み進めていくうちに、泪は自分の顔が強張って行くのを感じた。


その頃、栄光荘では、感動の再会が行われていた。
「ジュン〜!ああ、ジュンだ。懐かしいよ〜」
エリーは、訪ねて来た潤を、玄関先で抱き締めた。
「いてて。エリー!わかった、わかったから」
「へー。これが小野田さんの弟か。わ、似てる。とくに瞳」
栄光荘のメンバーが、総出でジロジロと潤を眺めていた。
「さ。汚いところだけど、あがってよ」
エリーはグイグイと潤の背を押した。
「エリーの住むところって、いつも汚ねえところだよね。あ、お邪魔します〜」
と、潤はニッコリ。
「小野田、いや、泪さんは?」
丸山が潤に聞く。
「泪兄は、家に寄ってから来るよ」
「んじゃ、もう送別会はじめちゃおうか。どうせ、あの人は酔ってても酔ってなくても、いつもテンション高いし」
幸田がギャハハハと笑った。
「いんや。さすがに今日はテンション低いと思うけど」
そう言って、潤はチラッとエリーを見た。
「なんだよ、ジュン。今の目」
エリーは、潤をこづいた。
「エリー。本当にイギリス帰るのかよ。俺、寂しいよおお」
ぞろぞろと、会場の2階に上がりながら、潤はエリーの背に抱きついた。
「重いって、ジュン。遊びに来ればまた会えるだろ」
「もう日本には来ないの?」
「忙しくてそんな暇ねえよ」
笑いながら、エリーは背中の潤を振り返った。
「・・・!?」
エリーの視線が、潤を素通りして、玄関に投げられていた。
「もう一人、お客さん・・・?」
そういえば開け放たれた玄関のドアのところに人影があった。
「え?」
皆一斉に振り返る。
「高野さん!」
潤は、エリーの背から飛び退き、慌てて階段を降りていった。
「やはり、潤くんだったか。さっき道で見かけて、慌てて後をついてきたんだ。途中で見失ってしまって・・・」
ハアハアと高野は息を切らしていた。エリーも慌てて玄関口に走った。
「高野さん・・・」
「エリーさん・・・」
2人は顔見知りだった。泪と高野がつきあっている頃、エリーはよく2人のデートに乱入した。邪魔するな!と何度も本気で泪に怒られた。そばにいた高野は、「別にいいじゃないか」と、いつも穏やかだった。
「どうして、ここへ?」
潤が聞く。
「里美が。妻が、ここへ向かったって友人に知らされて。僕が派手に動いていることを彼女は知っていた。だが、交渉は決裂したのだから、構うことはないと思っていた。里美には、口を挟む権利がないってね。実際彼女は今まで知っていて僕になんの妨害も仕掛けてこなかった。だが、今日。里美の姿が東京から消えた。さっき泪の家に行ったが、留守だったから・・・。電話も通じない」
「さっきって。泪兄は、さっきまで俺と海にいたんだ。今はもう戻ってる筈だけど?」
「行き違いか!」
「一体なにが・・・」
「里美は、泪の所へ行ったんだ。僕は・・・。昨日、彼女に離婚届けを・・・」
エリーがその言葉を聞いて、バッと高野を押しのけた。開け放たれた玄関を通りぬけ、外に出る。
「!」
雪が。雪が降っている。ただ、降っているだけではない。辺りはもう既に、真っ白だった。
エリーは、足を止めて、ヨロリと玄関の脇の壁にもたれかかった。
「雪が・・・」
エリーはくぐもった声でそう言った。
「エリー」
潤がそんなエリーを支えた。
「ジュン。雪が・・・」
見る見る間に、エリーの顔が真っ青になっていった。
怖い・怖い・怖い。雪の中の、赤い花。白い静寂の中に響き渡る銃声。
雪に咲く赤い花。エリーは、足元の積もった雪を見て、目を見開いた。
「っ!」
ドンッと潤を押しのけて、エリーは雪の中を走り出した。
栄光荘の住人達は、なにがなんだかわからずにただ呆然としていた。だが、唯一、なんとなく事情のわかった山下が、車の鍵を握り締めて、走り出す。
「車出す。小野田くん、それにそこの人も。泪さんのマンションに行くから」
雪を踏みしめ、山下は庭に止めておいた共有車のエンジンをかけた。
「丸山先輩、あとを頼みますっ」
「ああ」
ガガガッと、雪を押しのけて、車は発進した。
潤と、高野を乗せて。
「里美は。妻は。思いつめた里美はなにをするかわからない。怖いんだ。もし、彼女が、泪を・・・」
高野は膝の上で組んだ指を、ブルブルと震わせていた。
「エリーっ!」
クラクションを鳴らして、山下は走っていたエリーに合図する。
エリーは、雪まみれになって、助手席に乗り込んできた。
「はあ、はあ」
寒さだけではない震えが、エリーを襲っている。ガタガタとエリーは体を震わせていた。
「エリー。小野田さんは大丈夫だよ」
山下は、片手を伸ばし、エリーの肩を叩いた。
「そうだよ。大丈夫だ、落ち着け」
後部座席から、潤もそう言った。
「ルイに。ルイになにかあったら、許さないっ!」
エリーはフロントガラスを睨みつけて、叫んだ。


鍵を閉めて、泪はマンションを出た。
頭の中をさっきの書類の内容がグルグルと回っていた。高野昇。そして、エリー。知らなかったエリーの過去。
向日葵の暗い過去。いつも、いつも、笑っていたアイツ。大事なことはなに1つ言わずにひたすら隠しつづけて、笑っていた。『そばにいるよ』例えそれが実現しなくても、あれはヤツの本心だったんだ・・・。
送別会に向かう足取りが重かった。今、エリーの顔を平常心で見る自信がない。
歩く足元の下に積もった雪。真っ白な雪。泪は、立ち止まり、ボンヤリとその雪を眺めた。
電柱の灯かりで、照らし出された、汚れ1つない雪。
泪は、その白さを見つめては、目を細めた。そして、空を振り仰ぐ。
サクッと雪を踏む音がした。サクッ、サクッと雪を踏む音が近づいてくる。
泪は、空を眺めていた視線をゆっくりと、足音の方に向けた。
「大堀課長・・・」
赤いコートに身を包んだ、かつての上司、大堀里美がそこには立っていた。
「久し振りね。小野田くん」
「ご無沙汰してます」
泪は頭を下げた。
「出来れば、ずっとアンタの顔なんか見たくなかったわよ」
「・・・申し訳ありません」
「昨日、昇から離婚届をつきつけられたわ。一体、これってどういうことよ。なんなのよ、これは。私は約束を守ったわ!昇との約束を守ったのよ。なのに、勝手にアンタと昇のことが明るみに出て。私じゃないわ。やったのは、私じゃない。誰があんな不名誉なことを、公表するっていうのよ!男に、自分の亭主寝取られたなんて!」
「すみません」
「めちゃくちゃよ。ホント、めちゃくちゃよ。私の人生。アンタのせいで。私は、私は。確かにプライド高くていやな女よ。昇だって、父の命令で仕方なく私と結婚したのよ。わかっていたわよ。けれど、私は、愛していたのよ。あの男を。本気で愛していたのよ!」
泪は、里美を見つめた。
「アンタなんて、ダイッキライよッ」
里美は、バックからナイフを取り出した。
いつか。こういう日が来るのだろうと泪は思っていた。自分のやってきたことは、めちゃくちゃだ。
そんなふうに思いながら、泪はそのナイフの銀色の光を、ジッと眺めていた。
「なによ。脅しじゃないわよ。そうやっていつも澄ました顔して。人の物盗んで。泥棒猫っ。なんてヤツよ。本当になんて、うす汚いヤツなのよっ」
今殺されたら、少なくともエリーには見つけてもらえるだろう。
アイツが海の彼方に行く前でよかったと思う。この女は、タイミングのいい時を選んで来てくれたぜ・・・と泪は心の中で密やかに思った。
泪が一歩足を踏み出した時、薄暗かった辺り一面がバッと輝いた。
「!?」
泪は振り返った。
車のヘッドライトだと気づいたのは、すぐそこに車が滑りこんできた時だった。
里美も、急に目の前を眩しく照らされて、一瞬怯んだ。
「ルイッ」
車から、エリーが転がり降りてきた。エリーの姿を認めて、泪は目を見開いた。
あぶねえよ。来るんじゃねえよ・・・。
雪の中じゃねえか。おい。雪降ってるんだぞ。おまえ、なんで居るんだよ。
どんなに誘っても、雪の日は、外に出なかったおまえが・・・。
泪はそんなことを考えながら、こらちに向かってくるエリーを見ていた。
だが、ハッとして、里美に視線を戻す。
里美は、すぐそばまで来ていた。両手でギュッとナイフを握り締めていた。
「危ないって。来るんじゃねえよ、エリーっ!!」
泪は叫んだ。叫んだが、それと同時に倒れた。
エリーに体を押しのけられたのだ。泪は、慌てて振り返った。
「あのね・・・。貴女のせいじゃない。貴女は被害者・・・。ごめんね・・・」
エリーは脇腹を押さえながら、搾り出すような声で里美に言った。
里美は、ヘタリとその場にしゃがみこんで顔を覆っていた。高野が、里美の側に駆け寄っていった。
泪の目の前に、ポタポタと赤い血が滑り落ちていった。エリーの血だ。雪の白に、血の赤。
「救急車を呼べ」
潤の大声が聞こえた。
「エリーっ!しっかりしろっ」
山下が、フラフラと立っていたエリーのそばに、駆け寄ってきた。
山下に支えられながら、エリーは、座りこんだままの泪を見下ろして、手を伸ばす。
「しっかりしてるよ。大丈夫だよ、山ちゃん。ねえ、ルイ。あ、あのさ、俺・・・。こんなふうに、ずっと前に雪の中に血が落ちたのを見た時にね。なに考えたと思う?ハハハ。日本の国旗だ、って思ったんだよ。日本の国旗。白に赤。その時にさ。忘れていたおまえとの約束・・・、思い出したっつー訳・・・。くだらねえだろ」
ドサッとエリーは雪の中に尻餅をついた。泪のすぐ横にエリーの体が落ちてきた。
山下は、エリーを抱きかかえていた。山下の手は、既にエリーの血で真っ赤だった。
「わりぃな、ルイ。おまえとの約束なんて、本当は全然覚えちゃいなかったんだぜ・・・」
そう言って、エリーは目を閉じた。
「こんな時にまでふざけたこと言ってんじゃねえよ。エリー、目を開けろっ!てめえ、目を開けろよっ。目を開けやがれっ」
泪は、山下を押しのけて、エリーを抱き締めた。冷たい体。閉じた瞼。
「エリーッ」
叫びながら、泪はカッと目を見開き、白い雪の上に散らばったエリーの流した血を睨んだ。
ああ、 好きだぜ。俺はさ。
真っ白い雪なんかよりも、汚れた雪のがね。
でも、こういう汚れ方は、好みじゃねえよ。

・・・好みじゃねえよッ!!!
続く

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