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屋敷の廊下に、賑やかな笑い声が響いた。
カデナは読んでいた本の手を止めて、そちらを見た。
ダイアナがキャーキャーと笑いながら、廊下をバタバタと走っていく。
「お嬢様、廊下を走ってはいけませんよ」
女官のクリスティンがそのあとをしずしずと追いかけて行く。
「ええい、おてんば娘めっ」
クリスティンを追い越し、バタバタとイリアスがダイアナを追いかけた。
「あー、お父様、走っていらっしゃるわ」
「おまえが走るからだ。こら!クリスティンを困らせてはならぬ」
「いーだ。だって、クリスは大嫌いな野菜を食べさせようとするのよ。きゃあ」
ガッとイリアスがダイアナの小さな体を抱き上げた。
「おまえの為を思ってのことだ。こら、イテテ」
「下ろして。お父様なんてキライよ。クリスもお父様もいつも、いつも、野菜を食べろとうるさいわ」
ポカポカとダイアナに頭を叩かれ、イリアスはダイアナを床に下ろした。
「イタタ。髪をひっぱるのはやめなさい、ダイアナ!!こら、口もこんなに汚れたままで」
ギャーギャーとやりあう廊下の声を放っておけず、カデナは読んでいた本を閉じ、立ちあがった。
「少し前から思っていたが・・・。ダイアナは、王宮でのおまえのあだ名を知らんのだろうな」
ダイアナの汚れた口をゴシゴシと拭いていたイリアスは、不意に聞こえた声にハッとした。
眠たそうな目をしたままのカデナが背後に立っていた。
「王宮でのわたくしは、常に緊張しておりますので。自然と顔も強張りますゆえ」
氷の騎士。イリアスはそう呼ばれていた。常に冷静。笑う時は苦笑のみ。
「ふうん。意外と器用な性格であったのだな。使い分けているとは」
なんだか妙に突っかかる言い方に聞こえて、イリアスはムッとした。
「いけませんでしょうか?」
「構わないけれどな。姉上とのことも、それぐらい切り替えが早いと良いのだが」
フフンッと鼻で笑われ、イリアスはグッと拳を握りしめた。
「そうですね。早く姉上様のことは忘れて、貴方様一筋になりとうございます」
片膝ついていたイリアスはスクッと立ち上がり、カデナを見つめた。
「いい根性してるな」
カデナの眠たそうな目が一転し翠色を煌めかせながら、イリアスを睨みつけた。
「そうでしょうか?!」
と、イリアスは怯みながらも、その瞳から目を逸らさずにいた。
正確には、逸らすことが出来なかった。その瞳が、噂に違わず、あまりに美しいから。
「そういう意味で言ったのではないことを理解しておるくせに」
「まあ、そうですが。つい言いたくなりました」
「だから、いい根性していると言ってるんだ。二重人格者め」
二人の間を、ダイアナが遮った。
「もうおよしになって。それより」
幼いながらもダイアナは、不穏な空気を察したらしい。
「カデナお兄ちゃま、なに読んでいたの?」
「君にはわからない話だよ、ダイアナ」
「絵本を読んでいただきたいわ」
「・・・野菜を食べてきたならば、な」
フッとカデナがやや意地悪く笑ってみせると、ダイアナは一瞬黙ったが、
「私、頑張って野菜を食べるわ」
うふふと微笑み、ダイアナは腕を伸ばし、カデナの腕に自分の腕を絡めた。
二人はスタスタと廊下を歩いて行った。
「あらあら。カデナ様に負けてしまわれましたわね、イリアス様」
「ダイアナめ。僅か7歳にしてもう、いい男には弱いのか。先が思いやられる」
「ただのいい男ではございませんものね。国一番の美しい男の方ですから。カデナ様は」
「・・・」
クリスティンの言葉に、素直には頷けないイリアスだった。


由緒正しきイリアス・ヴァン家に、カデナ・ル・アルフェータがやってきたのは、半年前のことだった。
王家命、王家一筋の貴族の血筋で騎士でもあるイリアスに、ある日、王が、苦々しい顔でこう言った。
「イリアス。そなたに我が子を娶ってもらいたい」
そう言われ、イリアスは、密かに胸をときめかせた。
王には美しい子供が二人いる。娘と息子。王女と王子。
ルナ・ル・アルフェータ王女と、カデナ・ル・アルフェータ王子である。
「はい」
「おお。引き受けてくれるか」
王の顔がパアッと明るく輝く。
「お断りする理由がございません」
それはもちろん、そうであろう。ルナ王女と自分は、子まで授かった縁深い関係だ。
子が産まれた時は、さまざまな事情で表沙汰にすることが出来ず、一度は別れた身であったが、ようやくこの時が来たのだ、とイリアスは喜びを抑えるのに苦労した。
「そうか、そうか。これでカデナを巡る争いはようやく治まる。本当にもっと早くこうしていればと思ったものだ」
「は?!」
イリアスは耳を疑った。
「カデナは二度目の結婚であるが故、派手なことはせずに、国民に事後報告ということに致そう」
「はあ・・・」


つまりは、こうだ。
アルフェータの婚姻は男女構うこっちゃない無法地帯である。
ただ、王族は別であるが、それも後継ぎに限ったことである。後継ぎは、代々直系の男子である。
今回の場合、後継ぎにあたるのはカデナであったが、彼は一度結婚していた。
相手はファーシナー国のミラン王女であるが、一年前に亡くなった。王宮への不法侵入者に刺殺されたのだ。
犯人を捕まえたが、その場で自害されてしまい真実は闇の中だった。
ただ、犯人がまっすぐにミランを狙っていったことから、カデナ王子と結婚したミラン王女に嫉妬した近隣国の仕業ではないかという見方が有力だった。
ミランの死により、カデナは再び独身に戻ってしまい、またじわじわと近隣国はざわめきだした。
ミラン王女の出現で、一度は落ち着いたかと思われていた、カデナの争奪戦が再び始まったのだ。
これには、アルフェータの王族も困惑した。カデナが独身でいる限り、ずっとこの騒ぎはおさまらない。
実際、皇太子妃の喪に服した一年はさすがに近隣国もおとなしくあったが、喪が明けてからすぐに、近隣国からカデナの再婚話が殺到した。
「ミランが亡くなって、まだ一年しか経っていないのに、再婚などと。幾ら父上の命令でも、わたくしはもう二度と結婚などいたしません」
再婚話をそれとなく勧めても、カデナはまったく関心を示さなかった。
元々、男であれ女であれ、色恋話にはとんと無頓着な王子であったから、乗り気である筈もない。
そもそも、よくミラン王女と結婚したものだ、と驚いたぐらいであったから。
「ルナと交換してほしいくらいじゃ」
姉であるルナは、その華やかな美貌を最大限に生かし、あちこちで恋の花を咲かせまくっている。
「ううむ」
悩んでいた王の耳に、ある日、重大な報告が飛び込んできた。
カデナを除いた王族が一堂に会し、食事をしている時だった。
「大変でございます、王。ジムル国から、カデナ様との再婚の件で抗議を受けました。お返事はいつになるか、と。大変なご立腹でございます。
色よい返事でない場合は、挙兵もあり得るとのこと」
まあ、と王妃マルガリーテが、スプーンを落として、動揺した。
「ジムルが・・・。あそこは我が国と同盟国であるな・・・」
王も食事の手を止めて、苦々しく呟いた。
「実は、リスアニからも同様のお話が。おろそかには出来ませぬ」
「わかっておる。どちらの国も我が国の発展には、欠かせぬ存在だ」
放置しておいた話が、知らぬところで炎上していたのだ。
「ああ、もう、どうしたことか。カデナをどこの王女と結婚させても、恨まれてしまう」
悩み倒していた王に、皇太后アルティマが、ヒョイと一言。
「我が子よ。そのように悩んで白髪を増やしては、せっかくの良い男が台無しよ。簡単なことでしょう。アルフェータには、ミランが産んでくれたエリルがいるわ。
後継ぎはもう既にいるということ。だとしたら、カデナの結婚にはなんの制限もないのよ。どこかの王女との縁談で考えるからややこしいのよ。カデナには、男と
結婚させればいいの」
母の言葉に、王は、ハッとした。
「なんと。母上。素晴らしい提案だ」
「でしょう。各国のお嬢様方の誰も泣くことがなくて、素敵な案でしょう」
アルティマはにっこりと微笑んで、美しく塗られた爪を擦った。
「問題は、カデナのそのお相手ですけどね」
すると、心配そうに話を聞いていた王妃マルガリーテを押しのけ、ルナが大きな声で言った。
「イリアスはいかがかしら」
「まあ、ステキ。というか、わたくしが言いたかったのに、ルナってば・・・」
アルティマは少し拗ねたような顔をして、ルナを睨んだ。
「なるほど。イリアスか・・・。というか、ルナ、そなた・・・」
王は言い淀むと、ルナは首を振った。
「私には、既に新しい恋人がおります故、ご心配なく」
そうして。
王族による会議にて、カデナの夫に抜擢されたある意味クジ運の悪い者が、イリアスであった。
「騎士であるそなたがカデナを妻としてくれたならば、ミランのように賊に討たれることもあるまい。頼むぞ、イリアス」
「かしこまりました、我が王」
間違えました・・・とは、今更絶対に言えないのがイリアスであり、例え間違えたことを知っていても、知らんぷりをするのが王家なのである。

あれから王家は、ここ幸いとばかりにカデナと護衛の騎士をどっさりとイリアスの屋敷に送り込んできた。
今まで、大邸宅に僅かばかりの護衛の騎士と女官とそして一人娘のダイアナでひっそりと住んでいたイリアスだったが、カデナとの結婚で
屋敷は一気に昔のように華やかに、賑やかになった。
イリアスは、謀られた・・・と思い、ショックを受け落ち込んでいる暇もなかった。
でもきっと、それは自分だけではなかったのだろう・・・と思う。
恐らくは、カデナも、寝耳に水・・・であったろう。
屋敷に来てからしばらくは、口も聞いてもらえなかった。
美しいが故に冷たい瞳は、静かに、でも明らかに不満をたたえていた。
それはそうだろう。前の妻の喪が明けてすぐに、よく知らない男と結婚を強要されて。
とびきりの美女と結婚ならばまだしも、それが姉の昔の恋人ときて、貴族といえど王族でもないただの騎士。
王子として生まれたのに、王として君臨出来ずに、こんな暮らしは納得できないに決まっている。
やりきれぬ気持ちでイリアスは時が過ぎるのを待った。
私だって不満だ。私が結婚したかったのは、貴方ではなく、ルナ様なのだ、と言ってやりたかった。
だが、言わずともカデナがそれを察していると知ったのは、何度かあった小さなやり取りの中でだった。
互いに、不満があるのを承知の上での、結婚。
これが、政略結婚なのだ・・・とイリアスは思い、カデナも思っているだろう。
そんなぎくしゃくした関係がじょじょに解消されてきたのは、やはりダイアナの存在が大きい。
ルナとイリアスの子。カデナにとっては姪である。7歳のダイアナは、カデナをとても慕っていた。
そして意外にも、カデナは子供にはとても優しい。子供好きであるようだ。
二人はとても仲が良かった。自分との関係はかなり冷めているが、ダイアナとカデナの関係は良好だ。
それだけでも、屋敷の中に流れる微妙な空気を考えれば、ありがたいことだとイリアスは思っていた。


「新婚旅行?!」
「そうよ。貴方がた、まだでしょう」
ルナはウフフと微笑んでいる。
「必要ございません」
執務室で、書類を整理しながら、イリアスは短く答えた。
さきほど、いきなりルナが執務室に飛び込んできて、新婚旅行を提案してきた。
「なにを言っているの、イリアス。結婚して半年も経つのに、貴方がたはまだぎくしゃくしてるそうじゃない」
タブーなことをルナは平然と口にする。イリアスは、スッと目を細めた。
「そのようなこと、誰に聞いておられるのですか?」
「とある騎士からよ」
「名を教えてくださいませ」
「いやよ。貴方、その騎士のこと、怒るでしょう」
「当たり前ではございませんか。他人のプライベートをペラペラと王女に喋るなどと」
「貴方がたを心配した騎士から、相談を受けたのよ。わたくしが」
「余計なお世話だと言いたいですね」
「さすが氷の騎士ですわね。冷たいお方・・・」
「どちらが、ですか」
冷やかなイリアスの視線に、コホンとルナが小さく咳払いをした。
「貴方が、まだわたくしのことを想ってくださっていたとは思わなかったわ。嬉しいですけれど、お父様の命令は絶対であるからして。わたくし達ご縁がなかったのよ。
カデナはわたくしの大切な弟。貴方に、是非可愛がっていただきたいの」
「・・・」
可愛がってあげるたまか、あれ・・・。と思いつつ、イリアスは溜息をついた。
「恐らくは、カデナ様はそのようなことは望んでおられぬと思いますが」
「まあ。そんなことはないわ。あの子は貴方と仲良くなりたいと思うの」
「・・・」
仲良く???はてしなく、はてなマークが頭の中をよぎるイリアスであった。
だめだっ。まったく、想像出来ない。あのつんつん虫が、俺と仲良くだって??
「つんつん虫って、カデナのこと?」
ルナがキョトンと聞いてきた。
ギクッ。心の中の言葉が、口に出ていたようだ。
「いえ。そのようなことは申しておりませぬが」
まったくもって落ち着きはらって、口からでまかせを言うイリアスだった。
「あら、失礼。つんつんして、って言ったのかしら」
クスクスとルナは笑う。
「そうです。弟君のことをそのように言って申し訳ありませんが・・・」
「確かにツンツンしてるわよねぇ」
「ルナ様のように、表情豊かであられると、大変に可愛らしいとは思いますが」
「まあ。お口がうまいわ、イリアス様」
ポッとルナが赤くなる。そんなルナを見て、イリアスは慌ててルナから目を逸らした。
「も、申し訳ございません。王女様を前にして軽口を・・・」
プライベートでつきあっていた頃とは違うのだ。
「良いのです。あの頃が懐かしいわね。それで、イリアス、新婚旅行の件ですが」
にっこりとルナに微笑まれ、イリアスはそれ以上強い口調では拒めなかった。
氷の騎士と呼ばれる自分ではあるが、やはり惚れた女にはかなわない。


「はあ!?新婚旅行?誰と誰が」
「私とカデナ様です」
当たり前じゃねえかよ・・・と心の中で思いながら、顔には出さずにイリアスは答えた。
屋敷に戻り、ルナに言われた通りのことを、カデナに告げた。
「お断りだ」
きっぱりとカデナは言った。
「ですが、ルナ様が乗り気で・・・」
「ならば、姉上とそなたで行けばいい」
ツンツーン。
とりつくしまもないとはこのことだ。
「行けるものならば、是非行きたいところです」
かろうじてイリアスは言い返す。
「姉上に、お願いしてやってもよいぞ」
フンッ、とカデナは鼻を鳴らした。
「結構です。だいたい、カデナ様のお返事は想像出来ましたし、私も行く気はございませんでしたから」
「だったら、さっさと断ってくればよいだろう」
「王女の申し出を、気軽に断れる身分ではございません」
「よく言うな。単に未練たらたらなのであろう。あんな女に」
カチーン。
その言い方に、さすがにイリアスは眉を寄せた。無言で、細めた瞳で、カデナを見た。
氷の騎士と王宮で呼ばれる、イリアスの冷たい視線だ。
その迫力に、僅かだが、カデナはたじろいだようだった。やや後ずさる。
「なんだ。私の言うことに文句があるならば、堂々と言い返せ」
「ございません。おっしゃる通りでございます。それでは、カデナ様がルナ様にお断りしてくださいませ」
「なぜ、私が。面倒くさい」
「さきほど申しましたが。私の身分で、王女に断りを入れることは出来ぬ、と」
「・・・ああ、面倒くさいっ」
舌打ちをしつつ、カデナはバサリと長い金の髪を翻し、ドアノブに手をかけた。
「断ってやるからな。ついでに、そなたと姉上が行け、とも言っておいてやるっ」
「ありがとうございます」
バタンとドアが荒々しく閉まった。
「やれやれ」
イリアスは、傍のソファにドサッと腰かけた。
結婚して半年以上。いまだに会話はこんな感じだ。
政略結婚とは、こんな感じなのかな・・・と思いながら、イリアスは銀の髪を掻きあげた。
この国に生まれ育ち、今更同性との恋愛に違和感を感じることもない。
若い頃は騎士の嗜みと積極的に同性との恋愛を楽しんだ。
だから、カデナとだって、そのような感情を交わしあうことは不可能ではない。
「恋愛って・・・」
思わず一人呟く。
恋愛などと。これは政略結婚なのだ。そのような感情を持つことがある筈もない。
愛した相手と結婚出来る筈が、最初から、なかった。ルナは、この国の王女。自分はただの騎士。
意外に、結婚に夢を持っていたのか自分は・・・とイリアスは驚く。
「ばかな・・・」
叶わぬ夢と知りながら、いつか結婚するならば、愛した人と。
まるで無垢な少女のような純情さに、イリアスは恥ずかしくなった。
そんな時だった。パタンとドアが開いた。
カデナがハアハアと息を荒くして、立っていた。顔色は真っ青だ。
「どうされました、カデナ様」
その顔を見て、イリアスの体に緊張が走る。
「お、遅かった。姉上に謀られた・・・」
「はあ?」
状況がわからず、イリアスは、ソファから腰を浮かせた。
「一体どうしたというので・・・」
言いかけて、イリアスは、カデナの背後に視線をやった。
「ル、ルナ様、なぜ、ここに・・・」
ハァイとルナはヒラヒラと手を振っている。なぜ、ルナ王女が、王宮ではなく、この屋敷に?!
「こういうのは、先手必勝よ。貴方がたが素直に行かないのは、最初から知っていたもの」
うふふ、とルナは微笑み、部屋の中のイリアスを手招く。
「さあ、いらして。荷物はあとから届けるわ。馬車が外に待っているの。新婚旅行の始まりよ」

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