仕方ないよ、好きなんだから11


あ〜。帰りたくねえ。
明らかに、きょどった俺を怖がって帰ったいずみ。
なんであんなこと言っちゃったの、俺。
だって、だって。
距離が近すぎるっていうか。
始発に乗り込み、そんなことをボ〜ッと考えながら、窓の外を眺めた。
世界が始まる。また一日が始まる、朝の風景。
昨日からの自分を振り返り、俺は猛烈に恥ずかしくなり、その場で喚きたいくらいだ。
仕事しよ。仕事に打ち込もう。
そうだ。もう俺ってば、仕事人間になってやる。
家帰って、スーツに着替えて、義父さんの所に寄り幸裕を保育園に送り、職場に向かう。真面目に働いて、幸裕を迎えに行き、
帰って食事。いいじゃないか。
そこにいずみがいたって、単なる同居人ってことで。
そうだ。そうだよ。いずみに幸裕見ててもらって、ちょぴっと風俗なんかにも行って発散してくりゃ余計いずみだって安心だろうさ。
もう典型的なシングルファーザーしときゃいいんだ。
そう考えると、気持ちがスーッと楽になった。
始発電車を降り、俺は土手沿いを歩き、家に向かった。
方向性が決まったせいか、さっきまであれほど落ち込んでいたというのに、心は不思議なくらい軽やかだった。
家のドアの前に立った時はさすがにちょっと緊張したが、深呼吸してやり過ごす。
「!?」
ドアノブをガチャガチャさせると、鍵がかかっていた。
チャイムを鳴らしても反応がない。
ということは、いずみは、いないということだ。
「・・・」
慌ててドアを開けて部屋に入ると、室内からの冷たい空気が俺にぶつかってきた。
空気が冷えてる。
いずみは、この部屋に帰ってこなかったのか。
てか・・・。帰ってきたくなかったのか。
そりゃ、そうだよなぁ。
こえーよ、こんな家。
俺の足は、玄関で固まったまま、その場から動けずにいた。
顔赤くして、自分相手に意識バリバリしてるような、女房に逃げられ溜まってるんだと堂々と言い切るやもめ男がいる家なんて。
一緒にいたら、どんな呑気な男だって怖くもなるってもんだよ。
そうだ。
逃げて正確だよ、いずみ。おまえには帰る立派な家があるんだし。
王子から、本気で逃げようと思えば、おまえは逃げることが出来るンだろうし。
「バカみてぇ」
なんか一生懸命考えてさ。
そうだよ。いずみは、もう、俺の家になんかいる筈がないんだ。
どんな呑気で鈍感なヤツだって、あの場の空気が読めない筈がない。
なんでだろう。
俺、どうして。
なんでかなぁ。
いつのまにか、いずみのこと、むちゃくちゃ意識してた。
ポロポロと涙が零れた。
「アホか」
いい歳こいたおっさんが、なに泣いてンだよ。
ったくさ。
でも、止まんねえんだよ。
幸子を失ってから、俺は、本当によく泣くようになった。
いつも、アイツの前では強くいなきゃと思っていて気を張っていた。
それが必要なくなったら、俺はこんなにも脆くて弱いのかと思ったらすげえ情けない。
まだまだ幸裕の為に、俺は強い男でいなくては、ならないのに。
「奥さんの時も、そんな風に、泣いてたの?」
「!」
開きっぱのドアの向こうで、いずみの声が聞こえた。
「あなた、泣き虫さんだね」
怖くて振り返ることが出来ない。
「な、なんで?なんで、いんの。家に帰ったんじゃ・・・」
振り返らないまま、俺は言った。
情けないぐらい、声が上擦った。
「だって俺、合鍵もらってないんだ。鍵がないから、貴方の家には、勝手には入れない。だから、貴方が帰ってくるのを待っていたよ」
そうだった。
いずみが早い日は、幸裕を迎えに行ってもらっていた。
鍵は幸裕にもたせていたから、いずみはそれでこの家の鍵を開けていた。
「渡してなかったっけ?」
しらばっくれて言ってやると、いずみは、苦笑した。
「警戒心バリバリで、いまとさんは、鍵をくれなかったよ」
キィッとドアが開き、いずみが、こっちに入ってこようとする気配を感じた。
「待て。入るな」
俺は、声を上げた。
「いまとさん?」
「お、俺。よくわかんない。自分の気持ちがよくわからないんだ。今でも混乱してる。けどな。昨夜言ったこと、あれ、多分嘘なんだと思う」
グッと拳を握りしめた。
「嘘って?」
いずみが聞き返してきた。
「おまえになにがしの感情がある訳じゃないからって」
「ああ」
思い当たったのか、いずみは、頷いたようだった。
「あると思う。俺、なんか知らないけど。どうしてかわかんないけど。おまえのこと、意識してる。どうしてこうなっちゃったのかわかんないけど。だから」
「だから?」
「これからも、きっとおまえのこと、意識しちゃうと思うんだ、傍にいると。昨日みたく近くにいると。だから、おまえ。もう、俺の傍に来ないで欲しい。
それ以上、来ないで欲しい。おとなしく、じいちゃんの家に帰ってくれ」
いずみが傍にさえいなければ、俺は、普通でいられるんだ。
シンッとした沈黙が胸を射るけど、俺は、それを唇を噛むことで耐えた。
「いまとさん。実を言うと、俺も自分がわからない」
少しして、いずみがそんな風に、言った。
「正直、昨日はビビッてあの場を退いた。なにがしの感情がないなんて言われて、そのまま信じられる程鈍くもないんでね。タクシーに乗って、
家まで帰ってきたよ。勿論、自宅さ。そのまま病院に出勤しようと思った。でもね。貴方がどんな気持ちでこの家に帰ってくるか想像したら、
やっぱり放っとけなくて。そんな風に考えるぐらいには、俺も貴方が気になるんだよ。今は、これぐらいで許してもらえないかな」
「・・・」
「一緒にいたいんだ。一人は淋しい。あの広い家に、一人は淋しすぎる。いまとさんだって、そうでしょう?」
「そんな理由で、俺の家に入り込むつもり?少しは、もっと俺が期待が出来る気の利いた台詞言えよ」
言われたところで困るくせに、一体なにを言ってるんだ、といずみに背を向けたまま、俺は顔を赤くした。
「俺、職業柄、嘘もつかなきゃいけない時もあっから、そういうの得意だよ。言えって言われれば、簡単に言えるけど、それでもいい?」
残酷なんだか優しいんだか。
複雑な気分のまま、俺は、涙を拭った。
「いいわきゃねーだろ」
ドアが軋む音がする。
「ねえ。入っていい?いいよね?」
いずみが確認してくる。
「仕方ないな。勝手にしろよ」
「仕方ないって。いいんだよね?」
不安気ないずみの声に、俺は、苦笑いした。
いいわきゃねーっつーの。
けど。
「しょーがねーだろ。やだけど。ややこしくなっちまうのが目に見えてるから、やだけど。すんげえ、やだけど。俺は、おまえのこと。仕方ないよ、好きなん」
振り返りながら言った俺は、最後まで、言えなかった。
俺の続きの言葉、「だから」は、いずみの重なってきた唇に封じられて、言えなかった。
触れてくるいずみの唇は、優しく甘かった。


続く

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