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事故に遭ってから。
体の痛みより、どこか心が痺れた感じだった。
真っ暗闇の中。
苦しいですか?と誰かに聞かれた気がする。
ええ。苦しいです、と答えた。
この想いがある限り、自分を苦しめ、和彦を苦しめ、そして、誰よりも怜を苦しめる。
忘れたいですか?と誰かに聞かれた気がする。
一瞬の沈黙のあと。
ええ。と答えた。
なくなってしまえば。忘れてしまえば。
この苦しみから、解放される。
誰も傷つくことがなくなる。辛くなくなる。楽になれる。
では、忘れましょうと、誰かが確かに言った。
誰かが!?
よく聞け。あの声。
誰かじゃ、ない。
俺の声・・・だ。

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目を開けた時。
そこが病室だということもわかった。事故に遭ったのだ、ということも。
「潤」
「お兄ちゃん」
家族の声。
「先生」
「潤」
和彦の声。
そして・・・。もう一人は誰の声だ?聞き覚えはあるが、わからない。
病室を見回す。
父と母。妹。教え子の二階堂和彦。それぞれと目が合う。そして。もう一人。
頭が霞んでしまう。そこに居るパジャマ姿の男。この男が、さっきのわからなかった声の、主。
視線が交差する。
「お兄ちゃん!目が覚めたのね、良かった」
妹の絵里が、駆け寄ってくる。
「絵里・・・」
気になる。あの男。
誰・・・だ!?
相変わらず、目が合っているにも関わらず、相手は硬直してしまったかのように目を見開いている。
「怜ちゃんも来てくれてるのよ」
視線に気づき、絵里は説明した。
怜!?
わからない・・・。
俺は、瞬きを繰り返して、パジャマ姿の男を見つめた。
「どうしたの?ねえ、なんでそんなに・・・」
そう言って、絵里はハッとした。
「まさか」
絵里は、顔面を蒼白にして、バッと怜を振り返った。
奇妙な沈黙が、病室に流れた。
そして。
「潤。俺のことがわかんねえんだろ」
絵里が、怜と呼んだ男が、静かに言った。言われて、俺はうなづいた。
「嘘でしょう。お兄ちゃん。怜ちゃんだよ。わからないの?」
「・・・」
怜。怜。怜・・・。
その名を確かに呼んだことがあるのは、頭のどこかで覚えている。でも、それだけだ。
「ごめん。なんだか頭が、ボーッとしてやがる」
「潤。おまえ・・・」
怜は、クシャッと顔を歪めた。
「そういうオチ、かよ・・・」
言葉と同時に、たちまち怜はボロッと涙を零した。
その涙が、目の前に落ちていくのを、俺は呆然と眺めていた。


数日後。
医師に現在の状態を説明され、入院の日数などを詳しく説明された。
記憶にない気になるあの男のことを聞くと、医師はうなづきながら、説明してくれた。
俺には、事故で負った外傷の他に、心的外傷というオマケまでくっついてきてしまった。
つまり、俺は、一部分的に記憶喪失なのだ、ということだった。
忘れてしまった男。小川怜。俺にとっては、どういう男だったのだろうか・・・。

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怜は、退院が決まって、絵里の病室を訪れた。
「退院しまっす」
「私もだよ。私は明日だけど」
絵里は、ピョンとベッドから起きあがってきた。
「一足お先にな」
「うん・・・」
チラッと絵里は怜を見上げた。
「怜ちゃん。こんなこと聞くの、辛いけど。元気出た?」
「おう。思いっきり泣いたら、なんとか」
怜は自分の目を指差して、ハハハと笑った。
「涙って、あんなに出るもんなんだな。びっくりよ。でも、もう出ねえ。しかし、俺もいい加減いい歳こいて、情緒不安定だったよな〜」
「ごめんね」
「おまえが謝るこっちゃねえだろ」
「・・・」
怜は絵里の頭をポンッと撫でた。
「潤、元気?」
「知らないよ。あんなヤツ」
「って、おい。一応、アイツ重病人なんだぜ。ひでえ言いよう」
「頭来る」
「絵里」
「頭来るよ。忘れりゃいいのか?忘れてしまうなんて、すごく卑怯」
「そうじゃねえよ」
「なんでよ」
キッと絵里は怜を睨んだ。
「なんでよ。怜ちゃん。悔しくないの?」
「悔しいっていうより、俺の場合、すげえ自己嫌悪だよな」
怜は、ベッドの端に浅く腰かけながら、言った。
「記憶を失くしたい程、潤を苦しませていたなんてさ」
絵里はブンブンと首を振った。
「だいたいさ。一人だけ忘れるなんて、超不都合よ。記憶の埋め合わせ、どーする気よ。お兄ちゃんの人生なんてね。怜ちゃんばっかなのよ。
怜ちゃんのことばっか考えて生きてきたんだからさ。そのうち、記憶が合わなくて困るわよ。どうせ、すぐに思い出すわよ」
「そうでもないみたいだぜ。人間って、都合の悪いことはうまく忘れてしまえるメカニズム持ってるんだって。それは自己防衛本能らしい。
色々調べたけど、なんか難しくて、病名とか忘れちまったけど」
「私も医者に聞いたけど、忘れた」
絵里は頭を掻いた。
「解離性健忘とか、なんとか。でもな、心配すんな、絵里。自分を守るために、色々と都合よく辻褄合わせられるらしい。
だから、さ。そんなに潤も困んねえよ」
「なによ。そんなにあっさりしちゃって。怜ちゃん、兄貴に忘れられてしまっていいの?好きなんでしょ。兄貴のこと、好きなんでしょ」
「だって。考えてみりゃ、絶交されていたんだぜ。おまけに綺麗さっぱり忘れられてさー。どうしようもねえじゃん」
「そこをなんとか、どうにかしてよッ」
絵里は、ズイッと怜に詰め寄った。
「なんでおまえが興奮してるんだよ」
「私は嫌よ。嫌よ、嫌。見てるのも嫌よ。怜ちゃんにそっくりなあのガキが、当然のように兄貴の側にいるの。すごく、嫌」
「ああ、二階堂か。仕方ないって。潤が、ヤツを選んだんだから」
「怜ちゃん・・・」
絵里は、唇を噛み締めた。
「このまま。兄貴を諦めちゃうの?見放しちゃうの?」
「なに言ってんだよ。見放されたのは、こっちだろ」
「このまま。海外に行っちゃうの?」
「そゆことになるだろーな。ま、なんつーか、ドラマみたくタイミングが良いっていうの?俺ってさー、なんかこーゆーところあるんだよね。
運がいいんだか、悪いんだか。よくわかんねえけど」
絵里は、怜の隣に腰かけて溜め息をついた。
「兄貴は記憶喪失。怜ちゃんは海外逃亡。そして、2人の間には、なにも残らなかった・・・と」
「お。なんかその台詞、いいね。そして誰もいなくなった・・・みたい」
「初めて出会った高2の時から・・・。、短くも長い12年間。12年間だよ。それが、一瞬のうちに消えてしまうのね」
「・・・」
怜は、黙りこんでしまった。絵里は天井を見上げた。
「兄貴と怜ちゃんの12年間は消えて、擦れ違ったまま、時を重ねるのね」
「俺達」
「え?」
「恋人になれなかった。でも、それはずっと俺が望んできたものだから、それはそれで良かった。でもさ・・・。トモダチではいたかった」
「怜ちゃん」
「なのにさ」
怜はフッと笑った。
「もう、トモダチでもなくなっちゃった」
「・・・」
怜も絵里を真似て、天井を見上げた。
「潤と、俺。繋ぐもん、なにもなくなっちゃった」
白い、白い、病室の天井。
俺との記憶だけ真っ白にしてしまった、潤の心の中みたいだ・・と、怜は、ぼんやり考えていた。

***********************************************
絵里と別れたその足で、怜は潤の病院へ向かった。
病室には、二階堂が付き添っていたが、怜が姿を見せると、「外にいますね」と言って、部屋を出ていってしまう。
「小川怜。おまえのトモダチ」
怜はそう言いながら、ベッドの潤に向かって自己紹介をした。
「話は聞いてる」
潤は上半身を起こしていた。
怜は、潤の記憶のことばかりに捕らわれていたが、潤の体は、包帯だらけだ。事故で負った、外傷もかなり大きいのだ。
「そ。んで、自分では、なんか思い出した?」
「いや。申し訳ないけど」
「申し訳なくなんかねえよ。それで、いいんだ」
怜はポケットに手を突っ込んだまま、ジッと潤を見つめた。
「あの、さ」
「・・・」
潤は、怜を見上げた。
「俺さ。んと。ちょっと、これから遠くに行くんだけど」
「遠くって?」
「海外。イギリス。遠くねえ?」
「それは遠いだろ。何故?」
「転勤」
「栄転か」
「そーでもない。希望通りではあったけど」
「おめでとう。良かったな」
「ありがと。おまえのおかげ」
「俺の?」
潤は、まじまじと怜を見た。
「そー。ま、そういう訳で。別れの挨拶に来たんだ」
「いつ発つんだ」
「あ、それはまだわかんない。けど・・・。これから忙しくなるから」
「そうか。それはわざわざ。すまない」
「って言ってもな。記憶にない訳のわからんヤツから、別れの挨拶されても困るよな〜」
ハハッと怜は自分で、自分を笑った。
「そう言うと身も蓋もないだろう」
潤は困ったような顔で怜を見た。
「少しはフォローしやがれよ。ったく。綺麗さっぱり忘れて、清々したっていう態度取られると、傷つくんだよ、俺も」
怜がそう言うと、潤はふっと目を細めた。
「そうだろうな。おまえ、傷つきやすい顔してる」
「はあ?」
潤はクスッと笑う。
「ところで、小川」
「・・・小川」
「違ったか?」
「違わない。けど、おまえに名字で呼ばれるの、12年振りぐらい」
「じゃあ、怜でいいのか?」
「言いにくければ、小川でどーぞ」
潤は、うなづいた。
「一つ聞きたい」
「なんだよ」
「おまえ。英語は得意なのか?」
「・・・なんでよ」
「ここしばらくさ。頭の中にイメージが浮かぶんだ。俺はいつも、誰かに勉強を教えているんだ。大勢に、じゃない。一人にだ。黒板。
窓に差し込む夕日の光。窓の外からは、グラウンドからのクラブ活動の掛け声。放課後の教室というイメージだな。数学から始まり、
歴史・英語。とくに英語を何度も、何度も教えてるんだ。その誰かとは、頭が悪かったのだ、と記憶している。おまえだと思うんだが」
「俺じゃねえよ」
怜は、むきになって言い返した。
「失礼なこと言うんじゃねえっての。俺のこと、覚えてもいねーくせにッ」
再び、潤は笑った。
「すまなかった。おまえに良く似ているイメージだから」
「おまえ。いつもそうやって、可愛い教え子の二階堂クンに個人レッスンしてたんだろう」
「ああ、そうか。あれは、二階堂か。そういえば。そうかもしれない」
潤はうなづいた。そして、怜をジッと見つめた。
まるで、見つめることで、なにかを思い出そうとしている。
そんな感じだった。怜は、その潤の視線が、とても怖かった。
「俺が思い出せないまま、小川は遠くに行くんだな」
「そう。感謝してくれよ。俺に」
「どうして?」
「いつか。わかる時が来るかもしれない。じゃあ」
「もう行くのか?」
「記憶ないヤツとベラベラなに話せって言うんだよ」
「そりゃ、そうだが」
また、潤が困ったような顔をした。怜はチッと軽く舌打ちした。
「この病室、嫌い。おまえは眼を開けて、俺を覚えてないと言った」
「・・・」
「だから長居したくねえ。じゃあ、な。色々大変だろうけど、頑張って」
そう言って、怜はスタスタとドアに向かって歩きだす。
「あ、小川」
潤は、怜を呼んだ。
「・・・」
「小川。俺、思い出す努力するから、おまえも」
「やっぱり、嫌だ」
怜はクルッと振り返った。潤は言いかけて、言葉を止めた。
「小川じゃ、ねえっ」
「え・・・」
「小川じゃねえよ!」
「・・・」
「バカヤロウ。おまえに小川なんて呼ばれると、気持ち悪いんだよ。いつも、いつも、いつも。うるせーくらいに、怜、怜、怜って、
俺のこと追っかけ回してきやがったくせに。気の抜けた声で、俺のこと小川なんて呼ぶんじゃねえよッ」
叫んで怜は病室のドアを、迷惑をかえりみずに思いっきり閉めて、廊下の二階堂を無視して、タクシーに飛び乗った。


「先生」
廊下で怜と擦れ違い、無言で走り去った怜に驚いて、二階堂は潤の病室に走ってきた。
「どうしたの?なんかあった?」
潤は、うつむいたまま、視線を床に固定している。
「先生・・・」
「和彦。小川怜って、俺の友達だって言ったよな」
「うん」
「絵里もそう言った。でも。なんか違くねえか?」
そう言って、潤は顔をあげた。
「なんか違う。違うぜ。真実のこと、教えてくれないか」
二階堂は、ギュッと拳を握り締めて、潤から目を反らした。
「言っていいの?」
「教えてくれ」
「先生が記憶をなくした原因だよ」
「いいから。教えろよッ」
潤は声を荒げた。
「小川怜さんは、先生がずっと、ずっと好きだった人だよ。先生は、本当に、怜さんを愛していたんだ。それこそ、10年以上。
あの人のことを、好きだったんだよ。俺は先生にそう聞いたよ」
「・・・」
「高校生の頃出会って。一旦はちゃんと恋人みたくなったけど、怜さんが最終的に拒んで、2人は友人関係に戻って聞いてるけど。
先生は、それからもずっと怜さんを好きなままだったんだよ」
二階堂は、床を見つめながら、説明した。
と、近くにあった、点滴の台が、倒れた。
「!」
潤が手を動かしたからだ。
「先生。ダメだよ」
「ちくしょう」
潤は、枕を掴んでは、それを病室の隅に、放り投げた。
「ちくしょう。なんで、なんで、俺はッ」
「先生。手を動かさないで。今、看護師さん呼んで来るからっ」
バタバタと二階堂は病室から出て行く。
激しく動かした腕から、ずれた点滴の針が痛くて、潤は無理やりそれを引っこ抜いた。
「っつ」
ポタッと赤黒い血がシーツに落ちた。


あれは、おまえだ。
教室で俺は誰かに、勉強を教えている。
放課後の教室。
だって、俺は、学ランを着ている。
二階堂じゃない。二階堂じゃない。
あれは、おまえだ。
小川怜。
今、唯一俺の記憶の中で鮮やかな光景。
幸せだったあの頃に。きっと、俺は帰りたがっているんだ。
潤は、シーツに突っ伏しては、うめいた。
「思い出したい。思い出したい・・・」
忘れることは、苦しめることより、更に罪だっのだ。

続く

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