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SEASONS

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暑い日だった。
居残りが終わった俺は、はるばる体育館の裏の水飲み場で喉を潤そうとしてやってきたら、そこでは「青春」が展開されていた。
「梶本くん、私、貴方のこと好きなの」
小柄な女の子が、頭から水を被っていたユニフォーム姿の男の背に向かってそう呟いていた。
「あ、タオル」
ユニフォームの男が、顔を上げたので女の子は慌ててタオルを差し伸べた。
「ありがとう」
「あの、今の…聞こえた?告白したんだけど。私…」
「うん、だから、ありがとう。あ、タオルもね。ありがとう。佐藤さん」
男は頭をゴシゴシやりながら、言った。
「でも、ごめんな。俺…」
すると女の子がブルブルと頭を振った。
「いいんだ。答え知ってるから。でも、言いたかったの。私、マネージャー辞めるから。近いうちに転校するの。ああ、スッキリした。梶本くん、これからも部活頑張ってね」
「ああ…。サンキュ」
バタバタと女の子が俺の脇を走っていく。
一旦水飲み場に足を踏み入れてしまった俺は、退かずにそんな「青春」の一部始終を無遠慮に眺めてしまっていた。
ユニフォームの男、「梶本くん」が振り返る。目が合った。ふと、梶本くんは眩しそうに目を細めた。夕焼けのきついオレンジが目に染みたのだろう。
「邪魔しました」
ペコリと御辞儀をして、彼は俺の横を通り過ぎて行く。
それは、俺の台詞じゃないかと思いつつ、俺も「どーも」などと答えていたりする。蛇口がいっぱい並んでいる水飲み場で、俺はやっと喉の乾きを潤した。
振り返ってみる。広いグランドが見えて、その上にオレンジ色の空が見えた。色とりどりのユニフォームがグランドを駆け回っている。
なんてことない情景だった。ありふれた高校生活の日常の夕暮れ。暑っ苦しい、俺とは縁のない、部活動ヤローどもの世界。
「は。今日も暑いぜ」
俺はそれらに背を向けて、歩き出した。

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心にひっかかったことは、無意識に五感が情報を探しているせいだろうか?いつもより、敏感になっていたりする…。
俺がその店で、あの「梶本くん」を見つけたのはそういう意味では偶然ではなかったのかもしれない。
いつも通りに夜遊びをしていて、その日にひっかけたお姉さんに連れられてその店に入った。
「ここは馴染みの店なの。だから、遠慮なく飲めるわよ」
化粧ベッタリの金持ちお姉さんは、不気味に笑った。本人はとびきりのスマイルのつもりなのだろうが、全然違う。
俺は見なかったことにして、その不気味な微笑みをやり過ごし、ただ酒なら、構うこっちゃねえとご一緒した。
中々落ち着いた店だった。大通りからちょっと外れているせいなのかもしれない。
「こんな店、よく知っていたね」
「口コミなのよ。内緒よ。広まると面倒だからね」
お姉さんにエスコートして入った店は、いわゆるホストクラブというヤツだった。
自慢じゃないが、俺の取り柄は顔とスタイルだ。
こんな店にいるホストなんざ目じゃないねと思っていたら、それを察したかのようにお姉さんは言った。
「口説いている子がいるのよ。でも、彼中々しぶとくてね。君みたいな綺麗な子連れていって アイツに見せびらかすわ」
「そういう理由で俺を誘ったんだ」
「妬かないでよ」
なんで!?勘違いするなっっ。俺はただで酒飲めりゃ文句ねーぞ。
「どんなヤツなのよ、それ」
「あの子よ」
お姉さんが指差したのが梶本くんだったのだ。
ちょっと待てよ、オイ。
夕日に向かってダッシュしそうな青春ユニフォーム男だぞ、あれ…。

俺は思わず目を疑った。しかし、見間違うことはない。確かに梶本くんである。
「カジくん、指名。涼子さんだ」

この女、リョウコって言うのか…。
お姉さんは得意げに梶本くんを手招いている。

「こんばんは。失礼します」
梶本くんが来た。うわ。目が合った。
「綺麗なお連れさんですね」
梶本くんはニッコリ微笑んだ。
「カジくんがつれないからよ」
リョウコというお姉さんはあの、不気味なスマイルを梶本くんに送った。
梶本くんは慣れているせいか、ビクともしない。手際良く水割りを作っている。
「今日はこの子と素敵な夜を過ごすの」
リョウコさんがいきなり俺の腕を掴んできた。
気持ちワリィ。しかし、俺も生来の外面の良さでやり過ごした。
「カジくん。君のお得意さん、俺食っちゃうよ」
すると梶本くんは再び営業スマイルだ。
「涼子さんはそんな人じゃないでしょ」
「やだあ、カジくんったら」
「涼子さんはこんな俺でも、いつも指名してくれてますよね。俺、まだこの仕事慣れてないからスマートじゃなくて、他のお客様からは倦厭されるけど、
涼子さんだけは違う。だから、貴方はそういう人じゃないでしょ」

オイオイ。てめ、マジかい。
俺は呆れつつ、リョウコさんを見ると彼女の瞳はハートマークになっている。
「カジくん。やっぱり私は貴方だけよ」
リョウコさんはさっさとシャネルの小さなカバンを開けると、俺に何枚かの札を押し付けた。
「ありがとう。君、もういいわよ。勘弁してあげる」
「あ、どうも」
「お気をつけて」
ニッコリと微笑む、梶本くん。
このタラシ野郎。口もさることながら、コイツの瞳にゃ負けるね。話している間中、しっかりリョウコさんの目を見ていやがった。
コイツはメセンリョウってヤツだ。目で人を堕としやがる。
俺は席を立って、奴らのテーブルを後にした。梶本くんは振りかえらない。店を出る前にコッソリドア近くに立っていた従業員に聞いた。
「あの、カジくんって、評判どう?」

すると従業員はチラッと俺を見てから
「決まっているだろ。あのルックスじゃ」
「だよね。倦厭されているってことなんかないよね〜」
「ああ、そりゃ涼子さんの手前だけだよ。あの人ちょっとした小金持ちでね。いっぱい落としてくれるから、彼女の来る日はカジくんがかかりっきり」
「なるほどね。ありがと」
去ろうとした俺の尻を従業員が撫でた。
「はい、これ」
「なに、これ」
「名刺。君、いいよ。うちで働かない?」
「店長の野田さん?」
「ああ。いつでも電話待ってるよ」
「どーも」
俺はリョウコさんから貰った万札と、名刺を握り締めて、店を出た。
妙な日だった。まったく…!

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「桜井なつき。放課後職員室行き」
担任の倉本にHRでそう言われて俺は一気に一日がかったるくなった。
「桜井。アンタ、卒業危ないってホント?」
隣の席の三木が聞いてくる。
「知らねーよ。んなの」
「じゃ、その話だ。今日の呼び出し」
クククと三木は笑った。
「なにがそんなに嬉しいんだよ」
「人の不幸は嬉しいじゃない」
「やな女」
「昨日、見たわよ。キンキラお姉さんと夜の町をフラフラしていたとこ。いくら稼いだのよ」
「おまえにゃ、やんねーよ」
「あたし達の援交と、あんたら男の援交ってどっちが相場が高いのかしら」
三木は真剣な顔で考えている。
「おまえも卒業できないよな?」
「私はするわよ。やっぱり女かな…。いや、でも男かな。うーん。微妙なところよね」
三木の呟きを聞いていて、俺は昨日のことを思い出した。カジモトクン…。
「な、それってどっちかな?」
「いきなり、乗ってこないでよ」
「やっぱりホストって金になるかな〜」
「やだ、アンタ、まさか…」
日焼けした顔の三木が俺を覗きこんでくる。彼女はマジマジと俺を見た。
「うん。桜井にはそれ、合ってるかも。顔しか取り柄ないもんね。いい男よ」
キャハハと笑って三木は、俺の頬を撫でた。
「ほっとけ」
なんだかバカらしくなって、窓の外を眺めた。
ちょうど俺の教室の下は体育館への通り道になっている。団体さんがにぎやかに体育館に向かっていく。
「三木、おまえ梶本って知ってるよ?たぶん部活はバスケだと思うけど」
すると三木はうなづいた。
「有名じゃない。梶本セイ。1コ下の」
「1コ下?アイツ2年なのか」
「そーよ。知らなかったの?まあ、アンタあまりガッコ来ないからね」
欠伸をしながら、三木が呟いた。
「ふーん…」
ちょうど教室の真下の通路をその梶本が通って行った。


担任の倉本から、卒業が危ないだのなんだの一通り説教されてから、俺は職員室から放り出された。
留年かぁ…なんて、考えながら歩き出すと、梶本くんにバッタリ会った。
「昨日はどうも」
俺が言うと、彼は首を傾げた。
「は?」
「は?って、会っただろ。憶えてないのか」
すると梶本は俺をジッと見てから、うなづいた。
「水飲み場で会いましたね」
「つれないこと言うなよ。他でも会ったじゃないか。あの後、リョウコさんとどうなったの?彼女、おまえがなびいてくれないって嘆いていたぜ」
「それには心当たりがありませんね」
そう言って彼はさっさと職員室に入っていった。
「おいおい…」
マジかよ。そりゃないじゃん。
そりゃ、ここが職員室の前で、学校でもあるけれど、用心深いにも程があるじゃんか。

そんなデカイ声で言ったつもりもないし、廊下には俺達二人しかいないんだぞ〜。
ムカムカしながら、昇降口に行ったら、見覚えのある女の子がいた。
「佐藤さん」
俺は思わず声をかけていた。彼女はキョトンとしていたが、俺の顔を見ると微笑んだ。
「桜井先輩」
え、なんで俺の名前知ってるんだ?まあ、いいか。
「あのさぁ。昨日、水飲み場で会ったよな」
「はい。お恥ずかしいところを…」
「あの梶本くんって奴、どんな奴なの」
「はぁ?」
ちょっと唐突すぎたかなと俺は頭を掻いた。佐藤さんは首を傾げた。
「どうって…。どういう意味ですか」
「いや、まあ。性格とか」
「性格…。とってもいい人ですよ。優しいし、スポーツマンだし、格好いいし。彼クラス委員なんです」
「はあ、そうなんだ」
なんだか梶本くんがわからなくなってきた。昼のイメージと夜のイメージが異様に違う。
青春野郎とホスト野郎。
「ゴメン。聞いちゃったんだけど、梶本くんに告白してた時、答えは知ってるみたいなこと言ってたよね。彼って誰かとつきあっているの」
佐藤さんが訝しげに俺を見た。
「どうしてそんなこと聞くんですか」
「俺の知り合いが梶本くんに告白したいらしいんだ。相談を受けてさ」
まったくのデタラメ。
「そうなんですか。桜井先輩って、結構親身になってあげるタイプなんだ…」
どーでもいいが、この子はなんで俺を知っているんだろう。
「梶本くん、2コ上の松木先輩とつきあっているんです。松木先輩は卒業してしまいましたけど、続いているって噂です」
「へえ。松木さんねえ」
俺の1コ上みたいだが、全然知らない。
「有名な話ですけど、ご存知なかったんですかぁ」
「うん。全然。で、その彼女とは今も続いているんだ。なるほどね」
すると、佐藤は爆笑した。
「やだ。松木先輩は彼女じゃないですよ。彼氏です。本当に知らないんですね」
「へっ」
「松木先輩、男なんです。梶本くんって、ゲイなんですよ。知りませんでした?」
俺はほとんど目が点状態だった。
「あんなに有名だったのに、知らないなんて、ビックリだなあ」
・・・三木が、有名って言ったのは、このことかと思った。

次の言葉を捜しているうちに、俺はポンと肩を叩かれた。

振り返ると、梶本くんが立っていた。
「桜井先輩、これ倉本センセから」
ニュッと目の前に数学の問題集2冊が突き出された。
「ど、ども…」
俺はらしくもなく、慌ててしまった。思わずどもってしまった。
「佐藤さん、部活行こうぜ」
梶本くんはさっさと佐藤を連れて歩き出している。
「あの、梶本くん。私…」
佐藤がオロオロしている。
「いいんだ。君が言ったこと事実だから」
そんな梶本の声が聞こえた。しっかり聞かれていたらしい。しかし、奴は平然としている。
俺がどうしてそんなことを聞いていたかを不思議に思わないのだろうか。リョウコさんの回し者ぐらいに思っているんだろうか。
そして俺はハッとする。なんで、俺、こんなこと聞いていたんだろう。
そもそも奴がどう思うかというより、自分の行動の方が今更ながら不思議じゃねえか…。
「ちくしょー。なんなんだ」
俺は手近にあった傘立てを蹴った。
なんだか、熱病に侵された気分。
昨日のあの、夕景が目に焼き付いて離れない。
オレンジの光を浴びながら、梶本くんと目が合ったあの瞬間が、クルクルと頭の中に浮かんでは消えていく。
蹴った傘立てから、傘がドサリと落ちていく音を聞きながら、俺は我に返る。
唐突に自覚した。
ああ、俺、堕とされたんだと思った。奴の瞳に、イカれたんだ。長いこと忘れかけていた感情が甦る。
俺は奴に一目惚れってヤツだ。
笑ってしまうような自分の滑稽さに俺は、長いこと呆然と昇降口に佇んでいた。

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俺は、水飲み場で、いつもの習慣で頭から水を被っていた。
脇に置いておいたタオルを掴んではゴシゴシと頭を拭いた。グラウンドを振り返ると、眩しいまでの夕日が目に染みた。
そういえば昨日は妙な日だった。この場所で佐藤に告白された。すぐ側にはあの桜井なつきが立っていた。
桜井が水飲み場に向かっていたのを俺は知っていた。彼を走って追い越して先に自分がここに着いたからだ。

佐藤が後から走ってきたことは知らなかったけれど…。
桜井は、告白の場に足を踏み入れたことを知りながら、遠慮もなく堂々とその場に立ち尽くしていた。
そして、一部始終を見学していった。その夜には、涼子さんを連れて店まで来た。
彼の驚き方を見ればそれが偶然だったことはわかるが、妙な気分だった。

桜井なつき。クールビューティーと同志の間では評判が高かった。
あのルックスでありながら、学園内の女には目もくれずに、孤高を保っていた。
学業にも専ら興味がなく、しょっちゅうサボリを繰り返している。先程の倉本の様子から、留年ということもあり得るかもしれない。
そうなると、下級生の女達は喜ぶだろう。桜井は興味がないようだが、彼は学園内では大変な人気者であり有名人だ。
俺は思わず笑ってしまっていた。
誰にも知られることがなかった、裏の顔を彼に見られてしまった。
よりによってあの桜井に…。松木先輩をフッたあの桜井に…。先輩が聞いたら、驚くかもしれない。
それにしても桜井が俺に興味を示したことは、驚きだった。

彼ならば、「なんだ、アイツ?」ぐらいで終わらせてしまうかと思ったからだ。
「梶本くん〜。集合よ」
佐藤の声が遠くから聞こえた。
「今、行く」
そういえば佐藤のこういう声を聞くのも、もう最後なのかと思った。
明日からは夏休みだ。
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俺はかったるい補習の日々に、疲れた。
倉本の野郎は、夏休みの半分を補習に充てて全部登校すれば、単位をやるなどとほざいた。
いっそのことホストになろうかと真剣に考えた。
高校を卒業したからといって俺の頭じゃ大学なんて無理だし、どこかへ就職なんて考えただけでさむい。
まったくいいかげんな人生だと我ながら思う。思えば中学時代で、大概のことを経験してしまったからかもしれない。酒に煙草に女。
そんなことを漠然と考えながら校門を通過した時だった。
バスケ部らしきユニフォームの一団が、脇を通り抜けて行った。マラソンらしい。グランドだけじゃ物足りないのか。
このくそ暑いのにご苦労なこったと思っていると、梶本くんが目に入った。
「げっ」
俺は思わず隠れるところを探した。
別に逃げることもないのだが、ヤツと向かい合うと、昨日自覚したあの不愉快なことを思い出してしまうからだ。
惚れたからと言って、別にどうするつもりもない。自覚はしたが、行動はしない。
俺は基本的に、男も女も、親も友達も嫌いだ。自分が好きだ。自分だけが好きだ。
厄介なことに関わって悩むのはゴメンだと思っている。目に入らなければ、すぐにこんなことはどうってことなくなる。
しかし、こんな道の真中で隠れるところもありはしない。俺は一団から大きく距離をあけて歩くことしか出来なかった。
「よっ。桜井。補習か、ガンバレよ〜」
同じクラスの志村が呑気に手を振ってくる。志村の野郎バスケ部だったのか。
俺はそれを無視した。無視してまっすぐ校舎に向かった。梶本くんの姿を見ようとはしなかった。
教室に行くと、倉本が待っていて早速テストなんぞをやらせやがった。
続いて、ドサリとテキストを俺の目の前に積み上げて、次回までに埋めてくるようにとの御達しである。
「遊ばせない気か。夏休みだぞ」

「年がら年中遊んでいるやつに夏休みもクソもあるかっっ。問答無用」
ご丁寧に紙袋にテキストを入れて渡してくれた。
俺はさすがに、卒業をおとなしく諦めようと思わざるをえなかった。
「桜井。帰りにバスケ部の志村に伝言してくれ。今日の練習は3時までに切り上げて帰れってな」
「なんで、俺が。てめーで伝えろよ」
「貴様。教師に向かってなんて口だ。俺は貴様のテストの採点があるんだ」
ガアッと倉本が怒鳴った。
「なんでバスケ部なんだよっっ」
よりにもよって。
「俺がバスケ部の顧問だからだ」
倉本はふんぞり返って言った。ちくしょう。なんだって、こう一度に来るんだよ。
担任がバスケ部の顧問だなんて知らなかったし、知っていたとしても、おとといまでなら、なんてことはなかったのだ。
「奴らは体育館だからな」
「知ってらぁ」
ドカッと教室の扉を閉めて、俺は体育館に向かった。
体育館の渡り廊下まで来て、上を眺めると倉本が手を振っている。
俺がばっくれていないかを確かめていたらしい。

体育館の扉は開け放たれていた。なのに、異様に暑苦しい。熱気が鼻につく。
「キャッ。さ、桜井先輩」
扉近くに座っていたマネージャーらしき女が小さく叫んだ。
「バスケ部の人?」
聞いたものの、ゴール近くに座っていたのだから、当然だろう。
案の定うなづきが返って来る。
「は、はい」
「倉本からの伝言。今日は、げっ」
頭の上で物凄い音が炸裂した。
「やったあ。ダンクだっっ」
俺は思わず頭を両手で庇って座りこんだ。
「な、なに。今の音」
「梶本くんがダンクを決めたんです」
女子マネージャーが頬を染めて言う。
俺が振り返ると、梶本はバウンドするボールをキャッチした所だった。
「あ、時間だわ。休憩よ」
耳元でピピィーとけたたましい笛の音がまたしても鳴り響く。俺は今度は手で耳を押さえた。
「あ、すみません。桜井先輩」
女子マネージャーが首から下げていた笛を口から外した。
「で、倉本先生からの伝言は…」
「ああ。あれ、なんだっけ」
今のショックで、一瞬伝言内容が吹っ飛んだ。
そうこうしている間に選手達がマネージャーの所に殺到してくる。
「絵里ちゃん、ポカリ」
「タオル取って、絵里ちゃ〜ん」
汗臭い大男達がワラワラと近寄ってくる。マジでクラリとして、俺は踵を返した。
その時、学ランを絵里ちゃんマネージャーに引っ張られた。

「さ、桜井先輩。伝言聞いてません」
答えようとしたところに志村が割り込んできた。
「お、桜井。留年が決まって、我バスケ部に入部希望か。残念だが、バスケ部は学術優秀な奴でないと、 お断りだ。文武両道だっ。ハッハッ」
心底軽蔑した目を志村に送りつけて、俺は絵里ちゃんマネージャーに「今日の練習、3時に切り上げ。倉本からの伝言。以上」
と言って体育館から飛び出した。
「冗談じゃねえ、暑苦しい」
「補習の方が、もっと暑苦しいでしょ。クーラーなしの密室で髭の大男と勉強なんだから」
梶本は開け放たれた扉によっかかって、スポーツドリンクを片手に持っていた。言い終わるとグイッとそれを飲み干した。
「なんだと?」
「深夜フラフラしてないで、お勉強しなさい。桜井先輩」
ニコリと梶本は笑うと、さっさと体育館に戻って行った。
「・・・」
俺は猛烈な勢いで教室に走った。
「倉本ォォォ」
すると数学の教科書が飛んできた。
「貴様、教師を呼び捨てにすな」
教科書は俺の頭にバサッとヒットした。
俺は足元に落ちた教科書を蹴飛ばして倉本に詰め寄った。
「梶本。梶本セイ。アイツ、何者なんだ」
「ん〜。梶本セイはおまえと違って優等生だぞ」
「どこがっっ。アイツはホスト野郎だぞ。金持ちのお姉さんを誑かして金巻き上げている最低な奴だ。あんな奴、バスケ部から除名しろっ」
「貴様こそ、3年クラスから除名されかかっているんだぞ。暑さでイカレたか。梶本がホスト?それはお前の将来だ」
ブワッハッハッと倉本は大笑いだ。
「信じてねーな、クソッ。なんで俺がアイツにバカにされなきゃなんねーんだ」
「バカにされたのか?でもしょうがないだろ。おまえバカだからなぁ」
再び豪快な笑いが教室に響く。
「ふざけんなっっ。梶本」
俺は猛烈に頭に来た。
可愛さあまって憎さ百倍。俺という偉大な存在を、アイツに叩きこまねばならない。
「ちくしょう。アイツ…」
「寝惚けるなら、教室の外でやってくれ」
ポイッと教室から追い出された。
俺は携帯を握り締めた。片手にはあの名刺を握っていた。
「野田、野田、野田〜。望み通り、雇ってもらおーじゃねえか」
「やかまし」
カーンと黒板消しが教室から飛んできた。
俺はあの店で働くことを即効決めた。

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松木先輩に、桜井のことを話すと先輩は優しく笑っていた。
「なつきがお前に興味を示すなんて、珍しいな」
「先輩、アイツのことよく知っているんですか。振られたって聞いたことあるけど、アイツは先輩のこと知らないようだぜ」
すると彼はうなづいた。
「なつきとは、中学時代に知り合った。俺は両親の離婚で、苗字が変わったんだ。それに俺達の噂を知らないくらい、
アイツは学校に来てなかったから、同じ学校にいることも知らなかったんだろ」

「そんな。不思議な関係ですね」
「お互いなにも知らずに夜の街で会ったからなぁ。それになつきは自分以外誰にも興味がなかったんだよ」
あまりに意味深な台詞にチクリと胸が疼いて思わず聞いてしまった。
「ヤツと寝たんですか」
今まではせいぜい告白して、振られた程度と軽く考えてきたが、この話ぶりからしてどうもそれだけではすまない間柄ではなかったようだ。
「まさか。ただ、おれは、なつきを本当に好きだったよ。ゾッコンと言ってもいいぐらい惚れてたね。ごめんな。隠していた訳じゃないよ。
ただ、前はなつきの話なんて噂程度に軽くかましてるだけだったけど、最近はどうもそれだけじゃ終わりそうにないから、先に暴露しておくよ」

「聞くんじゃなかったな。むかつく」
松木先輩がニコニコしている。
「今はおまえが好きだよ。怒るなって」
俺は松木先輩の足元のシーツにゴロリと頭を乗せた。
「早く先輩が元気にならないかな」
松木先輩が体を曲げて、俺の頭を撫でてくる。
「もうすぐ元気になるよ。ギブスもそろそろ取れるし」
「ああ。頭の方は大丈夫だよね」
「検査ではなんともない」
「良かった。俺のバイク事故の巻き添えだもんな。先輩はなにも心配しないで療養してください」
すると松木先輩は少し困った顔になる。
「入院費…。おまえが出してくれてるんだろ。気にしないでくれ。俺、自分でなんとかするから」
松木先輩は、両親が小さい頃に他界して一人ぼっちだ。
親戚はいるものの、彼らは名ばかりの冷たい親戚だった。
事故の知らせを聞いても誰一人として見舞いに来ない。
先輩は、昔バカやっていた頃以来見放されていると言っていたが…。
一体彼が、そんなバカをする羽目になったのは誰のせいだというのだろう。
居候である彼を誰も彼もが、冷たくあしらったからじゃないか。
誰一人して、両親を無くして傷ついている彼を慰めてやらなかったからではないか。
「先輩こそ、気にするな。俺、ホストの仕事あっているみたいだよ」
「セイ…」
入院中だ。これしか出来ない。俺達はキスをした。後を引くような、キス。
「おまえ…」
松木先輩が顔を顰める。
「退院したら、いっぱいしよう」
慰めるように額に軽くキスしてやると、松木先輩は苦笑する。
「あまり、無理なことするなよ。おまえはまだ高校生なんだからな」
「わかっているよ。じゃあ、帰る」
「うん」
松木薫。俺の恋人。彼以上に理想の相手なんてもう現れないだろう。惚れている。惚れぬいている。
彼の為なら、ハイリスクハイリターンだ。ハイリスク…。俺は少し、後悔した。
今日の昼、体育館に現れた桜井を、からかった。何故だか、思わずからかってしまった。
松木先輩を振ったからという子供じみた仕返しだったかもしれないが、もっと苛めてやれば良かったと後悔した。
この嫉妬はしばらく収まりそうにない…。


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「今日からウチで働くことになった、桜井くん。略してサクラくん。皆さんよろしく」
店長の野田は上機嫌だ。
そりゃそうだろ。俺のこのルックスじゃ、間違いなくすぐに1だ。梶本なんて、蹴散らしてやる。
そして俺の偉大さをとっくりと見せ付けてやるのだ。
自己紹介が終わって、俺は野田をとっ捕まえて梶本の常連客を聞き出した。
「君ね、カジくんに恨みでもある訳?」
「別に。まあ、リョウコさんはいいとしても、他の客はいただくからね」
「いい訳ないでしょ。喧嘩は駄目だよ」
そう言って野田は俺の尻を撫でた。
「それ、癖?」
「趣味。君みたいな美少年の尻を撫でるのが趣味なんだ」
野田はニヤリと笑った。危ないヤツ。さっさと梶本に恥かかせて、退散せねば。
しっかし梶本っていうのはしたたかなガキで、俺を見ても驚いた気配すらない。
「頑張りましょう」
なんて、握手まで求めてきやがった。
んとに、マジ惚れるな、こういうタイプ。
学業にはもっぱら回してない知恵をフル回転させて、俺は徐々に梶本目当ての客を強奪していった。簡単だ。
ヤツはポリシーとやらで客のアフターフォローをしないのだが、俺はコソコソと隙を見計らっては彼女らと夜明けまで遊んでやった。

梶本よ。
松木とやらに操を立ててるんなら、こんな商売しないでもっと手堅い商売選ぶんだな。
どんな理由でこんな商売してるのか知らねーけど、女達は皆、おまえとどうにかなりたくて、せっせとこの店にやってくるんだからな。
焦らしすぎちゃ、あんまり可哀想だぜ。


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野田は店内を見回しては、ニヤリとした。
「見事にやられたね。あの可愛い子ちゃんに。カジくん」
俺はグラスを拭きながら、うなづいた。
「ええ。見事に。あっさりと…」
「君の得意はリョウコさんだけか。けどね、彼女も毎日来るって訳じゃないしね」
彼が何を言いたいかはわかっている。
「はっきり言ってもらえますか」
「うん。辞めてくれないか」
店長の野田はニッコリ笑った。
「グラス拭きなら、専属がいるからね」
「わかりました」
「残念だよ。君ももっとこの業界に染まれればいい線までいったのに」
野田はポンッと俺の肩を叩いた。
「そこまでして、この業界にいたい訳じゃないんで。桜井さんは、むいているみたいだから、可愛がってあげて下さいね」
すると野田は舌舐めずりした。
「うん。そうだね。あの子は可愛いよ。そろそろいいかなあ。うん、そろそろいいだろ」
野田の悪い癖だ。好みの従業員にすぐ手を出す。
しかし、彼らも心得ていて、野田に気に入られれば時給アップは間違いないから、おとなしく従う。
そういう意味で、可愛がってあげてくれとカマかけたのだが、ビンゴだったらしい。

「それじゃ、俺失礼します」
「今日の分はまるまる入れておくよ。サービス。ねっ」
野田がウィンクしてきた。
「ありがとうございます。店長。お世話になりました」
「いいよ、いいよ。機会があったら、またね」
二度と機会なんかねーだろ、アホ。と思いつつ、俺は1ヶ月半勤めたこのホストクラブとお別れした。
幸い金も適当にたまったし、潮時だったのかもしれない。それに松木先輩も退院が近い。
ロッカーで着替えていると、仲間の従業員の本多が近寄ってきた。
「サクラの野郎、ムカつく。たった二週間ぐらいでトップだぜ」
「あの顔じゃ無理ないでしょ」
「悔しくないのかよ。カジくん」
「俺はいいんだよ。そろそろ辞めようと思っていたからね」
チェッと彼は舌打ちする。
「女も男もしょせん顔だよな。とくにこの商売じゃ」
「それはしょうがないでしょ」
なんだか悲しい会話だ。結局俺も、彼も、桜井のあの完璧なルックスには叶わないということだ。
それにしても、桜井の性格はかなりわかりやすい。二週間、この店で接してみてすぐにわかった。
巷に流布している噂はデマだ。どこが、クールだ。どこがっ。それに彼は無駄なことに努力するタイプだ。

「カジくん、これからどうするの」
「ん〜。まあ、本業に戻るよ」
「本業ってなんだっけ」
「高校生」
仲間の従業員は飲んでいた酒を吹き出した。
「こおこおせい?」
「そう」
「世の中狂ってるな」
彼はブツブツと呟いた。俺は煙草を揉み消した。
「頼まれてくれる?本多さん」
「え。なんだい」
「サクラに言っておいて。いつまでも下らねーことしてないで、我が身可愛けりゃさっさとてめえも本業に戻れってね」
彼はタラリとこめかみに汗を流した。
「もしかして、彼もこおこおせい?」
「ダブりそうな高校3年生」
「うぉぉぉ」
ガンガンッと頭を壁に打ちつけている男を見捨てて、俺はさっさと裏口から逃げていた。

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「梶本が辞めた?」
仕事を終えて、ロッカールームに戻ってくると、本多という従業員がそう告げた。
「即日解雇ってヤツ?まあ君にあれだけ客取られちゃ仕方ねーよな」
「梶本がクビ…」
やったぜ。とうとう。いや、案外早かったな。
「彼も君の顔には叶わないって言ってた。俺もそう思うよ」
お前の意見なんざどーでもいい。そーか。
俺に負けたと認めたか。梶本め。ザマーミロ。さあ、さっさとこんなところ辞めなきゃな。

「カジくんが伝言しろって言うから俺わざわざ残っていたんだぜぇ」
本多は恩着せがましく言った。
「ああ、サンキュ。ところで、伝言ってなに」
「下らねーことしてないで、我が身可愛けりゃさっさと本業に戻れって」
「下らねーことだと?」
あんの、タコ。余計な伝言しやがって!
「お、俺が言っていたんじゃないよ」
「梶本はいつ帰った」
「もう大分前。今から追っかけても無駄だよ」
追っかけるつもりなんて、ねーよ。冗談じゃねえ。
ああ、むかつく。誰のせいでこんな下らないことしたと思ってる。
俺はバンッと机を叩いた。
「お、怒るなよ〜。可愛い顔台無しだぞ」
「るっせ。おい、店長に伝言しとけ。待ってろと言われたけど俺は帰るってな」
「俺はメッセンジャーじゃないよ〜」
本多は俺の気迫に押されてか、涙ぐんでいる。
「俺は店長待ってるほど暇じゃねえんだ。頼んだぞ」
「店長はまだ上がらないよ。俺達より30分は遅いんだから」
「だからてめえが待ってればいいだろ。あ、ついでに言っておいて。俺、今日で辞めるから」
本多は丸い目を見開いた。
「ええええっ。そ、そんな大事なこと自分で言えよ」
「だから暇ないんだよ。じゃあな」
俺はさっさと着替えて裏口から店を出た。
店を出て、大通りでタクシーを拾おうとした。
しかしタクシーの列は長蛇の列だ。待たねばならない。こんな時間に電車は走っていない。
30分は待たなければならないだろうかと思っている時だった。後ろから肩をどつかれた。
振り返ると、そこには梶本が立っていた。
ハアハアと息を切らせている。
「な、なんだよ、おまえ」
グイッと手を引っ張られて、俺は列からはみ出した。後ろのヤツが「もうけ」とばかりにさっさと列を詰めた。
「大丈夫か」
「?」
「なんともないかよ」
「なんだよ、いきなり」
梶本は呼吸を整えながら、俺をマジマジと見た。
「野田さん…」
と一言呟いた。
「店長がどうかしたのか」
「いや…。なんか言われなかったか」
「なんかってなんだよ。待ってろとは言われたけど、俺にはそんな暇ねえって伝えろって本多に頼んだ」
頼んだというよりは脅迫だったが。
「そんな暇ないってなんでだよ」
「おまえがむかつく伝言したからだろ。頭に来て、店長と飯なんか食ってられるか。バカらしい」
すると梶本はクッと笑った。
「飯…ね。まあ、さぞかしおいしい飯を食うつもりだったんだろうけどね。店長」
「おまえも食ったことあんのか」
梶本はブンブンと首を振った。
「俺は興味ないから。アンタ…、いや。なんでもない」
俺は梶本の手を振り払った。
「いつまで掴んでいるんだよ」
「あ、悪い」
嬉しいじゃねえか。バカヤロウ。
「だいたいなぁ。貴様、先輩の俺に向かってその言葉使いなんだよ。学校では、優等生ぶりっこしやがって」
んとに、コイツってば二重人格だよ。
「なんだよ。人がせっかく戻ってきてやったのに。だいたい俺の伝言に腹立てて店長との待ち合わせ蹴ったならば、俺に感謝しろよ」
訳のわからないことを梶本は喚いた。
「なんのことだよ」
「知るか、アホ」
あ、アホだと。この野郎。
「アホって言ったな。なんだ、てめえ」
「アホをアホって言って何が悪い」
俺が梶本の襟を掴みあげると、タクシーの行列待ちの誰かが「喧嘩なら余所でやれ、クソガキども」と叫んだ。
「なんだとっっ」
俺は行列の奴らを睨みつけた。
「やめろよ、桜井さん。こんな所でおまわり呼ばれたら、バレちまう」
「うるさい。だいたいおまえがっっ」
いきなり掌で口を塞がれて、梶本は俺を脇に抱えるようにして、そそくさとタクシーの列から離れた。
「ぐぐっ」
口を塞がれて、声が出ない。ちくしょう。俺を引き摺るな。こんなの嬉しくないぞ。やっと梶本が掌を外した時、俺は叫んだ。
「俺は戻るからな。タクシーじゃないと帰れないんだよ」
「今から待ったって、一時間以上はかかるよ。ほら、あの列」
振り返って梶本は遠くに見える列を指差した。
「俺は、おまえさえ来なければ、30分ぐらいで乗れる位置に並んでいたんだ」
梶本の背中を叩いてやった。
「それは悪かったよ。じゃあ、家に来な。ここから歩いて20分だから」
「お前の家?」
俺は思わず大声を出した。
「やだよ。ゲイの家なんて泊まれるか。第一恋人がいるんじゃねえのか」
「いてもいいじゃん。見せつけないから安心しなよ。それにいなくてもアンタなんて襲わないよ。店長じゃあるまいし」
梶本がそう言った時、聡明な俺はハッとした。そういうことか…。
「もしかして、野田の待ってろってそういう理由か」
梶本は鼻を鳴らした。
「どうかな。わかんない」
「ふーん。あ、そう。我が身可愛けりゃってそういう深い意味があったのか」
「へえ。頭悪い癖に、深く読めるじゃん」
コイツ、本当になんてムカつくんだ。
「ん?」
待てよ。コイツ、なんで戻ってきたんだ。最初に言ったよな。「大丈夫か」って。
「お前、俺のこと心配したのか」
「なんでだか知らないけど、俺を怒らせることに情熱燃やしているアンタが気の毒に思えてね。あの店入ったのも、俺が原因だろ。後味悪い気がしてさ」
いちいちムカつく言い方する男だ。
「別に大したことじゃねえだろ?男と寝ることなんて」
「そうなの?」
「ふん。・・・野田とは寝たくない」
「ほら、見ろ」
「おまえに助けられたんじゃない」
「俺の忠告に腹立てたせいで、野田との約束ばっくれたんだろ。俺のおかげだ」
「うるさい。黙れ」
梶本は歩くのを止めた。クルリと振り返る。俺は奴の後ろを歩いていたので、同じく歩を止めた。
まじまじと梶本が俺を見つめていた。
「なに?」
「俺を構う理由ってなに?」
「お前を構ったつもりはないけど」
俺は得意のポーカーフェイスだ。
「よく言うよ。俺の客取ったじゃないか」
「偶然だろ。おまえと俺があの店で会ったようにな」
「偶然ね…。なるほど」
言えるか。
おまえが好きだなんて。おまえの視界に入りたくて、おまえと一緒にいたくて、こんなことしたなんて…。
ああ、我ながら不気味。小学生の恋愛じゃあるまいし。あ、普通は中学生か。俺、中学ではもっと不純だったからなぁ。
「納得したか」
「ああ、した。そうだよな。偶然だよな。桜井先輩は、自分以外には興味がないクールビューティーだからな」
「なんだ、それ?」
梶本の台詞は気持ち悪かった。
「でも、俺、恋人いるからな。先輩の気持ちには答えられないな〜。困っちゃうぜ」
「!」
その言葉に打ちのめされる。恥ずかしさに体が震えた。
「な、納得してねえじゃないか」
「偶然なんて信じられるか、バーカ。アンタときたら、見え見えなんだよ」
ケケケと梶本は笑った。
「バカだと?アホだの、バカだの、よくもポンポン言うな、くそったれ」
「言っておくけど、これは愛情表現じゃないよ。本気でアンタのことそう思っているんだよ」
ちくしょう。なんなんだ、コイツ。この俺が手玉に取られている。
冗談じゃない。泣かしの桜井と呼ばれたこの俺が、泣いてたまるか、くそったれ。
「帰る。歩いてでも帰る。あばよ」
俺は梶本と逆方向に向かって歩き出す。
「桜井さん。そっちに行ったら野田さんとバッタリ会うかもよ。あの人、一度狙った獲物は中々逃がさないよ。今日は辛い夜になるかもね」
俺は野田のねちっこい視線を思い出した。確かにアイツなら、ここで会ったが百年目と突進してきそうだ。
「おまえこそ、なんで俺をいちいち構う。おまえも俺に惚れてるんだろ」
ざまーみろ。これでおあいこだ。梶本め。
梶本はニッコリ微笑んだ。
「バカな子ほど可愛いってヤツ?!」
「き、貴様〜」
俺は梶本の後を追いかけた。梶本は追いつかれまいと走り出す。俺も追う。
しかし現役のスポーツマンには勝てずに俺は結局梶本に背負われて、奴のアパートへと連れこまれた。

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なんで俺がこんなことしなければ、ならないんだろ。
桜井はさっきから、問題集を半分仕上げた時点で勝ち誇ったように眠ってしまった。
倉本先生が席を外したからだ。
代わりに見張っているようにと、言いつけられたのは、次期キャプテンとして倉本の指示を聞いてくるようにと志村部長に命令されてこの教室に来たからだ。
昨日はうちに桜井を泊めたので、俺達は二人で学校へ来た。
それを職員室の窓から見ていた倉本が「同伴登校」と豪快に笑っていた余韻だろう。
しっかり面倒を見させられている。まったく、呑気な桜井の寝顔を見るのは昨日から続けて二度目だ。
この人は眠っている時は本当に幸せそうである。
「起きろ」
俺は桜井の前の席の椅子に、背もたれを抱くようにして座っていたので、眠っている桜井の頭を容易に叩くことが出来る。
「痛っ」
本気で眠っていたのか、俺を見上げた桜井の瞳が潤んでいる。
さすがに美貌なだけにその無防備な姿に不覚にも俺はドキリとした。
「さっさと問題やれ」
慌てて誤魔化す。桜井は、欠伸をしながらチラリと俺を見た。
「もういいよ。部活行けよ」
「そうはいかない。先生と交代だ」
「昨日からてめえの顔見過ぎてる」
「嬉しいだろ」
シャーペンを握った桜井の指が微かに動いた。
しかし、それだけで、俺の言葉に否定も肯定もしない。
おとなしく、桜井は問題集の続きを解き始めた。サラサラと紙を擦る音だけが聞こえた。
グランドからの掛け声が、窓の外にやかましいくらいに聞こえていたというのに、一気に音がなくなってしまった。沈黙が訪れる。
「ここ、わかんない」
桜井が顔を上げて突然言った。
「どこ?」
問題集を覗きこんだ俺は、いきなり桜井に顎を捕まれた。
そのまま、キスに突入した。想像通りに、うまいキスだった。
唇が外れ、桜井の長い睫が上下に揺れる。
「こんなのもわかんないのかよ」
自慢じゃないが、数学は得意だ。
「この公式にあてはめて、ほら。これで数字をはめれば解ける。あとは、掛け算割り算ぐらい出来るでしょ」
桜井が問題集に目を落とす。
「なんで、わかるんだよ。これ3年の問題だぜ」
「頭の出来の違いだよ」
桜井はキッと俺を睨んだ。
「この、不感症」
「ねえ、いつから俺に惚れたの?」
「水飲み場」
再び窓の外の音が、教室に戻ってくる。
「おー、梶本、ご苦労だったな」
ガラッという扉の音ともに倉本が入り口に立っていた。
ズカズカと大股で教壇を横切り、俺達の手元を覗きこむ。
「進んでいるな。よし、よし。さ、交代」
俺が座っていた位置に、倉本が腰掛けた。
「梶本。コイツを見習うんじゃないぞ。おまえは今のままでガンバレ。んで、コイツがクラスメートになったら、よろしくなっ。ハハハハ」
「縁起でもないこと、言うな」
桜井が倉本を睨んだ。
「桜井先輩、頑張って」
嫌味なくらいに、優しく言ってやる。
すぐさま返ってくるであろう反応を一瞬楽しみにしていたというのに、桜井はうつむいたまま顔を上げなかった。むろん、無言だった。

「こら、返事ぐらいしろ」
倉本の叱責をも無視して、桜井はもう俺を見ようとはしなかった。
仕方ないので俺もおとなしく体育館へ戻った。
何故だか一日中シュートが決まらずに、マネージャーに「どんまい」を連呼されてしまった。
暑いからだと思った。

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夏冬の補習をクリア―し、あとは卒業に向けて調整しているまだ寒い冬の日。
教室に行くと、倉本はいなくて、いつもの机でウトウトしていると、バタバタと廊下を走る足音で目が覚めた。
「ああ、桜井くん。ごめんね。連絡が遅くなったわ」
英語教師の水野が教室に飛びこんできた。
「倉本先生、来れないの。電話があったのよ。ほら、君も知っているでしょ。去年の生徒会長の松木くん。彼が亡くなったの。
倉本先生、担任だったのよ。部活の顧問だったし」

「松木…?」
「松木薫くん。知らない?」
「松木薫…。死んだ?なんで・・」
「バイク事故。骨折の方は治っていたらしいのだけど、頭を打っていたのね。検査では異常がなかったみたいだけど…」
水野の表情が暗くなる。
「いい子だったのに…」
松木薫、知らない。
でも、去年の生徒会長は、知っている。
だけどアイツは松木って苗字ではなかった筈だ。黒崎薫だった。

カオル、カオル。アイツが「松木」か。バスケ部の松木、そして、梶本の…。
「だから、今日の補習はないの。明日もないわ。きっと、倉本先生から自宅に電話が行く筈だから、今日は帰りなさい」
「わかった」
歩きながら、梶本にはもう二度と会えないかもしれないと思った。
考え直す。
生きている限り、会える。
しかし、梶本こそもう二度と黒崎、いや、松木薫とは会うことが出来ない。想像すら出来なかった。
恋人を永遠に失うことの辛さなど。こんな時に、なんて不謹慎なと思いながらも、俺は梶本に会いたくなった。
松木薫の死を悼むことが出来ないぐらい、俺はただひたすら梶本を恋しく思った。
強引にキスを奪って以来もう二週間以上も顔を合わせていない。
梶本に会いたい。会いたい。なんで、こんな時に。こんな時だからこそか?
重症な俺。

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松木先輩を亡くしてからは、俺は何もする気がなくなった。
ひたすら悲しみに埋没し、自責の海でのたうちまわった。
他人にはどうしてもらうことも出来ない。もう恋人はいないのだと、何度も口に出して見ても、納得しきれない。
涙は枯れることなく、流すことが出来る。
そして、冷静に時が通り過ぎるのを待っている自分を自覚する。考えることと言えば、先輩のことだけ。
窓の外の風景が、冬から春になり、ハラハラと桜が舞い落ちるのを見て。
俺はやっと立ちあがることが出来た。

涙も思い出も枯れることはないが、このままでは自分が死んでしまう。
それもいいかと思ったが、体はそれを許さない。
一時は息をして、食欲すら憶えるこの体を憎んだが、結局は自分が生きていることを自覚するだけだった。
愛する人は去ったが、自分は生きている。それはどうすることも出来ない事実なのだ。
ああ、春だ。春だ。もう、春なんだ。
その時、ふと頭に桜井の姿が浮かんだ。
この辛い時期。初めて先輩以外の顔が頭に浮かんだのだ。
あの人、補習どうなったんだろう。無事卒業出来るのだろうか…。
まず担任に電話をし、次に倉本に電話をした。
倉本は電話越しに涙声で、「よく電話してくれたな。大丈夫だぞ。クラスメイト達も心配してたから、頑張って登校してこいな」

「桜井先輩は…」
「おまえ、復活したばかりでもう人の心配かよ。大丈夫だ。ヤツは卒業するよ」
あの不真面目なヤツが、補習をとうとう乗り切ったのか。
信じ難かったが、自分がはんば死にかけていた時にでも、他人は着実に時を刻んでいたのだと実感した。
「先生。俺、なんとかなりそうだ」
そうして俺は春の季節に生き返った。

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長い日々だった。結局俺はなにも行動しなかった。
相変わらず梶本には会いたいと思っていたけれど、なんとか堪えた。
なんだか知らないが、俺と梶本が「仲良し」だと思いこんでいる倉本は、せっせと梶本の様子を俺に教えてくれた。
「生きてるぞ。アイツは絶対復活するから、おまえも頑張れ」と言われ続けた。
そして、本当に梶本は再生した。

俺はもうすぐ卒業する…。
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春休み中だったが、心配かけた先生達に復帰の報告をする為に俺は登校した。
職員室の前で、桜井とバッタリ会った。
桜井は髪を切ったらしくスッキリとした印象だった。俺を見ると、その切れ長の瞳がピクリと動いた。
「卒業するんですね。同じ学年になるかと思ってましたが」
すると桜井は、俺をジッと見た。次の瞬間。
「ふふ・・・いきなりイヤミかよ。おまえらしいな」
初めて俺の目の前で笑った。綺麗な笑みだった。

「死に損ない」
「労りの気持ちがないんですか」
「あったから、ここにこうしている」
「なんでここにいるの」
「大学に行くから。倉本の個人レッスン」
俺はギョッとした。
「アンタが言うと、なんだかやらしい。ところで、それマジですか」
桜井は得意気に言った。
「マジだとも」
「へええ」
桜井は俺をジッと見た。背が同じくらいなので、目線がもろに突き刺さる。
「おまえが死にかけている時にさ、俺おまえに会いたくてしようがなかったんだ。でも、行ける状態じゃないだろ。
だから、なんか勉強しちまった。したら、俺って元は頭いいじゃん。スラスラよ。大学なんて、軽いぜ」

そんな桜井の台詞を聞いて、俺は苦笑しちまった。
相変わらずらしい。この人は変わらん。そしてそう思える自分も変わっていないのだろう。あんな事があった後でも。

「軽いなら、学校来ることもないのでは?」
「そりゃ、もう癖だな。人がいない所で勉強するのはいい。家だと気が散る」
俺は呆れた。教室を自分の部屋にするなよ…。
「倉本先生は大変だ」
「迷惑かけたのはお互い様だ」
そんな会話をしていると、当の倉本が職員室から、のそっと出てきた。
「おー、お二人さん」
「先生。ご迷惑おかけしました」
俺は頭を下げた。
「いいんだ、いいんだ。梶本、どうせならおまえも勉強してくか」
「結構です。俺、すぐに追いつきますから」
桜井がキッと俺を睨んだ。
「コイツ、元気じゃん」
「おお、元気だな。しかし、ここだけの話、桜井の方が俺は心配だった」
倉本が急に小さな声になる。
「なんだよ、それ」
桜井の眉がキュッと跳ねあがる。
「だってさ、コイツは梶本に惚れているのに相手にされてなくて、更に松木の件があって梶本はコイツどこじゃない。
なんだか、桜井の方が死ぬんじゃないかと俺は内心あせっていた」

すると、クールビューティーと噂される桜井の顔がいきなり赤くなった。今日は色々と初めての顔を拝める日だ。
「な、なんで、俺がコイツに惚れてるんだよっっ」
すると倉本は肩を竦めた。
「だって、おまえ。夏の補習の時だ。俺と梶本が交代した時、迫ってたじゃないか。いきなり、こう、グイッと梶本に…。なあ、梶本」
同意を求められても困る。それにしても見られていたとは気づかなかった。
「見てたな、この野郎」
桜井が突如として喚いた。
「仕方ねえだろ。見えたんだよ」
「バカヤロウ。見学料よこせ」
「そんなお綺麗なものかよ。見たくて見たんじゃないわい」
まったくもって職員室の前で交わす会話ではなかった。
ギャーギャーやりあう二人を見て、俺は溜め息をついたりなんかしていた。

「俺、失礼します。担任にも挨拶してきますから」
さっさと戦線離脱をはかる。
「梶本。たまにはコイツとも遊んでやれよ。なーに、コイツは多少のこと言ったってへこたれるようなタマじゃない」
「だまれ。このクマッッ」
「そうさせてもらいます。桜井さん、これからもよろしく」
俺は彼らから離れつつ、手を振った。
「誰がよろしくするか、アホー」
「おいおい、嬉しい癖に。ったく、おまえ見てると飽きんわな」
「卒業式憶えてろよ。お礼参りしたるぞ、このヤロウ」
「古いやっちゃな〜」
そんな二人のやりとりを、遠くに聞きながら、俺は廊下を走った。
「こらっ。休み中だからって廊下走るな」
擦れ違う物理の教師に注意される。
「すみません。でも、急いでいるんです」
「どこへ行くんだ」
「適当」
「なに?おいっ、梶本」
教師の注意を無視して、俺は校舎を全力で走った。
松木先輩と一緒に歩いた、懐かしい場所、全てを。最後に屋上に来て、俺は空に向かって思いっきり叫んだ。
「先輩。今も、今も、大好きだ〜!!!」
人が少ない時だからこそ、叫べた。思い出いっぱいある。だから、もう、大丈夫だ。きっと…。

******************************************************************
「結構恥ずかしいな」
倉本がボソリと言った。
「思いっきり恥ずかしいわい」
「おまえ、本当にアイツ好きなのか」
「たぶん…」
もちろん梶本の屋上での雄たけびは、俺達のいる教室にも届いている。
「ま、ガンバレよ。おまえが大学に行けた奇跡を思えば、奇跡なんて努力次第で簡単に起こせるもんだと俺は思った」
倉本は呑気に言った。
「なに言ってんだよ。俺のは実力だ」
「そんじゃ、その実力で、梶本を頼むぞ」
「なんで頼まれなきゃならない」
「好きなんだろ」
倉本に言われて、俺は一瞬だまった。しかし…。
「ああ」
「生きてる者勝ちだ。松木には悪いがな」
「そうかな?」
そうは思えない。梶本をこれからも好きでいるならば、俺はきっと辛い目に合う。きっと…。
「ま、あと2年したら梶本もおまえの大学に放りこむから、そしたらまた始めればいい。それまで、おまえもマトモになってさ」
今でも十分マトモだ、言い返そうとして止めた。やっぱり断固としては言えねえ・・・。
「俺は飽きっぽいから、2年も待てない。きっとそんなに好きは続かねーよ」
「梶本は粘り強いぞ」
「フンッ。俺も負けない」
「どっちなんだ」
「梶本に負けるのは嫌だ」
倉本は、ヘッと笑った。
「勝負にならん気もするが。まあな。おまえの桜は咲いたし、梶本もな。冬のあとにゃ必ず春が来るってことで」
「当たり前だろ」
「頑張ろうな」
コイツ、ほんと、教師がよくお似合いだ。それも熱血教師。
なつきは、ヘッと肩で笑った。

まあな。冬の後って春なんだよな。そうか。春か。春が来るのか。
いいかもな。いいかもしれない。俺って単純なのかな。
俺にもいつか春が訪れるんだよな。
俺の今年の冬はすごく寒かったから、もしかしたらあったけー春がくるかも・・・。
そんなことを考えていたら、扉がガラッと開いて梶本が教室に乱入してきた。
「お、どうした、梶本」
倉本が扉を振り返って言う。
すると梶本は、チラッと俺を見ながら、
「やっぱり、俺も混ぜて下さい」
そう言って、楽しそうに笑った。

続く
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