月夜


静香は、夫の浮気がどうしても許せなかった。
妻が妊娠中に起こりがちな軽い浮気。夫はその程度だったのだろう。だが、静香はどうしても、許せなかった。

突然自宅に鳴り響いた電話。聞き覚えのない女の声、名前。夫を出してくれ、と電話口で興奮して叫んでいた。そして、お決まりのように「私を愛してるって言ったのよ。あの人は。何度も抱いてくれたわっ」と怒鳴った。どうやら酔っているようだった。無言で電話を切り、産まれたばかりの優を膝に抱えて、ビール片手にプロ野球を観戦している夫を、静香は冷たく見つめた。
「誰からの電話だ?」
振り返り夫は聞いた。だが静香は答えずに、台所へ戻った。
「静香。誰からの電話だったんだ?」
その静香の態度を不審に思ったらしく、夫は優を抱えて台所までやってきた。
「長崎芳江さんよ」
静香は、女が名乗った通りに言った。
「・・・」
すると、夫の顔色が、サーッと変わった。


その日から、家庭は壊れた。
産まれたばかりの優の存在ですら、夫婦の仲を修復する蝶番にはならなかった。


「まったく。誰に似たのかしら、この子は。男の子の癖して、メソメソして」
静香は、足元にくっついては、泣きじゃくっている息子を一瞥して、冷やかに言った。
「優は顔からなにからおまえにそっくりだ。おまえだろう」
「私はこんなに弱虫ではなかったわ」
「おまえがくだらん名前なんぞつけたからじゃないか。優、なんて。男はな。優しいだけじゃ生きていけないんだ。優しい男なんて、女に騙され、同僚に蹴落とされるわでろくでもない。まったく妙な名前をつけたもんだ」
「なにを言うのよ。貴方だって賛成したわ。私のせいにする気?」
「ああ。おまえのせいだ。俺が色々決めていた時に、おまえは強引にこの名がいいって主張した」
「男らしくない責任転嫁だわっ。優の性格はあなた似よっ」
静香は、足元に縋り付いている息子を振り払った。
「いつまでそうしてるのっ!男なんだからメソメソしないの。泣くならば部屋に行って泣きなさい。あなたのせいで、お母さんはまたお父さんに嫌味を言われたわっ」
ビクッと体を竦ませて、息子の優は、とぼとぼと部屋に戻っていった。



「あなた。優がお友達をぶって怪我させたわ」
「おまえの教育が悪いせいだろう」
「またそれなの?なんでも私のせいにして!男の子の教育は男のあなたが責任をもつべきよ。仕事、仕事で毎晩帰りが遅いのをいいことに、逃げるなんて卑怯よ。まあ、仕事なんて言っても、本当に仕事かどうかは怪しいものね。また浮気でもなさっているんじゃないの?」
「あんなのは1度きりだっ!たった1度のことを、しつこく言い続けるおまえの性格は絶対に暗いぞ。だから、優がこんなに暗い性格になったんだ」
「・・・・!最低な男っ」
静香は、ガシャンッと床に皿を叩きつけた。
「なんて人なの。あなたはなんて人なのよっ」
「お母さん・・・」
息子の優が、静香を見上げた。
「喧嘩はやめてよ。お父さんも・・・。喧嘩はいやだよ」
静香はキッと優を睨んだ。
「一体誰のせいで、私達が喧嘩していると思ってるの?あっちへ行きなさい。いやならば、おまえがあっちに行きなさいっ!」
優は目に涙を溜めて、台所から走り逃げた。


あてもなく優は家を飛び出し、公園に辿り着いた。
日も落ちた公園に、同じ歳ぐらいの子供はいなく、優はいつも混み合っていて乗れなかったブランコに、乗った。キィキィと、軋みながらブランコが揺れた。
しばらくずっとそうしていたのだが、名を呼ばれて、優はハッとした。お父さんとお母さんが迎えに来てくれたんだ、と思った。しかし、それは違った。今、自分は苗字を呼ばれた。両親が苗字を呼ぶ筈もない。

「連橋くん。どうした、こんな時間に」
優の前には、学校の先生が立っていた。お腹が大きくなって、お休みに入った近藤先生の変わりに来た町田先生だった。
「先生こそ。どうしてここへ?」
「見回りだよ。先生たちは、手分けして学校の近所を見て回っているんだ。時間を忘れて遊んでいる子がいたらお家に連れて帰るようにってね」
町田はニコッと笑った。
「君みたいな子をね」
「僕は遊んでいるんじゃないよ」
「ブランコで遊んでいるんだろ」
「違うもん。僕は遊んでいない。お父さんとお母さんが喧嘩ばっかりしてるから家出してきたんだ」
「お父さんとお母さんが喧嘩?家出?そうか。それじゃあ、先生が君のお家に送っていってあげるよ。それで様子をみてあげる」
優は町田の言葉に、ハッとした。
「本当に?」
「ああ。だから安心して。家出なんてやめて家に帰ろうな」
「うん」
町田は、優に手を伸ばすとブランコから下ろしてやった。
「先生、ありがとうっ」
優は、背の高い町田に、元気よく礼を言った。
「いいんだよ。可愛い先生の生徒のためだからね」
そう言って、町田は優の頭を撫でた。
町田と優が一緒に家に帰ると、両親はニコニコしていた。二人揃って、町田を迎えると、
「まあ、この子ったら大袈裟ね。先生、単なる夫婦喧嘩ですのよ。どうもご迷惑をおかけしました」
静香がペコリと頭を下げた。夫の健一も頭を掻いていた。
「いや、どうも。お恥かしいところを」
町田は、終始微笑んでいて、
「良かったな、連橋」と言って肩を叩いた。
「それじゃあ、失礼します」
「先生、バイバイ。ありがとう」
「じゃあな」
手を振って、町田がドアを閉めた。優は、嬉しくて二人を振り返った。
「お父さん、お母さん。もう喧嘩しない・・・」
バシッと、優は頭を叩かれた。健一だった。
「おまえはっ。両親の恥を、学校の先生にペラペラと喋りやがって」
「この子は、あなたにそっくりね。無神経なところが。本当によく似ているわ」
静香と健一は、睨みあってプイッと互いに別の方向を向いてしまった。
「どう・・・して?」
叩かれた頭が痛かった。さっきは、町田に撫でられて、フワフワと暖かかったのに。
「なんで叩くの?お父さん・・・」
涙が零れた。叩かれる理由が、優にはわからなかった。自分は、ただ。お父さんとお母さんに仲良くしてもらいたかったのに。


「連橋っ」
町田の声が頭に響く。
「なんてことをしたんだっ」
鉛筆を削る小さなカッターで、優は手首を切り裂いた。血が流れていく。
放課後。家に帰るのが怖くて、真っ暗な教室に座ったまま、突然襲った衝動に、優は絶え切れなかった。こうすれば、僕は死ぬんだ。テレビで、見たことがあるからね。
「先生・・・。僕ね。生きていてもつまんない。お父さんとお母さんは毎日喧嘩ばっかり。僕なんて、いてもいなくてもどうでもいいんだ。僕には生きている意味がないんだ」
「もう、いい。喋らなくていいっ。今医務室の香川先生のところに連れていくから」
町田が優を抱き上げた。慌てて走って、保健室に駆けこんだ。
「まあ、なんてことでしょう」
香川先生は、悲鳴に近い声をあげていた。

手首に大きな包帯を巻かれて、優はベッドの上で天井を見上げていた。
「連橋。今、ご両親を呼んだからな」
カーテンが開いて、町田がこちらにやってきた。優は、瞬きを繰り返す。
「僕。死にたかったのに・・・」
「連橋」
町田は、優の額に手を置いた。暖かい町田の手が、優の額を撫でた。
「君が死んだら、ご両親が悲しむよ」
「悲しむもんかっ。あんなジジイと、ババアッ!僕が死んで、せいせいするよ」
「連橋・・・」
「先生前言ったよね。僕が死にたいって言ったら。病気のせいで、死にたくないのに死ななければならない人に失礼だよって。だけどさ。僕だって病気だよ、先生。僕だって病気なんだよ。生きていても、ちっとも楽しくないんだよ。友達はいないし、父さんや母さんは喧嘩ばかりで。生きている意味なんかどこにもない。僕が死んだって、誰も悲しまない」
「先生が悲しむよ。例え、君の両親が悲しまなくたって、僕が悲しむよ、連橋。僕は君がいなくなってしまったら、とても悲しいよ」
優は目を見開いた。
「先生が・・・っ!先生が僕のお父さんだったらいいのにぃ」
そう言って、優は泣いた。
「先生はこう思うよ」
町田は優の頭を撫でながら、
「連橋。生きる意味はな。他人からは与えられない。自分で探すんだよ・・・自分で見つけるんだよ・・・。自分で作り上げるものなんだ・・・」
「・・・」
「探してもなかったら、見つけられなかったら、君で作るんだ」
「僕が?」
「そう。君が。生きている、生きていく、というなにかを。難しいか?先生の言うことがわかるか?」
「・・・わかる」
「君は頭のいい子だよ。連橋。先生もね。そうやって生きていこうと思っているんだ。だから、お互いに頑張ろうじゃないか。もうこんなことはしないでくれよ。死んではいけない。人は簡単に死ねる。だからこそ、簡単には死んではいけないんだ」
優は、町田を見つめた。町田は微笑んだ。カーテンの向こうで両親の声がした。
「君のご両親と話をしてくるよ」
町田はカーテンを引いて部屋を出ていった。

優は耳を澄ました。ところどころに聞こえてくる声。ほとんどが、両親の叫び声だった。
「責任を取れる立場でもないくせに、差し出た口をきくなっ」
父の声。
「面倒みてくだっているのはありがたいですけど、ちょっと行き過ぎですよ。人の家庭の事情にまで口出してくるなんて。それに私、近所の奥様に言われましたわ。ちょっとうちの優に対して、異常な構い方だって。下卑た言い方までされましたわ。先生、もしかして少年愛の嗜好があるんではないかしら?って。あなたの趣味はご勝手ですが、うちの優まで巻き込まないでくださいな」
母の声。
「優は私達の子だ。臨時教師が、偉そうな口を叩くな。今回のことだって、アンタの監督不行き届きだ。私達夫婦は、また近所にどう言われるかわかったもんじゃない」
また父の声。
優には話の大部分は理解出来た。だがところどころわからないところもある。町田の声はほとんど聞こえない。
「先生を苛めるなっ!」
優は、ベッドから飛び降りて、町田の前に走った。
「二人揃って、先生を苛めるな。僕は父さんや母さんより先生がいいっ。先生と一緒にいった動物園や遊園地のが楽しかった。僕は先生の子供の方が幸せだっ」
両親は驚いた顔をしていたが、母が急に笑った。
「そう。それならば、町田先生のところで面倒みてもらいなさいな。優。お父さんとお母さんは離婚します。どっちが引き取るかで揉めていたけど。これでスッキリしたわ。町田先生の子供にしてもらいなさい」
その言葉に、優は驚いて、町田を見上げた。町田は、自分の足元に縋りついていた優の頭を撫でながら
「お二人の気持ちはわかりました。これでは、連橋くんも可哀相でしょう。いや、彼の気持ちがよくわかりました。私が妻に事情を相談して、彼を引き取りましょう。このままでは、彼は貴方がたに殺されてしまう。これ以上は幾ら話しても無駄ですね」
町田はそう言って、ドアの方を指差した。
「出て行けよ、てめえら!世間体ばかり気にして、子供のこと考えたことがあるのか。なんの為にこんな小さな子供が自殺未遂までしたと思ってる。それなのに来た途端に、子供の容態も聞かずに、ご近所のことばかり気にしてやがる。こんな小さな子に、生きる意味がないなんて言われる教師の立場を考えたことがあるのかっ!両親の立場として、考えたことがあるのか!ふざけんなっ!」
「な、なんていう口のききようだ」
父がブルブルと拳を震わせて、町田を睨んだ。
同席していた香川先生が、
「町田先生。興奮してはいけません」と何度も繰り返していた。
「クビだ。校長に訴えてやるっ!優、来いっ」
父は、優の手を引っ張った。
「やだあ。先生と一緒にいるっ」
優は、バシッと父の手を払った。
「来なさい、優。こんなヤクザみたいな口聞く男に貴方を任せて、あとで養育費を請求されてはたまらないわっ。この子は、私が引き取りますっ」
母が無理矢理優を抱き上げた。
「いやだよ、先生、先生っ」
優は町田に向かって手を伸ばした。町田は悲しそうな顔をしていたが、首を振った。
「連橋・・・。ありがとうな。おまえは俺に教えてくれたよ。俺もずっと・・・。生きる意味を探していたんだよ。ありがとう」
「先生っ!」
「おまえの立場で、探せ。見つけろ。そして作り出せ」
「なにを言っている。即日クビだ。この不良教師め」
「言われなくても、出て行くよ。教師もそれなりにやってきたが、あんた達みたいな自分のことしか考えていない夫婦ははじめてみたよ」
健一は舌打ちしながら、バンッ!とドアを乱暴に閉めた。

母と父の怒り。そして、優は泣き出した。先生に会えなくなる。もう会えなくなる。優しい先生。お兄さんみたいな、いや、お父さんみたいな、お父さんより、優しい先生。

優は泣きながら、心に決めた。先生と一緒に居る。先生のところへ行く。先生が学校を辞めても、僕は先生の後を追っていく。父さんも母さんも嫌いだ。僕は先生と一緒に生きていく。

保険医の香川先生に、駄々をこねて優は、町田の引越し先を聞き出した。メモに住所を書いてもらった。調べたら、ここからは遠い町だった。けれどお金は持っている。今までもらったお年玉やおこづかいを貯めてきた。優は、貯金箱ごと鞄に入れて、家を出た。父さんも母さんももうどうでも良かった。きっと、二人は消えた僕を探しにこないだろう。それでも、いいやと優は思った。


知らない町は怖い。だが、優は勇気を振絞って、メモに書かれた住所を、そこらに歩いている大人に聞いた。やっと辿り付いて、町田の家の呼び鈴を鳴らした。女の人が出てきた。すると、女の人は優の顔を見るなり、叫んだ。
「きゃああああっ」
慌てて町田が出てきた。町田は、女の人に声をかけながら抱き締めた。だが優を見ると、嬉しそうに笑い、そして次に悲しそうな顔をした。
「どうしたんだ、連橋くん」
「先生のおうちの子供にしてもらいたくて、家出してきたんだ。迷惑だったかな・・・」
「そうか。遠いところを一人で来たんだな・・・。よく来れたな。偉いぞ連橋」
言いながらも町田は、ますます悲しい顔になった。いつも優に見せてくれている笑顔ではない。悲しそうな顔。小学校6年生の優にだって、さすがにその顔を見ては、町田が自分を歓迎していないことに気づいた。優は、唇を噛み締めると、ダッと町田の家を飛び出した。
「連橋。待ちなさい。一人でどこへ行くんだ。そこで待っていなさい」
背中に町田の声を聞いたが、優は無視して走り去った。


適当に走っていると、近くに川があったことに気づいて、優は土手に腰掛けた。すぐ後ろの砂利道を、色々な人が喋りながら歩いていたり、自転車で走っていったりしていた。そんなざわめきを聞きながら、優は膝に顔を埋めていた。ずっと、ずっと、そうしていた。そのうち涙が出てきて、優は一人で泣き始めた。
「どうしたの?そんなところで、泣いて。さっきから、ずっといるよね」
声をかけられて、優は振り返った。綺麗な女の子が立っていた。目がパッチリしていて、制服を着ていた。セーラー服だ。手にはスーパーの袋をぶさらげていた。
「さっきからいるよね」
「うん。帰るお家ないからずっとここにいる」
女の子の質問に、優は答えた。
「あら、まあ。迷子?それとも家出かしら。しようがないなぁ。じゃあ、うち来なさいよ」
「お姉ちゃん、迷惑でしょ」
「そんなことないよ。私も一人で寂しかったの。一緒にご飯食べよう。もう半日もそこで座ってるじゃないの。お腹空いたでしょ」
言われて、優は自分が今朝からなにも食べていないことに気づいた。
「あ、ありがとう。僕お腹減ってる・・・」
「どういたしまして。私は亜沙子。川藤亜沙子よ。貴方の名前は?」
「連橋優」
「そう。優ちゃんだね」
「やめて」
「え」
「僕、優っていう名前嫌い」
「どうしてよお。いい名前じゃないの」
「よくない名前だってお父さんが言った。優しい男の人は、ろくなことにならないって。女みたいな男になっちゃうって。だから嫌い」
「そお。じゃあ、連ちゃんね。連橋のレンで、連ちゃん。これでいい?」
「うん。じゃあ僕は亜沙子お姉ちゃんでいい?」
「いいよお。さ、行こう」


案内された家は、吹けば飛んでしまうようなボロアパートだった。とても、亜沙子みたいな綺麗な子が住んでいるような家には見えなかった。
「ぼろい」
優が思わず言うと、亜沙子は「そうね。本当にぼろいね」と笑った。二人でご飯を食べていると、廊下で大きな声がして、口の周りが髭だらけの男がズカズカと入ってきた。
「お、亜沙子め。さっそく男を連れ込んできやがった」
「やあね、先生ったら。この子、連ちゃんだって。行くところないんだって。だからね。私の子供にしようと思うの」
「はあ?なに言ってんだ、おまえ」
髭男は、プハハハと笑った。
「だって、連ちゃん可愛いんだもん。お人形さんみたいよ」
亜沙子は、隣でご飯を食べていた優をギュウッと抱き締めた。
「こらこら。家出少年ならば、警察だぞ」
その言葉に、優はビクッとした。
「警察、やだ。僕、父さんと母さんのところに戻らない!」
髭男を見上げて、優は首を振った。
「急がなくてもいいでしょ、先生」
「わかった、わかった。あとで話を聞いてやるから、亜沙子、メシ。腹減った」
「先生、バイト代滞納してるよ。ちゃんと払ってね」
「今度原稿料が入ったら、払うさ」
「本当でしょうねえ」
うなづきながら、大林はジロッと優を見た。優は、びっくりして亜沙子の背に隠れた。
「おい、ガキんちょ。俺の名は大林二郎。おまえは?」
「連橋優」
「へえ。芸名みたいな名前だな」
大林は笑うと、いきなりすごい勢いでメシを食い始めた。
「この人はね。私の部屋のお隣さんで、小説家なのよ。売れない小説ばっかり書いては、貧乏しているの」
亜沙子はクスクスと笑った。
「ねえ、連ちゃん。あとでこの先生に事情をお話して。そしたら、私と一緒に眠ろう。連ちゃんは安心してていいのよ。この先生、見かけと違って結構頼りになるから」
「うん。ありがとう」
コクリと優はうなづいた。


次の日。優は亜沙子と遊んでいた。事情はすっかり大林に話した。大林は警察に行った。だが、ブリブリ怒って帰ってきた。
「子供がいなくなったっつーに、捜索願も出さずに、そのうち迎えにくるだとよ。今、離婚協議で忙しいだとぬかしやがった。どういう両親だ、あれ」
優は、ジイッと大林を見上げた。
「僕、帰るの?」
「当分ここに居ろ。両親が来ればの話だけどな。あれは来そうにねえぞ。このチビの家出を喜んでいるふしがありやがる」
後半は、亜沙子に言っていた大林だった。
「あのね、先生。さっき警察から連絡があって、連ちゃんの知り合いの町田さんって言う人があとからここに来るの。会って、話を聞きたいって」
「おう。乗りかかった船だ。なんでもきやがれ」
大林はそう言うと、さっさと隣の部屋に入っていった。
「連ちゃん。一緒にいられるといいね」
「亜沙子お姉ちゃんのご飯、美味しい。僕も一緒にいたい」
「うん。一緒にいられれば、いつも作ってあげるよ。連ちゃん。川に遊びに行かない?町田さんがくるまで。来ても大人同士の話合いがあるし。難しい話は聞いててもつまらないじゃない」
「うん。でも、先生に会いたい」
「川辺リにいれば、わかるよ」
「そうだね」
亜沙子は優の手をひいて、部屋を出た。


「連橋!」
名を呼ばれて、優は振り返った。
「連ちゃん、町田さんが来たみたいね。じゃあ、私は先に帰っているよ」
「うん。あとから行くから」
「ゆっくりしておいで」
亜沙子は、土手を駆け登って行った。堤防に佇む町田に、擦れ違いざまペコッと挨拶をして、アパートに戻っていく。
「先生」
町田は川辺りまで降りてきた。
「大林さんとお話したよ。君は、ご両親が迎えにくるまで、彼に預かってもらうことになった。安心しなさい」
「ごめんね、先生。いきなり来ちゃって」
「連橋。先生は君に謝らなきゃいけない。先生はね。本気で君を引き取るつもりだったんだ。だがね。先生の妻が・・・奥さんがね。つい最近、流産・・・。赤ちゃんが産まれる予定だったんだが、産まれる前に死んでしまったんだ。それで、彼女はとても、傷ついていて。男の子だってわかっていたんだ。だから、今は彼女は子供、とくに男の子を見ると、悲しくて怖くて、叫んでしまうんだ」
「そうだったんだ。だからさっき僕を見て叫んだんだ・・・」
「そうだよ。元々彼女の体は、赤ちゃんを産むのが難しい体でね。だから余計に彼女は傷ついてしまっている」
「わかるよ。そんなところに僕がいったら、ますます先生の奥さんが泣いちゃうもんね」
「だから、連橋・・・」
「うん。いいんだ。僕、先生の側にいられるだけで。それだけでいいの。きっと父さんと母さんは僕を迎えに来ない。だから、僕はずっとここにいられる」
「連橋」
「先生の本当の子供にはなれなくても、僕は先生とずっと一緒にいたいんだ。側にいて、いいよね。また動物園や遊園地に連れていってくれるよね」
「ああ。いいとも。また行こうな。連れていってやるさ」
「ありがとう、先生」
優は、ギュッと町田に抱きついた。町田も優を抱き締めた。
「大林さんにご迷惑をかけるんじゃないよ。君はいい子だから、そんなこと言わなくてもわかっているだろうけどね。連橋。先生の本当の子供にしてやれなくて、ごめんな」
「いいんだよ。先生。先生は、僕の心の中でのお父さんなんだから」


結局、優の両親は迎えに来なかった。町田と大林の間で、なにか色々と話し合いやら手続きを経て、優は大林に保護されることになった。養育費と名のついた離縁状が、弁護士を通じて大林の手元に届いた。かなりの大金だったというが、大林はそれを全部返してしまった。亜沙子に散々怒られたらしいが、大林はまったく気にしていなかった。それからは、町田も金銭面では大林を助けていたという。

優は幸せだった。優しい亜沙子、ぶっきらぼうだがやはり優しい大林。そして、なによりも町田。町田が側に居た。彼は言葉通りに、優をあちこちに連れ歩いてくれた。優しく笑いながら、目に映るものの不思議を彼なりの言葉で優に説明してくれたりしていた。
中学に入学しても、優の幸せは変わらなかった。小学生までの不幸が信じられなかったぐらいだった。同じクラスになった流というちょっと変わったヤンキーと友達になった。彼は、見た目とは裏腹にとても面白いヤツだった。そして、いつしかいつも側にいた亜沙子が恋人となり、初めてキスというものを経験した。町田には、勉強を教わった。「これ、中学生でやる問題か?難しいなぁ」とか言いながら、町田は参考書片手に一生懸命教えてくれた。満ち足りた時間だった。優は、両親のことなど思い出しもしなかった。だが、時々優はふと、我に返ることがあった。

こんな幸せは、ずっと続くものなのだろうか・・・。ふとそんなふうに思うことがあった。何故だかわからない。だが、いつからか密やかに胸を騒がせながら、思うことがあった。


そして。来るべき時は、突然にやってくる。
桜散る月夜。町田は突然に逝った。

なにが起こったのか、優にはわからなかった。
一体、なぜ、こんなことに・・・!!さっきの男のせいなのか!!

抱き起こすと、町田はうっすらと笑っていた。誰がやったのか!優は必死で聞いた。町田は、小さく一人の名を呟いては息を吐いた。その名を胸に刻んで、優は町田を抱き締めた。
「先生。せんせいっ!しっかりしてください。先生っ」
町田は胸を大きく喘がせながら、なにごとかを呟き続けた。だがそれは、優の耳には明確な言葉としては、届かない。
「聞こえないよ、先生。ちゃんと言ってくれ!」
「ゆう・・・。れん・・。ひさと・・・頼む」
震える手で、町田は連橋の頬を撫でた。やっとその言葉だけは聞き取れた。優は自分が呼ばれていることに気づいた。
「そうだよ。俺だよ、先生!しっかりしろよ!」
涙がこみあげてくる。町田は、ゆるやかに優の頬から手を離した。そして、腹から血を流しながらも、町田は天を仰ぐように、嘆息しては空に向かって手を伸ばした。
「ゆ・・・う」
それが最期の言葉だった。町田の瞳がフッと閉じた。ドサリと腕が落ちた。
「!」
優は愕然とした。目の前の事実が、受け入れられない。
「いやだよ。嘘だろ。なんで、こんなことに。どうして。先生、先生ッ!」
優は悲鳴をあげた。悲鳴をあげて、町田の亡骸に伏せては泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けて。どれぐらい時間を経た頃か、ヨロリと起きあがった。

さっき町田が見上げた空。金色の月が、浮かんでいた。優は、涙をグイッと拭った。
『小田島』
その名を口にして、優は目を見開いた。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。いつの日か、きっと。絶対に!

生きる意味。探して見つけた。町田という、心の父。
そして奪われた。あまりに突然に、そして理不尽に。
では、作ろう。作ってやろうじゃねえか。
『町田を殺した男を、必ず殺してみせるッ!』


「連。そろそろ時間だぜ」
優は名を呼ばれて、ハッとした。流だった。
「あと、5分だ」
時計を見ながら、流は言った。優は、対峙する小田島のグループを睨んだ。
「山野」
「おう」
大将である山野は、吸っていたタバコをポイッと地面に投げ捨て、足で消しながら、優を振り返った。
「話したとおり、流はもらっていくぜ。俺は突っ込む。今日はてめえの身はてめえで守んな」
優は言った。山野はニヤッと笑った。
「いいぜ。好きにやんな。今まで勝たしてもらった礼だ。ただし、間違っても殺られてくんなよ。あっちにはな。城田がいる」
「城田?」
初めて聞く名前に、優は首を傾げた。流は、山野の言葉にうなづいていた。
「ああ。小田島の切り札だ。1中が無敵なのは、ほとんどアイツの桁違いの強さのせいだ。攻めも守りも超一流。コイツに阻まれて、おまえが殺られるなって言ってんだよ」
「連。時間だ」
カッと、車のハイビームが光った。それによって照らし出された、上空に在る月を眺めて、優は鼻で笑った。
「俺は・・・。小田島を殺る。城田だかなんだか知らねえが、邪魔させるか」
ビュッと木刀を振って、優は流を振り返った。
「流、行くぜっ」
「おう」
「小田島ッ!ぶっ殺してやるっ!」
叫んでは、味方を押しのけて、優は敵陣に向かって駆け出していた。

END

モドル