モドル
なんで俺がこんなことしなければ、ならないんだろ。
桜井はさっきから、問題集を半分仕上げた時点で勝ち誇ったように眠ってしまった。
倉本先生が席を外したからだ。
代わりに見張っているようにと、言いつけられたのは、次期キャプテンとして倉本の指示を聞いてくるようにと、
志村部長に命令されてこの教室に来たからだ。
昨日はうちに桜井を泊めたので、俺達は二人で学校へ来た。
それを職員室の窓から見ていた倉本が「同伴登校」と豪快に笑っていた余韻だろう。
しっかり面倒を見させられている。
まったく、呑気な桜井の寝顔を見るのは昨日から続けて二度目だ。
コイツは眠っている時は本当に幸せそうである。
「起きろ」
俺は桜井の前の席の椅子に、背もたれを抱くようにして座っていたので、眠っている桜井の頭を容易に叩くことが出来る。
「痛っ」
本気で眠っていたのか、俺を見上げた桜井の瞳が潤んでいる。
さすがに美貌なだけにその無防備な姿に不覚にも俺はドキリとした。
「さっさと問題やれ」
慌てて誤魔化す。桜井は、欠伸をしながらチラリと俺を見た。
「もういいよ。部活行けよ」
「そうはいかない。先生と交代だ」
「昨日からてめえの顔見過ぎてる」
「嬉しいだろ」
シャーペンを握った桜井の指が微かに動いた。
しかし、それだけで、俺の言葉に否定も肯定もしない。
おとなしく、桜井は問題集の続きを解き始めた。サラサラと紙を擦る音だけが聞こえた。
グンドからの掛け声が、窓の外にやかましいくらいに聞こえていたというのに、一気に音がなくなってしまった。沈黙が訪れる。
「ここ、わかんない」
桜井が顔を上げて突然言った。
「どこ?」
問題集を覗きこんだ俺は、いきなり桜井に顎を捕まれた。
「!」
そのまま、キスに突入した。
想像通りに、うまいキスだった。
唇が外れ、桜井の長い睫が上下に揺れる。
「こんなのもわかんないのかよ」
自慢じゃないが、数学は得意だ。
「この公式にあてはめて、ほら。これで数字をはめれば解ける。あとは、掛け算割り算ぐらい出来るでしょ」
桜井が問題集に目を落とす。
「なんで、わかるんだよ。これ3年の問題だぜ」
「頭の出来の違いだよ」
桜井はキッと俺を睨んだ。
「この、不感症」
「ねえ、いつから俺に惚れたの?」
「水飲み場」
再び窓の外の音が、教室に戻ってくる。
俺達は、それ以上、なにも喋らなかった。
「おー、梶本、ご苦労だったな」
ガラッという扉の音ともに倉本が入り口に立っていた。
ズカズカと大股で教壇を横切り、俺達の手元を覗きこむ。
「進んでいるな。よし、よし。さ、交代」
俺が座っていた位置に、倉本が腰掛けた。
「梶本。コイツを見習うんじゃないぞ。おまえは今のままでガンバレ。んで、コイツがクラスメートになったら、よろしくなっ。ハハハハ」
「縁起でもないこと、言うな」
桜井が倉本を睨んだ。
「桜井先輩、頑張って」
嫌味なくらいに、優しく言ってやる。
すぐさま返ってくるであろう反応を一瞬楽しみにしていたというのに、桜井はうつむいたまま顔を上げなかった。むろん、無言だった。
「こら、返事ぐらいしろ」
倉本の叱責をも無視して、桜井はもう俺を見ようとはしなかった。
仕方ないので俺もおとなしく体育館へ戻った。
何故だか一日中シュートが決まらずに、マネージャーに「どんまい」を連呼されてしまった。
暑いからだと思った。
****************************************************************************
補習がいよいよ最後となった蒸し暑い日のことだった。
教室に行くと、倉本はいなくて、いつもの机でウトウトしていると、バタバタと廊下を走る足音で目が覚めた。
「ああ、桜井くん。ごめんね。連絡が遅くなったわ」
英語教師の水野が教室に飛びこんできた。
「倉本先生、来れないの。電話があったのよ。ほら、君も知っているでしょ。去年の生徒会長の松木くん。彼が亡くなったの。
倉本先生、担任だったのよ。部活の顧問だったし」
「松木…?」
「松木慶くん。知らない?」
「松木慶。死んだ?なんで・・」
「バイク事故。骨折の方は治っていたらしいのだけど、頭を打っていたのね。検査では異常がなかったみたいだけど」
水野の表情が暗くなる。
「いい子だったのに」
松木慶、知らない。でも、去年の生徒会長は、知っている。
だけどアイツは松木って苗字ではなかった筈だ。黒崎慶だった。
アイツが「松木」か。
バスケ部の松木、そして、梶本の…。
「だから、今日の補習はないの。明日もないわ。きっと、倉本先生から自宅に電話が行く筈だから、今日は帰りなさい」
「わかった」
歩きながら、俺はもう、梶本には二度と会えないかもしれないと思った。
考え直す。
いや。生きている限り、会える。
しかし、梶本こそもう二度と黒崎、いや、松木慶とは会うことが出来ない。
想像すら出来なかった。
恋人を永遠に失うことの辛さなど。こんな時に、なんて不謹慎なと思いながらも、俺は梶本に会いたくなった。
俺はただひたすら梶本を恋しく思った。
強引にキスを奪って以来もう二週間以上も顔を合わせていない。
梶本に会いたい。会いたい。
なんで、こんな時に。こんな時だからこそか?
捨てたのは、もはや貞操観念だけではなさそうな、重症な俺。
****************************************************************************
松木先輩を亡くしてからは、俺は何もする気がなくなった。
ひたすら悲しみに埋没し、自責の海でのたうちまわった。
他人にはどうしてもらうことも出来ない。もう恋人はいないのだと、何度も口に出して見ても、納得しきれない。
涙は枯れることなく、流すことが出来る。
そして、冷静に時が通り過ぎるのを待っている自分を自覚する。
考えることと言えば、先輩のことだけ。
窓の外の風景が、変わっていくのがわかった。
涙も思い出も枯れることはないが、このままでは自分が死んでしまう。
それもいいかと思ったが、体はそれを許さない。
一時は息をして、食欲すら憶えるこの体を憎んだが、結局は自分が生きていることを自覚するだけだった。
愛する人は去ったが、自分は生きている。
それはどうすることも出来ない事実なのだ。
頬を打つ冷たい空気が、体と心に喝を入れてくれるかのようだった。
ああ、もう冬なんだ。
その時、ふと頭に桜井の姿が浮かんだ。
この辛い時期。初めて先輩以外の顔が頭に浮かんだのだ。
あの人、補習どうなったんだろう。無事卒業出来るのだろうか…。
まず担任に電話をし、次に倉本に電話をした。
倉本は電話越しに「ようやく復活したか。待っていたぞ。待っていたぞ」涙声で、笑った。
「桜井先輩は…」
「おまえ、復活したばかりでもう人の心配かよ。大丈夫だ。ヤツは卒業するよ」
あの不真面目なヤツが、補習をとうとう乗り切ったのか。
信じ難かったが、自分が半ば死にかけていた時にでも、他人は着実に時を刻んでいたのだと実感した。
「先生。俺、なんとかなりそうだ」
そうして俺は秋を飛び越え、冬の季節に生き返った。
****************************************************************************
長い日々だった。結局俺はなにも行動しなかった。
相変わらず梶本には会いたいと思っていたけれど、なんとか堪えた。
なんだか知らないが、俺と梶本が「仲良し」だと思いこんでいる倉本は、せっせと梶本の様子を俺に教えてくれた。
「生きてるぞ。アイツは絶対復活するから、おまえも頑張れ」と言われ続けた。
そして、本当に梶本は再生した。
時々梶本を学校で見かけたが、声をかけずにいた。
どんな言葉をかけていいかわからなかったからだ。
だが、その姿を、遠くから見ているだけで、俺は幸せだった。
梶本が、生きている、というそれだけで。
****************************************************************************
冬休み中だったが、心配かけた先生達に復帰の報告をする為に俺は登校した。
職員室の前で、桜井とバッタリ会った。
桜井は髪を切ったらしくスッキリとした印象だった。
俺を見ると、その切れ長の瞳がピクリと動いた。
「また、補習ですか」
すると桜井は、俺をジッと見た。次の瞬間。
彼は、初めて俺の目の前で、笑った。
とても、綺麗な笑みだった。
「死に損ない」
「労りの気持ちがないんですか」
「あったから、ここにこうしている」
「?…冬休みなのに、なんでここにいるの」
「大学に行くから。倉本の個人レッスン」
俺はギョッとした。
「アンタが言うと、なんだかやらしい。ところで、それマジですか」
桜井は得意気に言った。
「マジだとも」
「へええ」
桜井は俺をジッと見た。背が同じくらいなので、目線がもろに突き刺さる。
「おまえが死にかけている時にさ、俺おまえに会いたくてしようがなかったんだ。でも、行ける状態じゃないだろ。だから、なんか勉強しちまった。
したら、俺って元は頭いいじゃん。スラスラよ。大学なんて、軽いぜ」
そんな桜井の台詞を聞いて、俺は苦笑しちまった。
相変わらずらしい。コイツは変わらん。
そしてそう思える自分も変わっていないのだろう。あんな事があった後でも。
「軽いなら、冬休みに学校来ることもないのでは?」
「そりゃ、もう癖だな。人がいない所で勉強するのはいい。家だと気が散る」
俺は呆れた。教室を自分の部屋にするなよ…。
「倉本先生は大変だ」
「迷惑かけたのはお互い様だ」
そんな会話をしていると、当の倉本が職員室から、のそっと出てきた。
「おー、お二人さん」
「先生。ご迷惑おかけしました」
俺は頭を下げた。
「いいんだ、いいんだ。梶本、どうせならおまえも勉強してくか」
「結構です。俺は、自分の部屋の方が勉強がはかどるので」
桜井がキッと俺を睨んだ。
「コイツ、元気じゃん」
「おお、元気だな。しかし、ここだけの話、桜井の方が俺は心配だった」
倉本が急に小さな声になる。
「なんだよ、それ」
桜井の眉がキュッと跳ねあがる。
「だってさ、コイツは梶本に惚れているのに相手にされてなくて、更に松木の件があって梶本はコイツどこじゃない。なんだか、桜井の方が死ぬんじゃないかと
俺は内心あせっていた」
すると、クールビューティーと噂される桜井の顔がいきなり赤くなった。
今日は色々と初めての顔を拝める日だ、と思った。
「な、なんで、俺がコイツに惚れてるんだよ」
すると倉本は肩を竦めた。
「だって、おまえ。夏の補習の時だ。俺と梶本が交代した時、迫ってたじゃないか。いきなり、こう、グイッと梶本に…。なあ、梶本」
同意を求められても困る。
それにしても見られていたとは気づかなかった。
「見てたな、この野郎」
桜井が突如として喚いた。
「仕方ねえだろ。見えたんだよ」
「バカヤロウ。見学料よこせ」
「そんなお綺麗なものかよっっ。見たくて見たんじゃないわい」
まったくもって職員室の前で交わす会話ではなかった。ギャーギャーやりあう二人を見て、俺は溜め息をついたりなんかしていた。
「俺、失礼します。ちょっと屋上行ってきます」
さっさと戦線離脱をはかる。
「屋上?」
「空の、松木先輩に挨拶してきますよ」
倉本は、フッと笑った。
「おう。それと梶本。たまにはコイツとも遊んでやれよ。なーに、コイツは多少のこと言ったってへこたれるようなタマじゃない」
「だまれ。このクマッッ」
「そうさせてもらいます。桜井さん、これからもよろしく」
俺は彼らから離れつつ、手を振った。
「誰がよろしくするか、アホー」
「おいおい、嬉しい癖に。ったく、おまえ見てると飽きんわな」
「卒業式憶えてろよ。お礼参りしたるぞ、このヤロウ」
「古いやっちゃな〜」
そんな二人のやりとりを、背中に聞きながら、俺は廊下を走った。
「こらっ。休み中だからって廊下走るな」
擦れ違う物理の教師に注意される。
「すみません。でも、急いでいるんです」
「どこへ行くんだ」
「屋上です」
「なに?おいっ、梶本。おまえ、まさか」
「飛び降りたりしませんよ」
教師の心配を笑ってやり過ごし、俺は校舎を全力で走った。
松木先輩と一緒に歩いた、懐かしい場所、全てを。
最後に屋上に辿りつく。
「松木先輩。今までありがとうございました。愛してました」
空に向かって、叫ぶ。
たかが、高校生の愛と笑えば笑え。
俺は本当に、あの人を好きだった。愛していた。一緒に幸せになりたかった。
手すりに突っ伏し、涙をこらえ、顔をあげた。
「よしっ」
思い出いっぱいある。
だから、もう、大丈夫だ。きっと…。
さようなら、松木先輩。また会う日まで。
****************************************************************************
「クールな顔して、結構熱いな、梶本は」
倉本は苦笑していた。
「アイツを見た目で判断しちゃいけねえ」
俺は、屋上の方をチラリと眺めた。
倉本は、いまだに梶本の行動が心配なところがあるらしく、さっきからそわそわと窓の外を眺めていた。
確かに、いきなり屋上から飛び降りでもされたら、たまらない。
「で、おまえ、本当にアイツ好きなのか」
聞かれて、一瞬戸惑ったが・・・。
「たぶん」
と答えた。間違ってはいないだろう。
もちろん梶本の屋上での雄たけびは、俺達のいる教室にも届いている。
「ま、ガンバレよ。おまえが大学に行けた奇跡を思えば、奇跡なんて努力次第で簡単に起こせるもんだと俺は思った」
倉本は呑気に言った。
「なに言ってんだよ。俺のは実力だ」
「そんじゃ、その実力で、梶本を頼むぞ」
「なんで頼まれなきゃならない」
「好きなんだろ」
倉本に言われて、俺はまた一瞬黙った。どうにも素直には認め切れていない部分が自分にもあるのだ。
でも。
「ああ」
「生きてる者勝ちだ。松木には悪いがな」
「そうかな?」
そうは思えない。梶本をこれからも好きでいるならば、俺はきっと辛い目に合う。きっと…。
「ま、梶本もおまえの大学に放りこむから、そしたらまた始めればいい。それまで、おまえもマトモになってさ」
今でも十分マトモだ、言い返そうとして止めた。
やっぱり断固としては、言えねえな。
「俺は飽きっぽいから一年も待てない。きっとそんなに好きは続かねーよ」
「梶本は粘り強いぞ」
「フンッ。俺も負けない」
「どっちなんだ」
「梶本に負けるのは嫌だ」
倉本は、ヘッと笑った。
「それにしても、寒いなぁ、この教室」
窓を開け放っているのだから、当たり前だ。
「年寄り。冬の後には春が来るんだよ。春まで我慢しろ」
すると倉本は目を見開いた。それから、うなづいた。
「そう。春。おまえにも来る。梶本にも来る。俺にも来る」
「なんなんだよ」
「頑張ろうなっ」
コイツ、これしか言えないのか。
そうか。自分で言っておいて今更だが、冬の後って春なんだよな。
春か。春が来るのか。いいかもな。いいかもしれない。
俺って単純なのかな。
俺にもいつか春が訪れるんだよな。
そんなことを考えていたら、扉がガラッと開いて梶本が教室に乱入してきた。
「お、どうした、梶本」
倉本が扉を振り返って言う。
すると梶本は、チラッと俺を見ながら、
「やっぱり、俺も混ぜて下さい」
そう言って、楽しそうに笑った。
★続く★
******************************************************************
モドル