きちんと整えられた寝室。不思議な甘い匂いがする。
「この匂いはなんですか」
クンと鼻をきかせて、イリアスはカデナに聞いた。
「夫人が焚いてくれたんだ。この国に伝わるらしいんだが、なくしたものが出てくるまじないのようなものらしい。俺の場合は記憶。それが出てくるようにって。
女っていうのは理解に苦しむな。
甘ったるくて気持ち悪くなる」
「そうですか。で、この部屋でグーグー寝ていてなんにも思い出さないとは貴方も相当ひどい物忘れみたいですね」
「俺、なんか気に触ること言ったか」
珍しくイリアスの皮肉が通じたらしくカデナは聞いてきた。
「貴方のそういう女性蔑視的な発言にはいつも腹が立つんです。彼女なりに気を使ってくれていたんじゃないですか」
カデナはイリアスをまじまじと眺めて苦笑した。
「・・・悪かった。だが、一つ思い出したぞ。俺は女が苦手だ。小さい頃さんざんな目にあった」
ヒラヒラと手を振って、カデナは、思い出した記憶を飛ばしたい、というようなしぐさをした。
「思い出したんですか」
「姉上とやらが、黒い髪に青い瞳をしている女だったならばな」
当たっている。ルナはそういう色彩をしている。
「最悪な思い出だ。こんなの思い出しても嬉しくない」
カデナは、ぶすっくれている。
「良かったじゃないですか。いっとう先に姉上を思い出すなんて、ルナ様が喜びますよ。伝えておきましょう」
カデナは冷やかにイリアスを見た。
「おまえも相当な趣味だな」
「へっ」
「あんな女に惚れるなんて」
「そ、そんな」
未だにそういうことを言われるとイリアスは自分の頬が熱を持つのを知っている。
カデナや他人にどうあれイリアスにとってルナは最高の女性だった。
「まだ惚れてるのか。その反応」
「い、いえ。しょせんは身分違いの恋でしたので」
「子供まで作っておいてよく言うよ」
そう言いつつカデナはバサッと毛布を被ってしまう。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私はどこに…」
「隣にくればいいだろう」
「ええっ」
イリアスの驚きように、カデナはヒョコッと毛布から顔を出す。
「一つ疑問なのだが」
「はい?」
「俺とおまえ本当に夫婦だったのか。なんでそんなことで驚くんだよ。一年以上も夫婦しておいて政略どーのこーのなんて言っていたわけでもないだろ」
「…言ってたんです。実は私はまだ貴方とその、そ、その…寝たことないんですよ。ほ、ほらダイアナもいつも一緒だったし」
イリアスはしどろもどろに説明した。
「ふーん…。そうか。なるほどね。じゃあ、仕方ないか。おまえ床で寝ろよ。風邪ひくような繊細でもないだろ」
「あっ」
「えっ」
「今の台詞、初夜の時にも貴方はそう言ったんですよ。あのときは参りましたよね。形式とは言え、初夜だからちゃんとしろとか言われて。
結局は私はソファで寝る羽目になりましたが」
思い出してイリアスは笑った。
「覚えてない」
「いいんですよ。そりゃ当然です。私と貴方の歴史はまだ短いですし。ルナ様には叶う筈もないですからね」
カデナはジッとイリアスを見つめていたがそのうち手招いた。
「やっぱり隣でいいよ。別に襲わないから」
「あのですね。それは私の台詞であって。よろしいですか」
「よろしい」
横柄な態度はかつてのカデナらしい。イリアスはなんとなく嬉しくなった。
カデナの隣に潜りこむとイリアスはカデナと目が合った。
「なんか話ましょうか」
気まずくなってイリアスは口を開いた。
「別にいい。俺はもう眠い」
「でも…。色々お聞かせした方が触発されるだろうし」
「それはおまえの記憶だ。俺の記憶じゃないだろう。思い出すなら自力で思い出す。余計なことはするな」
「はい」
一生思い出す気ないんじゃないかなとイリアスは思ったが口に出すのは止めた。
正確な時計の音だけが部屋に響いた。
広さは十分なベットだったが、イリアスはどうにも窮屈だった。
それは隣にいるカデナのせいだとわかっていた。
この距離が息苦しい。手を伸ばせば触れる位置にカデナがいる。
なんてことだろう。イリアスは体が熱をもつのを感じた。
いかん。このままじゃいかん。なんとしても眠らねば。意地でも眠るぞ。
バッと目を閉じイリアスは歯を食いしばった。
夢、夢、夢。夢を見るぞ〜。楽しい夢を。
そうやってイリアスが一人で眠りと格闘し始めてからもう2時間は経った頃だった。
カデナがうめいた。
「カデナさま?」←やっぱり寝れてない。
イリアスはカデナを振りかえった。
と、すぐ側にカデナの寝顔があって慌てて顔を反らしたが、ふと気になって元に戻す。
カデナはひどい寝汗をかいていた。
「…レンダ。ミ…」
「カデナ様?」
うなされている。イリアスは起きあがった。
すぐさま部屋のランプを点けたがカデナは起きる気配がなかった。
「カデ…」
ハッとした。カデナが泣いている。閉じた瞳からは涙が零れている。
「ミレンダ…」
はっきりとカデナが言った。ミレンダ様の夢を見ているのだ。
「…」
起こすべきかイリアスは迷った。
『カデナ様。冷たい人ね。私をお忘れになったのね…。貴方を、命をかけて愛したのは私だけ。自分よりもなによりも、私には貴方が大切だったのよ…』
ミレンダの声が響く。
『私以上に貴方を愛する者はいないのよ。過去も未来も…。それなのに、心をお移しになられたわ。銀の瞳の青年は、私以上に貴方を愛さないわ。
彼の心は貴方の姉上様のもの。
カデナ様、思い出してくださいませ。
このミレンダこそが命をかけて貴方を愛した最初で最後の人でございますのよ。貴方の未来は私のもの。どなたにもお心を移してはなりませぬ。
カデナ様、ひどい人。私を忘れようとしている。冷たい人…』
「ミレンダ!」
カデナが飛び起きた。
「わっ。カ、カデナ様。お、お目覚めですか」
カデナは流れた涙をそのままで、イリアスを見た。
「傷が痛む。雨が来る…」
カデナは自らの背を自らの手で撫でた。
「夢を見ていらしたようで」
「ミレンダに責められた。私を忘れるなんて、冷たい人だと…」
「ミレンダ様に?アハハ。夢の中でも相変わらずカデナ様一筋なんですね。じゃあ悪い夢ではなさそうだ」
そっとイリアスはカデナの涙を指で救った。
「止めろ。そんなことをしたら、ミレンダがおまえを呪うぞ」
「は?」
「心を移したら承知しないと言っていたからな」
「そんな。私がこんなことをしたからって貴方は私に惚れてくれるのですか」
「彼女は嫉妬深い。どんなことでもきっと怒る」
「それじゃ私はとっくに殺されているでしょ。なんたって貴方と結婚してしまったのだから。そんな、魔女みたいに言うなんて酷いですよ」
カデナは苦笑した。
「なんで今更彼女の夢を見たんだ…」
「さあ。どうしてでしょうか」
「死んでまで尚、俺に執着してるなんて凄い女だ」
「それほど愛していたんですよ。貴方のこと」
カデナは瞬きを一つした。
「おまえは今誰を愛しているんだ」
「どうしてそんなことを聞くんです」
「ミレンダが夢の中でおまえの心は姉上のものだと言った」
イリアスはカデナの頬を撫でた。
「ルナ様は確かに忘れられない存在です。けれど」
「けれど?」
無邪気にカデナは、イリアスを見上げてくる。
「もう止しましょう。夢のことじゃないですか。私が誰を愛していようと貴方には興味ないでしょう」
なんとなく、カデナの瞳を正視しているのが辛くなり、イリアスはフッと視線を外した。
「そうでもなさそうだ」
「えっ」
聞き返すと、カデナは、もういい、と首を振った。
「なんでもない。ところで、背が痛む。ひどい雨が来るぞ。明日の出発は無理そうだ。覚悟しておけよ」
カデナの背の傷は、雨が連れてくる空気に敏感だった。
「そんな。国王陛下に無事をご報告をする義務があるんですよ」
さぞや心配しているであろう王宮を想像し、イリアスは困惑した。
「伝達の者に大雑把に伝えたんだろ。ならば平気だ」
「そうですが・・・」
カデナの言うことは最もだったので、イリアスは話題を変えた。
「ミレンダ様は色々教えてくれましたか」
どことなくカデナは記憶が弾けたような感じにイリアスには見えた。
「色々でもない。彼女の気持ちとか、俺の気持ちとか、おまえのこととか」
「やっぱり恨まれているんでしょうか」
大男のイリアスが少し不安そうな顔をした。
「そうかもな」
カデナは残った涙をぬぐうと、再び横になった。
「私の寿命も短いな、きっと」
イリアスは情けない声で言った。
「魔女扱いするなと言ったのは、おまえだぞ」
「そ、そうでした。ミレンダ様は、カデナ様の幸せを祈っているんですよね。では、私が貴方を幸せにしてさしあげればすむことです」
ウンッとイリアスは一人力強くうなづいた。
「…」
カデナはもう何も答えなかった。さっさと眠りの体制に入っている。
「わ、私も寝ます」
イリアスは慌てて横になった。
翌日は、ひどい雨だった。ただちにラトゥーに豪雨注意報が出された。
「こりゃ帰れないな」
イリアスが窓の外を見て溜息をついた。
「私嬉しいわ。グリールお兄ちゃまと一緒にいられるもの」
ダイアナはグリールにすっかり懐いていた。
デレッとグリールが顔を崩す。
「ダ、ダイアナちゃんっっ」
ギュムとグリールはダイアナを抱きしめた。
なんだか無邪気な兄妹の光景だった。
カデナとは歳が離れすぎていた分、ダイアナとグリールは本当に兄妹に見える。
「良かったな、ダイアナ」
イリアスは、娘の嬉しそうな顔を見て、自分も嬉しく思った。
「あら、私も嬉しいわ。カデナ様と一緒にいられるもの」
カリアは、立ち直ったらしく昨日より派手な格好に身を包んでいる。
「ところで、お久しぶりね。イリアス様」
「あ、ああ。カリア、元気そうだ」
「ええ。とっても元気よ。貴方様においていかれてもね」
「そ、それは…」
言いかけたイリアスをカリアが制する。
「いいわけはどうでもいいのよ。私、もう貴方様のことどうでもいいから」
新聞を読んでいたオサナイが声を荒げた。
「カリア。失礼なことを言うな」
「お父様、イリアス様はこの私を振った方なのよ。いい顔なんて出来ないわ」
「おまえが一方的に惚れていただけだろ。仕方あるまい」
そう言われてカリアはグッと黙り込む。オサナイは娘を睨みつけた。
「まあ、本当に騒々しい娘で。お気になさらないで下さいませ、イリアス様。ところでカデナ様、青いお顔ですわ。大丈夫ですか」
椅子に座ってボウッとしていたカデナは夫人に言われて、顔を上げた。
「ああ。大丈夫だ。心配をかけてすみません」
答えたものの、カデナは確かに具合が悪そうだった。
背の傷が痛むのだろうとイリアスは思った。
「カデナ様、具合が悪いのなら、カリアが心をこめて看病致します。ご遠慮なさらず申し付けてください」
「その時は」
そっけない言い方である。
夫人に対する態度と、カリアに対する態度が、えらい違いなカデナだった。
「オサナイ殿、やはり出発は無理でしょうか」
「イリアス様。あせることはございません。ここは安全です。王からの護衛の兵も派遣されて、外の警備は万全です。もう一日お持ち下さい」
「そうですか。ではお世話になります」
「さあ、朝食にしましょう」
夫人は、おいしそうなパンが入ったバスケットを手にし、微笑んだ。
カデナの隣にはカリアがひっつき、イリアスの横にはグリールが陣どった。
「イリアス様、お城に戻ってからはどうですか」
「ん、ああ、それなりに忙しいよ。こっちで働いていた方が気楽で良かった」
「王宮は華やかで色々大変そうですよね」
するとカリアが口を挟んできた。
「グリール、イリアス様はこっちを田舎だと言われたのよ。田舎は気楽でいいと仰ったのよ。おまえには皮肉も通じないの」
イリアスは驚いて、カリアを見た。
「カリア、そういう意味ではないんだよ」
「あら、そうかしら。そう聞こえたわ」
フンッとカリアはそっぽを向く。
「姉ちゃん、そりゃひがみだろ。自分が田舎娘ってこと否定出来ないじゃんか」
「あんたに言われたくないわよっっ」
「止めなさい」
オサナイが苦々しい顔で言った。
「カリア、なんでそうつっかかるんだ。まだイリアス様に心を残しているのか」
オサナイが言うと、カリアは猛然と反撃してきた。
「冗談じゃないわ。そんなんじゃないわよ。だって許せないのよ。イリアス様は私達女性のあこがれのカデナ様と結婚しているのよ。カデナ様に
お似合いになるのは最高級の女性とか殿方じゃなきゃ納得出来ないわ。無骨なアルフェータの騎士で、容姿そこそこのイリアス様なんて
つりあわないわよ。だから、許せないっていうのよ」
「ひどいわ」
ダイアナが、グリールの袖をひっぱって泣き顔になる。
「姉ちゃん、なんって言いぐさなんだ。イリアス様に謝れ。イリアス様は、勇敢な騎士で、カッコイイじゃないか。俺は大好きだ」
グリールが立ちあがって叫んだ。
「そうよ。お父様はカッコイイもん」
ダイアナも一緒になって叫ぶ。
「ダイアナちゃん、カッコイイっていうのはカデナ様みたいなことを言うのよ。グリール、ちょっとくらい剣の腕を誉められたからって、庇うのはお止しなさい。
あんただって近所の女の子達が同じようなこと言ってたの知ってるでしょうに」
カリアは勝ち誇った顔をしている。
「だいたいどうしてカデナ様がイリアス様とご結婚なさったのか理解に苦しむわ。もっと素敵な方がアルフェータには掃いて捨てるほどいらっしゃる筈ですわ」
オサナイ夫妻は、既に硬直していた。
「イリアス様、あいつぶん殴っていいですよ。弟の俺が許します」
グリールがダイアナと同じく泣きそうな顔でイリアスに言った。
「あ、ああ。いいんだよ。カリアが言ったのはもっともなことで、別に今更なことじゃないんだ。王宮でもよく言われるからね」
イリアスは苦笑する。
「ありがとう。2人とも、そんな顔しないで」
ダイアナとグリールの頭を撫でてイリアスは微笑んだ。
「スープが冷めるよ」
二人は渋々とうなづいた。
「わかっていらっしゃるなら、カデナ様を解放してさしあげればよろしいのよ。そうやって、悲劇な顔していて実はなにも考えていないんでしょ」
カリアは、フンッと鼻を鳴らして更につっかった。
さすがに、オサナイが娘の言葉にブチッと切れて、バンッとテーブルを叩いた。彼が口を開きかけた時、それより先にカデナが言った。
「朝っぱらから喧しい娘だな。俺が誰と結婚しようと離婚しようと、おまえにも他の誰にも関係ないだろう。だいたい世間の誤解がはなはだしいから
このさいお喋り娘のおまえに言っておく。俺とイリアスは政略で結婚した。けれど、それはイリアスの方だけだ。人選は祖母と姉がした。決定は父親だ。
だが、拒否権が俺にあったのは確かなことなんだ。しかも無効な拒否権じゃない。それは父親から言い出した権利だったからだ。俺は拒否しなかった。
それでいいと言ったんだ。完全に拒否権がなかったのはイリアスだったんだ。そこを良く世間に伝えておくんだな」
言いきってカデナは、信じられないことに、朝食を半分以上残してさっさと部屋に退散した。
「カリア。おまえが自信をもって主張したことには間違いがあったようだな。少なくともカデナ様はイリアス様を選んだことになる。ご本人がそう言ったのだからな。
イリアス様に謝りなさい」
オサナイが肩を竦めた。
「嘘よ」
「嘘だ」
最初の呟きはカリアだが、次の呟きはイリアスだった。
「嘘よね。イリアス様、今のは嘘よ」
「う、うん。私もそう思う」
同意しあう二人を見て、するとグリールがガァッと吼えた。
「イリアス様、なんで、カリア姉に同意してんですか。カデナ様はしっかりきっぱり言ったじゃないですか。拒否権がなかったのはイリアス様の方だったと」
「あ、ああ。でも、それはきっと嘘で、カデナ様はご命令で」
そうとしか思えないイリアスである。
「そうよ。その通りだわ」
カリアもうんうんとうなづく。
「カリア、カデナ様は先日言っておられたのだ。私が記憶をなくして不安じゃないかと聞いたら、きっと誰かが迎えに来てくれる筈だから不安じゃないと。
それが誰かは思い出せないが、不安じゃないと。イリアス様のことだ。カデナ様は、記憶をなくしながらも、騎士であるイリアス様、自分の夫であるイリアス様
をどこかで本能的に察していたんだ」
オサナイの言葉に一番驚いたのはイリアスだった。
「そんなバカな」
「イリアス様。あなたもう少し自信を持ったらいかがです」
オサナイは苦笑した。
「カデナお兄ちゃまはダイアナのことを忘れても、お父様のことは覚えていたのね。ずるい。でも、嬉しいな」
ダイアナは正直だった。
「でも、それが私だとは限りませんし。いや、その」
イリアスが、もごもごと呟いた。
「し、信じられないわ。まさか、カデナ様はイリアス様を愛しているとでも言いたいの、お父様」
ぶるぶるとカリアはその身を震わせていた。
「どんな形で始まろうと、ご夫婦として今まで過ごされてきたんだ。少なくともおまえや噂好きの奴らが簡単に入り込めるようなことにはなるまいよ」
「そうだ、そうだ。姉ちゃんに勝ち目はないぞ」
グリールはここぞとばかりに、大声で叫んだ。
カリアが何かを言いかけて、止めた。その時だった。2階から、大きな音がした。
「!」
一斉に皆が立ち上がる。
「カデナ様の部屋だ」
「なにごとだっ」
イリアスが剣を手にして、素早く走り出す。グリールとオサナイが続いた。
カデナは床に倒れていた。
「カデナ様。大丈夫ですか」
イリアスが駆け寄ると、カデナはイリアスの手を避けて、自ら立ち上がった。
「背の傷が痛んで、ちょっと気が遠くなって転んだ。寝れば治る」
「お、驚きましたよ。賊かと思いました」
「そう簡単にやられてたまるか」
カデナはよろめきながら、ベットに入った。
「安心しました。でも、花瓶が倒れて水浸しだなあ」
イリアスは、そう言って床を眺めた。
「イリアス」
「はい?」
カデナはベッドの中から、イリアスを見ては、言った。
「思い出した」
「えっ!本当ですか??」
突如の記憶復活に、イリアスは驚いた。
「だいたいな」
「また、急に…。で、でも、良かったです」
「おまえのおかげだな」
ふふ、とカデナは少し笑った。
「へっ」
イリアスは、キョトンとして、カデナを見た。
「似たような光景を思い出したんだ。おまえがクルセタの王女を護衛しながら、彼女と昼食をとっている時に、さっきと同じような状況になってたこと」
言われて、イリアスは記憶を探る。
「クルセタの…ああ、リンド王女。ええっ。どうしてご存知なんですか」
「あの日は、たまたま用があって、王宮に寄ったんだ。ついでだから、おまえのところへも顔を出そうとしたら、おまえは食堂で王女の付き添いだと言われて、
そこへ行ったら、さっきのお喋り娘と同じようなことを王女に言われて、しどろもどろになっていたおまえを見たんだ」
「ぜ、全然知りませんでした・・・」
イリアスは頭を掻いた。
「反論しようと出て行こうとしたら、あのせっかちな王女はおまえに言うだけ言ったら、さっさとお前を残して反対のドアから出て行ってしまったから、ま、いいかと
思って帰ってきたんだ。おまえときたら、話かけようにもすごい勢いで王女を追いかけていったからな」
「はあ。まったく…知りませんでした」
イリアスは顔を赤くしてうつむいた。
クルセタの王女リンドに言われたことは、今日のカリアの比ではなかった。なんたって彼女は性生活のことにまで堂々と介入してきたのだから。
まったくあれを聞かれていたなんて、「恥ずかしい」と言って照れれば良いというものではなかった。穴があったら入りたい心境のイリアスであった。
「おまえときたら、いつも言われっぱなしで、そんな態度でよく騎士長が勤まるな。昔の、氷の騎士と呼ばれたおまえはどこへ行ったのだ」
カデナに言われてイリアスは反論することも出来ない。
「たまには俺みたいに適当に言い返したら、どうだ」
「て、適当?適当なこと言ったんですか、さっき」
カデナの言葉に、イリアスは敏感に反応した。
「なんだ?」
「わ、私には重大なことなんです。さっき貴方が言ったことはっっ。拒否権がどーの、とか。アレは適当なことなんですか」
「そういう意味で言ったんじゃ」
カデナは一瞬黙り、チラリとイリアスの背後に視線を移した。
しかしイリアスはお構いなしに続けた。
「もしや記憶の混乱にともない、貴方はありもしない滅茶苦茶なことを…」
「滅茶苦茶なのはキサマだ。ところで」
カデナは呆れたらしく、さっさと手で追い払うしぐさをした。
「そんなところで大勢に見られていたら、気が散る。出てけ」
ハッとイリアスが振りかえると、一同がドアのところにつっ立っている。
「し、失礼しました」
イリアスは、彼らを廊下へ押し出し、自分もカデナの部屋から出て行った。
一同の視線がイリアスに集中する。
「お似合いの夫婦ですこと」
夫人がニコニコとしている。
「うむ。カデナ様には、浮ついた貴婦人や殿方よりも遥かにイリアス様のような方が良いのであろうな」
オサナイも満面の笑顔だった。
「な、なにを言っているのです。カデナ様は、適当なことを言っただけです。場を収めるためにですね」
あたふたとイリアスは言い訳をした。
「お邪魔だったな」
グリールがボソリと呟いた。
「そうね。きっとお兄ちゃまは私達が気になったのね」
ダイアナがうなづいた。
「なんで、そーなるっっ」
カリアは黙っていたが、急にクルリと踵を返して走っていってしまった。
「カ、カリア。どうしたんだ?」
イリアスが叫ぶと、部屋の中からカデナが「うるさいっ」と怒鳴った。
「す、すみません」
一同はスゴスゴと1階に引き上げたが、しばらくして、夫人一人がカデナの具合を見に行った。
夫人は割れた花瓶の始末をしてから、カデナの様子をうかがった。彼は起きていた。
「痛くて眠れませんか」
聞くとカデナは首を振った。
「イリアスは?あいつせっかちだから、この雨の中出て行ったりしてませんか?」
「してませんよ。居間でグリール達と一緒です」
「なら良いですが」
すると夫人は微笑んだ。
「イリアス様のこと、愛しておいでなのね」
そう言われて、カデナはまじまじと夫人の顔を見上げた。
「そう見えますか」
「ええ。とっても」
「困るな」
カデナはポツンと呟いた。
「困りますか?」
「ええ」
きっぱりとカデナは言う。
「どうして」
夫人は汗の浮いたカデナの額を冷たいタオルで拭ってやった。
「色々とね」
夫人は首を傾げた。
「じゃあ、違うんですの?」
「違わないですが」
これまたきっぱりと、カデナは言った。
「複雑な事情がおありですのね」
「そうでもないですけどね」
なんだか会話になっていなかった。
「おもしろい方ですこと。全部胸のうちに秘めていては、誰にもなんにも伝わりませんよ。隠しておきたいのなら、徹底しないとね」
「詰めが甘いんでしょうね。ああやってイリアスが責められていると、黙っていられなくなって」
「イリアス様は女性にはお優しい方ですから」
コロコロと夫人は笑う。
「誰にでも優しいよ、アイツは」
「そうですねえ。でもあの方はたぶんカデナ様を愛しておいでですよ」
「彼は、順応力があるだけです。それに俺は、姉上に似ているから」
「姉上様。ああ、ルナ様ですね。一目お会いすれば、誰でも求婚せずにはいられないという美女だそうで。まったく姉弟揃って羨ましいことですねえ」
「イリアスは姉上を愛していて、ダイアナは彼女とイリアスの子なんです」
夫人は目を見開いた。
「そんな大事なこと、私に…」
「どうしてかな。夫人には、ついいらぬことを喋ってしまいますね。娘さんには言わないで下さい」
サラリと金の髪を撫で上げながら、カデナは言った。
「え、ええ。勿論ですわ。あの子ね、きっとまだイリアス様が好きなんですよ。だから、あんなふうに責めたりして」
娘の恋心を母は敏感に察していた。
「そうでしょうね。イリアスは鈍いから気づかないんだ」
「まあ」
貴方だって…と言いたいのを夫人は言わずに飲みこんだ。
「でも姉上は、さっさとイリアスを捨てて別の男とつきあっていて」
そう言ってカデナは黙ってしまう。夫人は、カデナが怒っているように見えた。
「カデナ様はそれが気に入らないのでしょうか」
「実のところ、自分でもそれがよくわからない・・・。ですが、イリアスが姉上を忘れてないことは事実です。亡き妻も、夢の中でそう言っていたし。
まあ、見ててわかりますしね。別にそれでもいいんですが」
「よくないでしょう。好きな方には、自分を好きになってもらわないと。でも、そうなのかしら。イリアス様は、ルナ様をまだ愛していらっしゃるのかしら。
カデナ様のこと、大事になさっているようですけど」
「私はいちおう王族のようですから。イリアスは、家系的に王族には絶対逆らえない。そういう体質なんですよ。我々にふりまわされっぱなしで
気の毒です。わかっていても…。結婚しろと言われて、イリアス以外を思いつかなかったのも事実です。そうしたら、姉から祖母から両親まで、
皆同じこと考えていた」
あれには笑えたな、とカデナは思い出し笑いをしていた。
「素敵なことです。あとは貴方とイリアス様を隔てる溝をゆっくり埋めていくだけですわ。ご夫婦なんですもの。時間はいくらでもあります」
そんなカデナを見て、まるで息子を見るような瞳で、夫人は微笑んだ。
「夫人。貴方には感謝しなくては。なくした物がみつかった」
「ああ、そうですわね。記憶戻りましたものね」
夫人は鼻をクンクンさせた。まだ微かにお香の匂いが漂っている。
「あら、そんな漠然とした物じゃなかったかしら。もしかして、イリアス様との思い出だったりして」
からかうように夫人が言う。
「まあ、そうかもしれません」
カデナは否定しなかった。
「誰だ、おまえは?と、俺が言ったときにイリアスが見せた顔がおかしくてね」
クスクスとカデナが笑った。
「まあ。意地悪なお方ですね。でも、溝を埋められること、祈ってますよ。お似合いですもの。御二人とも、ちょっと不器用で、言葉足らずで。
雨、明日には止むそうですよ。貴方の家に帰れますよ」
カデナはチラリと窓をの方を見て、うなづいた。
「あの家落ち着くんです。20年以上過ごした、王宮よりもね」
「素敵なことですわ」
カデナは、ゆっくりと横になった。
「話し込んでしまって、すみません。ゆっくり眠ってくださいませ。後はイリアス様が貴方様をお家に連れて帰ってくださいますよ。なにも心配なさらずにね」
「そうします」
カデナは印象的な翠の瞳をゆっくりと閉じた。
「今のお話は私と貴方様の秘密ですわ。カデナ様」
夫人はそう言い残して、部屋を出て行った。
食堂には心配そうなイリアスが夫人を待っていた。
「あの、カデナ様は」
「大丈夫です。眠ってますから、明日にはお家に戻れますよ。イリアス様に全てお任せするとのことでした」
「そ、そうですか。良かった。ダイアナ、カデナ様と明日はお家に戻るぞ」
するとダイアナも喜んだ。
「そうしたら、ダイアナのこともっと思い出してくれるわね」
「カデナ様は記憶が戻ったぞ」
イリアスはキョトンとしている。
「わからないわよ。お父様のことだけ思い出したのかもしれないでしょ」
「そうだよ、イリアス様。なんたってカデナ様はイリアス様のこと、愛しておられるからね〜」
きゃ〜♪とダイアナとグリールが叫ぶ。
「あ、あのね〜。そう単純なことじゃないんだよ。大人っていうのはね」
イリアスの説明をダイアナもグリールも無視して、二人で絵本に見入ってる。
「こ、子供は無邪気でいいですよね」
苦笑しつつ、イリアスが夫人に言うと、夫人は意味あり気な言葉を残して厨房へ去って行った。
「子供の無邪気さは大抵真実を見ぬいていたりするんですよ」
イリアスはその場に呆然と立ち尽くしていた。
夕方には雨が止み、ラトゥーの空には虹が煌いた。
一同は、庭に出て空を見上げていた。
「綺麗、綺麗」
ダイアナがはしゃぐ。
「明日はいい天気になりそうだな」
オサナイが傍らで呟いた。
「いや〜、久しぶりに見た。ラトゥーの虹。ここのが最高ですね」
イリアスも興奮して、空の虹を見上げた。
「イリアス様」
カリアがイリアスの背をつついた。
「カリア、見てごらん。なんて綺麗なんだろうね」
イリアスは虹を指差した。
「そんなの見なれているわ。今更騒ぐこっちゃないわよ」
「カリア、いつまでふくれているんだ」
オサナイがカリアを叱った。
「虹より綺麗なのはカデナ様よ。そのカデナ様に伝えてもらいたいことがあるの。私、あんなことした手前恥ずかしくてもう顔合わせられないから」
「気にすることはないよ。見送ってあげてくれ」
「イヤよ。悔しいもの。とにかく、伝言よろしく。貴方が世間に広めてくれって言ったこと早速ラトゥーのおしゃべり同盟の女の子やおばさん達に広めてあけだからってね」
「なに、それ」
イリアスは瞬きする。
「貴方も聞いていらっしゃったでしょ。貴方とカデナ様は相思相愛だって。それを広めてきたのよ。そのうちに、風の噂で真実がアルフェータにも届くでしょう」
「な、なんてことを。そんなこと…」
イリアスはよろめいた。そんなイリアスを見て、カリアは微笑んだ。
「カデナ様が相手じゃ、私本当にもう諦めなきゃね」
「え」
「貴方のことずっと好きだったの。私が具合が悪くなったのは、カデナ様が本物だったからじゃないわ。貴方が突然現れたからなの。もう二度と会えないって
思ってたから。ごめんね。貴方は素敵な人よ。カデナ様はきちんとわかっていらっしゃるみたいね。本当にごめんなさい」
「カリア…」
イリアスは僅かに顔を赤くしつつ、カリアを見た。
「イリアス様みたいな素敵な人、いつか私も見つけるわ」
「ありがとう、カリア」
「ね、腕組んでいい?カデナ様は寝ていらっしゃるからお庭に出て来れないもの。怒られないでしょ」
「いや〜。きっとここにいても、怒らないと思うよ」
「嬉しい」
カリアはイリアスの腕に自分の腕を絡めた。
「イリアス様、見て。綺麗ね〜」
カリアは虹を指差す。
「見慣れているんじゃなかったかね」
オサナイが皮肉を飛ばしてきた。
「お父様の意地悪」
「あー、カリア姉。カデナ様に言いつけるぞ」
「お父様、浮気だわ」
グリールとダイアナが騒ぎ出す。
「こ、こら、こら。あんまり騒いでいるとカデナ様の部屋に響くぞ」
「怖いの?バレることが」
ダイアナがからかう。
「おまえね。お父様をからかうんじゃない。カデナ様が起きてしまうと言っているんだ」
「もうとっくに起きていると思いますが」
オサナイがボソリと言った。
「へっ」
カデナの部屋を見ると、窓のところにはカデナと夫人の姿が見えた。
イリアスは一瞬硬直したが、すぐに空いている方の手で手を振った。
幸いカデナは軽く手を振って返してくれたが、すぐにカーテンを閉めてしまった。
「…」
カデナの反応に、イリアスは首を傾げた。
「怒ってしまわれたかしら。私がイリアス様と腕を組んでいたから・・・」
カリアは、イリアスから腕を外して、ちょっと不安気に呟く。
「いやいや。そんなことは間違ってもないだろう」
イリアスは、アハハと笑った。
「だって、カーテンを閉めてしまわれたわ」
「虹が珍しくないのだよ。あの人は、自分がああいう方だから、虹とか綺麗なものには、興味がないんだよ」
「それこそ見慣れたものって訳ね」
「そうだろう、きっと」
フウンとカリアは、うなづいた。
妙に納得しあう二人を見て、オサナイは「やれやれ」と首を振った。
END