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建物の爆発に、イリアス達を見上げていた人々がほぼ一斉に悲鳴を上げた。
中には、目を反らして顔を掌で覆ってその場にしゃがみ込んで泣き出す婦人もいたぐらいだった。
誰もが、あまりの爆音と爆風のせいで、咄嗟に空中から目を反らしていた。
その僅かな隙に、空中に飛び出していた二人の姿が忽然と消えていた。

「!?」
アスクルとカデナは、ハッとして足元を見た。だが、二人の姿はない。
「イリアス達はどうなった」
アスクルが叫んで、辺りを見回した。カデナも、顔を強張らせて辺りを振り返る。頭の中がパニックしていた。姿を消したイリアス達。
が。
皆が揃って呆然としていたところへ、背後から物凄い音が響いた。バシャーンッと、水飛沫が激しく上がる音だった。
裏庭にあるイマジュール家自慢の七色の湖と呼ばれる湖。
時間や季節によって、湖面は七色の美しい色をたたえるからそう呼ばれていた。

「お二人だ。お二人は、湖に落ちられたんだっ」
「な、なんだ?なぜ湖に。どうして。距離がありすぎるぞ」
「爆風だ。建物の爆風によって、お二人の落下する力が曲がったに違いないっ」
人々は叫びながら、七色の湖に向かって走り出す。むろん、カデナとアスクルは一目散に湖に向かっていた。
推測どおり、予測しなかった背後の建物の物凄い爆発によって、垂直に落下していたイリアスとルージィンの体が浮いて予期せぬ方角に放り出された。
だが、それはまったくもって幸運というしかなかった。爆風のせいで、二人の体の落下する速度は緩み、柔らかな木々ジーンを受け皿として、さらにそこから湖に落下したのだ。

「イリアスっ!」
アスクルが、湖面ぎりぎりに立って、叫んだ。だが、音はしたものの、二人の姿は湖のどこにもない。
アスクルは、正装のマントを毟り取って、湖に飛び込んだ。
次々と、人々がアスクルを真似て湖に飛び込んだ。カデナも湖に飛び込もうとして、ルナにとめられた。

「二重の災害になっては危険よ。イリアスは大丈夫。あの人は、泳ぎが上手かったわ。私も教えてもらったんだから。貴方は、戻ってきた彼を迎える為にここにいなさい。動いてはだめよ」
ギュッとカデナの腕を掴んで、ルナは首を振った。
「姉上・・・」
「大丈夫よ。大丈夫・・・。イリアスは無事よ」
カデナは、唇を噛み締めて、湖面を睨んでいた。僅かな時間だったのだろうが、カデナには恐ろしい程の長い時間に感じられた。湖面に、イリアスの姿を見つけるまでは。
「いたぞ。ご無事だ。お二人はご無事だ」
ワアッと歓声があがった。イリアスが、両腕にグッタリとしたルージィンを抱きながら、湖面に姿を現した。
「生きてるわ。カデナ。イリアスは生きているわ。無事よ。それに元気だわ。ルージィンをしっかりと抱えているじゃないの」
ルナが叫んだ。カデナは、耳元で姉のそんな声を聞きながら、右の手で顔を覆った。
フウッ、と大きくカデナは息を吐いた。あっと言う間に、湖面に浮かぶイリアス達の周りに助けの手が伸びた。
グッタリとしたルージィンを、民間人の男達やイリアスの部下の騎士らが支えて泳いでいく。

「イリアス」
アスクルは、水の中だというのに、無我夢中でイリアスの頭に抱きついた。
「うわっ」
アスクルの重さに、イリアスはブクッと再び水に沈んだ。
「無事で良かった。ああ。おまえが無事で良かった。生きた心地がしなかったぞ。ちきしょう!」
「殺す気か、キサマッ」
ザバアッと、イリアスは再び湖面に浮いてきた。
「すまん。嬉しさのあまり・・・」
水に浮きながら、アスクルは両手を合わせてイリアスに向かって笑いながら謝った。
「心配かけたな。なんとか、生きてるみたいだ」
イリアスは、アスクルに向かって、ニコリと微笑んだ。
アスクルに対して、珍しくイリアスが愛想がいいのは、やはり、アスクルがいつもの冷静な表情を崩し半分泣きそうになっている顔をみたからだった。
心配をかけたことが、身に染みてわかったからだ。

「泳げるか。無理ならば、背負っていってやるぞ」
アスクルはイリアスを見つめながら、心配そうに言った。
「バカ言うな。そんなみっともない真似、誰が!俺は平気だ」
そう言って、イリアスは泳ぎ出した。だが、右腕がかなり強烈に痛んだ。ジーンに落ちた時、枝にぶつけでもしたのだろう。こ
の痛みは、骨ぐらい折れているかもしれないな・・・とは思ったが、それでも意地と根性でイリアスは岸まで泳いだ。
カデナの前に立つまでは、みっともなく倒れたりするもんか・・・と思った。やっとの思いで岸に辿りつき、呼吸を荒くしながらもイリアスは自力で大地に立ちあがった。
全身ずぶ濡れで、炎に焼かれたので衣服などもぼろぼろだが、そんなことに構っている暇はなかった。
あちこちで拍手があがっているのを耳に聞きながら、イリアスは人々を掻き分け、人ごみのやや後方に、騎士達に守られて立っていたカデナに向かって歩いた。
イリアスの目的が、カデナだと知ると、人々は邪魔せぬようにイリアスの前から次々と身を引いて、道を開けた。ようやくイリアスはカデナの目の前に立つことが出来た。

「・・・戻りました。カデナ様。約束通りに、お傍に戻って参りました」
イリアスは、膝を付き、頭を垂れた。王族に、任務完了の報告をする時のしきたりだ。
「ご苦労であった」
カデナは、いつもの通り冷静な顔でイリアスを見つめては、短くそう言い、パッと傍にいたルナの手を避けて、クルりとイリアスに背を向けた。
「馬車で待っている」
ボソリと言って、カデナはスタスタと歩き出していた。
「・・・」
イリアスは、一瞬キョトンとしてしまった。あまりにも素っ気無いカデナの態度に、だ。
「ファ、イリアス。あのね。カデナはとても貴方のことを心配していたのよ。きっと、あの子ってば、貴方の顔を見たらホッとして素に戻ってしまったんだわ。なんというか。我弟ながら、冷静な子だけど。
でも、とっても心配していたのよ。嘘じゃないわ」

ルナが慌てて、フォローをいれた。さすがにルナも、我弟のあまりの素っ気無さに、イリアスを気の毒に思ったようだった。
つい先刻までは、命すら危ぶまれていた状況から、イリアスは生還してきたのだ。
人目が多いこの場で、取り乱すことは出来なくても、もう少し労いの言葉や態度があっても良いだろう・・・と、ルナは思った。
先刻のあの、ドハデなキスシーンを見た者としては、少々期待?が外れた、再会であった。
目の前で展開されたやりとりは、夫婦、いや愛し合う者同士の高揚などはまるっきりなく、淡々とした王族と騎士との関係でしかなかった。

「ありがとうございます、ルナ様。いいんですよ。わかっておりますから・・・」
部下が差し伸べてきたタオルで、頭を拭きながら、イリアスは苦笑した。
「ルナ様も馬車にお戻りを。ここもまだ安全な状況とは言えません」
「え、ええ。わかったわ。イリアス、貴方も早く馬車へ来てちょうだい。カデナが待っているわ」
明らかに哀れみの眼差しを向けてくるルナに、イリアスはいたたまれない気分を覚えた。
「私は、とりあえずここの状況をもう少し見てから、戻ります。一緒には帰れないかもしれません。もしひどく遅くなるようでしたら、カデナ様と一緒に先にお帰りください」
「わかりました。イリアス。貴方は立派だったわ。素晴らしい騎士よ。アルフェータが誇れる騎士よ。どうか、これ以上は無理しないでね」
そう言ってルナは、騎士達に守られて、馬車に戻っていった。
イリアスは濡れたタオルを、部下に返すと、ぐるりと辺りを見渡した。アスクルが先頭に立ち、この場の状況の後始末を的確に指示していた。

「ルージィンは?」
聞くと、部下の一人が
「ご婦人方が、あちらにて介抱してくださっております。命に別状はむろんなく、大きな傷一つありません。あの方は、素晴らしい強運の持ち主でございますね」
やや呆れたような部下の言い方に、
「昔からそうなのだ。アスクルとルージィンはな。あの二人が騒ぎを起こしても、いつもとばっちりを食らうのは私なのだ。まったく・・・」
イリアスは溜め息をついた。
「イマジュール邸の被害を調べろ。消火が完全に終わったら、すぐに負傷者がまだどこかに取り残されていないかを調べよう。それと今回の不祥事の報告をリアド王に早急にいたせねば」
「は。王宮よりの使者が、早々と到着している模様でございます。急ぎ説明を」
ルドルが、チラリと表玄関の方角を見ながら報告する。
「そうだな」
踏み出したイリアスは、ズキッと右腕に広がる痛みに、思わず足を止めた。
「イリアス様?」
ルドルの怪訝な顔に、イリアスはハッとした。
「先に表玄関に行っててくれ。あとから行く」
「かしこまりました」
指示に従い、表玄関の方に走って行く部下らを見送ってから、イリアスはゆっくりと踏み出した。歩けば歩くほど、今頃になって痛みが体中に響いた。
「・・・少し休んでいくか」
この混乱だ。ちょっとぐらい姿が見えないからといって、大騒ぎされることもあるまい。
多少の休憩ぐらい許されるだろう・・・と思い、イリアスは表玄関に行く途中の道に、ちょうどよく人気の無さそうな脇道を見つけ、スッと折れた。
あまり手入れされていない細い砂利道をしばらく歩くと、道に沿って大きな木が見えた。あの根元に腰を下ろそうと、イリアスはヨロヨロと木に向かって歩を進めた。
ふと、草花の茂みの向こうをバタバタと騎士達が何人か駆けていくのが見えた。
イリアスは『なにごとかあったか?』とギクリとしたが、それ以上の騒ぎはなかったので、とりあえず引き返さずにまっすぐ進んだ。

腕の痛みもさることながら、イリアスの心には、さっきのカデナの態度がひっかかっていた。
あまりにつれないあの態度。炎の中へルージィンを助けに行く寸前に接したカデナとは大違いだった。

『俺の行動を怒っていらっしゃるのか?わからない。あんなに冷たい態度。あの時にご自分で言われたことなどもうカデナ様は覚えていないかもしれない』
そう思うと悲しくなった。カデナが止める中、勝手にルージィンを助けに行ったのは自分だ。自業自得で生死の境目に立ったのだから、カデナが呆れるのも無理はない。
心配をかけたことは事実だ。だが。

『抱きしめたかった。無事に戻ってきました、と。あの方をあの場で抱きしめたかった。いつのまにか短くなってしまった髪のあの方はなんだかとても可愛らしい感じで・・・。
抱きしめて、人目など気にせずに、口付けたかった。なのに。あの方はそれを許してくださらなかった』

どんどんと暗い気分になって、イリアスは何度も溜め息をついた。
「や。もう考えても仕方あるまい。なるように、なれだ」
一人叫んで、イリアスは木の根元に腰を下ろそうとして、なにかにつまづいた。
「どわあああっ」
恐ろしくぶざまな悲鳴をあげて、イリアスはドッシーンとその場に倒れこんだ。木の根っこにでもつまづいたのだろうか・・・と一瞬思った。
「いっつ」
倒れた際に、咄嗟に体をかばって突っ張ってしまった右腕に激痛が走って、イリアスは即座に起きあがることを諦めた。
「大丈夫か。イリアス」
名を呼ばれ、イリアスは「へっ?」と、振り返った。
この声・・・と、かなりおそるおそる声の方を振り仰いだ。

「カ!カデナ様!!」
やはり。木の根元には、カデナがちょこんと座っていて、倒れ伏したイリアスを不思議そうに見つめていた。
「なっ。なにをしているのです!このようなところで護衛もつけずに、一人で」
右腕の激痛など一気に吹き飛び、イリアスは上半身を起こし、カデナの顔を覗きこんだ。
「なにをしてるって。おまえこそ。それに俺は、護衛の者達には声をかけたぞ。小さな声でだかな。ちょっとはずすと」
ボソッとカデナは言った。
「なんですって。それで彼等は、了解したのですか?」
まさか、とイリアスは思った。彼らが了解するはずもない。カデナを一人で行動させることなど。
「いや。了解するもなにも・・・。返事を待たずに走って逃げてきたから定かではない」
カデナの答えに、イリアスは唖然としたが、すぐさまハッとした。
「護衛をまいたのですね!?なぜ」
「仕方あるまい。緊急事態だ」
悪びれたふうもなく、カデナは言ってのけた。
「はあ!?なにが!なにが緊急事態だというのです。貴方がいなくなってしまったことの方がよっぽど緊急事態ではないですか。さ、さあ。今すぐ戻りますよ」
イリアスは、うっかり右腕でカデナの腕を掴んで立ちあがってから、ギクッと身を竦ませた。痛覚が戻ってきたからだ。
「うっ」
ピキーンとそのままイリアスは固まってしまう。そんなイリアスの態度に気づいて、カデナはイリアスの右腕をチラッと見た。
「この騒ぎだ。俺一人いなくなったぐらいで、今更どうということもあるまい。それよりおまえ、怪我をしているのではないか。相当酷そうだな。手当てをしてもらわないと」
カデナはイリアスの腕に触れようとした。が、イリアスはカデナのその腕をキッパリと振り払い、返す手でバシッとカデナの頬を叩いた。
「!」
「いい加減になさい。人の心配をしてる場合ですか。まったく貴方という人は。貴方は、王族という立場を軽視しすぎです。いつだって我々騎士の心配をよそに、
どんどんと好き勝手な方向に歩いていってしまって。いつどこにどんな危険が潜んでいるかわからないのですよ。少しは自覚してください。もういい大人なのですから、
我侭も大概になさいッ」

「・・・」
カデナはぶたれた頬に手をやり、無言でイリアスを見上げた。
その、僅かに潤んだ瞳にジッと見つめられて、イリアスはハッと振り上げたままの自分の手を見つめた。

『ヤ、ヤバイ。今、俺・・・。カデナ様を・・・。たっ。叩いてしまった・・・』
頭に血が昇り、ついうっかり手をあげてしまった。
ま、マズイ。ど、どうしよう・・・。
心の中で、思いっきり動揺しまくっていたイリアスだが、バシンッと頬に衝撃が走って、動揺から立ち直った。カデナがイリアスを叩いたのだ。

「おまえに・・・俺の気持ちがわかるもんか」
「き、気持ちって・・・」
カデナと同じようにイリアスも叩かれた頬を手で押さえ、聞き返す。
「もうよいっ。戻ればよいのだろう」
バッとカデナは立ちあがった。
「カデナ様」
グッとイリアスはカデナの肩を掴んだ。
「さ、触るな」
バシッと、カデナはつれなくその腕を振り払って、砂利を蹴飛ばしながらスタスタと歩いていく。
「お待ちを、カデナ様。一体どんな緊急事態があってこんなところにいらっしゃったのです」
「うるさい。もういい」
「手をあげたことは謝ります。ただ、私は貴方の身になにごとかあったら大変だと思って。私は貴方を心配するあまりに、つい」
その言葉にピクッとカデナは振り返った。
「俺を心配するあまりにだと?ふざけるな。それはこっちの台詞だ。こっちの台詞だろう。おまえは、俺が一体どれだけ心配していたのかわかっているのか!」
「え・・・」
なんだか話の方向が微妙にずれたな・・・と思いながら、イリアスはカデナの顔をオロオロと見つめた。
「あんな火の中に飛び込んでいきやがって。挙句に、あの高さから飛び降りて。絶望的な状況の中で、俺がどれだけおまえの無事を祈っていたかなんて知らないくせに」
「心配して・・・くれていたんですか?」
と言ってしまったものの、それはそうだろうと思った。確かにカデナは心配してくれていたのだろう。
だが。さっきの素っ気無いカデナの態度を目の当たりにしてショックを受けたイリアスの心の中では、【自分を心配していたカデナの図】というのが綺麗に吹っ飛んでしまっていたことは確かだった。

「当たり前だろっ。おまえがあんなことになって・・・。平静でいられる筈がないだろう。心配してくれていたんですか?だと。バカか、おまえはっ!」
再び殴られて、イリアスは僅かによろめいた。
い、今のは痛かった・・・。と思ったら、拳で殴られたのだった。
イリアスは目から星が飛び出るかと思ったぐらいだった。そんな痛みをくれた挙句にバカといわれて、さすがのイリアスもムーッとした。

「確かに私はバカです」
「ああ。大バカだ」
「ですが。貴方だって・・・。人のこと言えますか?私が必死に貴方の元まで戻って行ったのに。そんな私を貴方はチラリと見て、ご苦労であった。一言。この一言だけで、
さっさと背を向けて行ってしまわれた。騎士と王族の立場である以上はこれで済みます。けれど。私と貴方は夫婦なのですよ。騎士と王族である以前に、夫婦です。
せめて。せめて抱きしめてくれたって良いではないですか」

「あんな人目のあるところでそんなこと出来るか。それに。そんなことになったなら困るのはおまえであろう」
カデナの言うことは確かに最もだが・・・。それはそうだが。状況が、状況だ。
ああいう場面で、人目を気にしてる余裕があるカデナのが冷静すぎるのではないかとイリアスは思った。
許されなくても、イリアスなどは本当はあの場でカデナを抱きしめたかったのだ。

「よく言いますよ。さっきは。あの火の中から逃げてきた時。私の腕に飛び込んできて、キスしてきたのは貴方ではないですか。よもやお忘れですか」
「!」
カッとカデナの頬が赤くなった。
「私にキスして。貴方は言った。もう一度抱きたければ必ず戻ってこい、と。私はその言葉に縋るようにして、戻ってきたのです。火の中を走り抜けた時も。窓から飛び降りた時も。
ずっと、ずっと貴方の言葉が頭の中を駆け巡っていた。そうしてようやく貴方のところに戻ってきたのに。ご苦労であったの一言で、貴方は私に背を向けたのです。夫婦である前に、
貴方と私は王族と騎士でしかないと思って絶望した私の気持ちが、貴方にはわから」

言いかけて、イリアスは再び殴られた。またもや拳である。痛いなんてもんじゃなかった。
「カデナ様・・・」
「だから。緊急事態だと申しただろう」
「一体なんです、それはっ。まったくわかりません」
イリアスは、これ以上殴られてはたまらんと思って、カデナの両手首をバッと掴んだ。
「やめっ。触るなと言ってるだろう」
イリアスはカデナの言葉を無視して、手首を握る手に更に力を込めた。
「緊急事態とはなんなのです」
「痛い。離せっ」
ジタバタとカデナは暴れた。うつむきながら暴れるカデナの顔がどんどんと赤くなっていくのがわかって、イリアスはさすがに眉を寄せた。
あれよあれよという間に、耳までカデナは赤くなってしまった。

「どうしたのです、一体」
たかが手を触れているだけで、しかもまったく色っぽくもない状況。
いや、むしろ、言い合いをしているこの険悪な雰囲気の中で、こんな反応をされるとは・・・とイリアスは怪訝に思った。

「カデナ様!?」
イリアスの銀色の瞳が、カデナの翠の瞳を覗きこむ。カデナの長い睫がピクリと震えて、ジワリと潤んだ。
そんなカデナの瞳をまともに見てしまって、イリアスはおかれた状況も忘れて、クラッとした。
いつ見ても、この迫力あるカデナの瞳には腰をやられてしまうイリアスだった。いつもの迫力プラス、濡れて潤んだ瞳。壮絶に美しすぎた。
思わずカデナの手首を掴んでいた力が緩んでしまった瞬間。カデナはイリアスの腕を振り払った。

『しまった』とイリアスはギクリとした。
また殴られる・・・と目を瞑ったその時。衝撃を受けたのは、頬ではなく唇だった。

「!?」
キスしてる・・・とイリアスが自覚をしたのは、いつもの癖でカデナの舌を誘い出した時だった。
舌を絡めて、カデナからのキスを堪能してしまったイリアスは、ハッとした。
クタッとカデナの体が崩れ落ちたからだった。

「カデナ様」
ずるずるとカデナは大地に膝をついた。イリアスはカデナの手首を掴んで、カデナがそれ以上倒れないように支えながら慌てて自分も膝をついた。
だが、再びカデナに抱きつかれ、キスされた。イリアスは、驚きのあまり目を剥きつつカデナからのキスを受けていた。
一体・・・。なにがどーなったんだ?と幸福な気持ちのままとりあえずそれでも狼狽した。やっとのことでカデナが唇を離すと、うつむいた。

「おまえ。困るだろう」
「え?」
「俺が、いきなり、皆の前でこんなふうになってしまったら・・・。困るだろう」
「はあ!?い、いえ。困るというか・・・」
嬉しいです!と言いかけて、イリアスは言葉を飲みこんだ。顔をあげたカデナの顔は真剣だった。
「あの場で。あれ以上おまえの姿を見ていたら、俺はきっと。絶対に我慢出来なかった」
「我慢って。なにをですか???」
「イリアス。体がおかしいんだ。俺は体がおかしい。熱くて、熱くてたまらないんだ。おまえが無事に戻ってきてくれたことが嬉しい。とても嬉しかった。けれど。
無事に戻ってきてくれたおまえを見つめていると、体が熱くなって。おまえにむしょうに触れたくなってしまったんだ。だから・・・。だから、さっさと逃げたんだ。けど。
皆と一緒に馬車に向かっている間も頭の中にはおまえのことばっかりで。俺の体はどんどんと熱くなっていってしまった。どうしようもなくて。それで護衛から離れた。
少し頭を冷やそうと思って。軽率だったとは思っている。だが。俺がこんなふうになったら、困るのはおまえじゃないか」

「・・・」
カデナの言葉は、たった今に交わした2回のキスよりもかなり情熱的で、えげつなくイリアスは股間が疼くのを感じた。
不埒な感覚をどうにか理性で押し切り、だがその代わりにおかしな眩暈がイリアスを襲ってきた。
クラクラ〜とそのままその場にぶっ倒れそうになるのをなんとかやはり理性で堪えた。

「カデナ様」
ガバッとイリアスはカデナを抱きしめた。
「触るなって言ってるだろう」
カデナは悲鳴をあげた。
「無理です」
「俺が辛いんだ。離せ」
「帰りましょう。今すぐ」
ガバッと、イリアスはカデナを抱きかかえた。
「なっ。なにを。止めろ。おろせ。おまえ腕が痛むのだろう!?」
「平気です。もう全然痛みなど感じません」
今まさにイリアスの体中を駆け巡っているであろうこの満ち足りた幸せな気持ちは、恐ろしいことに、骨折しているであろう腕があげる痛みの悲鳴を遥か彼方に押しやってしまっていた。
イリアスはカデナを抱えたまま、危なげなくスタスタと歩いて、脇道を抜けて行く。

「お、俺が平気じゃないんだ。おろせっ」
珍しくうろたえる腕の中のカデナを見つめて、イリアスはニッコリと微笑んだ。
「帰ったら。一番に貴方を抱きますから」
カデナの耳元でイリアスは囁いた。
ゾクッとカデナの体が震えたのを、抱えていた腕の振動で知ったイリアスは、堪えきれずにカデナに口付けた。

「!」
その唇を拒める筈もなく、カデナは誘われるままに舌を差し出した。立ち止まり、二人は熱烈なキスを交わしあっていた。
長い、長いキスを経て、やっと唇を離し、心の底から幸福を噛み締めて、にやけてしまう顔をそのままにイリアスは顔をあげて歩き出したその時。
道の終わりのところに、ゾロリとたくさんの人影を見つけてギョッとした。

「!?」
一同は、揃ってこちらをまじまじと眺めていた。イリアスはカデナを腕に抱いたまま、ピシッと顔の筋肉を強張らせた。
「カデナ様がいきなり消えてしまわれて。挙句におまえまでいないから・・・。大騒ぎで、皆で必死に探していたというのに。こんなところで、おまえはなにニヤけていやがるんだっ」
アスクルの低い、低い声。イリアスは、ヒクッと頬を引き攣らせた。
「そうよ。まさかこんなところでコソコソと夫婦でイチャイチャしていたとはね。堂々とやればいいじゃないの。ねえ、アスクル。うふふ」
ルナがクスクスと笑っている。ますますイリアスの頬が引き攣った。
「貴女は黙っててください。ルナ様」
アスクルは、冷やかに言った。
「イリアス・・・」
アスクルは、ギロッとイリアスを睨みつけた。
「や、あの・・・。す、すまんな。心配かけた・・・。申し訳ない」
イリアスは、カデナとのキスシーンをしっかり皆に見られていた事実に、ボッと顔を赤くしてモゴモゴと呟いた。
部下のルドルやアルオースらなどは、うつむいてしまったまま顔をあげてくれなかった。

「怒るな、アスクル。私が悪い」
イリアスの腕の中のカデナが言った。
「私がイリアスを」
言いかけたカデナを、アスクルの後ろに立っていたルージィンが遮った。
「もう良いでしょう。そんなことはわざわざ言わなくてもいいことです。カデナ様は無事見つかったのだから。アスクル、そなたもそんなに怒るな」
「俺がこんなに怒っているのは、他にも理由があるっ」
「ああ、わかっているとも。そちらについては俺も同感ではあるのだがな」
ルージィンは怒るアスクルの肩を叩いて、苦笑した。
「ちっ」
舌を鳴らしてアスクルは、イリアスと、そしてカデナを思いっきり睨んだ。
「・・・」
その視線に気づいて、カデナはイリアスの唇に軽くキスをした。
「!」
人々の間から、「おおっ」と歓声があがる。
「カ、カデナ様」
イリアスが裏返った声をあげる。そんなイリアスを無視して、カデナはイリアスの胸に顔をうずめた。
「落とすなよ」
と小さく呟きながら。イリアスの腕は、ガクガクと激しく震えていたからだった。
「まー。ほんっとに、知らない間にすっかりラブラブだったのね、二人。それにしても、あのカデナがねえ。驚いたわ。あとでお母様とお祖母様に報告しなきゃ♪」
アスクルの背後で、ルナがウットリと呟いた。アスクルは、ギュッと唇を噛み締めた。
「馬車へ。とっとと戻るぞっ」
アスクルはサッと踵を返しながら指示を出す。カデナとイリアス発見にホッとした一同も、ぞろぞろと踵を返した。
イリアスは恥ずかしくてうつむきながら、ヨレヨレと皆のあとをついてカデナを抱いて歩いていった。



イリアスとカデナの乗った馬車のドアに手をかけながら、アルオースは頭を下げた。
「では。あとはお任せください」
「頼んだぞ、アルオース」
「はい。イリアス様。腕の傷、どうぞお大事になさってくださいませ」
「ありがとう」
うなづき、アルオースがドアを閉めかけたところへ、ヌッと、ルージィンがアスクルを伴ってやってきた。
「ルージィン、アスクル」
イリアスは二人の姿を認めて、名を呼んだ。
「イリアス。どさくさにまぎれて、そなたに礼を言うのを忘れていた。今回は、色々と迷惑をかけたな」
中々しおらしくルージィンはそんなふうに言った。かなり珍しいことであった。
「・・・以後は、女の扱い方に気をつけることだな。今回は運が良かっただけかもしれぬからな」
ルージィンのしおらしさを気味悪く思いながらも、イリアスは忠告する。
「心得ておこう。カデナ様、貴方様からいただいたもの。私は死ぬまで大事に致しますぞ」
イリアスを押しのけて、ルージィンは奥に腰掛けたカデナに向かって言った。
「好きにしろ」
窓の外を見つめたままのカデナは、ルージィンを見もしないでそっけなく言った。
さっきの激しさはどこへやら・・・のカデナだった。

「つれないお方だ。私の顔も見てくださらぬとは」
ルージィンはひどくガッカリした顔で呟いた。
「まだそんなこと言ってるのか。いい加減にしろ。カデナ様は俺のものだ」
グイッとイリアスは、ルージィンを押し返した。
そのイリアスのあからさまな言葉に、アスクルは、「ケッ」と肩を竦めるしぐさを馬車の中へと送った。
イリアスはギロッとアスクルを睨んだ。

「ふん・・・。イリアス。言っておくがな。いい気になるな」
そう言いながら、ルージィンは、片手に抱えていた花束をバシッとイリアスに押し付けた。
「な、なんだ、この花は」
「非常に不本意だが、命を助けてくれたそなたへの私からのプレゼントだ。受け取れ」
ニッコリとルージィンは、イリアスに向かって微笑んだ。
「あ、ああ。なんだかよくわからんが、ありがとう。綺麗だな。いただいておこう」
窓の外を見ていたカデナが、チラリと振り返った。
「!」
イリアスの腕の中にあった花束を見て、カデナの顔色が変わった。
それを確認しながらルージィンは、
「では。またお会いしましょう、カデナ様」と言っては、バタンッと速攻でドアを閉めた。
馬車がゆっくりと動き出した。馬車を見送りながら、ルージィンはニヤニヤしていた。

「なんだよ、あの花束。それに、気色わりーな。おまえ、なんで笑ってるんだよ」
アスクルは、終始仏頂面のまま、隣に立つルージィンに問い掛けた。
「まあ、見てろって」
「ん?」
ルージィンが馬車を指差したので、アスクルは馬車を振り返った。
馬車の中は、大騒ぎだった。
「捨てろ。その花捨てろ」
今までおとなしかったカデナが、イリアスの腕から花束を奪おうと襲いかかってきた。ギョッとしたイリアスは慌てて、体を捻ってカデナの攻撃を避けた。
「な、なんですか、いきなり。せっかく貰ったのに。イヤです」
「いいから、捨てろ。そんなのは窓から、捨てろ」
伸ばしたカデナの指が、イリアスの頬を引っ掻いた。
「いてて。なにするんですか。捨てろなんて勿体ないですよ。ダイアナは花の好きな子なんです。おみやげに持って帰りますから。カデナ様。落ち着いてくださいっ」
「落ち着けるか。そんなもんダイアナにあげたら承知しないぞ。それは媚薬だ。その花には、そういう成分が含まれているんだ」
「ええ?」
素っ頓狂な声をイリアスはあげた。
「ルージィンの寝室にその花が山ほど飾られていたんだ。俺は、その花の匂いにやられて、大変だったんだぞ。そのせいで今だってフラフラだっていうのに」
「なんですって!?」
カデナの言葉に、イリアスはサーッと青褪めた。
「媚薬って」
唖然として、イリアスはすぐ隣のカデナをジッと見つめた。
「なんですか。っていうと・・・」
「なんだ?ハッキリ言え」
苛々した口調で、カデナはイリアスの言葉を促す。
「じゃあ、貴方のさっきまでの大胆な行動はもしかして・・・。その花のせいだって言うんですか??」
奪うように仕掛けてきたキスも。甘い言葉も。そ、それに。 体が熱いっていう、あの悩殺ものの台詞も。もしかして、その媚薬効果・・・!?
「し、仕方ないだろう。俺のせいじゃない。あの花が悪いんだっ。俺は悪くないっ!」
カアアッと赤くなりながらのカデナの言葉は、ズコーンッとイリアスの胸を貫いた。
『そーならそうと、なぜ最初に言ってくれないのか。あ、あんまりだ・・・』
とイリアスは泣きたくなった。

そして、腕の中で美しく輝く咲き誇る花が途端に憎らしくてどうしようもなくなった。
まじまじと花々を見つめては、イリアスはやっとルージィンの意図に気づいた。

「ル。ルージィンめっ!わざとだな。わざとこんなもん渡しやがって」
イリアスは喚くと、窓を開けて、花束を馬車の外へと放り投げた。
「よし。それでよい、イリアス。安心したぞ」
ニッコリと満足気に微笑むカデナを見つめ、イリアスはガックリと肩を落とした。
「カデナ様。貴方って人は・・・」
「イリアス。どうした。目が潤んでるぞ。おまえは。そんなにあの花が惜しかったのか!?」
「ち、違います。けれど、カデナ様。色々な意味で貴方は、罪深すぎます・・・」
ウウウッとイリアスは嗚咽をもらして、ずるずると背中から座席を滑り落ちていった。


馬車からポーンッと投げ捨てられた花束を見て、ルージィンは指を鳴らした。
「予想通り」
「あーあ。なんだよ」
「イリアスめ。ざまあみろ。今頃はカデナ様に事実を聞いて泣いているだろうな」
ククククとルージィンは笑っていた。
「なんなんだよ、さっきから」
「アスクル。まあ、消沈するな。今回のことはな。あれは事故みたいなもんだ」
「あん?」
「実はな。俺はカデナ様に媚薬を仕掛けたのだ。花。今の花だよ。あの花には催淫効果があってな。まあ、慣れてないヤツにはたまらん効果があるんだ。
しかもその効果はかなりの時間持続するんだ。俺が、とある国で手に入れて裏庭で栽培してるんだけどな。カデナ様は、俺の寝室でかなりあの花の匂い
にやられていたからな」

聡明なアスクルは、ルージィンの言葉にすぐ反応した。
「というと。さっきまでのカデナ様のあの積極的な態度はもしや」
パアッとアスクルは顔を輝かせた。
「うむ。媚薬効果だ。当たり前だろ。じゃなきゃあの方が、あんなに激しく、あーんな野暮男にクラクラするかってんだ」
「野暮男は余計だ。だが!そうか。なるほどな。おかしいとは思ったんだ。なるほど。そーか、そーか」
ヘラヘラとアスクルは笑い出した。
「良かったな、アスクル」
ルージィンは、アスクルの背を撫でた。
「ああ。これから邸に戻って、あの二人がラブラブにやりまくるのかと思ったらさっきから激しくヘコんでいたが」
フンッとルージィンは鼻を鳴らした。
「有り得ないだろうな。イリアスはあれで繊細だからな。事実を知ったら、萎えるだろうさ」
「ま、そだな。なるほどなあ。ハハハ。よくやったルージィン。それでこそ俺の幼馴染だ」
「転んでもただでは起きぬぞ、俺は」
グッとルージィンは胸を張った。
「ところで。なあ。今度、俺にその花分けてくれぬか?」
「よいぞ。おまえがイリアスとその効果を堪能している間に、俺はまたカデナ様と・・・」
二人は顔を見合わせて、ニヤリとした。
まったくもって懲りない、ろくでもない幼馴染なルージィンとアスクルであった。
この二人ゆえ、カデナとそしてイリアスの受難はきっとこれからもまだまだ続くことだろう。


★END★

一応完結デス。

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