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朝、目が覚めると、すぐ側には松井が寝ていた。
手を伸ばせば、胸に抱き締められるくらいに。
抱き締めたいという衝動にかられたが、結局は踏ん張って、野瀬は起きあがった。
窓を開けると、外は良い天気だった。
「ここがラブホっつーのが、ちと悲しいなァ」
などとぼやいていると、松井が寝返りをうったのが見えた。
「松井さん。朝ですよ。すげーいい天気」
「うるさい・・・」
「起きて風呂入って、チェックアウトしましょうよ。こんないい天気なんですから」
「おまえ。俺がそう簡単に起き上がれるとでも思っているのか」
「あ、そか。なんなら、風呂入るの、お手伝いしましょうか」
野瀬はニヤリと笑う。
「断る」
ビシッとつれない松井の言葉が返ってくる。
「ここは精算しておくから、君はもう出発した方がいい」
「え?どこに?」
「どこにって。実家に戻る途中だと言っていたじゃないか」
松井は言われて、野瀬はハッとした。
しまった。俺、実家に戻る予定だったっけ。コロッと忘れていた野瀬だった。
松井は再び寝返りをうち、こちらを見た。朝の光に、眩しそうに目を細めていた。
「君には・・・。なんだか色々迷惑をかけた。今回の件は、俺も忘れることにするから、君も忘れてほしい。正直言って、昨日のことは後悔しているんだ。
幾らヤケだったとは言え、行きずりの君とセックスしてしまうなんて、今考えると、正気の沙汰ではない・・・」

「ハハハッ。こういうこともたまにはありますよ。人生長く生きてれば。俺としちゃ、ラッキーでした。だって、俺。校庭で泣いている貴方を見て、トキめいちゃったんだから」
「バカなことを言うな」
「マジっすよ〜。だから。貴方は気にしなくていいんです。俺も。気にしないことにするから」
あっけらかんと言ってみせると、松井は僅かにホッとしたような顔になった。
「君は・・・。なんだか罪がなくて、良いな」
「そうですか?」
「悩みなんかなんにもないようだ」
「そりゃ、バカってことですか?」
「遠回しに言うと・・・」
「遠くないって。失礼だな。松井さんって」
松井はクスッと笑った。
「松井さん・・・」
松井の笑顔を見て、野瀬は吹き出した。
「顔。エレーことになってますよ。おキレイな顔台無しです。目、すげー腫れてます。ひでー顔ッ」
ギャハハハと野瀬は笑った。
「き、君こそ。すごく失礼だ」
松井は慌てて、顔を反らした。


太陽が高い位置にある時に、ホテルを出るというのもかなり恥かしい。しかし、あの後、やはり松井は動くのがかなり辛かったらしく、支度に時間がかかった。
野瀬は、助手席の松井をチラッと眺めてから、アクセルを踏み込む。
「名残惜しいけど、帰りましょうか」
「・・・」
「ちゃんと送っていきますから」
「帰るところはない」
「まだ、そんなこと言っているんですか?」
もういい大人の癖に、なんだか笑っちゃうくらいの可愛さだと野瀬は肩を竦めて見せた。
「それじゃ、俺の実家まで一緒に行く?」
「行かない」
「じゃあ、海行きましょうか!松井さん」
助手席で小さくなっている松井を振り返り、野瀬は提案した。
「うん、海。こんなに天気がいいしね」
提案したものの、松井の返事も聞かずに、野瀬はグンッとハンドルを切った。
海に向かう為に。

「うっわー。天気いいから、気持ちいーーー」
車から降りると、野瀬は走り出した。
「海って、なんか走り出したくなっちまうんですよね〜」
スニーカーを脱ぎ捨て、野瀬は砂浜に駆け出していく。
「・・・」
松井は、運転席に放り出してある煙草を片手に、車を降りた。
ライターで煙草に火を点け、海に向かって走っていく野瀬を見ていた。

海に向かって走り出すような気分でもないし、そういう歳でもないし、第一あらぬ所が痛くて、走るどころじゃない。
松井は顔を顰めた。
なんだか明るい所で、野瀬と向かい合うのはすごく恥かしい気がする。
後ろめたさがヒタヒタとやってくる。
自業自得というか、なんというか・・・。やり切れずに松井は速攻で2本目の煙草に火を点けた。

「まっついさーん!」
野瀬が遠くで手を振っている。
仕方なく手を振り返してやると、野瀬はこちらに向かって走ってくる。
「ここの海、すげー水綺麗。東京付近の海とエライ違いだよ。シーズンだったら、泳ぎたかったな」
「泳げるのか?」
「かつては、オリンピックを目指したことも」
と言って、野瀬は腕を動かして、クロールして見せた。
「君は元気だな」
「おかげ様で。昨日いい目に合わせて貰ったンで、スッキリです」
松井は煙草の煙に思わず咽せた。
「君はッ」
抗議しようと声を荒げた松井だったが、野瀬は既に移動してしまっていた。
トランクを開けて、なにかをゴソゴソと探していた。
「あった!」
バッとレジャーシートを広げて、野瀬は嬉しそうに笑った。
「ね、ね。砂浜で、ちょっと休もうよ。海すごい綺麗だし、風が気持ちいいからさ」
無理矢理松井の腕を引っ張ると、野瀬は松井を砂浜に連れ出した。
レジャーシートを広げて、そこに松井を座らせると、野瀬は「ここで待ってて」と言って車に戻ってしまった。
「?」と思い、振り返ると、野瀬は車を発進させ、国道に走り出ていった。
「・・・」
おいていかれてしまったのかな・・・とちょっと不安になったものの、見知らぬ土地ではない。地元なのだから、ここがどこだかは知っている。
確かに風が気持ちいいな・・・と思って、松井はレジャーシートに横になった。
太陽を直視してしまい、目を細めた。そのまま、ゆっくりと目を閉じた。
波の音を聞き、体中に海風を受けながら、松井は何時の間にか眠ってしまっていた。


ふと。目を覚ますと、横には野瀬が座っていた。
「あ、はよございます〜」
「今・・・」
「すみません。キスしちゃいました〜」
悪びれもなく野瀬は言った。松井の寝顔をジイッと見ているうちに、突如としてキスしたくなったのと、実は、早く起きてもらいたかったせいもある。
「こんな外で・・・」
「外っつったって、誰もいませんが」
憮然と、唇を押さえて松井は上半身を起こした。
「松井さん。弁当とか飲み物とか買ってきたんです。もう結構弁当冷めちまったけど、まだ大丈夫だから、食いましょうよ」
「それならすぐに、起こしてくれればいいのに」
「いや。気持ち良さそうに寝てたから」
シートの上には、弁当とビールとお茶とつまみが並んでいた。
「ここら辺、コンビニなくって。結構遠くまで走りました」
箸を割りながら、野瀬が言った。
「東京じゃあるまいし。ここはそんな便利なモンはない」
「でも。気に入っちゃいました、この町。海は綺麗だし、花はいっぱい咲いてて綺麗だし、松井さんみたいな綺麗な人もいるし」
「最後の言葉は余計だ!男相手に綺麗だの、なんだの。言ってて気持ち悪くないか?」
「事実ですもん」
「聞いてる方は気持ち悪いから、よしてくれ」
「すみません・・・」
途端に野瀬はシュンとしてしまう。
なんだか子供みたいな男だなと松井は思った。歳は確か2歳しか違わないというのに。
ちょっと言い方がきつかっただろうか・・と内心松井が慌てていると、「なんだか。ピクニックみたいで、楽しいですね」と、野瀬は松井の心知らずに、ニコッと笑った。
全然懲りてないようだ。ちょっと心配した自分がバカみたいだと思い、松井は言い返す。
「・・・みたいじゃなくって、立派にピクニックじゃないか。レジャーシートひいて、弁当広げて。いい大人の男二人が休日にするようなことじゃないな」
「なら。携帯で俺の女友達呼びましょうか?すぐに来ますよ。松井さんみたいな綺麗な人が一緒だって言えばね」
野瀬はフフンと鼻を鳴らして松井を見た。
「めげない男だな、君も」
「松井さんが意地悪なことを言うからでしょう」
「悪かった。つい」
「仰る通り、俺はめげない男なんです。すみません。強引にこんなことさせちゃって。つまらないですか?」
「・・・」
一瞬言葉に迷ううちに、野瀬はうなづいた。
「これ食ったら、帰りましょう。今度こそちゃんと送っていきますから」
なんて答えていいかわからなかった。
そもそも。自分はなにしているんだろうと松井は思っていた。
昨日出会ったばかりの男と、ホテルに行ってセックスして、次の日にはこうやって海でシートを広げて、弁当を食っているなんて。
昨日は結花の命日だった。一人で弔うつもりで行ったあの校庭で、
思いがけずに野瀬と出会い、そして・・・。
「変だ」
「え?」
「こんなふうに、一緒にいるの」
「そうですね。でもまあ、とにかく弁当食ってくださいよ、松井さん」
「ああ」
野瀬の髪が、風に揺れていた。松井はそれを横目で見た。
実は、昨日からまともに野瀬を見ていた記憶がないのだが、こうして見ていると、本当に女にモテそうなナンパな面をしていた。
警戒心を抱かせない柔らかい作りの顔。少し垂れ気味の目が中々可愛らしい。
自分とは全然違う作りの顔だなと松井は思った。
野瀬はさっさと弁当を食い終わり、海を眺める遠い目をしていた。
時折、眩しそうに目を細めていた。
さらさらと沈黙が流れていく。
不思議と松井はその沈黙が気にならなかった。
こんなふうに。去年も家族で海に来た。あの時は妻も、娘の結花も一緒だった。
もう2度とは戻れない。決して同じ時間を得ることは出来ない。
箸を動かす手を止めて、松井は野瀬と同じように海を見た。
昨日まではそんなふうに考えることすら恐ろしくて、なるべく考えないようにしていた。
でも、今は、自然に考えられた。あの時間はもう二度と戻らないということ。
俺達3人の時間は、今はもう、別々の速度で刻まれているのだ。
結花の時間は止まり、妻の時間は正常に進んでいて、俺の時間は必要以上に遅れてしまっている。
それが現実なんだ・・・と受けとめることが出来た。
「松井さん。弁当いらないなら、俺、食いますよッ」
野瀬の声に松井はハッとした。
「嫌だ。腹は減っている。ところで、野瀬」
「はい!?」
「昨日は君に俺の話を聞いてもらった。君は俺になにか相談することはないか?俺だけじゃ、フェアじゃない。聞くだけならば、聞けるから」
すると、野瀬は目を見開いた。
「人生相談ごっこしてるんじゃないんですよ、俺達。気持ちは嬉しいけど、俺は大丈夫です。松井さんが、もう泣かないって約束してくれればね」
野瀬はニヤニヤと笑っている。
「昨日だけだ。あれは」
「ですよね。ホント、俺ってば。松井さんにとっての大事な時間に、乱入しちまってすみません。俺、なんであの校庭に入ったんだろう。車停めて、学校が目について。
不思議だよなァ。学校なんて、別に珍しい場所でもねーのに」

野瀬は首を傾げていた。
「でも、ま。松井さんの自殺を防げて良かったとしよう」
「自殺なんかするか」
「うん。でも・・・。そんな感じに見えたよ。昨日、一人じゃヤバかったんじゃないの?俺が居たから。役に立ったと思いたいよ。松井さん、フェアじゃないって言うけどさ。
俺、アンタ抱けてラッキーだったよ。ある意味俺のがフェアじゃねーんだよね」

「・・・」
「許してくれる?」
野瀬は、松井の顔を覗きこんだ。
「もう忘れた!」
「そうこなきゃね」
ヘヘヘと笑って、野瀬はゴロリと横になった。
「腹いっぱいになったら、眠くなったァ」
「寝れば?」
「うん。ちょっと、寝るね。松井さん、側にいてくれよ。俺、置いて帰らないでよ。起きたら、松井さんがいなかったら、俺寂しいから」
「おまえの車。いい車だよな。車ごとドロンもいい手かもな」
「そしたら、取り返しに行くからな。車だけじゃなくって、松井さん込みでサ」
野瀬の言葉に、松井はハッとする。寝転がっている野瀬を見ては、眉を寄せて見せた。
「冗談」
「勿論」
野瀬は片目を瞑って、松井を見上げた。
「さっさと寝ろよ」
バシッと松井は、野瀬の頭を叩いた。
「イテテ。うーん。風が気持ちいい」
言いながら、野瀬は目を閉じた。


辺りが夕日に染まる頃。野瀬は、助手席に松井を乗せて 海を後にしていた。
15分もしないうちに、あの小学校が見えてきた。
狭い道をなんとか通りぬけ、小学校の裏手の道に侵入していく。
窓からは、夕日の光に輝いている校庭の秋桜達が見えた。
夜とはまた違った綺麗さだった。
「松井さん。着きましたよ」
すると、松井はキョトンとした顔で、野瀬を見た。
「どうして・・・。家がここら辺だと知っているんだ。君は」
「昨日ご自分で言ったでしょ。家の裏手の小学校に結花ちゃんを連れて行ったって。貴方は昨日正門から入ってこなかった。だから、裏門から入ってきたんだ。
よって、貴方の家は裏門付近」

野瀬の言葉に松井は苦笑する。
「正門はでかい鍵がかかっているんだ。裏門も勿論かかっているけど、脇のフェンスにでかい穴があいているから、そこから侵入可なんだよ。何年経っても、あそこを修理しない
学校側も、どうかと思うけど」

松井の言葉に、野瀬は首を傾げた。
「正門に鍵!?かかってませんでしたよ。だって、俺、ちゃんと門から入ってきましたから」
「まさか。いつも大きないかめしい鍵がくっついているぞ」
「そんなモンくっついていたら、俺昨日校庭に侵入なんかしませんよ。門よじ登るなんてかったるいじゃないですか」
松井と野瀬は顔を見合わせた。
「でも。おかしい。あそこはいつだってちゃんと鍵がかかっていて・・・。なんで昨日だけ鍵が・・・?」
「まあ、いいじゃないですか。たまには守衛さんだって忘れることありますよッ。そんなこんなで、家の近くに到着!松井さん。 貴方は帰らなきゃいけないんですよ」
野瀬の言葉に、松井は助手席で俯いた。
「わかっているさ」
「家族で住んでいた家です。奥さんがいなくなり、突然貴方までいなくなったら、きっと、結花ちゃん、寂しがりますよ」
野瀬はトンッとハンドルを指で叩いた。
「結花ちゃんは、まだ貴方の側にいますよ。大好きだったお父さんの 側にね。感じること、あるでしょう?」
俺も。突然母を失った時。そう感じることがあった。母さんがすぐ側にいるような感覚を覚えたことがあった。例えそれが思い込みの錯覚であっても。
それを幸せに感じることはあったんだ。そう考えながら野瀬は、ふと窓の外に視線をやった。女々しいと言われても、母のことを思うと時々涙が溢れそうになる。
母の死は、あまりに突然で、誰のせいでもなかったことではあった。それでもあんなに辛かったのに、自分自身の不注意で子供を失った松井の辛さを思うと、
やはりなんだか自分は、楽観的な言葉を述べすぎるのではないか?と思ってしまう。

口開かないほうがいいかも・・・と思っていると、窓を通して、松井と目が合った。慌てて振り返ると、松井がこちらを見ていた。
僅かな瞬間見つめあうと、松井は微笑んだ。
「!」
さっきベッドの上で見せたような、はにかんだ笑みでなく、純粋な笑みだった。
「ありがとう」
松井はそう言って微笑んだ。
「君の言葉には・・・。救われるよ」
胸が詰まる思いがして、野瀬は思わず松井から目を反らした。
「いえ。あの、俺。色々と余計なことばっか言い過ぎて」
「そんなことはないんだ。たぶん、俺は。誰かにそう言ってもらいたかったんだ。妻、いや、身内じゃない、なにも関係ない誰かに・・・」
そう言いながら、松井はシートベルトを外した。
「昨日会ったばかりの君に、迷惑をかけてすまなかったな」
「これもなにかの縁でしょう」
「そうだな。かかっているべきところに鍵がかかっていなかった」
松井の言葉には、野瀬は賛成だった。
きっと、心の中で、同じことを考えていたのかもしれないと思った。
これは偶然なのか?
誰かの作為ではないのかと思うような。思いたいような・・・。
「ありがとう。さようなら」
助手席から降りて、松井は車の中を覗きこみながら言った。
「道中、気をつけてな」
「はい。松井さんも!せっかくのいい男なんだから、そんなに目腫らしてばっかじゃ、勿体ないっすよ」
「君もな。妙な性癖でフラフラしてないで、真っ当な人生を生きるべきだぜ」
「余計なお世話です。俺は薔薇色の人生を歩んでますよ。特に昨日は最高でした。貴方と会えて」
松井は苦笑する。
「ちゃんとした人に会えれば、もっと薔薇色になれるさ」
「貴方もね。諦めちゃダメですよ。奥さんみたく、もう一度人生やり直すことが出来るんですから。頑張ってください」
フッと松井は笑って、ドアを閉めた。
また余計なことを言ってしまった・・・と野瀬は舌を出した。
アクセルを踏み込んで、車を発進させる。
ミラーを見ると、松井がこちらを見ていた。
クラクションで合図を送り、野瀬は一気に走り出した。
横目で、チラリともう一度校庭を見た。
満開の秋桜が目の片隅に映り、野瀬は小さく微笑んだ。


薔薇色の人生。
なんとかなるもんだ。頑固ワンマン親父を説き伏せるつもりで、決意を固めて実家にのりこんだ野瀬を待っていたのは、父親の豪快な笑いであった。
「隆道がな。俺の病気説に心配して、お前より先に着いたんだ。あのバカは、俺の演技にまんまとひっかかって、泣きながら改心を訴えたおってな。
あーんなアホは、ワシが一から指導せねばならんから、後継ぎには隆道になってもらうことに決めたよ。だから、おまえは適当に生きていけ」

この展開。
一体なんなんだよ・・・と野瀬は脱力した。
「という訳で、高弘。おまえの会社の社長には、話つけておくから、明日から社に戻れ」
「勝手なこと言うなよ。突然クビにしておいて!」
「不満か?」
「不満?・・・じゃねーよッ」
「なんなんだ」
父親はキョトンとしている。
「なあ、オヤジ。○県の×市にコネないかよ?」
「×市?あんなローカルなところに、なんかコネなんぞあったかな?」
父親は首を捻って考えこむ。
「なけりゃ作れよ。そういうの得意だろうが」
野瀬は、身を乗り出して叫んだ。
「なに考えているだ、おまえ」
訝しげな父の視線を受けて、野瀬は不敵に笑う。
「薔薇色な人生の設計だよ」
俺は。
あの人の側に行く。
一旦自分の人生リセットされて、このまま、どうしようかと思っていたんだ。
まさかこんな展開になるとは、思ってもみなかったけど、これは、これでそういう運命なのかもしれない。

今度こそ、あのバカ兄貴に感謝せねばと野瀬は思った。
なにもかもが。あの人に繋がって行く気がして、これは運命だ!と野瀬は自分に言い聞かせた。
運命じゃなきゃ、運命にすればいい。
別れてからというものの、実家に向けて走らせている車の中で考えていたことといえば、あの人のことばかりだった。
一目惚れは何度も経験あるが、これはちょっと強烈だよと我ながら呆れてはしまうけれども・・・。
あの人のことはほとんど知らない。
抱かれる時の顔とか、声とか、泣き顔とか、それぐらい。
住んでる場所も詳しく知らなければ、職業だって知らない。
それは、これから知ればいいんだ。
大事なことは、惚れたという俺のこの気持ち。惚れていいんだという直感。

走り出さなきゃ、なんも始まらない。
俺はあの、秋桜の咲いている所に、あの人の側に行くんだと、野瀬は心に強く誓った。


数日後。野瀬は、某駅に降り立った。
行動力の早さには自信があった。
駅に降りてみると、改めてここが小さな町であることがよくわかった。一応観光名所として、地図には載っているのだが。
「うーむ」
地図を片手に、野瀬はうめいた。
駅前なのに、見事になんにもなかった。店は、さびれた喫茶店と、みやげ屋が並んでいるだけだった。
父親に無理矢理作らせたコネで、就職先は決まっている。こういう時に、あの父親はそれなりに役に立つ。
就職先は、小さな運送会社だった。それで野瀬は満足だった。
「問題は住むところだよなァ」
出来れば松井さんの家の近くがいいけど、あそこだと就職先から遠いし、あまり近くに住むとストーカーと勘違いされても困るしと、悩んだ。
いや、もう充分、ストーカーだけどな、俺・・・と思いつつ、野瀬は仕方なく、駅のすぐ脇にある寂れた観光案内所に目をつけた。
しゃーねーから、あそこで不動産屋を紹介してもらって、それから考えようと思った。
ガラッと案内所のドアを開けると、誰もいなかった。
「すみませーん」
と声を出すと、奥からバタバタと足音が聞こえた。
「すみません。ちょっと電話を取ってて」
と、言いながら、出てきた案内所の人間を見て、野瀬はブッと吹き出した。
目の前には銀縁の眼鏡をかけて、手には書類を抱えた松井が立っていた。
「き、君は・・・」
松井は、ビックリして、持っていた書類をバサバサと床に落とした。
「あの。俺。今日からここに住もうと思って、不動産屋サン探そうと思っていたんですが・・・」
「不動産屋・・・!?」
松井は目を見開いていた。僅かに頬が紅潮している。
その松井の顔を見て、野瀬は頭の中で考えていたことを全てフッ飛ばして、ストーカーになる覚悟を決めて、言った。
「松井さんのところ。同居人募集してませんか?家賃払うから、俺を住まわせてください!俺、やかましいけど、その分、松井さんに寂しい思いさせないと思うから。
ね、いいでしょ」

「いいでしょって・・・君・・・」
「貴方に惚れました。だから、追いかけてきたんです。好きになっちまいました。もうとまりません!」
と、不意に、ガラッと背後で、ドアが開いた。
「すみませーん。○○美術館行きたいんですけど、ここからバス出ているって聞いて。時刻表くださーい」
と、女の子の団体が入ってきた。
「あ、はい」
慌てて松井が、書類を床から拾いあげた。
「松井サン・・・」
野瀬は松井によびかけた。松井は野瀬の声に反応して、ジッと野瀬を見上げていた。野瀬は、その視線を受けて、ニコニコと笑った。
それを見て、松井はキュッと唇を噛むと、なにかを決心したかのようなきつい顔になった。

松井は、書類を机に置いて、近くにあった鞄の中から、キーケースを取りだした。
「ちょっとお待ちください」
と、野瀬の背後の女の子達に微笑むと、野瀬が抱えていた地図をひったくり、赤いペンで、大きくある地点に○印を書きこんだ。
印の横には、ハイム中井203と書いてあった。ポイッと地図と一緒に鍵を野瀬に投げつけると、松井は野瀬から視線を外して、女の子達に目をやった。
営業スマイルで、「今、時刻表をコピーしますね」と言って奥に引っ込んでいく。

野瀬は、女の子達を避けて、案内所を出た。
「やったア!!!」
野瀬は盛大ににやけた。
あの日以来ずっと思っていた。
自分達を巡り合わせてくれたのは、結花だったのかも しれない・・・と。
かかっている筈の鍵がかかってなかったせいで、俺はあの 校庭に入ることが出来た。
そして、松井さんと出会った。

寂しがる父親を案じて、彼女が、あの校庭に俺を招き入れて くれたのかもしれないと思った。
だとしたら、俺を選んだ彼女の目は、確かだったいうことになる。
一目惚れだけど、松井さんのこと、これから大事にしていく 自信あるから・・・!
寂しくなんかさせない。側にいる。嫌がられない限り、ずっと。


ふと。松井さんもそう思ったのかもしれないな・・・と感じた。
彼もきっと、あの出会いを、そんなふうに思っているのかも。
意外とすんなり渡されたキーケースと地図のことを考えると、なんとなくそう思えてしまう。

野瀬は、エヘヘともう一度笑うと、ギュッとキーケースを握りしめた。

END

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