ある日の緑川家。

キーンコーンカーン・・・と、本鈴が鳴り終えた瞬間。
「うおぉぉぉぉぉー」
奇怪な声と共に、ガラッと教室の前のドアが開いた。
「ま、間に合った」
ゼエゼエと息を切らして、町田が教室に飛び込んだ。その後ろから、ちょっと息を切らした緑川が付き添っていた。
「間に合っとらん。ったく、また夫婦で遅刻か。」
担任が、既に慣れてしまったかのようにそんな風に言いながら、出席簿をパタンと閉じた瞬間。
「げほっ」
と、いきなり吹き出した。
既に、クラスメートの視線は、二人に集中していた。
「な、なんだ、町田。そ、その、背、背中のものは〜!」
「あ?これ。えへへ。赤ちゃんだ」
町田はクルッと踵を返して、背の赤ん坊を担任に見せた。
年配の担任は、デレッと一瞬笑み崩れ、まるで孫を見るかの視線になった。
「おお。可愛いなあ。何ヶ月ぐらいだ?って、違う!」
ハッ、と我に返った。
「なんで、赤ん坊を背負っているんだ」
「抱っこより楽だから」
ケロッと町田が言った。
「あのな。そーゆー意味じゃ・・・」
がっくりと肩を落とす担任を尻目に、緑川は、町田を押しのけてはさっさと席についていた。
「とうとうホンモノの夫婦になっちゃったのね」
「つーか、どっちが産んだんだよ」
「やっぱり町田くんじゃないの?」
「いや、俺的には緑川であって欲しい気が・・・」
そんな言葉があちこちから起こっていたが、絶対に本人達には聴こえないような声の小ささだった。
町田と緑川という有名なホモップルを二年間クラスメートに持つ彼らは、もう多少のことがあったところで、動揺したりなんかしない。
「町田っ。おい。とにかく、その背の赤ん坊をどうにかしなさい」
「えー。だって、コイツ、俺以外にはてんで懐かなくって。俺の背から離したら、泣くぞ。泣いたら、授業になんねーぞ」
ドサッと席につきながら、町田は担任に向かって言った。脅し、とも言う。
「俺にくっついてりゃコイツは泣かないし、落ち着いている。ま、人形でもしょってると思って見逃してくれよ、伝助センセー。うるさくしたら、出て行くし。
預かってくれる人がいなくって困ってるんだよ。だから、仕方なく・・・」
「むう・・・」
担任の小橋伝助は、返答に困った。確かに、町田の背の可愛らしい赤ん坊は、スヤスヤと眠っていて、ピクリともしない。人形のように可愛らしい。
「し、仕方ない。事情もあるんだろう。泣き出したら、すぐに外に出ろよ。ところで、その赤ん坊は・・・」
と言いかけて、小橋はゴホンと咳払いをして、「緑川の子か?」とおそるおそる聞いた。
「おう。緑川(家)の子」
無邪気に町田は答えた。その答えに、一同はシーンッと静まり返った。もはや、小さな囁き声ですら、起きなかった。
「そ、そうか。昭和初期は遠くなったということだな」などと呟きながら、小橋は出席簿を抱えて、ヨレヨレと教室を出て行った。
そんな担任の背を見送りながら、町田はハッとした。
「なあ、結局、俺達って遅刻なんかな?緑川」
町田は、クルッと振り返り、後ろの席の緑川に聞いた。
「さあ?」
緑川は、興味ないのか、もう窓の外に視線をやっていた。
「やべえな。俺、あと五回で留年じゃなかったっけ?」
町田は、ガリガリと頭をかいた。
「安心しろ。俺もだ」
フウッと、緑川は溜め息をついた。
そんな二人を、隣の席の堀田がジロジロと眺めている。
「なんだよ、堀田」
ギロッと町田が堀田を睨んだ。
「い、いえ、なんでも・・・」
ブルブルと首を振った堀田だが、どうしても気になって、真横の席の緑川に、コソッと訊いた。
「み、緑川くん。あの子、本当に君のなの?」
「ああ。俺(家)のだ」
コクッと緑川がうなづいた。
「すごい。マジで産んじゃったのかよ。き、君達はいつかなにかをやらかすとは思っていたけど、まさか子供を作ってしまうなんて・・・」
坊主頭の堀田は、大きな目をキョトキョトさせ、頬を紅潮させている。
「産む時、痛いの?っていうか、男ってどこで産むの?あれ・・・」
興味本位で訊いている堀田の声を、勿論クラスメート達は黙ったまま、しっかり聞いている。
町田は、背の赤ん坊をあやすのに必死で、堀田と緑川の会話なぞ聞いてもいなかった。
「るせーな。なに言ってんだ?てめえは」
ギロッと、今度は緑川に睨まれて、堀田は今度こそ黙りこんだ。
クラスメートの誰かが、残念そうに、チッと舌打ちしたのが聞こえた。
しかし、堀田は、斜め前の町田の背にいる赤ん坊を見て、ゾッとした。まだ赤ん坊だというのに、目元のスッと整ったところなど、緑川にそっくりだ。
『に、似てる。怖いほど、緑川くんに・・・。あわわ。なんてことだ・・・。ホンモノだ』
ゴクリと、堀田は唾を飲み込んだ。


「いやあ。コイツ、マジにおりこうさんだぜ、翔子ちゃん。学校でもな。死んだように、眠っていてちっとも泣かなかった」
「あら、まあ、そう。死んだように眠っているところは、兄貴にそっくりね。でも、たぶん、きっとまーちゃんの背中が居心地良かったのよ。だから眞弓もイイ子にしてたのよ。ねえ、まゆみたん」
翔子は、腕の中の眞弓にニコッと笑いかける。さすがの眞弓も、母親にはむろん懐いている。キャッキャッと笑っている。
「えー?そうですかね?ったく、困ったな〜。んなの、可愛すぎるじゃん」
ガツガツと町田は飯をかっくらいながら、でへへと照れた。
「本当にね。誰にも懐かないのに、まーちゃんにだけは懐いてくれて、私正直助かっているのよ。なにかと最近は仕事忙しいし。育児だけしてる訳にもいかないしねぇ・・・。
まったく、実の父と兄にすら、ちっとも懐かないんだから、この子も相当よねぇ」
ハアと翔子は溜め息をついた。

そう。町田が背負っていた赤ん坊とは、緑川家の次男・緑川眞弓である。
長男である緑川晴海が、町田と自分の未来しか考えていずに緑川家を継ぐのを拒んで、無理やり・執念で、父母に子作りをさせ、晴海の執念を背負って生まれ出たのが、
待望の男の子、次男の眞弓であった。正真正銘緑川家の後継ぎである。
「でも、町田先輩が、眞弓を背負ってきた時には驚いたわ。光くんが、大変なスクープになっちゃってるよ葉子ちゃん、って教えてくれて、私もびっくりしたんだから」
葉子が複雑な顔をしている。
「葉子ちゃん。それ、君の彼氏のせいなんだけど。佐藤のヤロー。そっこーデジカメで連写しやがって。あれで、眞弓が1回泣いちまったんだぜ。ま、昼休みだったから良かったものの」
町田がヒクヒクと引き攣っていた。
「よく言っておくよ。ごめんなさいね。でも、本当に眞弓は、うちの家族ではママにしか懐いてくれないんだもの。それと町田先輩にしか・・・。切ないよ」
味噌汁を啜りながら、葉子はショボンとしている。
「私に似てれば、人懐っこく愛らしい子だったこと間違いないのに、眞弓ったら、うっかり緑川の血が濃かったのね。本当に緑川の血って、恐ろしいと思わない?ねえ、葉子。まーちゃん」
町田と葉子は、きっかりとうなづいた。
「とっくに振られたくせに、未練がましいったら」
ぷりぷりと翔子は怒っていた。
だが、次の瞬間には、コロッと表情を変えて「ねえ、まーちゃん。うちに住まない?そうしたら、私も助かるんだけど」と、にこやかに提案した。
「いやだ。この家住んだら、歩に食われる」←すっかり呼び捨て。
ブンブンと町田は首を振った。これには、緑川もうなづいていた。
「そうね。確かに、りょくちゃんってば、毎晩まーちゃんの寝室に夜這いかけそうだわ」
チッッと翔子は舌打ちした。
「それに。俺は、あのアパートから離れたくねえんで。ごめんな、翔子ちゃん」
「あ、あら。いいのよ。ごめんね、まーちゃん。私こそ、無理言って」
ホホホと翔子は笑った。自分が楽する為に、町田を犠牲にする訳にはいかない、とちゃんと解っている。
「今度、ホテルのディナー奢るわよ、まーちゃん。今日は眞弓の面倒みてくれて、ありがとう」
「ああ。全然。眞弓可愛いし。誰かさんと違って」
チロッと町田は緑川を見たが、緑川は澄ました顔で、もう広間のデカイテレビの方を見ていた。
「聞いちゃいねーし」
トホホと町田は肩を落としつつ、それでも、目の前の豪華な食事を次々と平らげていった。


飯を食い終えてから帰るまでの間、眞弓と遊んでいた町田は、結構疲れていた。
「あー。さすがに疲れた」
グッタリとしながら、町田は門までの長い道程を歩いていた。寝た・・・と思って、町田が傍を離れると、眞弓は即座に泣き出した。
町田の気配が部屋から消えそうになると、すぐに起きて、ギャアギャアと泣くのだ。後ろ髪を引かれる思いで、部屋を逃げ出してきたのが、ついさっき。
「ご苦労」
緑川は、そんな町田の背に、ちっとも心がこもっていなさそうな言葉を投げつけた。
「ご苦労・・・じゃねえよ。ったく、てめえは。少しぐれーは、眞弓が懐く努力をしろよ。いつも、ボーッと俺の後ろに突っ立ってねえで」
「しゃーねーだろ。どんな努力をしてみても、あいつは俺のことなんかキライなんだ」
「どんな努力をしたんだ。言ってみろ。この無愛想なツラ、少しは眞弓の前で、ニッコリさせたりしたのかよ。つーか、そんなん眞弓にしてるんだったら、俺にもたまには見せろ」
ギューッ、と町田は緑川の頬を抓った。
「いてっ。やめろ」
「はあ。眞弓は可愛いけど、やっぱ、疲れたわ、俺」
門扉のところまで来て、町田はクルッと振り返った。そして、自然に町田は緑川の顎を引き寄せて、その唇にキスをしようとした。だが。バンッと、という音と共に、制された。
「いってえ。掌で殴るな」
緑川の掌が、町田の顔面を、まるでゴキブリでも潰すかのように叩いていた。
「やめろ。オヤジが帰ってきた。ヘッドライトが来る」
確かに、緑川家の大きな門扉を、車のヘッドライトが照らし出していた。
ご主人様のお帰りだ。
「車から降りてくるまでにまだ時間がある。キスぐれえさせろよ。ここ数日、眞弓のお守りで、俺は疲れているんだ」
「オヤジには見られたくない。火に油を注いじまう。いやだ」
プイッ、と緑川は顔を背けた。
「ケチくせえこと言うな」
町田はグイッと、緑川の腕を引っ張った。
「なにムキになってやがる、てめえ」
わわ・・、と引っ張られて、緑川がよろめいた。そこをガシッと町田の腕が支えて、あっという間に、キスが降ってきた。緑川は観念して、目を閉じた。
どうして、コイツはいつもこーなんだ・・・と思った。どこでもこういうことをやりたがり、そして、かなり強引。
それでも触れてくる町田の唇が熱くて、緑川の体の一部が疼いた。
「うお。てめっ」
いきなり唇がはずれ、町田が口を押さえた。
「な、なんだよ・・・」
緑川はギョッとした。餃子なんか食ってねえけど・・・と思った。
「おまえ。口の中、甘い。なんだよ」
「甘い?ああ、これか?」
心当たりがあって、緑川はズボンに手を突っ込んだ。コロン、と緑川の掌には、ピンクとオレンジの包み紙の小さな飴が二つ乗っていた。
「!」
町田は目を見開いた。
「おまえ・・・。もしかして、結構この飴、よく舐めてたりしたか?」
「ああ。割と舐めてる。好きなんだ、これ」
緑川はうなづいた。


『にーちゃん。チューってどんな味すんの?』
『チュー?ああ、キス。味なんかある訳ねえだろ』
『だって。にーちゃん、いつもねーちゃんと美味しそうにチューしてるじゃん』
『おまえ。なんで知ってンだよ』
『いいから!どんな味?教えてよ』
『・・・ませガキ。味なあ。味。うーん・・・。おい、口開けてみ』
『?』
『そーゆー味』
『なんだよ。口の中に・・・。飴?うげえ、甘いっ。あ、でも、この飴知ってるぞ。前に貰って、舐めたことある。ええ〜。まさか、こんな味なの?』
『と思って、将来可愛いカノジョとチューするんだな。久人』
そう言って、楽しそうに連橋の兄貴は、笑っていた。

かつて、兄と交わした会話が、町田の脳裏に甦ってきた。
この飴は、連橋の兄貴があの時くれた飴。そして、その飴は城田の兄貴がいつもくれた飴だった。
「この飴は・・・」
町田は緑川の掌から、飴を一つ摘んで、まじまじと見た。
「・・・城田の兄貴から飴をもらったのはおまえだけじゃねえってことさ」
珍しく、鋭い緑川だった。
「なんで、わかった」
「だって、おまえ。なんか切ねー顔してんだもんよ。そういう時、おまえは大抵過去を思い出してる。いいか。城田の兄貴がその飴を持っていたのは、俺が好きだったから、だ。ふんっ」
「うるせーな。なんだよ、自慢気に!!」
「おまえだけの兄貴じゃねえんだよ、あの人は」
「またかよ。ったく、兄貴のことになると、すぐに目くじらたてやがって。そんなに兄貴が欲しけりゃ、やるよ。俺にはもう一人兄貴がいるんだからな」
フッ、と笑って、町田はもう一度緑川にキスをした。
甘い、甘い、キス。
コイツとするキスは、いつも甘いと思っていたけど。こーゆーオチかよ。町田は、クスッと笑った。
兄貴、兄貴。やっぱり、キスの味は、俺のキスの味は、アンタの言う通りの味だったぜ。心の中で、町田は、遠く離れた兄に向かって呟いていた。
「なに笑ってンだよ」
唇がはずれ、緑川は町田を見上げた。
「甘いけど。おまえとするキスは、今後ちょい切ねーキスになっちまうな・・・と思ってさ」
「なんのことだ?」
「知らなくていいんだ、おまえは」
「なにすかしてやがる。てめえには、そーゆーの似合わねえぞ」
フンッと緑川は鼻を鳴らした。
「似合わない?ああ、そうかよ。ふん。確かに俺のキャラじゃねえよな。わかっちゃいっけど」
ハハハと笑いながら、町田は、クシャッと緑川の頭を撫でた。
と、町田の背後で、盛大にクラクションが鳴った。
「もう通っていいか?」
後部座席の窓を開けて、緑川歩が、ぶすっくれた顔を覗かせて、言っていた。
「人ン家の入り口塞いで、イチャイチャしてんじゃねえぞ、久人」
ケッケッと、子供のように拗ねた緑川歩を見て、町田は「わりーな。へへ」と、コンッと窓を叩きながら、詫びた。
「んとに、わりーよ」
歩は、ムスッとしている。
「悪いって言ってんだろ」
「だったら、俺にもキスしろよ」
相変わらずなセクハラ男だったが、機嫌の良かった町田は、チラッと緑川に目をやっては、歩にキスをした。
「!」
「これでいいのか?俺はアンタの惚れた男じゃねえんだけどよ。そんじゃ」
フフンッと笑って、町田は大股で門を横切り、出て行った。
「・・・」
呆然としていた歩は、バンッと車を叩かれて、我に返った。
外には、無表情で怒っている息子の顔があった。
「てめー、町田を挑発すんな。ただでさえ、単純な男なんだからなっ。ヤロー、ふざけんな!!」
バンバンと緑川が車を蹴とばして父親に文句を言う。
「やめろ。晴海。てめえが遠慮なしに叩いたら、車が壊れる」
「うっせー。表出ろやッ」
「やだね。これから、キスの余韻を楽しむんだ、俺は」
ハハハと歩はそう言いながら、タバコに火を点けては、抗議の目を向ける息子にニッコリと笑いかけた。
「たまにゃ、素直になってやんねーと、こうやって浮気されるんだぜ。ましてや、久人は単純だからな。さすがに、あの連橋が育てただけはあるさ。けど・・・」
歩は唇に手をやりながら、
「こういうところは、たまに城田っぽい。やっぱり血筋だな」
そう言って笑いながら、歩は、後部座席の窓を閉めた。
歩は舌で唇をゆっくりと舐めた。
「歩様っ、危ないっ」
運転手が、ギョッとした声をあげた。歩は、その声にギクリと窓の外に視線をやる。
息子が大きな石を持って、それを振り上げているシーンが視界に飛び込んできた。
「てめっ、本気でやるかよッ!」
バッ、歩は座っていた場所から飛びのいた。
ガシャアンッ。
・・・車の窓ガラスが本気で、割れた。

緑川家の親子喧嘩は、手加減無用!

★エンド★


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