昨夜からの雨は、勢いこそ衰えたものの、まだ日本列島を濡らしていた。
北斗は目を覚まし、着替えてから、すぐに子供の部屋に向った。子供の朝は早い。
もう起きていて、ベビーベッドの中で、父親の北斗を見上げていた。
「おはよう。父さん、ちょっと出かけてくるからな」
柔らかい子供の頬にキスをして、北斗は部屋を出た。
キッチンに行くと、妻が手伝いの者と一緒に朝食の支度をしていた。
「あら。貴方。どうされましたの?今日は大事な商談があるからって仰っていたのに。その格好。それにそのジーンズ、膝に穴が開いてますわよ?」
ジーンズにTシャツ。薄手のジャンパーを羽織った夫を見て、妻が驚いた。北斗は苦笑した。
「大丈夫。君はなにも気にしなくていい。それより、いつも毎日ありがとうな」
妻はキョトンとしていた。
「貴方?今日はなんだか変ですね。いきなり、どうしたの」
クスクスと妻は笑う。そんな妻の笑顔を見て、北斗も笑った。と、インターフォンが鳴った。
「守山さんですわ。あの方は大事な日には、遅刻しないようにっていつも貴方を迎えに。私がきちんと起こすっていうのに信用してくださらないのよ」
「そいつは失礼だな。よく言い聞かせておこう」
北斗は、そう言って妻の髪を撫でた。やがて、守山が手伝いの者に案内されて居間へとやってきた。
北斗の姿を見て、守山は眉を潜めた。だが、なにも言わずに懐から、封筒を差し出した。
「ブライン様が今朝、フロントにこれをお預けになられて。取りに来いといわれたので立ち寄って取りに行きました。北斗様宛てです」
北斗は、封筒を無造作に破り、中身を見た。入っていたのは、一枚のポラロイドだった。
写真の隅にはペンで、たとだとしく「ざまあみろ」と平仮名で書かれていた。
「上等だ。パツキンのプリンスヤローめ」
クシャッ、とそのポラを握りつぶすと、北斗はジーンズのポケットにしまいながら、ニヤリと笑った。
「北斗様。お着替えを。今日はディエゴ社の社長達がわざわざ来日までされての会議です。ご重要なことは重々承知であった筈です。この件で、あちらの社長のご機嫌を損ねると、南様の本家筋のグループにまで影響を及ぼします」
守山が北斗を見つめながら、冷静に言った。
「今日は当社はリフレッシュデーな筈だけど?」
北斗はクスッと笑った。だが、勿論守山にはそのジョークは通用しない。
「冗談を言ってる場合ではありません。奥様、スーツのご用意をお願いします。北斗様?」
守山の傍らを、北斗はスッと大股ですり抜けて行く。
「話なら、外で。すまん。朝食は食べてる時間がない。行ってくるよ」
妻に謝り、北斗は、自宅を出た。守山が足早についてきた。
「どういうことですか?北斗様」
北斗は車に乗り込もうとしたが、守山に阻止された。
「北斗様、どちらまで行かれますかッ」
珍しく興奮した声の守山に、北斗はゆっくりと答えた。
「駆け落ちすんだよ」
その北斗の言葉に、守山は目を見開いた。
「今度こそ、邪魔しないでくれ。守山」
「無駄です。彼はブラインと一緒に今日出発する筈です。貴方のところには来られない」
「生憎だね。隆文から今朝携帯に連絡が入った。絢は、家に戻ったよ。今朝早くにな」
「!」
守山の顔が凍りついた。
「伊藤隆文と会ったのは知ってます・・・。一体どういうことですか?」
「気に入った子の電話番号を聞き出すのは得意なんだよ。おまえも知ってるだろ」
北斗は悪戯っぽく笑った。
「・・・存じておりますが、仕掛けがわかりません・・・」
「犬さ。おまえが絢に届けてくれた犬。キャメロン。隆文には申し訳ないが、昨夜こっちから連絡して、車で帰ってもらって、向こうから絢に連絡してくれって言ったのさ。キャメの具合がおかしいんだ、って」
「あの犬ですか?」
北斗はうなづいた。
「絢は、俺からもらったキャメのことを日本に残していくつもりだったらしい。ヤツは俺のことにはもうあきれ果てているかもしれないが、犬に関しては違うだろう。アリーを失った時、一晩中泣いていたようなヤツだからな。そしてブラインも、まさか生き物のことぐらいで、行ってはダメだとは言えない。結果的に絢は戻らざるを得ないのさ」
守山は唇を噛んだ。
「では。今度は、北斗様が、待つ人の元へ行くのですね。石塚さんのところへ行くのですね」
「そういうことだ。俺は、もう待つのはいやなんだ。18歳の時、何時間待ったと思ってる」
「そこで、貴方が捕まえるんですね。石塚さんを。ブライン様から、奪うのですね。この大事な商談で失うものを全て知りながら、それでも貴方は石塚さんを捕まえるんですね」
守山の言葉に、北斗はアハハと笑った。
「捕り物みたいだな。でも、そうだ。チャンスはこれきりだからな。兄貴にも妻にも子供にも。社員達にも悪いとは思ってる。けれどな。人間やってりゃ、ひとつぐらい失ってはならねーもんがある。それが偶々俺には、絢だった、ってだけだよ。この前絢に会って、昔話して。あの時点ではまだ決断出来ていなかった。でも、絢がブラインと行ってしまうと考えているうちに、心は決まった。奪い返してやる、と」
「簡単に言わないでください!」
守山が声を荒げた。
「そんな愚かな選択がありますか。貴方は、一般の人々が欲しくてたまらないもの全てを生まれながらに持っていた。そういう運命なんです。その運命になぜわざわざ逆らって、そんな愚かな選択をするんですか?」
信じられない、と守山は、泣きそうな顔で北斗を見た。
「何度も言ってるだろ。俺も兄貴も、んなもんが欲しくて本城に生まれてきた訳じゃねえ。それはおまえが一番よく知っているだろう。結婚だって、誰の眼から見ても政略結婚であるのは間違いない。彼女だって家の為に割り切って嫁に来たんだ。子供だって、後継ぎの為には作らねばならなかった。そこに俺の意志はないが、決めたからにはバランスを取ってうまくやっていこうと思っていた。だが・・・」
北斗は目を伏せた。
「そううまくいく筈もないのが人生だってことがつくづくよくわかったよ。守山。俺はおまえに感謝するぜ。おまえが動いてくれなければ、俺は絢とはすれ違ったままの運命だった。だが、おまえが動いたせいで一つ変わった。そして、俺は伊藤隆文とも偶然出会った。そしてまた一つ変わる。運命は動くんだ。動くそれを選択していくのは、俺自身だ。ここに生まれてきたのはそれこそ運命だが、生まれた瞬間から、運命は俺のものだったんだ。俺はそう思ってる。守山。どいてくれ。俺は今度こそ、未来を手に入れたい。自分で選んだ未来を」
北斗は、顎で指図した。どけ、と。
守山は、運転席のドアの前に立ちはだかってうつむいていた。握っていた拳が、ブルブルと震えていた。
「私は・・・。火に油を注いでしまったということなのでしょうか?」
「身も蓋もねえな。俺からしてみれば、おまえの愛は受け取ったということだ」
守山が弾かれたように顔をあげた。
「私の愛ですか?」
「愛する者が幸せになれば、おまえも嬉しいだろ?」
何時の間にか煙草を吸っていた北斗だが、指に煙草を挟んだまま、ニッコリと守山に笑いかけた。
「絢と愛しあえれば、俺は幸せになる。その道はおまえが開いてくれた」
「残酷な言葉ですね。・・・でも、貴方らしい」
「これぐらい言わせろ。感謝はしてるが、俺の寿命を100年縮めたのも事実だ」
守山が緩々と笑った。そして、うなづく。
「嫌な天気ですね。雨が止めば、運転もしやすいのですが」
やっと、守山がドアの前から退いた。
「絢のことが絡むと、俺の場合はたいてい雨になるんだ。不思議だな、と思うんだが。でも、だからかな。雨はキライじゃないんだ」
「北斗様は、晴れ男ですからね。石塚さんが雨男なのでしょうか。あちらのがお強いのですかね。私などは雨はキライですが」
どこかふっきれたように、守山が言った。
「そりゃキライだろうなぁ」
ふふふと北斗は笑った。
「お気をつけて、北斗様」
守山が言うと、北斗はうなづきながら、アクセルを踏み込んだ。


絢は家に戻るなり、「キャメ、キャメ」とキャメロンの名前を呼んだ。
「なんで?どうして、いないんだ。キャメロン」
荷物を放り出し、大して広くもない家の部屋中を探しまわった。
「隆文。どこにいるんだ」
部屋のどこにもキャメロンの姿と隆文の姿はなかった。
「獣医のところか?」
だが、この家には電話がない。絢は携帯も持っていないのだ。テレホンカードを掴み、絢は家を飛び出した。
ふと、海岸を見ると、傘が見えた。
「隆文っ!」
なぜ気づかなかったのだろう。海岸には、傘を差した隆文がいた。
「隆文。キャメ、大丈夫か?」
隆文の腕の中でキャメロンはおとなしくしていた。
「絢。ごめん。嘘、ついた。実はキャメ、なんともない・・・」
その言葉に、絢は目を見開いた。隆文は、俯いていた顔をあげた。
「だって!俺達、やっぱり絢と離れたくないんだ」
そう言って、隆文はギュッとキャメロンを抱きしめた。キャメロンが「きゅうん」と鳴いた。
「隆文・・・おまえ・・・」
絢は、ふっ、と笑うと、クシャッと隆文の頭を撫でた。ドキドキしていた心臓の音が急に退いていく。ホッとした。
「ごめん。絢。ブラインさんも、怒ってるよな?」
おそるおそる訊く隆文に、絢は首を振った。
「ブラインが怒っているとしたら、そりゃ俺にだよ。隆文。俺、急いできたから朝飯食ってねー。なんか作って」
「絢?」
「つか、作れ」
つん、と絢は隆文の頭を指で小突いた。
「う、うん!作る」
嬉しそうに隆文はうなづいた。その様子がいつもの隆文らしくなく歳相応で絢はニヤリと笑った。


「えええっ!な、な、なに、それ」
テーブルにパスタ皿を乗せながら、隆文が素っ頓狂な声を出した。絢は昨日の出来事を隆文に話していた。
「なにそれって。まんま」
絢は、腹の上にキャメを乗せたまま、ソファでごろごろの、リラックスさだった。
「そ、それで。ブラインさん、納得したの?」
「するわきゃねーだろ。まあ、渋々ってとこだな。アンタとセックスする時は、俺はきっとずっとこうだぞって言ったら、アイツ絶句していた。おまえだって腹立つだろ。彼女とセックスして、彼女がセックスの間中他の男の名前呼んでいるなんてさ」
「そりゃムカつく。でも絢の場合はわざと、だろ。モデルなんかやるより、俳優にでもなったら良かったンでねーの?」
「バッカ。そりゃ最初は当てつけがましく北斗の名前を呼んでやろうかと思ったさ。でも。途中から訳わかんなくなっちまって。無意識で北斗の名前を呼びまくっていた・・・らしい」
そこらへんは記憶がすっ飛んで覚えてねー・・・と絢はガシガシと髪をかきあげた。
「ハードな夜をお過ごしだったようで」
絢が淡々と話すから隆文もうっかりサラリと聞いてしまったが、絢は自分の情事話を聞かせているのだ。
なんとなく恥ずかしくなって、隆文は話題を変えた。
「しっかしな。あのおっさんが本城北斗だったとは。びっくり、だったけど。絢とは似合うかもな。あん人もモデル顔負けのハンサムっぷりだったもんな」
「ふん」
その隆文の台詞を絢は鼻で笑った。
テーブルの上には、パスタが用意されている。あとはサラダを待つだけだ。
「じゃあ、絢はずっとまたここに居るの?」
「リングを返した時、受け取ったから許してくれたんだと思う。通帳は叩き返されたけどな」
「いい人じゃん、ブラインさん」
「好きになれれば、幸せになれたと思う」
そう言いながら、絢はむくりと起き上がって、窓の外を見た。雨で煙る視界。
「雨、止まねーかな・・・」
ぼんやりと絢は呟いた。何故か、いつも。北斗とやりあう時は雨が降っている。


北斗を見送った後、守山は懐から携帯を取り出した。呼び出しは、本城南の携帯へだった。
「おはようございます。守山です。今、羽田です。ええ。やはり、予想が当たってしまいました。北斗様は行ってしまわれました」
守山は支柱に背をもたれかけさせながら、苦笑した。
「北斗様を許していただけますでしょうか?南様を裏切らない、と誓ったあの方を。そうさせたのは、私ですから。本当に申し訳ございませんでした」
受話器から南の声が漏れた。
『いいのさ。これで、フィフティ。僕はかつて北斗の未来を壊した。今度はもう邪魔しない。これで、僕達は対等さ。僕が彼に負い目を感じることもなくなる。正直ホッとしてるよ。ディエゴの会議は何時から?用意は出来ているから、遅れるようならばうまく引き伸ばしてもらえないか?』
「ありがとうございます。お迎えを出します。本日はよろしくお願い致します」
そう言って守山は電話を切った。


絢は膝を抱えたまま、ずっと窓の外を見つめていた。
その絢に、言葉をかけるのはなんとなく出来ず、隆文はキッチンで雑誌をめくっていた。
と、傍にあった時計を見た。そろそろかな、と隆文は思った。
「絢。わりーけど、俺。ちょっとダチと約束あって。たぶん今日は戻れないから、デリバリー頼んでおくから」
その言葉に、絢が膝に埋めていた顔をあげた。
「帰らないって。もしかして、彼女とか?」
チラッと絢が隆文を見上げた。
「野暮なこと訊かないでくれる?」
隆文の言葉に、絢は苦笑した。
「生意気いいやがって」
「じゃあな。またね」
隆文は、面白半分にチャッと敬礼して見せては、バタバタと部屋を出て行った。
「色気づきやがって・・・」
チッと絢は舌打ちした。しかし、緩々と笑顔になる。隆文も幸せになればいいと思った。俺みたいに。
もしかしたら自分を幸せにしてくれたかもしれない男との縁を自ら断ち切り、愛してはいるがその愛の為だけに、なにも捨てる気はないと言った不実な男との縁を選んだ。でも。それが一番自分の望んだことだった。俺は手に入れた、と絢は思った。北斗は、愛してると言ってくれた。
とても、とても、聞きたかった言葉。
「充分さ・・・」
絢はまた膝に顔を埋めた。だが、キャメロンがシャツを引っ張った。
「散歩の時間か・・・。そか。行こうか、キャメ」
キャメロンを抱き上げ、傘を片手に絢は家を出た。
雨だというのにキャメロンは元気に砂浜を駆け回っている。そんな姿を、傘を差しながら、絢はボーッと眺めていた。
ブンブンと揺れている尻尾が可愛いな・・・とぼんやりと思っていた。
白いズックの踵を潰して履いていた絢だったが、砂が入り込んできたり、波で濡れたり、何時の間にかシューズが灰色になってしまっていた。
もうそろそろ夕方。晴れていたら、ここからの夕日はサイコーなのにな・・・と思った。
もう二度とみれねーと思ったのに、意外とあっさり出戻ってきたな、自分。と、ちょっと絢は呆れた。
なにげなく立ち寄った町で、俺は大好きな海と星空を手に入れた。
俺はここで、これから、ずっと・・・。ずっと一人で・・・。
「?」
耳に聞こえた自分を呼ぶ声に、絢は「?」と思った。隆文か。安いビニール傘が絢の体と共にゆっくりと回転していく。
振り返って、絢は目を見開いた。
「!!」
砂浜の向こうに、人影。そして、声。
「けーん!ちっきしょー!追いかけてきてやったぞぉおお」
灰色の空に、響く大きな声。
「うっそ・・・。マジかよ・・・」
呟いて絢は、こちらに向って走ってくる北斗をジッと見つめた。
「なんだよ、このクソど田舎は〜。来るのに、何時間かかったと思ってるー!」
大声で北斗は文句を垂れている。どんどん北斗が近づいてくる。ザクザクと雨に濡れた砂を蹴る音。
「勝手に来たんだ・・・ろっ」
絢の語尾が掠れた。嘘、嘘、嘘。なんで、ここに北斗が・・・。
「おまえが、ここにいるからなぁ」
ザク、ザク。雨に湿った重い砂を北斗が蹴って走ってくる。
「体から始まってしまったの。だから、素直になれないの♪追いかけてほしいな〜。愛してるって言ってほしいな〜。抱きしめてほしいな〜♪」
北斗が歌っている。Rainという香水のイメージソングだったバラードだ。北斗が歌うと、なんだか陽気に聞こえた。
「追いかけてきたぞ」
ダンッ、と北斗が砂を踏みしめ、絢のすぐ目の前に立った。
「次はなに、絢?」
北斗は、ニッコリと笑った。
「・・・」
絢は北斗を見上げたままだった。
「次は、なに?絢」
北斗は更に促す。
「絢」
「バカ・・・」
「素直じゃねえな。愛してるって言って欲しいな、だろ。絢。愛してるよ」
ブルブルと絢の傘の柄を持つ手が震えた。
「次は、なに?言えよ。絢」
北斗は濡れた髪をかきあげながら、絢を見つめた。
「抱きしめて欲しい・・・」
そう言った瞬間、絢は持っていた傘を手放した。透明のビニール傘は、クルクルと弧を描いて砂浜に落ちていく。
「うん・・・」
北斗が腕を伸ばして、絢を抱きしめた。鼻先をかすめるRainの匂い。ギュッと北斗が絢を抱きしめた。
「次は?さあ、次は?絢」
北斗が絢の耳元に囁く。
「次なんか、ねえだろ!」
「あるんだよ、俺達には。わかってるくせに」
北斗は絢の首筋に、軽く唇で触れた。ゾクリ、と絢の体に震えが走った。
「キス、して、くれ」
いつもだったら素直に言えないその言葉が、まるで魔法のようにスラリと言えた。
言ってしまった後、絢は「しまった」というように顔を赤くした。
だが、北斗は絢の顎を指で掴むと、そのまま絢を引き寄せて、キスをした。
「んっ」
もう、イヤだと絢が首を振るまで、北斗の強引なキスが続いた。
「北斗っ」
首を捻り、一旦は逃げかけた絢だったが、頭を掴まれ、またキスされた。
やっとのことで北斗の唇が離れ、二人はジッと互いを見つめあった。
北斗の腕が絢を抱きしめよう、と伸びてくる。それを避けて、絢はパーンッと北斗の頬を叩いていた。
「いてえな。空気読めよ、おまえ」
「こんなところで、なにしてやがる。会社は?会社はどーした?」
ハアハアとキスの余韻に喘ぎながら、絢は北斗に向かって叫んだ。
「ああ、会社ね。サボッた」
「サボッただと?俺が仕事ばっくれた時はプロ失格とか言って怒ったくせに」
「俺のとおまえのとは訳が違う。俺は今日サボらなきゃ、おまえを永遠に失っていた」
そうだろ、と北斗は、絢の頭を撫でた。
「・・・なに言ってンだよ・・・」
「あのさ。俺と逃げよう、絢」
真面目な顔をして、北斗は言った。
「は?」
絢は北斗の言葉にキョトンとした。
「逃げちまえば、ブラインも諦める。地球の果てまで俺と一緒に逃げよう。これは、駆け落ちってやつだ」
「頭どーかしたのか?おまえ。そんなこと、おまえの性格で出来る筈がねえだろ」
ふっ、と北斗は笑った。
「おまえのせいで、俺、狂ったよ。なんにも捨てない筈だったのに、なにもかも捨てる覚悟でここに来た。おまえがブラインのものになるのはイヤだ。おまえは俺のもん。俺だけの絢。そう考えたら、仕事も家族も兄貴も、全部捨てる覚悟が出来た」
愛しているが、なにも捨てない不実な男。そんな北斗が、絢の中で瓦解していく。
「・・・アホ・・・か?」
信じられないと言うように、絢はグッと拳を握った。
「俺がアホにならなきゃ、おまえは泣き暮らすだろう。好きでもない男に抱かれてさ」
「・・・」
「どーせ泣き暮らすならば、好きな男に抱かれて泣く方がいいだろ」
絢は笑えなかった。
「バカか・・・。んとに、バカ。おまえ・・・」
「だよな。俺ってバカ。晶子と駆け落ちしようとした時は、用意周到にあんなに現金用意してったのに、おまえと駆け落ちする時は、ほれ。財布の中に500円。たばこ代だな。持ってきたのは、クレジットカードだけだった。俺ってカード派じゃん。けど、カードなんざ使うと、すぐに場所割れちまうしなあ。ってことで、俺は文無しに等しい。なあ、絢。だから、俺に金を貸してくれるか。必ず返すからさ」
おそらく人生で、言ったことのない言葉を北斗は実に楽しそうに言った。
絢は複雑な顔をした。北斗は、かつての自分を再現しているのだ。
「誰が繰り返すか。立場逆になっても、苦しいだけだ、んなの。やだね。絶対にやだ。誰がてめえなんかに金貸すか。誰が頼んだ。捨ててこい、なんて。俺は。バカヤロウ。俺は、おまえの嫁さんになりたかったんじゃねえ。愛人になりたかった訳でも秘書になりたかった訳でもねえ。俺は、おまえが俺を一番愛してくれれば良かったんだ。だから、おまえはなにも捨てるな。元の生活に戻れ。愛してくれればいい。それ以上は俺はなにも望まない」
「欲がねえのか、欲張りなのか。どっちか複雑だな」
ふっ、と北斗は苦笑した。
「からかってんじゃねえよ」
「おまえがよくても俺がそれじゃ困るんだよ。一番、愛してる。誰よりもなによりも愛してる。おまえと離れて生きているのが辛いんだ。もし、おまえが俺に元の生活に戻れと願うならば戻るさ。でも、おまえも一緒だ。一緒に、生きていく方法を考える。幸せにしてやるから。俺以外を選ぶな。俺じゃないとおまえは幸せになれない」
北斗の言葉に、絢は胸に込み上げてくるものを押さえきれなかった。
一緒に生きていこう。母を亡くした時北斗はそう言った。
一人ぽっちになってしまったと思った瞬間に、北斗がくれた言葉。
忘れていなかった。この男は忘れていなかったのだ。この言葉を。愛してるの言葉と共に、この言葉を。絢はグッと涙を堪えた。
「なあ。俺達、今度は間違えずに進もう」
絢はうなづいて、北斗に抱きついた。
「好きだ。おまえが、好きだ。好きで、好きで、どうしようもない。ブラインとは別れた。俺は、おまえを選んだ。愛してる。一緒に生きていきたい。おまえと、幸せになりたい」
北斗は、絢の耳に囁いた。
「上出来。って、ブラインとは別れられたのか?ブラインを説得出来たのか?もしかして・・・」
北斗は、クシャクシャになったポラロイドをジーンズのポケットから、片手で取り出した。
「このせいで?」
絢は、北斗が手にしていたポラロイドに驚いた。いつのまに、と思った。
だが、これで本当にブラインは、許してくれた、と絢は思った。
「最後の最後まで、おまえってば、体で勝負なのな。色々手に入れたくせして、おまえは本当に自分しか使わねえ。俺からしてみれば、あまりに不器用だ。ま、そんなところがたまんなく愛おしいんだけどさ、絢」
今度こそビリッとポラを破き、北斗は細かく千切ってそれらを海に捨てた。
絢は爪先を伸ばして北斗に強く抱きついた。しっかりと北斗の背に腕を回す。
北斗のジャンバーは雨に濡れて冷たかったが、触れ合う体温がとても暖かく、絢は安堵の溜め息をもらした。
「愛してる」
北斗は囁く。
「安売りすんなよ」
北斗の胸に顔を埋めながら、絢は言った。
「愛してる、愛してる、愛してる、愛してる」
北斗が笑った。続いて、絢も笑う。
「愛してる」
二人は同時に言って、どちらともなく唇を重ねた。
二人の足元には、いつのまにかキャメロンがちょこんと座って二人を見上げている。
「雨が止めば、ここから見る星空はすごい綺麗だぜ。おまえのお気に入りのマンションからみるあの夜景とは全然違う。あんなのは、嘘の夜空だ」
絢はキャメロンを抱き上げて、言った。
「夜までにはこの雨も止むだろう。是非見せてくれ。おまえオススメの本物の星空をな」
北斗は、キャメロンの頭を撫でてやる。
「行こうか」
「ああ」
傘を拾い上げ、先に歩きだした北斗の後を絢は追いかけた。
「北斗、濡れるってば」
「もう濡れてる。おまえは、十年前からなんで、変わらん?そして、わからんか?濡れたヤツに傘は不要だ」
言われて、絢はハッとする。そういや。あの日も。あの時も、そんな風に言われた気がした。
「おまえに雨は似合わない」
北斗は、太陽の下で笑っているのがよく似合う男だった。
だが、当の本人は、ケロリと言い返す。
「そういう問題か。俺は雨が好きだぞ。愛用してる香水もrainだし。なにより、雨の日におまえと出会った」
クルリと北斗は絢を振り返って、微笑む。
「そして、また今日。おまえと始まった時も、雨。いいじゃねえか。上等だろ」
「ふうん。・・・おまえの頭はいつも晴れてるのにね」
そんな風に言ってみても、北斗は全然動じないで、ただニヤリと笑ってみせるだけだ。
どちらともなく伸ばした手が、しっかりと重なり、二人は微笑みあう。


雨に濡れて。でも。
追いかけて。愛してるっていって。抱きしめて。
二人で笑えば。
雨を笑えば。

悲しい雨は、もう降らない。

END