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OJ

ジェイ・ワイルス(29歳)
某国(架空)の職業軍人。階級は大尉。
勤務中に、爆破攻撃にあい、瞬を庇って再起不能の怪我を負う。
現在、峻の故郷である日本で、療養中

大川峻=オオカワシュン(28歳)
日本人だが、某国に渡り市民権を得る。
ジェイと同じく軍人で、ジェイの直属の部下。
現在、恋人南の家で、上司兼恩人のジェイを看病中。

本城南=ホンジョウミナミ(28歳)
日本有数の財閥の御曹司。某国においては、資金援助の為に、
絶対的な発言を持つ。恋人峻のため、ジェイの保護に尽力している。

天野直也=アマノナオヤ(22歳)
本城家別荘の期間限定住み込み人アルバイト。英語に堪能。
医学部生。実は、峻の異母弟。


*******************************************************
「俺、専業主婦って向いてるかもしれない。ミナミ、エプロン似合うだろ」
 ジェイはエプロンを見せびらかそうとして、南の前でターンしようとした。
「あ、危ないですよ、ジェイ」
 慌てて南が椅子から腰を浮かせた。
「なに浮かれてるんです」
 案の定バランスを崩したジェイを、背後からしっかりと竣が受けとめた。
「だって、ミナミがくれたエプロンだぜ」
 よろめきながら、ジェイは椅子に座った。
「貴方が、最近家事が楽しいと言うから買ってきたんだけど、そんなに喜んで貰えるとは光栄だな」
 南はニッコリとジェイに微笑みかけた。
「楽しいよ。こんなに楽しいとは思わなかったな。俺、女に生れてくれば良かったな。いい奥さんになるぜ」
 パタパタと無意識に足を動かしているジェイを見ていた竣は眉を寄せた。
「いい奥さんですよ。竣のヤツ、最近太ったんじゃないかな。貴方の料理のせいで」
 南の言葉にジェイは身を乗り出した。
「そうか?いや、俺料理はまだ練習段階なんだけどね」
「正直言って、料理は食えたもんじゃない」
 竣は言いながら、ヒョイと椅子からジェイを抱き上げた。
「うげっ。なにすんだ、いきなりっっ」
 驚いたジェイは竣の髪を掴んだ。
「足。まだ完全に治ってないのに、ジタバタしないで下さい。興奮すると、すぐ暴れるんだから、悪い癖だ」
 ポイッとソファの上に下ろされて、ジェイは不貞腐れたように竣を見上げた。
 南はその光景を見て、苦笑した。
「竣。おまえ、きかん坊を躾てるお母さんみたいだ」
 竣はチラッとジェイを見て、うなづく。
「まったく、その通りです。悪い子だ」
 その言葉に、ジェイは顔を真っ赤にして怒り出した。
「おまえっ・・・俺が病人なのをいいことに、今までの仕返しをするつもりだなっ。部下のくせに、生意気なヤローだっっ」
 喚くジェイを一瞥して、竣は夕食の用意をする為にキッチンへと消えた。
「残念ながら、分が悪いのは貴方の方ですね。病人はおとなしく介抱されていた方がいい」
 南はソファのジェイに近寄ると、その頬に軽くキスした。
「僕はもう帰るよ。ゆっくり養生して下さい」
 キスを返しながら、ジェイは南を見上げた。
「ミナミ・・・。俺、そろそろここを出ようと思っているんだ。申し訳ないけど、航空券の用意をして欲しいんだ」
 帰り支度をしていた南が、ジェイを振り返った。
「ここを出る?状況をわかっているんですか。第一、誰が貴方の面倒を看ると言うんですか」
 ジェイは膝の上で組んでいた指を遊ばせながら、うなづいた。
「贅沢を言える状況じゃないんだと言うのはわかっているが、生まれ故郷に帰りたいんだ。俺を育ててくれたババアが、
今も俺の帰りを待っているんだ」
 窓の外の桜の木を見つめながら、ジェイは呟いた。
「怪我をして、心細くなっているのはわかりますが、まだ貴方は故郷を懐かしむような年じゃないでしょう。お断りします」
 つられて、窓の外を桜を眺めながら、しかしキッパリと南は言った。
「ミナミ、手厳しいな」
 肩を竦めて、ジェイは苦笑した。
「国に帰るも、何をするにも、判断するのは貴方でも、僕でもない。竣であることをお忘れなく」
 南の指摘は、ジェイにとって気持ちのいいものではない。彼がピクリとその言葉に反応したのを知ると、
南は更に追い討ちをかけたのだった。
「貴方の件に関しては、上官から全ての権限が竣に委ねられたと聞いてます。上官命令を破って、
軍法会議に出席なさりたいのならば、ご協力致します」
「綺麗な顔をして、本当に君は意地が悪い。なにもそんな言い方しなくても・・・」
 頭を抱えてしまったジェイの金髪に、もう一度キスを送ると、南は今度こそ部屋から出ていった。
「お大事に」
 と言う、慈愛の言葉を残して・・・。


 ジェイ・ワイルス大尉の怪我は、軍の立案した767作戦によって負ったものだった。 
立案されたその作戦に、誰もが無謀だと思ったが、彼らが軍人である以上命令に従わぬわけにはいかない。
 そして、予想通りの無謀な作戦は、優秀な多くの士官を失うことになった。
 あの状況で、ジェイが生き残ったのは奇跡と言う他はなかった。
「ジェイ。夕食が出来ましたよ」
 ヒョイと竣は、ジェイの顔を覗き込んだ。
「ジェイ?」
 いつの間にかジェイは、眠ってしまっていた。
その寝顔を見て、竣は軽く溜め息をついた。
ソファの手摺に腰を下ろしてジッとその寝顔を見つめた。あどけない寝顔だった。
「・・・」
 今でも目を閉じると、竣の脳裏にはあの日の閃光が蘇る。
 どうしようもなかったあの極限状態で、誰もが死を覚悟した。
 タフが売物である自分の上官、ジェイ・ワイルスですらそうだった。
 いつも活き活きとしていた翠の瞳には、諦めの影が濃厚に漂っていた。
 竣は全てを諦めた時、遠い異国にいる大切な人の姿を暗闇の中に思い浮かべていた。
 それは確かにほんの一瞬の隙だった。
「シュン!ボンヤリしてるんじゃないっ」
 暗闇に浮かんだ大切な人の姿が、金色の髪をした上官の姿に瞬時に変わった。
「ジェイ・・・」
 なにが起こったのかわからなかった。
 だが、切迫した顔で上官が自分に覆い被さってきた時、彼の背後で煌めく光が爆発した。
 意識を取り戻したのは、爆発からどれだけ立った頃だったのだろうか・・・。
 相変わらず辺りは真っ暗だったから、時間の経過が峻にはわからなかった。
 ただ自分の置かれた状況だけが、はっきりしていた。
 闇をも弾く豪奢な金髪が埃まみれになった上官のジェイは、血だらけで自分の隣に倒れていた。
 戦場からの離脱は、言葉では表現出来ない程困難だった。
生き残った方が地獄だと、誰かが言っていたがその通りだと思った。だが竣は諦めなかった。
 ジェイを背負い、竣は戦場を後にし本国に戻った。
「よく戻ってきてくれた・・・」
 上官であるカーリング大佐は、言葉少なく部下の生還を喜び、ジェイ・ワイルスの療養を命じた。
 大川竣は、カーリング大佐にジェイの介護の責任を自分に一任して欲しいと願い出た。 
大佐は、戦場の状況を聞いてその願いを受け入れた。
 竣は、ジェイを日本に連れて行った。
「痛みはありませんか?」
 眠るジェイに、竣は囁いた。答えるはずもないジェイに峻は優しく問いかける。
最初の頃、ジェイはよく痛がっていた。
 生理的な涙が、彼の目からポロポロ落ちるのを見た時、なんで自分を庇ったりしたんだと、
竣は思わずジェイを責めそうになった。
 こんな彼の姿を見るのは、辛い。
彼の気持ちを考えることなく自分の感情を優先させて、竣は苛立ちを押さえるのに何度となく苦労した。
 けれど、回復していくジェイを見ながら、自分勝手なことを考えていた己を竣は恥じた。 
痛みを代わってあげたいと、素直に言ったらジェイは烈火の如く怒ったからだった。
「痛くなんかないっっ」
 まったく昔から、意地っぱりと言うか、頑固と言うか。
以来、竣は余計なことを言わないように、言葉少なくジェイの世話をするようになったのだった。
 起こさないように、ジェイを抱き上げるとソファからベッドへ移した。
 作った料理にラップをかけていると、電話が鳴った。
「もしもし、南さん?ええ、ジェイは寝てしまいました」
 窓の外では、強い風に桜がさらわれていた。


 カーリング大佐は、自分の部屋をウロウロ歩きまわる熊のような大男に、神経を逆撫でされていた。
「いつまで、私の部屋をウロウロする気だ。ウオーレン大尉!」
 バアンッと執務机を叩いて、たまりかねた大佐は叫んだ。
「先程から申し上げているように、ジェイ・ワイルス大尉の行方をお聞きするまでは、離れません」
 ビシッと敬礼して、ハリー・ウオーレン大尉は大佐に向かい合った。
「だから、療養中だと言っておるだろう」
 こめかみに指を当てて、大佐は呻いた。
「療養先をお聞きしたいのです。彼は私の同期ですよ。親友なんです。見舞いに行きたいのに、
出来ないのが悔しいのです」
 恨みがましい目で自分を見る部下に、大佐は深い溜め息をついた。
「君は、今極秘任務で眠る暇もない筈だろう。その君に彼の療養先を教えたら、一も二もなく任務を放り出して
飛んでいくだろう」
 大佐が心配しているのはその点なのだ。
「まさか!私とて、そこまで無責任ではありません」
 心外だとばかりに、大声で反論するハリーを冷やかな目で見て、大佐は言った。
「では、日本に電報でも打つんだな」
 ハリーは目を見開いた。
「ジーザス!やっぱりあの中尉が、連れていったんだな。シュンめ。俺の可愛いハニーを」 
プルプルと拳を震わせて、
ハリーは喚いた。
「気色悪いこと言うな」
 めげないハリーは、大佐の言葉を無視した。
「何ゆえ、あの怪我の彼を日本に送ったりなんかしたのです。この国にも幾らでも優秀な医者はいますでしょう」
 大佐は頭を抱えた。
「軍の上層部からの推薦があったのだ」
 ムッとして、ハリーは聞いた。
「オオカワは何者です。一介の中尉が、貴方に圧力をかけられるのですか?」
 ズイッとハリーが、身を乗り出した。
「オ、オオカワではない。彼の知り合いが、大物なんだ。その方がオオカワを通して、ジェイを預かりたいと言ってきたのだ」
 間近に迫る熊のような容貌の男に、大佐は思い切りたじろいだ。
「・・・わかりました」
 ハリーは大佐の机から離れた。
「ならば、電報の一本でも打って、おとなしく任務に戻れ」
 ホッとして、大佐は机の受話器を上げた。
「明日から、長期休暇を取って日本に電報を打ちに参ります」
 ガアンと、大佐は受話器を落とした。
「ハ、ハリー大尉」
 ハリー・ウオーレン大尉はピッと敬礼した。
「私の部下は優秀なのが揃っております。私が休んだところで、なんの支障もありません」 
それは、要するに自分が役立たずだと公言しているようなものなのだが、
ハリーはまったくそんなことは意に介してないようだった。 
こうなると、さっきまで部屋でウロウロしていたこの熊は、行動が素早い。
「では、二週間後にお会い致します」
 シュタッとそれだけは見事に敬礼を決めると、ハリーは大佐の部屋を飛び出した。 
呆然とする大佐の部屋を飛び出て、ハリーは軍のコンピュータールームに向かった。
 シュン・オオカワの背後にいる大物とやらを洗い出して、住所を調べる。
 そんなことは、きっかけさえ掴めれば朝飯前の簡単なことだった。


 真夜中に、ふと眠りから目を覚ましたジェイはベットから起き上がった。
 苦労してベットを降りると、窓を開けた。
恐ろしいくらいの花弁が、庭の外灯に照らされて流れていくのが見えた。
「サクラ・・・か」
 まるで雪のようなその花弁に手を伸ばして、ジェイは一歩踏み出した。
 ズキッと痛みが走る左足に、顔を顰めた。
「ちくしょう。いつまで痛みやがる」
 医師は、命があっただけでもマシと思えとのたまったが、この状況がマシとは思えない。 
軍人としての自分の生命は終わったと思うこの今、目の前に広がるこの夜の色のように、自分の未来は暗い。
 幼い頃から軍人になる為の訓練を受けて、当たり前のように軍人になった。
 人を殺し、傷つけることだけに長けたこの体が、今更平和な生活に順応出来るのかが怖い。
 もしも、戦場に倒れることなく命を終えることが出来るのなら、それは故郷にしたい。 
あの、耐えることなく降り続く雪の故郷。
「婆さん、元気かな」
 いつでも帰っておいでと、言っていた。平和な時が、苦しくて辛くて、飛び出てきた小さな木の家。
あそこなら、今まで自分がしてきたことを悔いながら、暮らすことを許してくれる気がした。
 神がすぐ側にいるような、故郷。
「ここにいるのは、苦しいよ。助けてくれよ。婆さん・・・。俺を迎えに来てくれ」
 もう一歩踏み出そうとした時、不意に肩を掴まれた。
「うぎゃああっっ!」
 びっくりしてジェイは振り返った。
「・・・なんちゅー声出してるんです」
 竣が立っていた。
「お、俺の後ろに立つなといつも言っていただろう」
「それは貴方が銃を持っていた時のことです」
 竣の腕が、ジェイを抱き寄せた。
「幾らこの季節でも、夜は寒いですよ。また傷が痛むから、外へは出ないように」
 ピシャンと竣は片手で窓を閉めた。
「・・・おまえね、軽々と俺を引き寄せないでくれないか。俺は女じゃない」
 いくら病人とて、戦場では互角に戦っていたのだ。これでは男のプライドが傷つけられる。
まるで女子供を扱うように、竣は自分を自由にする。部下だというのに・・・。
「体重減ったでしょ。軽いですよ」
 ぬけぬけと言って、竣はジェイの手を引いた。
「手なんか、いらない。俺はちゃんと歩ける。バカみたいに甘やかすな」
 プイとジェイは、差し伸べられた竣の手をはたいた。
「俺の手がイヤなら、杖持ってきます」
「いらない。杖もおまえの手も、いらない」
 ムキになって叫んで、ジェイはカーテンを掴んだ。
「もう外へは出ないから、おまえはさっさと部屋へ戻れ」
 竣は、ジッとジェイを見つめた。
「な、なんだよ」
 この男の黒い瞳は苦手だ。まともに見つめられると、いつもいたたまれなくなる。
「イライラするなら、酒でも持ってきます」
 竣の言葉に、ジェイはパッと目を輝かせた。
「いいのか?」
 嬉しそうなジェイに、竣は苦笑した。
「少しなら。飲みすぎは体に毒ですけどね」
 ジェイは何度もうなづいた。
「わかってるって。ここに来て、はじめて気のきいたこと言ったな、おまえ」
 よほど嬉しいらしいのか、ジェイはその白い頬を紅潮させていた。
「待っていて下さい」
 長身を翻して竣が自室へ消えると、ジェイは床に這いつくばって応接セットのソファに辿り着いた。
匍匐前進。我ながら情けない・・・とジェイは思う。
「フウ、やれやれ」
 軽く汗をかいた額を拭って、ジェイはソファでおとなしく竣を待った。
 餌を待つ犬みたいだなと思いながら。
 しばらくして竣はボトルとグラス2個を持って現れた。
「南さんからのプレゼントです。いつかジェイと飲んでくれとくれたんです」
「気が利くな。おまえの恋人は」
 二人はグラスを合わせ、乾杯をして、飲み始めた。
「ミナミには感謝している。こんなでかい屋敷で、何不自由なく療養させてもらって」
 竣は、目の前にかざしたグラスの中の琥珀色の液体を、無言で見つめていた。
「おまえの恋人はパーフェクトだな。強くて、優しくて、美人で、金持ちだ。羨ましいよ」
 ずっと前、同期の結婚パーティで、竣が本城南を恋人として連れてきたことがあった。
 軍では、同性愛は黙認されている。他国からしてみせば、信じられないことだろう。
 その場にいたゲイではない男どもも、南のあまりの美貌に度肝を抜かれたようだった。
 黄色人種とは思えないような真珠のような白い肌に、濡れたような黒い瞳。
 ジェイも、我を忘れて南に見入ってしまったのだった。
 部下である大川竣も、切れ長の綺麗な黒い瞳をしていたが、本城南の瞳は本質的になにか誘うような
色っぽい艶のある瞳だった。
 竣がゲイなのを、その日まで知らなかった。
「どんなふうに、アイツがあんたを抱くのか俺には想像も出来ない」
 不躾にも初対面の南に、ジェイはからかうように言ったが、南は臆することはなかった。
「それは、それは情熱的に。幸せですよ」
 返ってきた言葉に、逆にジェイが顔を赤くしてしまった。
 冷静沈着。無駄口は叩かない。礼儀正しい。大川竣はそういった人間だった。
 今までジェイの部下にはいなかった型だ。

 峻がジェイの部下として配属される直前に、峻についての噂はジェイの耳に届いていた。 
日本出身のサムライボーイとして、彼は常に注目の的だったからだ。
『苦労するぞ。感情を表に出さないタイプなんて、可愛くもなんともねえ』
 同期のハリーは、竣がジェイの隊に配属されたのを聞くと、同情を寄せてきた。
『典型的な軍人向きタイプじゃないか。俺達は、少し血がたぎりすぎてる』
 するとハリーはケラケラと笑った。
『古典的なタイプだといってるんだ。半世紀前なら優秀だったんだろうが』
 配属されてきた竣を一目見て、ジェイはハリーの心配が無用のものだと感じた。
 この男は使える。それがジェイの直感に響いてきた大川竣の第一印象だった。
 一糸も乱れぬ軍服姿に、意志の強そうな澄んだ瞳。
 特に、一途な性格の者が持つ、ある種の光を宿した瞳がすばらしくキレイで、ジェイは感動すら覚えたくらいだった。
 その後は、人目を気にせずにジェイは竣を可愛がった。
 反応が早くて、見かけ程冷たくもなく、適度にウイットに富んでいる後輩を、ジェイは愛した。
「ジェイ、どうかしたんですか?」
 肩を揺すられて、ジェイはハッとした。回想から、現実に戻る。
「あ、ゴメン。なんか急に、おまえと会った頃のこと思い出していた」
 ジェイはそっと、グラスを掌で包んだ。
「俺も長くないのかな。昔を思い出すなんて」
 竣は、グラスの酒を飲んでから呟いた。
「俺も貴方と会った頃のこと思い出してました。貴方を背負ってあの密林を歩いている時」
 竣はフッと遠いところに視線を投げた。
「ずっと聞きたかったんです。何故貴方が、あの時、俺を庇ったのかを」
 戻ってきた竣の視線が、ジェイを捕えた。
「さあな。一瞬のことだったから」
 答えたくないのか、ジェイは視線を反らした。その横顔を竣は追いかけた。
「なんだかまるでスローモーションのように覚えてるんですよ。音は聞こえないけど、
貴方が必死の形相で俺に向かって走ってきたことを。あんな真剣な顔、普段見たことなかったから」
 ジェイはチッと舌打ちした。
「どうせ俺はいつもヘラヘラしてるよ」
 竣はクスッと笑った。
「オイ、否定しろよ。ったく・・・」
 竣の横にあるボトルをジェイはひったくる。
「上官というのはすごい責任ですね。俺なら、出来るだろうか。自分の部下の為に体を張ることが・・・」
 チラッと竣はボトルが移動したのを横目で見ていた。
「おまえなら出来るだろ。南の為なら、命簡単に投げ出すだろうに」
 言いながらジェイは、空になったグラスに酒を注ごうと、ボトルを傾けた。
「愛する人の為なら、出来ます」
 バッと竣の手が伸びて、ジェイのグラスを覆った。
「!」
 液体は、竣の手の甲を流れ落ちた。
「バカ、おまえっ」
 怯んだジェイの手から、もう片方の手で竣はボトルを奪った。
「飲みすぎはいけません」
「ま、まだ2杯目じゃないか」
 竣は首を振った。
「もう駄目です」
 キュッと竣はボトルに封をしてしまった。
「ケチ」
 イーッと舌を出して、ジェイは拗ねた。
「子供みたいに拗ねてるんじゃないですよ」
 手の甲を舐めながら、竣が言った。その仕草が妙に色っぽい。
「おまえの手、舐めてやろうか。酒の味がするから」
 嫌がる竣を想像して、ジェイは笑った。
「いいですよ。それなら、許してあげます」
 スッと竣は手を差し出した。
「マ、マジにとるなよ。バーカ」
 バシッとジェイはその手を思い切り引っぱたいた。まさか、竣が乗ってくるとは思わなかった。
「酒がないなら、俺もう寝る」
 ジェイは危なっかしくソファから腰を浮かせた。
「手伝いましょうか」
 竣の申し出に、ジェイは首を強く振った。
「いらん」
 背中に竣の視線を感じたが、ジェイは気づかないふりをして、ベットまでなんとか歩いた。
こんな惨めな姿は、本来なら誰にも見られたくないのだ。
「おまえも飲んだら、さっさと出てけよ」
 毛布に潜り込むと、ジェイは怒鳴った。
「わかってますよ」
 竣は言うやいなや、立ち上がった。
「おやすみなさい」
 低く言って、静かにドアを閉めた。


 コンピュータールームでは、熊が吠えていた。室長のイリヤの視線は既に冷やかだった。
「俺の2日の努力はなんだったんだ」
 頭を掻きむしり、熊は嘆いていた。
「だから言ったじゃないの。ダブルロックがかかっているから無駄だって・・・」
 何度クリックしても、画面は動かない。
「軍の重要機密扱いだわ」
 イリヤは、可哀想なハリーの耳元に囁いた。
「どういう関係者なんだよ。どうせ後ろめたい関係者なんだろ。こんなに厳重に封印されているってことは」
 バンバンと、ハリーはキーボードを叩く。
「援助者よ。きっと。財界関係者だわ。日本政府を飛び越して、金が流れているからだわ」
 イリヤは、慌ててキーボードをハリーの前から取り上げた。
「壊さないでよ。これ、高いんだから」
 ハリーの椅子を蹴飛ばして、イリヤは文句をたれた。
「チックショー。どこ行ったんだ!俺のベイビーはっ。ジェイ〜」
 ウオッ、ウオッとハリーは吠えて、机に伏せった。
「やあね。まだ諦めてなかったの」
 イリヤはハリーの前の椅子に腰掛けて、足を組んだ。
「私のスカートの中が気になるくらいなのに、貴方はやっぱりゲイなのかしら」
 短いイリヤの制服のスカートは、足を組むと目のやり場に困るのだ。
「ジェイは特別だ。ジェイ以外の男なんて、下らない。大っ嫌いだ。でもアイツは特別なんだよ」
 ヨシヨシとイリヤはハリーの頭を撫でた。
「ジェイは素敵だわ。あの美貌で、あの強さ。私も憧れているのよ、実は」
 イリヤは自分の金色の巻毛をクルクルと指でいじった。
「でも、彼は特別な人を作らない。もっぱら興味がありそうなのは、黒い瞳のハンサムなサムライボーイだもんね」
 ハリーは机から顔を上げた。
「シュンは恋人がいるんだぞ。なのに、ジェイを独占するなんて許し難い」
 おまけに、今この時点でも独占している。ハリーは腸が煮えくりかえる思いだった。
「すごいキレイな恋人らしいわね」
「ああ。この俺も、少しクラッときたな。あれは東洋人の綺麗さの中でもピカイチだ」
 腹だたしいことこの上ないというような、憮然としたハリーの顔を見て、イリヤはクスクスと笑った。
「私も協力してあげたいんだけど、このロックのされようじゃ、時間はかかるし保証は出来ない。困ったわね・・・」
 ハリーはまた机に顔を伏せた。
「ウアーン。俺の休暇はあと12日しかないんだぞ。どうすりゃ、いいんだ」
 オイオイと嘆くハリーの扱いに、イリヤが困った顔をしていると、内線が鳴った。
「はい、ああ。ええ、代わるわ」
 コン、と受話器でハリーの頭を叩く。
「ハリー、外線が入ってるわよ」
「なんだよ、俺は忙しいのに」
 渋々、ハリーはイリヤから受話器を受けた。
「ハロー。え、誰から?なにっっ。ジェイからだと?代われ、早く代われっっ」
 いきなり、椅子を蹴り倒すかのような勢いで、ハリーは立ち上がった。
 イリヤも受話器に耳を近づけた。
「おお、ジェイか。こら、無事か。ああ、どんなにおまえの声が聞きたかったか」
 感激にむせぶハリーに、イリヤは受話器の近くで、笑いをこらえるのに苦労した。
受話器を持つハリーの手が震えているのに気づいて、とうとうイリヤは声を出して笑い始めてしまったのだった。


 雌のゴールデンレトリバー犬のラインが尻尾を振って、ジェイにまとわりついてくる。
 テラスは、天井から差し込んでくる光が肌を焼くのではないかと思うくらい暑かった。 
そんな中、ラインがまとわりついてくるのである。ジェイは汗ばみながら、ラインの体を撫でた。
「さっきから、アイツなにしてるんだ?」
 大きな窓から、庭にいる竣が見えた。ジェイは首を傾げた。
さっきから、峻はピクリとも動かないで同じ場所に立っている。
 この家の使用人の、天野直也は窓を振り返り、ジェイの疑問を解いた。
「あそこには鯉がいるんですよ。南様は鯉が好きで、たくさんいるんです。竣さんは餌をやっているんですよ、きっと」
 直也は、ラインの尻尾を手で掴もうとしていた。
「鯉?うげっ・・・」
 途端にジェイがイヤな顔をした。その顔をラインの舌がペロリと舐めた。
「どうかしました?」
 直也はきょとんとしていた。
「俺さ、昔戦場で仲間が、ピラニアにやられるのを見てから、魚類駄目なんだよ」
「・・・」
 一般人の直也は、頭の中でジェイの言ったことを想像して、顔を青くした。
「ハハハ、今想像しただろ。ナオヤには縁のないことだもんなあ。日本には徴兵制度なんてないんだろ」
 コクコクと、直也はうなづいた。
「今、大学生だろ。うんと勉強しておけよ」
 ポンとジェイは直也の頭を叩いた。
「はい。そーします」
 言いながら直也は、ラインが必要以上にジェイの体にまとわりついているので、それを引き剥がしにかかる。
 ヒョイと大型犬のラインを直也が引き剥がすのを見て、ジェイは苦笑する。
「情けないよな。今の俺は」
 ラインを抱きながら、直也はエッ?とジェイの横顔を見つめた。
「犬すら満足に抱いてやることが出来ないなんてさ。現役の頃は、そんな犬片手で、ヒョイってなもんだぜ。
いや、4匹ぐらいは持てたな。軽くねっ」
 ジェイは悪戯っぽくウィンクをして見せた。
「当たり前でしょう。今の貴方は、足も腕も、不自由なんだから。でも治れば、問題ないでしょ」
 なっ、とラインに同意を求めて直也は言う。
「治ればな・・・。俺、治るかな?医者のタマゴさん。どう?」
 突然、真面目に聞かれて直也はたじろいだ。
「・・・わかりませんよ。しょせんタマゴなんですし。意地悪だな」
 たじろぐ直也を見て、ジェイは肩を竦めた。
「治るって、気休めでも言えよ。正直者」
 頭をこづかれて、直也は自分の嘘をつけぬ性格を恨めしく思った。
「ジェイ、大丈夫だよ」
 今更とは思うが、言わぬよりはいいと思った。直也がそう言うと、ジェイは満面の笑顔で微笑んだ。
「そうだな。ありがとう」
 ジェイって笑うと目が垂れる。
直也は、その見事な笑顔を見て、顔を赤くしている自分に気づかないで、ふとそんなことを考えていたのだった。
「直也、手伝ってくれ。あの考える人に、話があるから」
 そう言って、ジェイは窓の外の竣を指差した。直也はケラッと笑った。
「さっきから、そういえば微動だにしませんね。何考えてるんだろ」
 ラインを放り出して、直也はジェイの体を支えた。
「アイツがあんなふうにボーッとしている時は、たいていミナミのことでも考えてるんだよ。あの時だって・・・」
 言いかけて、ジェイは途中で止めた。
「あの時?」
 ジェイが途中で止めてしまった言葉が気になって直也は聞き返した。
「いや。普段はビシッとしている奴だろ。あんなふうに無防備なのもカワイイな」
 フッフッフッとジェイが笑う。
「南さんが言ってたけど、竣さんがジェイのオモチャだってこと本当みたいだ」
 直也のイメージの竣は、いつも背を正している姿だった。
真面目で、決して乱れない。 冷静沈着。誰もが持つ、大川竣のイメージと大差はなかった。
 彼の持つシャープな外見のせいも多分にあるのだろうが、接してみてもそのイメージは変わらない。
直也が知っている竣は、恋人である南に対してもそうだった。
 不自然なくらいの丁寧な言葉使い。恋人同志というよりは、主従の関係のようだった。
 だが蓋を開けてみれば、れっきとした主従の関係であるジェイとの方が、竣は自由に振るまっているような感じだった。
 一体、竣の本当の姿はどちらだ?
「ジェイ、ほら捕まって」
 僅かにジェイが体を離したような気がして、直也は考えごとを中断した。
「重いだろうと思って」
 テヘヘと笑うジェイ。
「バカにしないで下さいよ。俺身長は177はあるんですからね。貴方と同じくらいなんだから。力もあります」
 そう言う直也に、ジェイはムッとした。
「フン。俺は178だ。ガキのくせに、生意気だな」
 身長を気にしているんだろうか。直也はグンと胸を張った。
「まだまだ伸びますよ。そのうち、竣さんも追い越しますよ」
 ジェイはチッと舌打ちして、なにごとか言ったのだが、ひどいスラングで直也は理解出来なかった。
 竣はまだ、先程から同じ姿勢で動く気配がない。
「立ったまま、死んでいるじゃねえのか」
 ジェイは顔を顰めて言った。
「よっぽど、なにか深刻に考えてるんでしょうね。大丈夫かな」
 だいぶ風が出てきた。
よろめくジェイの体を支えながら、直也はもう少しの距離にある竣の背中を見つめた。
「サクラ、綺麗だな」
 ジェイはポツリと呟く。
「ですね」
 空中に舞う桜を見て、直也はうなづいた。
「なあ、ナオヤ。アイツ、脅かしてやろーか」
 クククとジェイは笑いながら言った。
「やだなあ。止めた方がいいっすよ。池に落ちてしまいますってば」
 するとジェイは、自由になる右手で、チッチッと指を振った。
「背後の敵の気配。軍人なら気づくぞ」
 こりゃ、確かにオモチャだよと直也は空を仰いだ。
 もう竣の背中は目の前だ。
「ナオヤ、手を離していいぞ」
 小声でジェイが言うので、直也は仕方なく支えの手を離した。
しかし、ここまで来て、竣は振り向く気配すらないのだ。
「はーっ」
 溜め息をついて、直也はなにげなく視線を屋敷に移した。
「!」
 窓を開け放してきたので、ラインが庭に出てきていた。それも全力疾走で、ジェイに向かって走ってきている。
 彼女は、ジェイがこの屋敷に来た時から、飼い主の南を放っぽり投げて、ジェイになつきまくっていた。
 犬の癖して、金髪碧眼に弱いんだと、南は悔しがっていたが、こればっかりは仕方ない。
「ライン、こっち来いっ」
 直也が大声で叫んだ。だが彼女は脇目もふらずに、ジェイに向かって走っていた。
 直也の声に、竣は振り返った。
「あ、残念。気づいたか」
 間一髪で振り返った竣に、ジェイは寄りかかった。
「ジェイ、後ろ」
「へっ?」
 言われて、ジェイは振り返った。
その瞬間、ワンッと一際大きく吠えて、ラインがジェイの体に飛びついた。
 ただでさえ大きな犬だ。ジェイは目を丸くした。
「う、嘘だろ」
 不自由な手では、ラインを支えきれず、ジェイはその重みに耐え切れなかった。
「ジェイ、竣さん!」
 反応が鈍い直也が走り出したのは、ジェイが竣を巻き添えにして、ラインと共に池に落ちた後のことだった。
 ものすごい水しぶきが上がる。
「ひえええっ」
 池の脇に駆けつけた直也も、水びたしになった。ただでさえ大きな人間二人と、一匹が落ちたのだ。
「大丈夫ですか」
 直也が池に入る。池は浅いから、溺れる心配は全くないのたが、ジェイの体はなにせ自由が利かないのだ。
「怖いっ!助けてくれっっ」
 上半身を起こして、池の中で呆然としている竣の首に、ジェイが縋りついていた。
「た、助けてくれっっ」
 あまりの怖がりように、竣はびっくりした。
どんな暗い闇も、どんな銃弾の雨も、ものともせずに、走り抜けた男だというのに、この取り乱し方はなんなんだと竣は思った。
「大丈夫ですよ。それより、体は・・・」
 言いかけた竣は、自分の首に巻き付くジェイの腕の力に、むせ返った。
「く、苦しい。ジェイ、手を・・・」
 巻き付く腕を緩めようと竣はもがいたが、その力は強くて、ピクリともしない。
「ゴホッ」
 竣はむせた。
「ジェイ、大丈夫ですよ。ほら、俺に捕まって。ここにピラニアはいない」
 差し伸べられた直也の手に、ジェイは竣の首から手を離すと、縋り付いた。
「イヤだ、イヤだ」
 震えるジェイの、水浸しの体を直也は抱き上げた。
「わっ、重い。ああ、大丈夫ですよ。落とさないから。ほら、安心して下さいってば」
 僅かにヨロヨロしながら、直也はジェイを岸に連れて行った。
柔らかな芝の上に、そっと降ろしてやる。
「ジェイ、大丈夫だよ」
 直也がジェイの耳元に囁くと、ジェイはポロッと涙を零した。
「竣さん、どうしよう・・・」
 自分より9つも年上の男に泣かれて、直也は困ったように竣に助けを求めた。
 竣は、ラインを片手に池から上がってきた。
「ジェイ」
 ラインはさっそくジェイの頬を舐めにかかる。竣はジェイの横に片膝をついて、その顔を覗き込んだ。
 ラインを押し退けて、竣はジェイの濡れた額にキスをした。
「ジェイ」
 キュウンと鳴いて、ラインはおとなしくジェイの足下にうずくまった。
 直也は目の前で展開されたラブシーンまがいの出来事に顔を反らした。
 ああいう慰め方は普通しないぜ・・・と、心の中で何故か自分が焦りながら直也は思った。
 さすがインターナショナルだぜと思っている間もなく・・・。
 どでかい張り手の音が響いた。
「このニブチンっ!療養先だからと言って気を抜いてるんじゃねえよっっ」
 自由な右手で、ジェイは竣を殴っていた。
「このドジ!ボケ!カス!」
 竣は、叩かれた頬に手を当てていたが、クスッと笑っていた。
「貴方の言う通りです」
 クスクス笑いながら、竣はジェイを抱き上げた。
「痛くありませんか」
 心配気に聞く竣から顔を反らして、ジェイは大声で怒鳴った。
「痛くなんかねえよっっ」
 直也と違って、ジェイを抱き上げて歩いていく竣の姿は、少しも危なげなかった。
 慌てて、直也とラインは二人の後を追いかけた。
「ジェイ、大丈夫?」
 ジェイの隣に並んだ直也が、聞いてくる。
「・・・ああ」
 ご機嫌悪く、ジェイはぶっきらぼうに答えた。まだ涙が残っている翠の瞳だった。
「サンキュ、ナオヤ」
 伸ばしたジェイの指が、直也の肩に触れた。
「良かったよ。怪我なんかなくて」
 直也は照れたような笑みを浮かべた。
「おまえも、サンキュ」
 ジェイが視線を竣に移して言うと、竣は無言でうなづいた。
足下でラインがワンワンと吠えた。
「おまえはダメ。おまえのせいで俺は、こんな水浸しになったんだぞ」
 イッとジェイが、ラインに向けて舌を出した。
すると、ラインはキュウウンと気弱な声を出した。
「言葉わかってんじゃねーの、この犬」
 直也が少し気味悪いように呟いた。ジェイはケラケラと笑った。
「嘘だよ。後でドライヤーかけてやるよ」
 ラインは、ブンブンと尻尾を振った。
「うう・・・、気味悪い。やっぱり、コイツわかってるよ」
 直也は、チョコチョコと自分達の後をついてくるゴールデンレトリバーのラインを、
不気味なものでも見るような目で眺めた。
「相変わらず、女性にはよくモテますね」
 竣が言うと、ジェイは口を尖らせた。
「本当だよ。今頃、海岸で女でもナンパしてる筈だったのにさ」
 ジェイは右手で、竣の肩を叩いた。
「こんな、野郎共に交代で抱っこしてもらってるようじゃ俺様の未来も暗いよな」
 チエッとジェイは舌打ちする。がっかりした横顔は子供のようだと直也は、思った。
「じゃあ、早く治してもらわないと」
 竣の言葉に、ジェイはうなづいた。
「治すぞ。俺はっっ。絶対に治すからな」
 自分に言い聞かすように、ジェイは吠えた。


 コンピュータールームで居眠りをしているハリーを見つけて、イリヤは彼を叩き起こした。
ハリーはよだれを拭って、眠りを邪魔されたことを怒った。
「何言ってるのよ。この前の電話で、この件には、日本財閥の中でも有数のホンジョウが絡んできてるとわかったんでしょ」
 イリヤは髪を掻き上げて、消沈するハリーを励ました。
「せっかく、ジェイが電話をくれたのに」
 ハリーはしょんぼりとして、マウスをいじっていた。
「だから、ホンジョウが絡んでいたら、この機械はぜったいに喋らないわよ。ダブルロックも、相手がホンジョウなら
わかるってなもんよ。何度言ったらわかるの。アクセスしても無駄だってこと!諦め悪いと嫌われるわよ」
 イリヤは抱えていた書類を持ち直して、ゴホンと咳払いをした。
「それよりいい情報があるのよ」
 コソリとハリーの耳に囁いた。
「なんだ?なにか掴めたかっっ」
 イリヤにキスでもするかのように、ハリーはその顔を彼女に近づけた。
「あ、あまり、近づかないでよ。キスするなら別だけど」
 ハリーはチュッとイリヤに口づけた。
「サービス兼情報料だ」
 イリヤはペロリと舌で唇を拭った。
「いまいち、嬉しくはないんだけど」
 仕方ねえなと呟いて、イリヤはハリーにその情報を囁いた。
「黒い瞳のハンサムボーイが、帰国したわ。療養が解けたのか、報告の義務かなんか知らないけれど、
午後には事務所に来るらしいわ」 
カッとハリーは目を見開いた。
「シュンが、戻ってくるのか?」
 ウッフッフッとイリヤは微笑んだ。
「こんな役立たずのコンピューターの情報より、直接彼に聞くことね」
 よっしゃあと、ハリーはガッツポーズをして喜んだ。
「もらったぜっ。この前のジェイの電話では、漢字だらけで住所がわかんねえなんてボヤいていたけど、
本人に聞けるなら問題ねえぜ」 
ウヒョウヒョと無邪気に喜ぶハリーに、イリヤは言おうか、言うまいかと迷っていた。 
だがあまりに無邪気に喜んでいる男を見ると、苛めたくなる性分を押さえきれずに迷いをふっきった。
「良かったわね、ハリー。休暇があと2日も残っていて。オホホホホ」
 笑いながら、去っていくイリヤの後ろ姿をハッと振り返り、ハリーはヘナヘナと床に膝をついた。
「うそ・・・。もう2日しかねえの?」


 竣は、ジェイを南と直也に任せて、カーリング大佐の命により一時帰国をした。
 勿論、報告の義務の為だった。
「で、ワイルス大尉の具合はどうかね」
 難しい顔で、カーリングは聞いてきた。
「・・・極めて、厳しい状況です。日常生活に不自由しない程度には復活出来ても、軍への復帰は」
 言い淀む竣に、大佐は手でそれを制した。
「わかっている。あの傷で、彼の復帰を望める筈はない。軍が多大な損失を受けるとはわかっていても・・・」
 大佐は額を掌で覆った。
「大佐、お聞きしたいことがあります。どうして我々が767作戦に狩り出されたのでしょうか。
あの日以来どうしても疑問でならないのです。常に行動を共にしていたウォーレン大尉の部隊が
070に出動したのに」
 大佐は首を振った。
「上層部からの命令だ。君らの部隊なら、うまくさばいてくれると思ったらしい」
 ピクリと竣は眉を寄せた。
「あの作戦には、大佐も賛同されてなかった」 
苦しそうに大佐は呻いた。
「だが、私とて・・・上の命令には逆らえん」 
竣はハッとして、頭を下げた。
「出すぎたことを。申し訳ありません」
 大佐は、静かに竣を見つめた。
「君自身の怪我はどうかね」
 竣は背を正した。
「私なら、もう大丈夫です。任務には復活できます。ご命令を」
 すると大佐は竣の肩を叩いた。
「ワイルス大尉はどうするつもりだ。彼は、ウォーレン大尉に、帰国の意志を漏らしたそうだ。
治るみこみもないし、君も任務に復帰するなら、日本から戻したらどうだ」
 膝の上で揃えた竣の手がピクリと震えた。
「彼は・・・自分の故郷に戻りたいと言っていました。あの雪深い地は、傷を治すには決して良い所だとは思えません」
「私には、ホンジョウの屋敷とて彼にとって傷を治す良い地だとは思えん」
 弾かれたように、竣は大佐を見上げた。
「・・・」
「君が任務に復帰するなら、尚更だ。ウォーレン大尉が面倒を見たいと言っている。任せたらどうかね」
 竣はピシリとそれを拒否した。
「イヤです。大尉とて任務に追われる日々です。どうやってジェイの、失礼、ワイスル大尉の面倒を見ると言うのですか」
 ちょっと苦笑して大佐は言った。
「彼の生家は、大変にリッチだ。ホンジョウ程ではないが、良い使用人もたくさんおるだろう。心配はないと思うが」
 尚も言い募る大佐に、竣は首を振った。
「イヤです。彼の怪我は私のせいです。私が責任をもって面倒を見たいのです」
「彼は、君の物じゃない。病人だからといって、彼の意志は尊重されないのか?君らしくもない、傲慢な主張だと思うが」
 大佐の指摘に、竣は愕然とした。
「私とてこんなことは言いたくない。だが、今私が言ったことの中には、君らの部隊がなぜあの作戦に組み込まれたかを
答えた部分もある。賢明な君なら、わかるだろう」
 背を向けた大佐に、竣は唇を噛み締めた。
「まさか。本当に、そんなことが理由で」
 大佐は窓の外をジッと見たままだった。
「だとしたら、責任は私にあります」
「ワイルスが君を庇ったのは、彼なりの理由があったからだ。君に命じられた訳じゃない」 
語気荒く大佐は、竣を振り返った。
「だから、責任などという言葉で彼を縛るのはやめないか。彼を自由にしろ。命令だ」
「大佐・・・」
 大佐は、机の中から葉巻を取り出した。
「ワイルスは私の部下の中で、一番古い部下だ。どんな無茶な作戦に出しても、帰ってきた。必ずだ。
767になんて送りたくなかった。今度こそ、ヤツは帰ってこないと思ったからだ。君に、わかるか?私の気持ちがっ」
 太い煙が執務室の空気に溶けた。
「死なせた部下達を彼に重ねていた。彼さえ帰ってくれば、自分の罪を少しは言い訳に出来た。
だが今度のことは、さすがに堪えた。ワイルスは私の罪の緩和剤ではないのだ。もう彼を傷つけたくないのだ。
復帰出来ない傷ならば、彼の望みを叶えてやりたいのだ」
 葉巻を手にした大佐の手が震えているのを見て、竣はうつむいた。
「私も君も、彼に甘えすぎていたのだよ」
 執務室にはただ、紫煙が流れていく。
「君に復帰を命じる。そして、ジェイ・ワイルス大尉の自由を命じる。彼の心のままに、生きることを助けてやってくれ。
オオカワ中尉。頼む」
 竣は立ち上がって、敬礼した。
「畏まりました。なにごとも大佐のご命令に従います。私の復帰命令は、いつからでしょうか。お教え下さい」
「来週の月曜日からだ。詳しいことはまた」
 葉巻を灰皿に押しつけて、大佐は敬礼した。
「では下がってよろしい」
「はい」
 きびきびした態度で、竣は執務室のノブに手をかけた。
ドアを開きかけた時、大佐が竣を呼び止めた。
「ああ、中尉。廊下には、熊がいる。穏便に済ますように」
 その意味を的確に理解した竣は、うなづいてから、静かにドアを閉めた。
「よお、オオカワ中尉。療養中だと聞いたけど、具合はいかがかね」
 ハリーは、部屋から出てきた峻の腕を強引に掴んだ。
 壁ぎわに竣を追いつめて、ハリーは両手をバアンッと壁についた。
「お久しぶりです。ウォーレン大尉」
 壁とハリーに挟まれて、竣は自分よりは5センチは高い男を見上げた。
「なにか自分にご用ですか?」
 なにを考えているのかわからない、黒い切れ長の目をハリーは睨みつけた。
「大有りだね、誘拐犯。ジェイを返せ」
 ハリーは竣の胸倉を掴んだ。
「誘拐犯とは心外ですね。私は大佐から、彼の療養にあたる全てを任されたんですよ」
 やんわりとハリーの手を避けると、竣は冷やかに言い放った。
「それじゃなんで、ジェイが俺に航空券の手配なんぞを頼むんだ。ヤツは帰りたがっていたんだぞ」
 ピクリと竣の眉が動く。
「貴方に航空券を?いつです」
 フンッとハリーは鼻を鳴らした。
「いつだっていいだろう。とにかくジェイは俺に助けを求めてきたんだ。これって監禁されているの同様だろーに」
 廊下を行き交う人々は、険悪なムードの壁際を見ないふりして早足に通り過ぎて行く。
「ジェイを返せ!」
 ガシッと、ハリーは竣の両肩を壁に押しつけた。勢いで、竣は壁に頭を打ちつけた。
「っ!」
 思わず竣は呻いた。
「ジェイを戻せ」
 グイグイと、ハリーは竣を壁に追いつめた。
「い、いいかげんにしろ」
 バアンッと竣はハリーの足を蹴り上げた。
「うおっ」
 ハリーの手が竣の肩から外れた。
「貴方に言われなくても、ジェイはこちらに戻ります。返せって、彼は貴方の物じゃない」 
竣は乱れた軍服を整えた。
「お、俺の物でもないが、おまえの物でもないじゃないか」
 迫力ある瞳に見据えられて、僅かにたじろぎながらも、ハリーは言い返した。
「そうだ。あの人は自由だ。だから戻ってくる。戻ってきます!」
 二人が無言で睨みあっていると、通りかかったレイチェ・パウエル少佐が割って入ってきた。彼はニヤニヤしていた。
「なーに、こんな公共の場で大騒ぎしてやがるんだよ。俺の物だ、なんだって。恋人取り合ってるようだぜ」
 ハリーに寄りかかって、レイチェ少佐はその頬をフワッと撫でた。
「気味ワリィことしないで下さい」
 バッとハリーは少佐から離れた。
「それはおまえらだろ。全く。美女の取り合いならまだしも相手はジェイだろ。男取り合ってなにが楽しいんだ」
 少佐の意見に異論があるハリーは、キッパリと反論した。
「お言葉ですが、少佐。大きな声では言えませんが、オオカワはゲイです」
 ハリーの反論に、少佐の目がキラリと光る。
「ホウ。そうか。なるほど。女性達が君を落とせないのはそういう理由か」
 ツツツ・・・と少佐は、人差指で竣の顎を持ち上げた。
「なら、本当に恋人の取り合いなんだな?」
 竣はやんわりと少佐の指を、避けた。
「冗談じゃない。オオカワにはちゃんと恋人がいるんです」
 何故かハリーがえばって言い返す。
「ほうほう」
 少佐は腕を組んでうなづいた。
「では、オオカワの浮気をおまえが責めているのか?自分の恋人寝取られて」
 直接的な言葉に、ハリーはポッと顔を赤くした。赤くなるハリーを冷やかに見つめて、竣は呟いた。
「ジェイはウォーレン大尉の恋人じゃありませんよ」
 自分のことは、ハリーの言うがままに任せていた竣だったが、キッパリと否定した。
「う、うるせえや。そのうちになるんだよ」
 バチッと二人の間に火花が散った。
「はい、ストップ。事情はわかったから、そういう話は外でやりましょー。おまえらの事情はどうであれ、
このまま話を進めていたら、ここにいないジェイに迷惑がかかる」
 レイチェの言葉は絶大だった。
既に通りがかりの人々は彼らの言い争いを見物していたのだ。ハリーと竣は、その事実に気づいて口を閉じた。
「おまえら、ジェイが心配なのはわかるけど興奮しすぎるとあらぬことまで口走るからな。落ち着け。なっ」
 少佐は二人の背中を力任せに叩いた。
「さ、場所を移せ」
 促す少佐に、竣は立ち止まった。
「申し訳ありません。少佐のおっしゃる通り興奮しすぎました。場所を考えずにすみませんでした」
 ペコリと竣は頭を下げた。
「まあ、しょうがないな。大事な人の為なら」
 レイチェはウンウンとうなづく。
「ウォーレン大尉にも、暴力ならびに暴言、申し訳ありませんでした」
 謝られてハリーは、チッと舌打ちした。
「俺も、いきなりすまなかったな」
 ポリポリ頭を掻き、ハリーはボソリと言った。お互い反省しているのだ。
 見物人達が散っていくのを見て、レイチェはフウッと息をついた。
「私はこれから宿舎に戻りますので、これで失礼します」
 二人にもう一度頭を下げると、竣は靴音を響かせて、廊下を去っていった。
 後ろ姿を見送ってから、レイチェはクルリとハリーを振り返った。
「・・・怖かったろ、おまえ」
 クスッとレイチェは笑った。持っている書類で、パンパンとハリーの肩を叩く。
「すっげえ目でしたよ。少佐の言ってたことあながち外れじゃないかもしれない」
 ハリーの目は、廊下の一点を凝視して動かない。
「あん?」
 ハリーが何を言いたいのかわからずに、レイチェは首を捻った。
「アイツ、マジかもしれない。すごい目だった。あんな凄い目、見たことねえよ」
 数多く修羅場を潜り抜けてきたハリーが、寒気を感じたのだ。
自分の中の何かが、警鐘を鳴らしているのに気づいた。
 慌てて、竣の歩き去った廊下をハリーは振り返ったが、そこにはもう彼の姿はなかった。


「はい、買ってきたよ」
 ドサドサッと、直也はジェイの目の前に洋雑誌を積み重ねた。
「世間に取り残される訳にはいかねえんだよ。ありがとうな、ナオヤ」
 ペラペラとジェイはページを捲った。
「英字新聞も買ってきたよ」
 だがジェイは興味を示さなかった。
「そんなの後。俺はさしあたって、これでいいんだよ」
 派手な金髪美女のヌードが表紙だった。
「そんなの部屋に持ち込んでどーするんだよ」
 なんとなくムッとして、直也が叫んだ。
「え?そんなの決まってるだろ。日本の男は、違うのかな」
 キョトンとジェイは直也を見た。
「お、同じだけど。病人の癖に」
「バカだな。アソコは怪我してねえんだぞ。元気なもんだって」
 直也の目の前で、ジェイは雑誌をヒラヒラさせた。
「こうるせーヤツはいないし。今日は、夜更かしするぞ」
 竣が本国に旅立って、3日になる。
「そうだ。ナオヤ、おまえ今夜飯食ってく?」 
雑誌を胸に抱きしめたまま、ジェイは直也を振り返った。
「このまえミナミに教わった料理を試してみたいんだよ。シュンが帰ってきたら、食わせてやりたいからさ」
 魅力的な提案だった。だが・・・。
「俺はお毒見役ってわけかよ」
 ジェイの言い方が気に触って、直也は素直にウンと言えなかった。
「お、カワイイ台詞だな。拗ねてるんだな」
 カッと直也は頬を染めた。
「拗ねてなんかっ」
 言い返す直也に注がれたジェイの目は、何故だかとても優しかった。
「じゃあ、おまえの為のスペシャル料理作ってやるから、食ってけよ」
 とってつけたような言い方だったが、直也にはそれでも嬉しかった。
「約束だ。嬉しいよ、ジェイ」
 ジェイの腕から雑誌を抜き取って、直也は彼の背中を押した。
「ほら、雑誌は部屋に置いておくから、ジェイはキッチンへGO」
 グイグイと背中を押されて、最近料理に目覚めてきていたジェイの鼻息を荒くなった。
「そんなに俺の料理が楽しみか。よっしゃ!」
 直也に押されながら、ジェイはキッチンへと歩いていった。


 成田空港に降り立った竣は、スーツケースを持ち上げた。
 歩き出すと、すぐ横に人が並んだ。
「南様がお待ちです。デッキへ」
 うなづいて、案内されるまま竣は南の待つ所へと歩いていった。
送迎デッキに、南はひっそりと立っていた。辺りには護衛の者もいない。完全に二人きりだった。
 飛行場のランプが遠くに明滅し、轟音が二人の頭上を通り過ぎていく。
「長いフライトの間何考えていた?真実を聞いたんだろう。おまえはずっと疑問に思っていたようだからね」
 答えない竣に、南は溜め息をついた。
「おまえのことはなんでもわかる。わからなくてもいいことまで、わかるから悲しい。気づいていたよ。
おまえの心が、もうとっくに離れていたこと」
 ガシャンと金網が揺れた。南が寄りかかったせいだ。
「いつから?いつからジェイを愛していたの?」
 南の問いに、竣は目を閉じた。
「きっかけは」
「なんだ?」
 南は瞬きをして、聞き返した。
「貴方を彼に初めて紹介した、ニールの結婚パーティで、爆破事件がありました」
「覚えてる」
「あの時です」
 空中に視線をさ迷わせ、南は竣を見つめた。
「確かあの時、彼は怪我をしたっけ」
「ええ。あの時貴方の無事を確かめた次に、私は彼が気になりました。すぐ側で、彼が大丈夫か?と
私に叫んだのを知っていたからです。ですが私は貴方に夢中だった。だから彼の叫びを無視したんです」
 瓦礫と化したガーデンパーティで、誰もが混乱していた。
愛する人の名を呼んだり、無事を確かめたりと、人が動き回っていた。
 すぐ側で自分の名を呼んだ男の姿が見えなくて、竣は探し回った。
「そうだ。おまえは俺を安全な場所に移してから、彼を捜しにいったっけ」
 南はその時のことを思い出していた。
「ええ。捜しに行きました」
 花々が咲き乱れた美しい庭の隅で、彼はうずくまっていた。
 大きなアルフェリアの花弁の陰で、痛みにポロポロと泣いていた。
「名を呼ぶと、彼はびっくりして振り返りました。痛みに泣きながら。その時に、私はたぶんこういう時が来るのでは
ないかと思いました」
 南は黙っていた。
「あの人は、たぶん誰も自分を捜しに来ないと思っていたんでしょう。そうでなければ、わざわざ移動して、
あんな所でひっそりと痛みに泣いていたりなんかしない。怪我は、私を庇った時に出来たんです」
「だから、おまえは無傷で俺を助けられたのか。不自然だと思ったよ。でも、解明するまでのこともないと思った。
その時は、愛って偉大だと思ってたからね」
 長めの前髪を掻き上げて、南は微笑んだ。
「おまえが軍を志願した時、本当は全てわかっていたんだよ。おまえは逃げたいんだって」
 竣は即座に首を振った。
「逃げたかったのは、自分を取り巻く環境であって、貴方からではない。決して」
 南が瞬きをした。同時に、涙が滑り落ちた。
「へ理屈と思うかもしれないけど、環境も全て含めて、俺の生きている世界だ。おまえは環境を責めるが、
それは俺を含めた環境のことだ。俺はそこからは決して逃げられないのだから」
「南さん・・・」
 竣は、南を抱きしめようとして、それを拒否された。
「わかっていて、俺は逃げなかったんだ」
 南はグイッと涙を拭った。
「だから・・・おまえを責めようとは思わない。おまえは俺に全てを賭けた時期があったが、
俺にはそんな時はなかった。それが当たり前と思っていたからだ。おまえは、俺がいたから生きてこれたんだと」
 竣はうつむいた。
「確かに貴方がいなければ、私は満足に学校へも行けない孤児だった・・・」
 轟音が再び轟いた。
「一つだけ、許して欲しいんだ。おまえ達には謝っても償えないような罪だ」
 南の告白は、竣がその掌で遮った。
「貴方はその時、私に全てを賭けた。全てを賭けた時がなかったなんて、嘘だ。貴方は私に対しての罪はない。
だが、彼に対しては」 
再びこみあげた南の涙が、竣の掌に吸い込まれていく。
「貴方を愛したことは、間違いでも後悔でもないから、罪は一蓮托生。私が、必ず償います。これは私達の罪です」
「竣」
 こらえ切れずに、南は竣に抱きついた。
「彼が好きです。もう押さえていられない程。すみません、南さん・・・」
切ない、峻の告白だった。
 南は、竣の胸の中で何度も首を振った。
「わかっていた。もうずっと前から。おまえがこうと決めたら、どんなに一途になるかも。おまえが立場故に、
俺を放り投げて新しい恋に走っていけないことも・・・。ジェイを愛してることも。わかっていて」
 死んでしまえばいいと思った。
あの密林で。二人とも、永遠に互いの気持ちを知ることもせずに。そうすれば・・・。
 767作戦は、その昔日本軍がやった、いわゆる特効作戦だった。
無謀なことは最初から解かっていた上での、新たな展開を期待した捨て身の戦法だったのだ。
その作戦の存在を知った時、渡りに船と南は思った。
 決して戻ってこない恋人であれば、誰かに獲られるくらいであるならば、いっそのこと殺してしまおう。
それは狂気。
 愛情が、こんなにも憎悪と紙一重であることを南は身を持って知ったのだった。
「もう行くよ。俺は見苦しい別れなんてイヤだからな」
 南は、暖かい竣の腕から、自ら体を離した。
「別れじゃない。これは別れじゃないんだ、南さん。恋愛感情が消えても、貴方と私とは、何回も新たな
出会いを繰り返すんだ。それはどうしようもない、本質的な部分で、貴方と私は一つだからだ。そうでなければ、
私の立場で貴方を愛することは難しかった。逆も同じだ。貴方は俺を愛することは出来なかった」
 南は竣にクルリと背を向けた。
「今のおまえの言葉。もう少し時間が立ったら、よく考え直してみる。今は無理だ。
自分の犯した罪をまず見つめなくちゃならない」 
また、轟音が頭上を通り過ぎる。
「竣、あの屋敷は使っていてくれ。おまえが恋人と国へ戻るまで。ジェイには・・・、出来る限りのことをしたいんだ」
 罪は罪。どんな言葉でも、行動でも、拭えず心の中に存在する。
 迎えの車に乗り込む時、付き人の坂井に、南は泣き腫した目で聞いた。
「失恋って辛いな。坂井、経験ある?」
 坂井は、うっすらと微笑みながら車のドアを開けた。
「そりゃ、山程。でも坊ちゃんを振るなんて大したヤツですね」
 後部座席に納まって、南はフフと笑った。
「昔から根性のあるヤツだった。そんなところがどうしようもなく愛しかったんだけどね」 
チラリと窓の外を眺めてから、南は目を伏せた。空港がキライになりそうだった。
「出して」
 車は、ゆっくりと発進した。
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