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内田家に花が戻ってきた。と言っても、数時間ぶりに、だが。
「はあ。やっぱり、綾ちゃんがいるといないとじゃ大違いね」
うっとりとしながら、双子の姉妹は納豆をかき混ぜている。
「そ、そう?ありがとね」
綾瀬は、えへへと笑って、同じく納豆をかき混ぜている。
「けど、ごめんな。納豆とご飯だけなんて朝食」
「全然。綾ちゃん見ながら食べれば、納豆だってステーキ並みの美味しさよ」
双子は同時に言った。
「なら良かった。勇樹もごめんな」
綾瀬は隣に座っている勇樹の頭をポンッと撫でた。
「んにゃ。俺は別にいいよー。それよか、春樹にーちゃん、大丈夫なんかな」
春樹は、昨夜中から、どーしてかいきなり発熱して、朝になっても高熱のせいで起きてこれなかった。
その為、朝から綾瀬は、春樹の看病・子供達の朝食の支度に大忙しだった。
「あとで様子見にいくから安心しろ。そら、皆。早く食べて学校行けよ」
「うん」
3人は元気よく返事した。膝の上に乗せていた洋次は、既にご飯を食べてしまっているので、もうウトウトとまどろんでいる。
「いってらっしゃーい!」
綾瀬は、3人を玄関で見送ると、洋次をベッドに運び、ヒョイッと春樹の部屋を覗きこんだ。
「春樹。生きてるかー」
「死んでます」
「なら、答えてンじゃねーよ」
クスッと綾瀬は笑いながら、春樹の額のタオルを取り替えてやった。
「マジ、すみません。んとに、俺。滅多に風邪ひかねーのに」
春樹は、額に濡れたタオルを乗っけたまま、ウーン、ウーンと唸っている。
「気にするな。それよか店、どうしようか」
「りっ、臨時休業にしといてください」
ぜえぜえと息荒く春樹は言った。
「そうはいかねえだろ。俺、レジの打ち方はなんとかわかってるし、酒にゃちょっと自信はあるしな。接客はプロだし。やっとくよ」
「だ、大丈夫ですか〜」
「家事やるよりは、マシだと思う。ガンガン酒売って儲けてやっかんな。寝てろ」
そう言って、綾瀬はドタドタと一階に降りていった。
「不安・・・」
春樹はモゾッと毛布を直しながら、一言呟いた。


綾瀬の代理店番は、順調だった。最初の頃、内田家にいても退屈だったから、よく店番する春樹の傍にくっついていた。
その時に、春樹のやることを見ていたからだった。おまけに、わからないことがあっても、ニコッと笑顔で誤魔化す。
すると、客は怯んで、「確かあそこに置いてあったはず。春ちゃんがよくあそこを探していたから」などと、お客を使って事を成す。
店と内田家の居間は繋がっているので、そこに洋次を置いておき、洋次の面倒を見ながら、客のいない間は春樹の様子を見に行く。
充実した仕事ぶりに、綾瀬は満足していた。
やっぱりいい若いモンは、ちゃんと働かねえとな・・・と改めて綾瀬は思った。
近所に酒屋がここしかないもんだから、割と客は来る。
既に顔馴染みの客や、初めて見る客。人と接するのがダイスキな綾瀬は、得意の話術で客達とコンタクトを試みる。
「また来てねー」と、男相手でも女相手でも出し惜しみなく笑顔をふりまく。
そうこうしてる間に双子と勇樹達が帰ってきて、春樹と洋次の面倒を見てくれた。
綾瀬は、店に専念し、危なげなく閉店時間を迎えた。売上金を数えようとしていたところへ、自動ドアが開いて客が入ってきた。
「綾瀬さーん。まだ間に合う?」
町田久人だった。春樹の幼馴染だ。
「おう、久人。いいぜ。いっぱい買ってけ」
「えー。結構もう飲んでるからなあ。胡桃さーん。なに飲む?」
「ひーちゃんにまかせるわよ」
気だるげな女の声。
「?」
と思って、綾瀬は久人の背の向こうを覗きこんだ。
そこには、とっても小さな女が立っていた。小さいが、ものすごく小さいが、ものすごくインパクトのある女だった。
まず、恐ろしく顔が可愛い。そして、あまりに豊かな胸にくびれた腰。細い脚。綾瀬は、目を見開いた。
『す、すげえ、好み!』
ゴクッと綾瀬は喉を鳴らした。
「んじゃ、これだけ」
両手にいっぱい缶ビールを持った久人は、ゴトッとレジの前にそれらを置いた。
「綾瀬さん?お勘定してちょーだい」
久人の声も耳に入らず、綾瀬はひたすらジーッと胡桃を見つめていた。
「って、オイ。んじゃ、俺がレジを。全部1円って打とうかなー」
久人がレジに手を伸ばしたのを綾瀬は、ガンッと拳で避けて、胡桃を見つめたまま、「この子、久人の彼女?」とぼんやりと訊いた。
「いてて。へ?俺のカノジョって・・・。こん人は違うぜ。俺のは、デケーの。こんな小さくねえの。すっげえデカイの」
綾瀬の視線を受けていた胡桃が、久人を避けて、ズイッと前に出てくる。
「さっきから、無遠慮な視線ね、アナタ。視線で体中舐められた気分よ」
「すみません。思わず見蕩れてました。あんまり可愛いから・・・」
綾瀬はすんなり謝った。女は声もすごく可愛かった。綾瀬の言葉に、気を良くしたのか女はニッコリと微笑んだ。
「ひーちゃん、この子、私初めて見たわ。いつもの春ちゃんじゃないわ。だあれ、この子。連ちゃんにそっくり。吃驚だわ」
「ん?ああ、そう。にーちゃんに似てるよな。初めて春樹から紹介された時は吃驚したけどなー。よく似てたから。こん人は綾瀬さん。春樹のお友達。
つーか、憧れの人らしいけどな」
久人はヒャッヒャッと笑った。綾瀬は、ギクリとした。
春樹め。余計なことを吹き込んでいるのではなかろうな・・・と。
「綾瀬くんか。よろしくね。私は胡桃。ひーちゃんと同じアパートに住んでいるの」
あのぼろアパートにこんな可愛い人が?と綾瀬は、激しく疑問だったが、顔には出さない。
「中村綾瀬です。どうぞよろしく」
綾瀬は腕を伸ばし、ギュッと胡桃の腕を掴んで、無理矢理握手した。
その様子を横目で見ていた久人は楽しそうに言った。
「綾瀬さんー。胡桃さんに惚れた?ダメだよ、この人は。彼氏いるから。すっげえ怖いのが。ちなみにさー。こう見えて、30越してンからな」
久人のその言葉には、綾瀬は驚いた。
「え?お、俺と同い年くらいかと思ってた」
「こらっ。女の歳を軽々しく口にすんな、ボケっ」
バシッと胡桃は久人の脚を蹴飛ばした。顔に似合わず凶暴らしい。
「綾瀬くん。お勘定お願いね。サービスしてくれると、胡桃嬉しいな♪」
「持っていっちゃってください」
綾瀬は即座に言った。
「は?」
胡桃が聞き返す。
「それ、タダでどうぞ。構いません。持てる限りのビール、持ってってください」
「うっそー!らっきー。胡桃さんも持てよ」
久人がすかさずに、また腕に缶ビールをそそくさと抱えた。
「やだ。払うわよ」
胡桃がブランドの財布をバックから取り出したが、綾瀬は首を振った。
「俺から、アナタへのプレゼントです。巡りあえたことに感謝して」
ブッと久人は吹き出した。
胡桃は、フフッと笑った。
「ホストあたりが言いそうな台詞ね」
「その人元ホストだよ。元bPホスト。やっぱチャれーよな。俺なんか寒くて言えんっつーの」
久人の言葉に、胡桃はキョトンとした。僅かに考えこんでから、
「元ホスト。アヤセ。どっかで聞いたことがあるわね。あら。じゃあ、もしかして、プラチナの綾瀬くんだったりして!?」
と、綾瀬はギョッとした。
「な、なんで知ってるんすか?」
すると、胡桃は目を見開いた。
「やだあ。マジなの?まあ、とんでもなく綺麗な子だとは思ってたけど。私ね、アジップの繁美ママとは知り合いなのよ」
「げえ。し、繁美ママと・・・!?」
胡桃はニヤニヤと笑った。
「繁美は、若いツバメちゃんの行方を必死になって探していたけどね〜」
「か、勘弁してください。ママと知り合いなんすか・・・」
冷や汗の出た綾瀬であった。
「いいわ。内緒にしておいてあげるから、今回のこれはタダでいただくわ。ありがとね」
バイバイと胡桃は手を振った。
「また来るね」
「ほな、さいならー。またなー。綾瀬さん」
胡桃と久人は、手にやまほどの缶ビールを抱えて出て行った。
「胡桃さんかぁ・・・。すげー可愛い・・・」
うっとりと綾瀬は呟いた。ハアと切ない溜め息をつきながら、綾瀬はやりかけていたレジを精算しようとして、視線を感じて内田家の居間を振り返った。
夏子・冬子・勇樹・洋次がこちらを見つめている。
「アハハハ。ビ、ビール。いっぱいあげちゃった♪春樹に内緒な」
えへっと綾瀬は微笑んだ。
「どーせ。すぐにバレるわよ」
「綾ちゃんも男ね。胸のデカイ女にはデレデレしちゃって」
「春樹兄、気の毒に・・・」
「だぁう」
姉妹弟に、冷たい視線で見つめられ、綾瀬はポリポリと鼻の頭を掻いた。


たった一日風邪をひいて寝込んでいただけで。
春樹は、思いっきり不機嫌だった。そのたった一日で、綾瀬はあっさり恋に落ちてしまったのだという。
それも、春樹にとっては決して知らない女ではない。心中むちゃくちゃ複雑な春樹であった。
そんな春樹の心をよそに、綾瀬は上機嫌でカウンターの中の胡桃を見つめている。
「綾瀬くん。どうして、この花を私に選んでくれたのかしら」
胡桃は、花瓶に花を生けながら、綾瀬に聞いた。
「え?いや、別に。胡桃さんってピンクの花ってイメージだったから。ピンクの花って言ったら、俺ガーベラが好きなんで。考えてみれば、すげえイメージかなって」
「こんな商売やってる女に、こんな可愛い花くれるなんてね」
「嫌いでしたか?」
首を竦めて、綾瀬がおどおどと訊いた。
「ダイスキよ。昔、惚れた男にももらったことがあるわ」
ニッコリと胡桃は微笑んだ。
綾瀬は、カーッと顔を赤くした。春樹は、そんな綾瀬を横目で見て、ヘッと鼻で笑った。
女たらすのが商売だったくせに、なにを10代の少年みてーに頬染めちゃって、まあ。
完璧に春樹は面白くなかった。
「さすがにホストね。女読むのが上手いわねぇ」
「いや。今回はけっこーあてずっぽーだよ」
「そう。でも、胡桃、嬉しいな」
二人の間に、親密な空気が流れかけたので、春樹はゴホンゴホンとわざとらしく咳をして、話に割り込む。
「胡桃さん。そーいえばどーして、この店の名前は、夕実なの?胡桃さんの本名なのかよ」
すると、胡桃は視線を春樹にやった。
「春ちゃん。ここはね。私が前のママにもらった店なのよ。だから、夕実って言うのは前のママの名前なの。綺麗な名前でしょ。気に入ってるの。ママはね。
名前のとおり、とても綺麗な人だったわ・・・」
「引退しちゃったんですか?」
綾瀬はタバコに火を点けながら、訊いた。
「ううん。死んじゃったのよ。綾瀬くん、火ゴメン。気がつかなくって」
胡桃がボソリと呟いた。
「そっか。それを譲り受けて、胡桃さんが頑張って経営してるんだ」
いいよ、とうなづきながら、綾瀬が言った。
「客は決まってるから、楽なもんよ。ママがいい客をいっぱい連れてきてくれていたからね」
「そん中に、彼氏もいたの?」
フンッと、春樹は強調するように言った。
綾瀬が、キッと春樹を睨んだ。
春樹は知らん振りだ。
「アイツは別にこの店とは関係ないわよ。それに彼氏じゃないのよ、あんなの」
胡桃の言葉に、春樹はギョッとした。
久人の話では、胡桃には強面の彼氏がいる筈だった。
それを知っていたから、綾瀬から頼まれて、久人に胡桃の店を聞き出して、わざわざこうしてここに連れてきてやったのに。
今更、なんてこと言うんだ、胡桃さーん!と春樹はあせった。
案の定綾瀬の目が輝いた。
「んじゃ、俺、彼氏に立候補していい?胡桃さん」
スウッと綾瀬が、必殺の流し目を胡桃に送った。
その様を見て、流し目を送られてもいない春樹の方がクラッとした。
い、色っぽい目しやがってー!ドキドキ、と一人で心臓を高鳴らせていたというのに、胡桃はあっけらかんとしている。
「へ〜え。私、繁美に怒られちゃうわ。綾瀬くんを彼氏にしちゃうと」
「いいじゃない。俺、大事にする自信あるよ。惚れた女のことは」
「ホストの言葉なんてまともに受けとめるほど、純情じゃないよ、私は」
クスクスと胡桃が笑う。
「俺は、元ホストです。今は、別にホストじゃないよ。純粋に真面目に口説いているんだけど」
「純粋に真面目に口説かれるならば、尚更ダメ。私は、男には純粋に真面目に惚れないよ。たった一人を覗いてね」
「たった一人?」
「そうよ」
胡桃は吸っていたタバコの煙を吐き出した。
「彼氏のこと言ってるの?」
「彼氏なんていないわよ。あいつはセフレなの」
「じゃあ、誰?」
「惚れてる男に決まってるじゃないの」
「惚れてる男いるんなら、アタックすりゃいいじゃん。胡桃さん」
春樹は身を乗り出した。
さっさとアタックしてくれ!綾瀬さんにチャンスを作らないでくれと思った。
「出来ないのよ」
小さく胡桃が頭を振った。
「なんで?」
綾瀬がつっこむ。胡桃は、フフッと笑った。
「アイツには惚れた人がいたのよ」
「そんなの。そんなの奪っちゃえばいいんだよ。胡桃さんぐれー可愛い人がせまったら、落ちねえ男なんていねえだろ。ガバッと押し倒しちゃえよ」
鼻息荒く春樹は言った。とうとう綾瀬はカウンターの下で春樹の脚を蹴飛ばした。
「出来ないのよ」
「なにをそんな気の弱いこと。男も女も押したモン勝ちっすよ、胡桃さん!!!」
春樹が興奮して大声で叫んだ。綾瀬は、ドカドカと更に春樹の脚を蹴飛ばした。さすがに春樹は痛みに顔を顰めた。
「私も春ちゃんの意見には賛成よ。惚れたら口説くのが当然よね。障害あったって、なりふり構っちゃいられないわよ。そうすべきだった。でも出来なかったな」
「何度でもチャレンジすべきです。諦めは、恋愛の敵だっ。諦めちゃイカーン」
「てめえ、黙れよっ」
興奮する春樹の口をとうとう綾瀬は抓りあげた。
「いれれれ、あ、あやへひゃん」
黙りこんでしまった胡桃に気づき、綾瀬はパッと春樹の口から手を離し、胡桃を覗きこんだ。
「胡桃さん?」
胡桃の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「いやあね。久し振りに思い出したら、泣けてきちゃったよ」
綾瀬は、サッとハンカチを取り出して、胡桃に渡した。
「ありがと。さすがに女に泣かれ慣れているのか手馴れているわね」
胡桃は、綾瀬の肩を撫でた。
「茶化さないでくれよ。胡桃さん、もしかして、その人・・・」
全てを言わなかった綾瀬に、胡桃は無言でうつむいた。
僅かりばかりの沈黙のあと、胡桃は顔を上げた。
「イイ男だったわ。本当に、イイ男だった。優しくて強くて。なによりも、とても目の澄んだ綺麗な男だったわ。セックスも上手かった」
胡桃は、綾瀬を振り返っては、ニッコリと微笑んだ。
「アイツを思い出すとね。今でも私、濡れちゃうのよ。アソコが熱くなっちゃうの。もう二度と抱いてもらえないのに。それでも、体が反応しちゃうのよ」
胡桃の目から、涙がスルリと零れ落ちた。
「私が真面目に純粋に惚れる男は、あの男一人なのよ。だから、私を真面目に口説かないで。無駄なのよ。とくに、綾瀬くんは、ダメ。その顔で、私を口説かないで」
「胡桃さん」
背後では、奥のソファにいる客とホステス達の声が、陽気に響いている。そのギャップが、余計に場に淋しい沈黙を被せていく。
「ちょっとぉー。胡桃いるかしらぁ」
そんな静けさを破るかのように、ドアが開く音がして、女のキンキラ声が店に響き渡った。
「ぎょえーっ」
綾瀬がその声に反応して、素っ頓狂な声をあげた。
胡桃は、ハッとして、横に座っていた綾瀬をドンッとどついた。ガタタタと、綾瀬は椅子から滑り落ちた。
「繁美。どうしたのよ。まだ営業時間中でしょ」
胡桃が入り口に向かって走っていく。
「岡田のタコが来てるのよ。だから千賀子に店任せてとんづらしてきたわ。アイツの顔見ると、厨房に行って包丁掴んで刺し殺したくなっちゃうから逃げてきたのよ。うふふふ」
胡桃が、繁美と呼んだ女は、和服のものすごい美人だった。だが、その美しい顔からは想像もつかない言葉がポンポーンと飛び出した。
春樹は唖然としてしまっていた。
「岡田ちゃんが来てるんだ。そりゃ仕方ないわね。ほら、あっちに座りなさいよ」
胡桃は繁美の背を押して、カウンターから離れたソファへと誘う。
「んふ。じゃあ、ちょっとお邪魔するわね。悪いわねえ」
その間に、カウンターの下に避難していた綾瀬と春樹は、そそくさと移動していた。入り口兼出口のドアには行けないので、逆に店の奥に逃げた。
コソコソと匍匐全身している自分を、春樹は「?」と思っていた。おまけに、奥のソファにいる客やホステス達が不審顔でこちらを見ている。
なんで、こんなコソコソせにゃならんの?春樹がヒョイッと振り向くと、胡桃がとある方向を指差している。そちらにはドアが見えた。
「綾瀬さん、あそこ。隠れるとこあるみたいだ」
「お、おう」
ササッとドアを開け、二人はドアの向こうに逃げ込んだ。
「んぎゃあ、なにこの狭い部屋」
綾瀬が悲鳴を上げた。
「ここ。なんか、掃除道具入れみてえだ。ほら、掃除機やらバケツやら」
「せ、狭い〜」
綾瀬が悲鳴を上げた。最初に春樹が入って、あとから綾瀬が入ってきた。
ドアに背を向けていたので、二人はドアと向き合うように体をもぞもぞと反転させた。
そうすると、あまりの狭さに、春樹は綾瀬を背中から抱きかかるような格好になった。
こ、これは、かなり嬉しい状況かも・・・と、春樹は状況も忘れて、デレデレした。
一方の綾瀬は、身じろぎながら、ドアに手を伸ばした。
「こんなところに入っちゃって、どーするんだよ。いつまで入ってればいいんだよ」
「つーかさ。綾瀬さん、なんでこんなに俺らコソコソしてんだよ」
鼻先に触れる綾瀬の髪に、心臓をドキドキさせながら、春樹は訊いた。
「さっき入ってきた和服美人。アジップっつー店の繁美ママって言ってな。俺のお得意さんだったんだよ。けどな。さっきも聞いてただろうけど、強烈な女でさ。
若くて綺麗な男がダイスキなんだよ。ダンナがいるのに2人も若い愛人囲ってて、挙句にそのコレクションに俺をくわえたがっていてさ。熱烈に口説かれまくってて。
ママのダンナってマジもんの筋モンだからこえーし・・・。店辞めた今でも、俺のこと探してるってあきらから聞いたんだよ」
「な、なんと・・・」
そりゃ、逃げるのは当然だよなと春樹は思った。つーか、ぜってー逃げてくれ!みてえな。
春樹は、コクッと喉を鳴らした。
「だ、大丈夫だよ、綾瀬さん。ここに隠れていれば、絶対に見つからない。頑張って隠れていよう。その人が帰るまで」
「って言ったってよぉ。クソ狭いし。あ、こら。なんで腰に手を回しやがる」
「え。だって。くっついてねえと狭いでしょ」
「やめろよ」
「イヤだね。せっかく綾瀬さんと密着出来るチャンスだっていうのに」
春樹は、綾瀬の腰をグイッと自分に引き寄せた。
「ひゃっ」
綾瀬が声を上げて、慌てて掌で口を押さえた。
「綾瀬さん。いい匂い。これ、なんの香水?」
「・・・サムライ・・・って、んなのどーでもええわい。手離せよ」
もぞもぞと綾瀬は動いた。だが、春樹は小揺るぎもしなかった。
「失恋決定だね、綾瀬さん。胡桃さんの好きな人、死んじゃったんだろ?死んだ男には勝てないよ。アンタは、胡桃さんとセックスフレンドになりたい訳じゃないんでしょ」
「・・・くそっ。ああいう目してる女っていうのは、ホンモノなんだよな。目みりゃわかるよ。本当に、貫いてしまうんだ、心に持ってる恋心っていうのをな。一途な女って手に
負えねえよ。死んだ男が抱いてくれる訳でもねえのに」
「切ないよね」
「いい女なのに。現実に恋してこそ、綺麗で淫らになれるたぶん最高の部類の女なのにな。もったいねーよ」
綾瀬は呟いた。女経験はそれこそ山ほどあるので、自分の、女を判断する能力を綾瀬は疑っていなかった。
あの女は、惚れない。春樹が言うように、セックスするだけならば簡単に出来るだろう。
だが、あの女の心を手に入れることは叶わないだろう、と思った。
「昨日惚れて、もう今日失恋かよ。最近の俺って一体」
クスンと綾瀬は嘆いた。
「いいじゃん。俺がいるから」
春樹は綾瀬の耳元に囁いた。
「って、春樹。おめーな。いい加減にしろよ。耳元で囁くな。気色悪い」
「綾瀬さん、耳の形いいね」
言うなり、春樹は、カプッと綾瀬の耳に噛み付いた。
「うげっ」
綾瀬が声を上げた。その綾瀬の唇を、春樹は左の掌で塞いだ。
「なんかいきなり、みょーな気分になりました、俺」
春樹が楽しそうに言った。ムググッと口を大きな掌で押さえられたまま、綾瀬はかろうじて首をひねって、春樹を見上げた。
「!」
目が合った・・・と思った瞬間、春樹の右手が綾瀬のズボンに、ズルッと潜り込んだ。
「悪戯させて」
また、春樹は、綾瀬の耳元に囁いた。その瞬間、綾瀬の背筋がゾクゾクッと震えたのが春樹にはわかった。
密着しているのだ。気づかない筈はない。綾瀬は、両手で春樹の左手を口元から引き剥がした。
「てめえ。こんな状況でなに考えてるっ」
「Hなこと」
「オオバカヤロウ。触るな」
抵抗するが、狭いこのスペースでは体を大きく動かすことは不可能だった。
どうしようもないので、綾瀬は両手で春樹の右手を跳ね除けようともがいたが、だが、春樹の手は、スルスルと動き、あっと言う間に下着の中に
潜りこんでしまい綾瀬のペニスを掴んだ。
「んっ」
暖かい掌に掴まれて、綾瀬は思わず一瞬、小さく喘いだ。
「バ、バカ。本当に、おまえ止めろって!!」
「動かないでよ。それ以上暴れると、外から不審に思われるよ」
「てめえがこんなことしなきゃ暴れねえんだよ」
「だって。退屈じゃないか」
「まだここに入って、五分も経ってねえぞ。退屈もクソもあるっ。うあ」
ヒクッと綾瀬の喉が鳴った。春樹の指が動き出したからだ。ペニスを擦るように春樹の指が動き回る。
「は、春樹っ」
春樹は、すぐ目の前で動く綾瀬のうなじに、舌を伸ばして触れた。
「おっまえっ〜。男のうなじなんて舐めてなにが楽しい!」
「綾瀬さんのならば楽しい。ああ、動かないでよ。やりにくいな」
綾瀬の腰が逃げるように動く。春樹は左手で綾瀬の腰をギュッと掴んだ。
「動くよ。やめろって、バカ。やめろよ。男に擦られて、イくなんて冗談じゃねえよ」
「男・女関係ねえでしょ。誰だってココ、擦られれば気持ちいいじゃないか。それに綾瀬さん、最近禁欲してるんでしょ」
「うるせー。やめっ。うっ」
「あ。濡れてきた」
耳元で囁かれて、綾瀬はカアッと顔を赤くした。瞬時に、耳まで染まっていく。
「うわ。耳まで赤くなっちまった」
驚いたように言って、春樹がまた、綾瀬の耳朶を噛んだ。
「んんっ」
甘い声が綾瀬から漏れた。
「ああ。掌がグショグショになりそう」
体を昂ぶらせる為に、春樹はわざと卑猥な言葉を綾瀬の耳に送り込む。
「きったねー技使いやがって」
「綾瀬さんだって、散々使い古してきたテじゃん」
「俺はチンポのせいで掌グシャグシャにしたことなんかねえよ」
「俺も初めてだよ。でも、綾瀬さんのならば、全然構わない」
「俺が構うっ。手を離せーっ」
「うるさいよ。外に聞こえちゃうでしょ」
腰にあった手を、春樹は持ち上げて、綾瀬の後ろ髪を掴んだ。
「あっ」
グッと頭が顔が上向く。そうこうしてるうちにクルッと頬を春樹の掌で押されて、綾瀬の顔が春樹の方を向いた。
そのまま、結構苦しい斜めの顔のまま、春樹の唇を受けた。
「っ」
互いに顔を斜めに傾けてのキス。不自然で、かつ息苦しい。キスをしながらも、春樹の、ペニスを擦る指の動きは止まらない。
「んぅ」
綾瀬の眉が潜められる。悲しげに。春樹は、綾瀬の頬を固定していた掌をはずし、間髪入れずにその手で綾瀬のズボンを下ろした。平
らで滑らかな綾瀬の尻が空気に触れて、ピクッと震えた。綾瀬が、首を大きく振って、キスを振り解いた。
「いい加減にしろ。てめえ、なにしでかすつもりだ」
「色々今後の為に勉強を」
そう言って、春樹は綾瀬の、すぼまった小さな穴に指を伸ばした。
「ぎゃあっ」
色気もそっけもあったもんではなかった。綾瀬がぶざまな悲鳴をあげた。
「声出さない。我慢して、綾瀬さん」
春樹は、指で、その小さな穴をススッと撫でて、それから円を描くように擦りだした。
「嘘っ。ば、バカ。てめえっ」
前と後ろを、同時に攻められて、綾瀬はゴクリと唾を飲んだ。体が火照っていく。
「ハルキ。あ、あ。ん。んくっ。あうっ!」
ガリッと綾瀬の爪が、ドアに突きたてられた。綾瀬のペニスから飛沫が飛んだ。
「うっ。ううっ・・・」
下着からはみ出したペニスから、白濁した液が零れて、春樹の掌を濡らした。パタッと、足元にも落ちていく。
「ヤバイ。ど、どうしよう。汚しちまった」
アフッと息を吐きながら、綾瀬は春樹の腕の中で小さく体を震わせながら、呟いた。
「ちょうど掃除機やぞうきんもあることだし、平気だよ。ところで、綾瀬さん。気持ちよかった?けっこー勢いよく出たよな」
からかうように春樹は、相変わらず耳元で囁く。
「おまえってヤツは。なんて手の早い小僧なんだ」
綾瀬が振りかえって春樹を殴ろうと手を振り上げた瞬間に、ドアがギッと外から開いた。
「おわっ」
思いっきりドアに寄りかかっていた綾瀬は、その拍子にドサッと倒れた。
「うわ。綾瀬さん、ゴメン」
春樹も、綾瀬の体を下敷きにして倒れた。
「なにやってんの、君達は」
胡桃がタバコをくわえたまま呆れたような顔で、飛び出てきては床に転がった綾瀬と春樹を眺めている。
綾瀬は、赤面しながら慌ててズボンを引き上げ、今度こそ遠慮せずに春樹のほっぺたを引っ叩いた。


結局、胡桃の店から帰る頃は、春樹の顔は腫れあがっていたが、でも春樹はヘラヘラそんな顔でも笑っている。
散々胡桃の店で飲まされたせいもあって、酔っ払っているのは確かだろうが、それだけではないようだった。
「いつまでもヘラヘラしてんじゃねー。明日、さらに顔腫れるぞ。バカガキが」
スパスパくわえタバコの歩きタバコの綾瀬が、後ろをついてくる春樹を振り返って、怒鳴った。
「いいんです。綾瀬さんに殴られたんだから、これは勲章なのっ」
春樹は両頬を押さえながら、嬉しそうに言う。
「てめえはMかよ。ったく」
呆れ〜な顔で、綾瀬は肩を竦めた。
「胡桃さんには、散々からかわれるし、失恋するし。サイテーな夜だった」
駅までの道程を歩きながら、綾瀬はぼやいた。
「俺はサイコーの夜でした。一歩前進」
「っせえ。も、もう、二度とあんなことさせねえからな」
「綾瀬さん、可愛かったッス」
顔を腫らしながら、春樹はニコッと微笑んだ・・・つもりだったらしいが、どうみても、痛みに顔を歪めたとしか見えない綾瀬だった。
「凝りねえヤツだな、おまえは」
ハアアと綾瀬は、盛大に溜め息をついた。
「綾瀬さんが好きですから!またやりましょうね。今度は、あの。是非、お尻の中も擦らせて欲しいって感じで」
ブッ、と綾瀬はくわえていたタバコを吐き出した。
「よくぞ言った!」
カッと怒りで頬を紅潮させた綾瀬は、バキッと、春樹をぶん殴った。
「ふぇー。いてーえー」
さすがに春樹はその場にうずくまってしまった。
「もうあと数本で終電出るからな。てめえはいつまでもそこにうずくまってやがれ」
さっさと綾瀬は歩いていく。橋の上を、電車が通っていく音が、夜風に乗って聞こえてくる。
ずんずん歩いて、チラッと振り返ると、春樹の姿はまだあの場にうずくまったままだ。
「・・・」
チッと舌打ちして、綾瀬は立ち止まった。ちきしょー。好き勝手にイかされちまって、悔しいのにっ!仕方なく踵を返して、綾瀬は春樹の傍へと戻っていく。
「春樹。ほら、立てよ」
「ううっ」
綾瀬に起こしてもらって、フラーッと春樹は立ち上がった。
「マジ今、気を失っていたかも」
「手加減しねえで殴ったかんな」
フラフラする春樹の腕を、綾瀬はグッと掴んだ。
「しっかりしろよ」
「綾瀬さん、好きです」
「わ。てめえ、またっ」
掴んだ腕を逆に握りこまれ、ギョッとしてる間もなく綾瀬は春樹に抱きしめられた。あまりの力強さに振り解けずに、綾瀬は諦めてそのままジッとしていた。
なんだか、もうどうでもよかった。
「よっ。ヤローどーしでラッブラブ」
同じように千鳥足だが、完全なる酔っ払い軍団が、2人の横を通りぬけていく時にからかいの言葉を投げた。
「やーん。禁断の世界。ステキー♪」
軍団の中には女の子達もいて、目をキラキラさせながら綾瀬と春樹の抱擁を見つめつつ通り過ぎていく。
「アハハ。どーもね」
女の子達の視線をおだやおろそかには出来ない綾瀬は、仕方なく彼女らに向かって手を振ってサービスしてやる。
「きゃー♪手振ってる。綺麗だよ、あっちの受けっぽい男の子」
「攻めの顔見えないー」
と、なんだか意味不明のことを言いながら、彼女達はフラフラと駅に向かって歩いていく。
「春樹。気が済んだか。もー離してくれ」
と言った瞬間、春樹の体がグデーッと綾瀬の体に覆いかぶさってきた。
「マジかよ。わー。てめえ、こんな道路で押し倒してるんじゃねえっ。ぎゃーっ」
と綾瀬は喚いたが、体の上から小さな寝息が聞こえてきて、唖然とした。
「ね。寝てンじゃねーよ!ったく。世話のやけるぅ。くそおっ」
よれよれと春樹の体を避けて、綾瀬は立ち上がった。
こんなことなら、おとなしく胡桃にタクシー呼んでもらえばよかった・・・と綾瀬はつくづく思った。
タクシーを捕まえ、運転手と2人がかりで春樹を座席に押し込み、綾瀬はホッと溜め息をついて目を閉じた。
失恋を悲しんでいる暇もなかったなと思った途端に頭の中にさっきあの狭い空間で春樹と共有した時間がクルクルと回りだした。
綾瀬は思わず、ングッと呻いて掌で口を押さえた。
「はー。気持ちわり。ったく・・・」
今日は良い悪夢が見れそうだと思った。

続く

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