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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


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一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
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普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

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飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

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つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

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幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

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海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

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たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

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どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

*******************************************************

続く
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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


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一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
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普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

*********************************************

飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

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つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

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幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

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海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

********************************************************
たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

*********************************************************

どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

*******************************************************

続く
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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


*********************************************

一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
***********************************************

普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

*********************************************

飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

************************************************************
つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

*************************************************
幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

*************************************************
海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

********************************************************
たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

*********************************************************

どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

*******************************************************

続く
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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


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一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
***********************************************

普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

*********************************************

飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

************************************************************
つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

*************************************************
幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

*************************************************
海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

********************************************************
たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

*********************************************************

どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

*******************************************************

続く

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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


*********************************************

一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
***********************************************

普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

*********************************************

飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

************************************************************
つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

*************************************************
幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

*************************************************
海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

********************************************************
たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

*********************************************************

どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

*******************************************************

続く
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■星空の魔法

草凪海(クサナギ・ウミ)・・・デザイン事務所勤務・30歳
草凪幾(クサナギ・イク)・・飲食店経営のシェフ・25歳


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一人っ子だった海は、家に引き取られてきた5つ下の幾の存在が嬉しかった。
弟が出来た喜び。
お父さんとお母さんが交通事故で死んでしまって、引き取り手がなかった幾を、施設で事務の仕事をしていた海の母が引き取ってきた。
初めて我が家にやってきた時、幾はひっくひっくと泣いていた。
「大丈夫だよ。泣かないで。僕、海って言うんだ。君のお兄ちゃんだよ」
そう言って、おいで、と海が手招いても、幾は母の背中に隠れてしまった。
「あはは。海。幾ちゃん、君のこと怖がってるね」
「大丈夫だよ!僕は、絶対絶対優しいお兄ちゃんになるよ。弟がずっと欲しかったんだから」
おずおずと、母の背から可愛い顔をヒョコッと出して、幾は海をジッと見つめていた。
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普通に暮らしてきた。
でも、あとから振り返ると。
平凡な日がゆっくりと変わり始めたのは、この日。
この日、なにげなく発せられた一言に返された言葉から。
変わり出す。
音なく静かに。
とても、静かに、でも、確かに・・・。


「あ〜んなに可愛かった幾クンが、今じゃ180越えて、こんなに大男になってしまうなんて、兄ちゃん悲しいっ」
高校二年生で完全に抜かれた身長を海は嘆いた。
「やっぱり、うちとは遺伝子違うんだなぁ」
「海ちゃん、いつまでそれ言ってンの」
クスクスとカウンターの向こうで、皿を拭きながら、幾が笑う。
幾は、海の両親が遺した小さなレストランを継いでくれていた。
母が知人の借金のカタに受け継いだその店は、いかがわしい横丁の奥にあり、元々は飲み屋だった。
そんな立地でありながら、なぜかオムライスの店を両親は開いた。
メニューは、オムライスと飲み物だけ。
料理は下手だったけど、母ちゃんはオムライスだけはすごく美味しかった。
そのレシピで始めたらしいけど、どうにか客がつき、常連までいるような店になった。
開店は飲み屋に合わせて、夕方から真夜中までという、とんでもないオムライス専門店。
だが、その母ちゃんも亡き後。
店はどうすべ、と思っていたら、幾がしっかりその味を受け継いでいた。
幾は、小さい頃から料理が好きで、母ちゃんにくっついてキッチンに入り浸っていた。
まずい料理を習ってどうすんだ?と海は呆れていたが、二人はいつも仲良く料理していた。
「なあ、おまえのおかげで、女の子の客増えてきたし、メニューとか増やせば?」
幾は首を振った。
「母さんが得意だったオムライスだけで」
幾は、調理師の専門学校を卒業していて、なんでも作れる筈だった。
だが、彼は、そこだけは頑固で、オムライス以外を店で出すことはなかった。
「幾ちゃーん。今日も食べに来たよ」
近くの短大のお嬢様方が、鈴のついたドアを揺らし、幾目当てにランチしにきた。
最近はランチも始めた。昼から二時まで。
「あっれー。今日は、綺麗なお兄さまもいらっしゃってたの〜」
彼女達が、カウンターの傍に座る海を見て、キャッと騒いだ。
「え〜。なんか、今、超棒読みじゃなかった?お嬢ちゃん達」
海がヒラヒラと手を振りながら、にっこりと言った。
「んなことないよ。そういえば、海さん。駅前で見かけたよ。すごい綺麗なお姉さまと歩いているの」
「誰だろ。今、3つぐらい掛け持ちしてるからぁ」
「女の敵ッ」
「もー。幾ちゃんと兄弟だとは思えない。チャラくなきゃ好きなのにィ」
アハハハと彼女達は笑って、いつもの席についた。
「勉強どう?」
幾が彼女達に水をサーブしながら、聞いていた。
「幾ちゃん、またカテキョしてよ」
「もう無理だってば」
幾と彼女達は、気軽にお喋りしていた。
そんな様子を、海は、新聞を読みながらほのぼのと見つめていた。


店を閉めた後の帰り道、二人は並んで歩いていた。
「幾。大変だったら、バイト入れろよ」
雑誌に載った小さな記事のおかげで、ますます繁盛した店。
「大丈夫だよ。ところで、海ちゃんこそ、3つも掛け持ちして大変だねぇ」
のんびりした幾の声。さっきのやり取りを聞いていたらしい。
「おうよ。まあ、忙しいっちゃ忙しいけどな。なんだろうな。重なる時って一気にくるんだよなぁ」
てへへと悪びれなく笑う海に、幾は苦笑した。
「いつか刺されると思うな、海ちゃんは」
幾は、カチンとライターを鳴らし、タバコに火を点けた。
「大丈夫だよ。だって俺含めてみんな本気じゃないから」
家への帰りの道沿いには、海がある。波の音が繰り返し聞こえた。
海も、タバコに火を点けた。
「お。その顔。真面目な幾ちゃん、怒りましたか〜?」
ヒョイッと海は幾の顔を覗き込んだ。
「本気じゃないなら、恋なんかしなきゃいいのに」
拗ねたような幾の言い方に、海はクククと肩を揺らした。
「よっ。乙女っ子。おまえ、幾つだぁ」
「25歳です」
「童貞だろぉ」
「悪いですか」
真面目な真面目な幾。その整ったルックスからは想像も出来ないほど、真面目で、優しい。
喋り方もとてものんびりしていて、見た目からして草食系。
「俺はもう、30歳だぞぉ。恋の一つや二つはしてないと毎日になんの楽しみがあるのさ」
「じゃあ、結婚すればいいでしょ」
「え〜。俺、結婚なんか、しねえよ。だって、幾、おまえならばわかるだろ。人間なんか、いつ死ぬかわかんねえんだ。
残された家族が可哀想じゃねえか」
「・・・」
幾は目を伏せた。
幾の本当の両親は、交通事故死。
海の父は、釣りをしていて、溺れた人を助けようと海に飛び込み、巻き込まれて死亡した。
母は、買い物中、近所の子供の飛び出しを目撃し、助けようとして横断歩道を走り、トラックに跳ねられて死んだ。
一人息子を残して、仲が良かった両親はさっさと逝ってしまった。
海と幾の身内は、もう誰もいないのだ。お互いに正真正銘天涯孤独。
海が、結婚を拒む理由を幾はわからなくもなかった。
だが、海は、とてもよくモテた。
黒い髪に黒い瞳。一見とっつきにくそうに見える冷たいくらいの美形だが、口を開くと気さく。誰にでも優しく、明るい。
「もったいないよ、海ちゃん。海ちゃんはいいパパになると思うよ。野球とか一緒にやってそう」
「それ言うならば、幾だろ。おまえは絶対に優しいパパになる。間違いねえよ。垂れ目を更に垂らして、
絶対に子供溺愛するぞ、おまえ」
ぷはは、と煙を吐きながら、海は片方の手で幾の背中を叩いた。
「たぶん、俺も結婚しないと思うよ」
煙をはきながら、ボソリと幾は言った。
「はあ?まだまだこれからだろ。なんなら紹介してやるぜ。今、つきあってる子いないんだろ。どんなのが好み?」
海は、ドンドン、と肘で幾の体をつついた。
「海ちゃん。俺さぁ。男の子が、好き・・・なんだよね」
幾が前髪を掻きあげながら答えると、海はポロッとたばこを落とした。
「ああ!?」
「驚いた?!」
クスッと幾は笑う。その笑い方があんまり可愛くて、海は思わず目を細めてしまった。
「・・・当たり前だろ。ふーん。そうなんだ。だから幾って童貞なんだ」
「童貞童貞って、さっきからうるさくない?」
幾は、ちょっとムッとした顔をする。海は、ポンッと手を叩いた。
「あ、ならさ。俺のダチの三咲。アイツ、ゲイなんだよ。ついこの前失恋してっから、カレシいねえ筈。紹介しよっか」
海がそう言うと、僅かに幾は驚いた顔をしていた。
「・・・海ちゃん。ほい、ポイ捨て厳禁」
「あ、サンキュ」
吸い殻というより、思わず落としたたばこなのだが、幾から受け取り携帯灰皿に海は捨てた。
「三咲さんってさ。なんかすごい雰囲気ある人だよねぇ。海ちゃんのお友達の中では、抜群に存在感あったから、覚えてる。
じゃあ、紹介お願い出来る?」
「へっ!?」
「へっ、て、なに。紹介してくれるんでしょ」
きょとん、と幾が海を見た。
「あ、ああ。まあな」
海はこくこくと頷いた。
「幾、おまえ・・・」
「なに、海ちゃん」
僅かに先を歩いていた幾が、くるりと振り返った。
「つっ・・・」
幾の背後で、満点の星空が輝いた。海は、思わず目を細めた。
「お。あーっ。あれって、もしかして未確認飛行物体!?」
「なに、いきなり。今どきそんな誤魔化し方って・・・」
笑いながら幾は、それでも夜空を仰ぐ。
二人して、星でいっぱいの夜空を見上げた。
「・・・帰ろうぜ」
「そうだね」
二人は、特に会話もなく、肩を並べて歩いてゆく。
両親が遺した店と違い、自宅はかなりの広さだった。
三人で広さを持て余していたら、幾が来て四人になり、男三人と女一人で、それなりにワイワイ暮らしていた。
それなのに、父が去り、母が去り。最初の三人より少なくなり、二人になった海と幾。
幾がいなかったら俺は一人だった・・・。
そう思うと海はいつもゾッとしていた。
こんな広い家。一人なんて、辛すぎる。
先に玄関をくぐり、靴を脱ごうとして振り返る。すると、そこには幾がいる。
「どうしたの、海ちゃん」
「あ、ううん。なんでもねえ」
当たり前のように、幾が、いる。
「さっきから、変なの」
「なんでもねえのっ」
ホッとする自分を幾には気付かれたくない、と海は思って、なんでもない、の一点張りで誤魔化した。

家に帰ると、まるで女房のように甲斐甲斐しく、幾が家事をしてくれる。
両親が亡き後、男二人の生活が始まったのだが、まるで母がいた頃のようになにも変わらない。
幾は、昔から、よく母の手伝いをしていた。
「幾ちゃーん。風呂もう入っていい?」
「あ、海ちゃん、待って。もう少しでたまるから」
バタバタと幾は風呂から出てきた。
自分が他人の家に世話になっていることを幾は常に気にかけていたのかもしれない。
海も両親も、「そんなに気をつかう必要はない」と逆に幾を怒ったが、
「家事、普通に好きなんです」
と、あっけらかんと言った。確かに幾は、好きなのだ。炊事も掃除も洗濯も。
炊事など、本当に好きで、資格まで取ったのだから。
「幾はいい嫁さんになるなぁ」
と父はよく言っていた。
本当に、幾はよく出来た子だった。
風呂からあがると、スマホに、三咲からのメールが届いていた。
読んで、海は、苦笑した。
「どしたの、海ちゃん」
幾がビールを片手にリビングにやってきた。
「三咲からメール。さっき早速おまえのこと連絡したら、会いたいだってさ」
「ありがとう、海ちゃん」
海にビールを手渡しながら、幾は照れたように笑う。
「あとは勝手にな。つきあいたきゃつきあって。合わなきゃ合わないで。なぁ」
「そうだね」
くいっとビールを飲みながら、幾はチラリと海を見た。
「なに!?」
海は、幾の視線に気づき、首を傾げた。
「いや。急に思った。この広い家。俺も海ちゃんも結婚しないとなると、どーなるのかな」
「どーなるって。どうもこうもないだろ。俺とおまえで、死ぬまで住むだけだろ」
すると、幾は目を見開いた。
「それ、いいね。ステキだ」
「そおかぁ?地味に惨めな感じがする・・・」
言ってから、海はビールに口をつけた。
「ううん。いいと思う。俺はいいと思うよ、海ちゃん」
あんまり幾が楽しそうに笑いながら言うので海はなぜだか顔を赤くしながら頷いた。
「まあな。いい・・・かもな。って、おまえも風呂入ってこいよ。風呂前にビール飲むな」
幾からビール缶をバッと奪った海だったが、ギョッとする。空っぽだ。
「もう飲んじゃったよ」
「おまっ。はえ〜な」
「風呂入ってくんね」
幸せそうな笑顔を残し、幾はバタバタと風呂場に消えて行く。
「わっかりやす・・・」
ハアと海は溜息をついた。顔が赤いのは、ビールのせいだけでは、ない。

*********************************************

飲み屋の二階が住居になっている、古びた部屋の窓枠に腰かけ、海は眼下の通りを眺めていた。
「あ〜あ。粟田のオッサン、またあんなに泥酔しちゃって」
くわえたばこで、海は、クスクスと笑う。
「海ちゃん。そっこから通り眺めているの、好きよね」
髪を結いながら、真菜が言った。
「だってさ。こんなに小さい横丁だけど、人生の縮図って感じで。見てて飽きないんだよ」
「居るのは酔っ払いや、道に迷った観光客や、スケベな男と女ばかりでしょ。粟田のおっちゃんなんて、いつも酔っ払ってるし」
「んなことないよ。毎日違うって。ほんと、全然違うよ。天気によっても、表情変わるし。面白いトコだよ、ココ」
「は〜。なんか、デザイン系の人のセンスってほんと、わかんなぁい」
ぼやきながら、真菜は支度を終えて、海の傍らに立った。
「ごめんね、急に久美ちゃんの代わりに店入ることになっちゃって」
「いいさ。俺、おまえのこの部屋好きだし。もう少し、いていい?」
「いいよ。鍵はポストね。よろしく」
「ああ。気をつけてな」
「うん。またね」
真菜はヒールを鳴らして階段を下りて行く。
「ばいばぁい」
下で、真菜がブンブンと手を振っている。海は、その姿に笑いながら、手を振った。
人でざわめく狭い道。行き交う人々をネオンのどぎつい光が照らしている。
なんだか。
熱帯魚の群れみてぇ・・・。
見下ろす光景を、海はそんな風に思ったりした。
「・・・ちゃん」
窓から入ってくる風にウトウトし、ハッと目を覚ましたのは、誰かが誰かの名前を呼んだ時だった。
「幾ちゃーん。今日もお疲れ」
「お疲れサマ。おじさん、今日も元気だね。俺、もうクタクタ」
「なに言ってんでぇ。わかいもんが」
「あら、幾ちゃん。今日は出待ちの子、いないんだねぇ」
「そんな。いつも、いないよ、そんなの」
アハハハ、と軒を連ねる店の人々の笑い声が聞こえる。
幾が店を終えて帰る時。この横丁を横切るのだ。
「幾ちゃん、これ持って帰りなよ。今日はけなかったから、余っちまって」
あらかじめ用意してあったのだろう。タッパーをレジ袋にくるんで、ヒョイと幾に手渡す。
「ありがとうございます」
にこやかに幾は頭を下げる。
「幾ちゃ〜ん。たまには寄っていってよ」
色っぽいお姉さん達が、店の前でタバコを吸っていたが、幾を見つけると絡んでくる。
「え・・・。あの、また今度」
「またっていつ。一度も来てないじゃな〜い」
逃げるように幾が去っていく。
去っていく幾を見送り、彼女達は「可愛いねぇ。襲ってしまいたい」「あんな子とやれたら金いらないわよね」
と、えげつない会話。
海は、それらのやりとりをこっそりと盗み見しているのが好きだった。
付き合いだした飲み屋勤めの真菜ちゃんが、この部屋に住んでいると知ってからは、時々こうやって覗いている。
この横丁を抜けたら、幾はきっとホッとして立ち止り、タバコに火を点けるに違いない。
タバコに火を点けた幾は、歩くのが途端にゆっくりになる。
追いかけようかと思い、海は窓枠から中腰になりながら、幾の姿を目で追いかけていた。
「・・・」
横丁のスタートでゴールでもある大きな看板の下に、三咲が立っていた。
幾も気付いて、手を挙げ、二人は肩を並べて歩いていく。
「そっか。だよなぁ・・・」
ゆっくりと海は再び窓枠に腰掛けた。
海はもう何本目かになるかわからないタバコに火を点けた。
ネオンの色に染まりながら、細いタバコの煙が、部屋を漂った。

************************************************************
つきあい始めた幾と三咲は、何回目かのデートで、県内の夜景の名所に来ていた。
「すみません。こんなとこにつきあわせて」
三咲は、
「恥かしいよ、こんなカップルばりばりのとこ。男二人で来てさ」
と言って、幾の少し後ろを歩いている。
そうは言いつつも、三咲は長髪だし女顔の美人なので、幾といても、この暗さだったら違和感なく男女カップルに見える。
「一度来てみたかったんですよね、ここ。前に海ちゃん誘ったら、思いっきり断られて」
「あ〜。海は来ないだろな、こゆとこ」
ふふふと三咲は笑う。彼らのつきあいは、中学時代からだ。
「ですね。でも、三咲さんなら来てくれるかなって。ごめんね・・・」
風に髪を煽られながら、幾は振り返った。
「幾ちゃ〜ん。なんか反則ぎみだよ、それ」
照れた三咲の声。
「県内で一番高いとこに登れば、星が近い。星を、ね。近くで見たくて」
「星が好きなの、幾ちゃん?」
「二組の両親が空に住んでいるもので」
「・・・」
その言葉を聞いて、三咲は幾に向かって手を伸ばした。
「手、繋いでいい?」
やや震えた指が、幾の指に触れた。
「うん。勿論・・・」
伸ばしてきた三咲の手を、幾はキュッと握りしめた。
「風、冷たいね」
「うん」
「どっかにあったまりに行く?」
そう言った幾に、三咲は目を丸くして驚いた。
「あっと。ごめんなさい。ちょっと早かった?」
カアッと幾は顔を赤くした。
「いや、驚いただけ。幾ちゃんって、性欲あんだね」
「え・・・」
「今の幾ちゃんのセリフ。海が聞いたら、気絶しそうだな」
フフフと三咲が笑った。
「かっ、からかわないでくださいよっ」
三咲は、ほどけかけた幾の指に、自分の指を絡めて、強く握る。
「いいけど。もう少し、星を眺めてからにしようよ。せっかく来たんだから・・・」
「ありがとうございます」
煌めく星の輝きは、想像通りに悲しくなるほど、綺麗だった。
手を伸ばせば、本当に届きそうな。思わず手を伸ばして・・・。
そして届かぬことを知り、切なくなるのも、この星空の魔法。

*************************************************
幾が三咲とデートなことは、三咲から聞いて知っていた海だった。
だから、彼女を部屋に呼んだ。
この家に一人なんて、淋しくてやってらんない。
「海ちゃん。幾ちゃん帰ってこない?」
「大丈夫だよ。アイツ、彼女とデートだから」
「そう。なら、いいけど。この家さ。男二人の家にしては、綺麗だよね」
情事のあと。
ピロートークにしては、現実的な会話をしながら、恋人の一人の直美とベッドでダラダラしていた。
いつもなら、セックスの後はすぐシャワーだった。
だが、ここはラブホでもないし、生憎風呂場は一階。海の部屋は二階。
だから、ダラダラしていた。たわいもない会話で笑ったり驚いたり。
「そろそろ、シャワー浴びる?」
「うん」
「一緒に行こっか」
「そうだね」
直美にバスローブを羽織らせて、海は全裸で階下の風呂場を目指す。
「直ちゃん、湯って熱いのが好き?ぬるいのが好き?」
「ぬるいの」
「そ。俺と幾って熱いのが好きだから、熱いの出てきちゃうからさ。ちょっと待ってて」
湯の調節をしてから、直美を手招く。
「んっ」
なんとなく雰囲気でキスをして、それから、中学生みたいな触りあいを繰り返し、
シャワーから降り注ぐぬるめの湯を二人で浴びていると、ドアがガラッと開く音がした。
その音に、海と直美は同時にビクッとした。
「海ちゃん、お土産買ってきたよ」
幾が悪い訳じゃない。風呂場のドア、閉めてなかった俺が悪い、と海は思った。
だが・・・。バチッと幾と目が合う。幾の視線は、俺から直美へ。
直美がキャッと小さく声を上げた。
「あー。っと、ごめんっ。ドア開いてるとは思わなくて」
状況を把握した幾は、パンッとドアを思いっきり閉めて、出て行った。
「やだもう。海ちゃん、幾ちゃん帰ってこないって」
パアンッと背中を叩かれて、海は彼女に謝った。
「ごめんね。カノジョと仕事終わりの真夜中に待ち合わせしてたから。帰ってこねえって思うのがフツーじゃんか」
クソッ。帰ってくんな、バカ幾!
幾に罪はないのに、海は心の中で幾に向かって、バカと何度も呟いた。
とりあえず仕方ないのでシャワーを浴びて出てきたら、脱兎のごとく、幾はいなくなっていた。
直美も、怒って帰ってしまった。
「あ〜あ。つか、終わったあとで良かった・・・」
と、懲りない海だった。
リビングのテーブルには、海の大好きなカタギリ屋のシューマイが置いてあった。
カタギリ屋の、少年のような心を持つ商売オヤジは、大人気のシューマイを普通の時間に売らない。
どういう訳か真夜中に売り出したりするのだ。しかも不定期。
だから、地元では、買えたらラッキー的なアイテムとなっている食べ物だ。
「そっか。これ買えたから、帰ってきたんだな」
まだほかほかのシューマイ。小さめのそのシューマイを袋から取り出し食べると、やっぱり美味しかった。
「ごめんな、幾」
カタギリ屋のおやじ、いい仕事してんなぁと思いながら、また一つ、二つ、と幾はシューマイをほおばった。
美味しい。なんか優しい感じ。癒される味。
「幾って、食ったら、こんな味しそう」
呟いてから、海は「はあ?!」と自分で呟いた。
「バカでしょ、俺」
誰もいないところで、一人、カアッと赤くなって、海はその場で足をジタバタさせた。

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海ちゃんは、いつも、そうだ。
気まぐれな猫みたいな感じ。幾はそう思っていた。
海は、友達と共同経営でデザイン事務所をやっていた。
駅裏のビルの一室を借りている。
どんな仕事っぷりかは知らないけど、海は時々フラリと店にやってくる。
今日も昼の時間をずらし、フラリとやってきて、オムライスは食べずにコーヒーを注文してきた。
「幾。昨日はごめんな。カタギリ屋、美味しかった」
「そう。良かった」
「って、おまえ、こっち見て言えよ」
コーヒーを飲みながら海が言う。
今は顔みたい気分じゃないんだけど・・・と思いながら、幾は皿を洗っていた手を止めた。
「別にいいって言ってるじゃん」
「ショックだった?」
「なにが」
蒸し返さないでほしい。幾は唇を噛んだ。
「しらばっくれるなよって」
完全に面白がられてると思い、幾はムッとした。
「・・・海ちゃんって、、そーゆー趣味あんの?エッチを人に見せるっていう」
「エッチって、おまえ・・・。25歳にもなってやめろよ。セックスって言えや」
「じゃあ、セックス」
「あのさ。別に・・・。一緒にシャワー浴びてただけだ。まあ、やるこたやった後にな」
ぼそぼそと海は言った。
「海ちゃんの手、女の人の体触ってた」
「そりゃ触るって。って、あんなあ。思春期の娘が親のセックス見ちまったような微妙な空気出してんじゃねえよ。
おまえだって三咲とヤッてんだろーが」
「そんなら、今度見に来ればっ。そしたら俺の気持ち、海ちゃんもわかるから!」
「バッ。アホか。おまえ、なに言ってんだよ。第一なんでそんなに怒ってんだよ」
落ち着いて、と海が手で合図すると、幾はハッとした。
慌てて、また皿を洗いだす。
「俺。女の人とは・・・セックスしたことないから、驚いただけ」
「ああ、そうか」
カチッと海がタバコに火を点けた。
「海ちゃん。お願い。家でセックスしないで。俺もしないからさ」
幾はなんだか泣きそうな顔で皿を洗いながら、言った。
「・・・わかったよ。悪かった」
「・・・」
妙な沈黙が落ちる中、海のスマホが鳴った。助かった、とばかりに海がスマホに飛びついた。
「なに、どうした?えっ、山田が!?うん、今弟の店。わかった、すぐ戻る」
呼び出しがかかったらしい。海は立ちあがって、スマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んだ。
「大丈夫!?なんかあったの?」
「いや。へーき。とにかく悪かった、幾。今度奢るから」
バタバタと忙しなく海は去って行った。
水を出しっぱなしで皿を洗っていたのだが、幾は蛇口を捻り、止めた。
ほら、もう・・・。幾はヒクッと頬が引き攣るのを感じた。
もうそろそろ、限界。
今までやり過ごしてきた数々の感情。
人肌知ったり、優しさ知ったら、どんどん自分がよく張りになっていく。
それは学生時代に経験していたから、一旦は封印したのに。
三咲さんのせいじゃない。海ちゃんが悪い。だって海ちゃんが俺に三咲さんを薦めて。
いや、違う。
幾はゴシッと口を掌で拭った。
あの場面で。俺は言うべきだったのかもしれない。
真実の気持ちを。
「言えないって・・・」
首を振った。
男が好きって言うのだって、サラリと言ったつもりだけど、心臓が破裂しそうだった。
隠しておこうと思って、ずっと内緒にしてきた。それなのに、海ちゃんが急に、結婚はしない、と言いだすから。
即座に浮かれて、思わず、言ってしまったのだ。
海ちゃんは、驚きながらも受け入れてはくれていたけど、拒否反応を示されたら一緒になんか暮らせなくなっていただろう。
「・・・」
幼かったあの頃と違い、もう俺は一人で生きていける。
仕事をして金を得れば、両親を亡くしたあの頃の俺と違い誰にも迷惑をかけずに生きていける。
無理にでも海と一緒にいる必要はない。家族でいる必要もない。
真実を告白して、ダメだったら、あの家を出ていけばいい。
そんなことを何度も幾は考えた。
「でも・・・」
一人、呟く。
ダメなんだよ。
俺は意外と冷静で。一人でも生きていけると思っている。
けど。
海ちゃんはダメだ。
両親から愛情たっぷり受けて生きてきた。あの両親は、本当に心から良い人達だった。
息子達には、自分の為に生きろと言いながら、人の為に生きたような人達だった。
そんな人達に育てられ、海が自分の為だけに生きれる筈もなく。
いつでも誰かと一緒じゃなきゃダメの淋しがり屋で。
ぼんやりと海のことを考えていると、カランとドアが開く音がして、幾は我に返った。
「いらっしゃいませ」
自動的に言ってから、幾はハッとした。
「久しぶりだね、幾。この雑誌、読ませてもらったよ」
「柏井先輩・・・」
お昼の時間の終了間際にフラリとやってきた客は、幾の専門学校時代の先輩だった。

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たまたま、互いの休日が重なっていたことに昼に気付き。
互いにフリーな夜だと知ると。
「じゃーん。ってことで、この前のお詫びの奢り。俺の手作り料理〜」
海は、自慢げに言って、幾をテーブルへと誘う。
キッチンに山積みになった調理用具が気になりつつも、幾はテーブルを見て、微笑んだ。
「俺の為に・・・。ありがとう」
「いやいや、なんの。愛だけは、込めてマス」
「久しぶりだよね。二人で食べるの」
「だな。おまえにもカノジョ出来ちまったからな〜」
「俺は関係ないでしょ。海ちゃんが、女の人と遊びすぎ」
互いの仕事時間のずれや、海の派手な女性関係のせいで、二人で食事を取るということはあまりなかった。
「えっとぉ。これ、どーゆーメニューなのかな」
「見てわからんか」
海はムッとしたように腰に手をやっては、幾を軽く睨む。
「う、うーん。海ちゃんの盛り付けが斬新すぎて」
お世辞にも、海は料理は得意ではない。それは、母からの遺伝だ。
母も料理は得意じゃなかった。オムライスだけは、とても上手だったのだが。
「うーん、うーん」
と悩む幾に、海は不満そうに、
「こっちは麻婆豆腐。こっちはエビとアボガドのサラダ。こっちはピラフ。これはえっと、なんだっけ。ま、とにかく色々。盛りだくさん」
「海ちゃん。麻婆豆腐、豆腐がどこにも見えないけど」
「なんかかきまぜてるうちに潰れた」
「これピラフ?すごい色してるけど」
「なんかなー。香辛料とかたくさん書いてあってわかんねーから適当に入れてみた」
色々な意味でアバウトな海。らしいよ、と幾は苦笑した。
「ま。見た目より味ってことで」
ささ、どうぞ、と椅子を勧められて、幾は椅子に座る。
それでもテーブルいっぱいに並べられた料理に、幾はフワッと気持ちが和んだ。
並べられた全ての物を海が作ったのだ。
俺だけの為に。そう思うと、幾は本当に嬉しかった。
「嬉しいよ。海ちゃん、ありがとう」
「ん?ああ、待て。オーブンが」
「え」
「おおっと。うまい具合にケーキが焼けた」
「ケーキまで焼いてたの」
「あ、でも。なんか食べられないかも」
焦げてるわ、爆発して、なんかスポンジが半分以上潰れている。
「な、生クリームだけで、食べようかっ。ほらな。美味そう!」
ドンッ、と銀色のボールを海はテーブルに置いた。
「昔、これを横から食ったら、母ちゃんがキイキイ怒ったな」
「覚えてるよ。海ちゃん、外から帰って手も洗わずに、いきなり指突っ込むんだもん」
「腹減ってたからさ」
クスクスと笑いながら昔話。
「なんかさ。金なくて、外で奢ってやれなくてごめんな。給料日前で」
「てか、材料費だけでかなりいってる気が。俺、海ちゃんの手作りってだけですごい嬉しい」
「そお?」
「いっつも誰かに作ってもらってばっかの海ちゃんが、俺の為に、だからね」
「可愛いのぉ、幾」
クシャクシャと海は、幾の柔らかい茶色の髪を撫でた。
「そういやさ。俺この前店出たところで、おまえの専学時代の先輩見かけたぜ」
「ああ。柏井さん」
「だよな。最近よく雑誌で見かけるぜ、あの人。イケメンシェフってな。なに、店、来たの?」
「うん。この前俺が雑誌に載ったの、見つけてくれてさ・・・」
「へえ。あんなローカルな雑誌に載ったおまえを見つけるなんて、すげえな」
「そーだね。って、これ、なんか変な味する」
ピラフに手をつけた幾が顔を顰めた。
「入ってる調味料当ててみぃ。プロだろ、おまえ」
「えー。そんなのわかんないよ。うわー。あ、麻婆豆腐は普通に美味しい」
かちゃかちゃと、次から次へと海の料理に手をつけていきながら、幾はスラスラと感想を言った。
「うんうん。そーか、そーか」
海は、椅子に軽く腰掛け、美味しくない不味いだの言いながらもパクパク食べて行く幾を見て、嬉しそうに目を細めた。
誰かの為に一生懸命作ることは楽しい。
一生懸命作られた料理を食べることは嬉しい。
二人で、揃って。
なんだかんだ食事出来ることが、嬉しい。一緒に食べれて、嬉しい。

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どうしよっか。
海は、パソコンの手を止めて、タバコに火を点けた。
外を見ると、雨が降っている。
「ふーっ」
思いっきり煙を吐いた。
小さな事務所には、海一人きりで、時計の音がカチカチと部屋に響くくらい静かだった。
静寂が妙に気になり、海はテレビをつけた。すると、偶然、幾の先輩の柏井が画面に出ていた。
「柏井シェフのお店、大繁盛だそうですね」
「ありがとうございます」
「なんでも若い娘さん達が殺到していると」
「はい。そうですね」
「レストランのシェフからウェイターまでほとんどがイケメン揃いって噂ですけど」
「はは。みなさんイケメン目当てですか。出来れば料理目当てで来てくださっていると信じたいですね」
「ああ。失礼しました。それは、もうね。美味しいものに女性は目がありませんから」
「ですね。女性のアンテナにひっかかるものをこれからも作っていけたら、とは思ってます」

ふーん・・・と思いながら、海はそのインタビューをジッと見ていた。
まあ、学生時代から目立つ美形だったけど、うちの幾ちゃんのがかっこよくね?と身内びいきの海である。
「さっそく次のお店も考えていらっしゃるとのことですが」
「はい。今度はもっとファミリーを意識をしたコンセプトで。もう大分アイディアも出来あがっていて。
僕の学校の後輩で、いい腕の料理人がいるんで、今スカウト中なんです。かなりのイケメンですので、
また誤解されちゃうかもしれないですけどね〜。料理ですよ、料理。あくまでも基本は料理ですからね」
「と言いつつ、ちゃっかり見た目も気にする柏井シェフ」
「うっ。まあ。そうですね。ぶっちゃけ綺麗な方がいいでしょう。料理も料理人も」
「確かに。柏井先生のお料理、綺麗ですよね、見た目!」
ブチッ。海はテレビを消した。
「あ〜あ。なんか静か。山田、長井、早く帰ってこ〜い」
相棒の長井と山田は、打ち合わせで午前中から出たきりだった。
事務所の窓から見える風景は、駅。
海はタバコをくわえたまま、雨で濡れる駅をぼんやりと見つめた。
一応新幹線も止まる駅ではあるが、それにしても小さな町だ。
新幹線。東京。その単語から連想するのはいつも、明るい未来、だった。

続く
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