ガラガラと引き戸が音を立てた。どうにも、小汚いラーメン屋であった。こんな所、味は確かなのだろうか・・・と松井はふと不安になった。
「あれ?まっさん達先に帰っちゃったのか・・・」
狭い店内をグルリと見渡して、野瀬は言った。
「ま、いっか。座ろう、遥さん」
「ああ」
カウンターに腰かけた。
「おっちゃん。ラーメン二つ」
カウンターの中の男に野瀬は気軽に声をかけた。
「へい」
無愛想な返事だった。
「うー。腹減った、腹減った」
そんな野瀬の横顔を、チラリと松井は見た。
「なに?」
バチッと目が合って、松井は慌てて目を反らした。
「どったの、遥さん」
キョトン、と野瀬が首を傾げた。
「ちょうどいい。ラーメンが来るまで、君に話がある」
「あい。なんでしょ」
ニコニコと野瀬は、松井の顔を覗きこんでくる。
「単刀直入に言う。君は東京にマンションを二つ、持っているな」
松井の言葉に、途端に野瀬は目を細めた。
「・・・あれ?なんで知ってるの。一つは連れて行ったことがあるけど、もう一つの方は話した記憶はないけど・・・」
明らかに動揺しながら、野瀬は言った。
「どうだっていいだろう。事実は事実だ」
「・・・はい。持ってます。でもあれは・・・。誰から聞いたか知らないけど、あのマンションは」
野瀬の言葉を、松井はブンブンと首を振って遮った。
「言い訳はいいんだ。とにかく、野瀬。あのマンションを、今すぐ売ってくれないか?」
「遥さんに?」
「の筈ないだろう。俺に億ションなど買えると思っているのか!」
「今価格落ちてるから、億になんかなんないよ。ま、いっけど。で。なんでいきなりそんなこと」
「理由は君が知っている筈だ」
「俺が・・・?」
怪訝な顔をして、野瀬はまた、首を傾げた。
「よくわかりませんが」
「あくまでもとぼけるつもりなら、それもいい。とにかく、どちらかのマンションをすぐに売るんだ」
バン、と松井はテーブルを叩いた。億ション二つ。買い叩かれても、とにかく今圧し掛かっている危機は避けられるだろう。
「・・・はあ。まあ、いっすけどね。俺、どうせこっち入り浸りですし」
野瀬はあっさりとうなづいた。
「んでも、手続きとかあるし。今すぐにって言うのは無理ですよ。俺、仕事今、抜けられないし」
「こんな所でのほほんとラーメン食ってる暇があったら、すぐにでもそうするべきだろう」
バンバン、と松井はテーブルを叩く。
「こんな所で悪かったね、にーちゃん。ほい、ラーメン二つ」
野瀬と松井の前に、ドン、とラーメンがいささか乱暴に置かれた。
「す、すみません」
松井が、ペコペコと店員に頭を下げた。そんな松井を見て、野瀬はゲラゲラ笑っていた。
「しつこいぞ」
あまりに堂々と笑われて、松井は顔を真っ赤にしながら、野瀬の肩を叩いた。
「だって、おかしいんだもんさ」
ふふふ・・とまだ笑いながら、野瀬は割り箸を手にし、ラーメンに手をつけた。松井も倣う。
「おいしー。大将、すっげえ美味いっすよ」
明るい野瀬は、声を大にして言った。
「そら、どうも」
ぶっきらぼうな礼の言葉が返ってくる。店長らしき男は、煙草片手に店の隅に置かれたテレビに視線を向けていた。
「本当に美味しいです」
松井も感想を述べるが、やや声が小さい。
「どうも」
やはりぶっきらぼうに、視線はテレビの方を向いたままだが、律儀に礼の言葉が返ってくる。
「ね。美味しいでしょ、ここ。こんな所だけどさ」
ヒソッ、と野瀬が松井に囁いた。こんな所、に小さくだが力を込めた。
「やなヤツだ」
松井が、苦々しい顔で呟いた。


ラーメン屋を出ると、二人でブラブラと歩いた。
「さっきの話だが・・・」
松井が先を歩く野瀬の背に声をかけた。
「ああ、マンション。わかったよ。でも、本当に俺はここを離れられない。だから、代理のヤツに話進めてもらっておくよ。ただしさ。俺、気になるんだよね。俺のもう一つのマンションのこと、貴方に話したの、誰?いきなり唐突過ぎるでしょ、この話」
「・・・誰って・・・」
松井は口ごもった。
「もしかして、泪じゃないの?アイツ、俺のいない間に電話してきたりしてさ。ないことないこと貴方に喋ったんとちゃう?」
「それは・・・」
違う、と何故かハッキリ松井にも言えなかった。野瀬の口からハッキリと事実を聞くのも怖い気がした。やっぱりな、と勝手に誤解したまま、野瀬は舌打ちした。
「あのさ。んじゃ、色々言われる前に言っておくけど。確かに、あのマンション。俺は遊びごとに使っていた。彼らに自宅を知られたくなかったんだ。俺、あの頃、ちょい精神的にゴタゴタしていて、とにかく来る者拒まずっていう感じで、日替わりで恋人いたような時期だったんだ。ごめんなさい」
野瀬の告白に、松井はショックを受けた。日替わりで恋人???では、あの男の言っていたことは真実だったということか。本人の口から聞いても、とても信じられない松井だった。
「遥さんが怒るのもわかるし、んなマンションを俺が持ったままなんて、いい気持ちしねーよな。だから、処分はする。でも、今すぐはムリ。そんな急ぐ話じゃないでしょ」
野瀬はちょっと困った顔をしたまま、ポケットから煙草を取り出した。ブラブラと歩くと、川ベリに出る。野瀬は、川ベリを指差し、「あそこで練習してるんだ。結構広いスペースだから、やりやすいんだ。来週本番だから、応援しにきてよね」と煙草片手に、松井に言った。
「来週!?もっと先じゃなかったのか?」
「来週だよ。もう何度も言ってるのに、興味ないもんだから遥さん聞いちゃいねーし」
「冗談じゃない!急ぐ話なんだ。週末は東京に戻って、手続きしてきてくれ。お願いだ、野瀬」
松井は、野瀬の襟元をグイッと引っ張った。
「君は、呑気すぎる。世間を知らなすぎるッ!」
そう言って、松井は野瀬の顔を覗きこみながら、とうとう怒鳴った。
「・・・ちょい待って。なんか、おかしい。ずれてる、話。遥さん。どうしたの?なにがあった?昨日までは普通だったのに。そこ座って」
野瀬は土手を指差した。松井は躊躇している。
「座って!ちゃんと説明して」
さっさと腰かけた野瀬の横に、松井はのろのろと腰を下ろした。そして、今朝早々に訪ねて来た男から聞かされた話を、野瀬に全て話したのだった。


その夜。松井宅のささやかなリビングには、今朝方の男、小堂わたるがソファに寛いで、呑気に煙草をふかしていた。
「んとに、てめーな。いい加減にしろよ、小堂!なに寛いでるンだよ、てめえ。俺は怒っているんだぞ。俺の遥さんの心臓縮めやがって」
バンッ、と野瀬はガラスのテーブルを叩いた。
「そうは言いましても坊ちゃま。これも私の仕事ですし」
小堂はケロリとした顔で言った。
「留守中に嘘ばっかり垂れ流しやがって。兄貴の犬め」
「隆道様は、高弘様が羨ましかったんですよ。束縛されずに、自由に生活されている貴方が」
「あんのロクデナシ!てめーだって、ちゃんと次期社長で優遇されてンじゃねーかよ。昔から、人の幸せを恨んでばかりの根暗ヤローだったんだ」
「お兄様のことを責めてはいけません。これは、お兄様の単なる茶目っ気ですよ」
「茶目っ気で済むか!もし話がこじれていたら、俺達別れることになったかもしれねえんだぞ」
小堂は、目の前にあったティーカップに口をつけながら、
「そういえば。うまくいけば別れちまうかもな、と隆道様はニヤリとされてましたね」
涼し気に言った。
「今度会ったら、ぶん殴ってやる。アイツ!!」
怒りまくっている野瀬であったが、すぐにハッとして、フンッと鼻で笑った。
「でも、まあな。遥さんが俺と離れたくないからって、一生懸命俺に忠告してくれたおかげで、真実がはっきりしたことだし。兄貴のやったことは、結果的には俺達のラブラブを証明してくれたようなもんだぜ。ね、遥さん。遥さんは、俺を実家に戻れと説得はしなかったもんね♪」
と、野瀬は松井の肩をグイッと引き寄せた。
「こ、こら。人前で」
「いいんだよーだ」
ガシッと野瀬は松井の肩を腕を回して、頬を摺り寄せた。
「そこなんですよね。あれだけ不愉快なことをわざわざ誇張して吹き込んだのですから、呆れはてて、てっきり実家に戻れと説得に回ってくださるものばかりと思いましたが。調査の結果、かなり真面目な方だと思っていましたのでね、松井さんは」
小堂は肩を竦めた。
「遥さんは、俺と離れたくないの!ね」
野瀬が松井の顔を覗きこむ。
「うるさい。も、もう。離れろ」
ドンッ、と松井は野瀬の体を押しのけた。うつむいた顔は僅かに紅潮している。
「そ、それより。まさか、君がそんな凄いところの令息だったことの方が俺には驚きだ」
結局のところ、こうだ。松井が聞かされた話は、ほとんどが嘘だったのだ。小堂わたるは、野瀬家の長男、野瀬隆道の部下だった。彼は、隆道の命令によって、野瀬を実家に戻そうとしたのだ。マンションの借金の話も嘘で、マンションは確かに二つ持っているのだが、それは現金でお買い上げ。小堂の持っていた名刺の有名な消費者金融ローン会社は、野瀬グループの関連する会社の一部なのだ。他にも聞いたことのあるスーパーや会社の名前がぞろぞろ出てきて、それらが全て野瀬グループのものだと言うし、勿論政界にも顔がきく知り合いがいっぱいいると言う。松井は驚いた。例えこの借金の話が真実であっても、5000万円という金は、野瀬高弘にとっては、とるに足らない金額であったに違いない。野瀬は、真実に、金持ちのお坊ちゃまなのであった。
「クソ兄貴に言ったれ。んなに、5000万円欲しいならば、俺の口座から勝手に引き出せってな。暗証番号教えるから、メモってく?」
野瀬は、軽い口調で小堂に向って言った。
「ご勘弁ください。今回はすみませんでした」
苦笑して、小堂は頭を下げた。その小堂の反応に、松井は咄嗟に「教えてくれ」と言いかけた自分を心の中で恥じた。
「自分の立場で幸せめっけろ、と兄貴に伝えてくれ。いつまでも人羨ましがってねーでさ、って」
「承りました」
小堂は、煙草を灰皿で揉み消すと、松井に視線をよこした。
「この度は驚かせてすみませんでした。これからもお二人仲良くお過ごしください。お邪魔致しました」
ニッコリと微笑み、小堂は松井にも頭を下げた。松井も慌てて頭を下げた。
「では、失礼致しました。坊ちゃま、試合頑張ってくださいね」
「当たり前だろ。この何週間、マジに練習したんだからな」
小堂の尻を蹴飛ばしながら、野瀬は小堂を玄関へと追いやる。
「二度と来るなよ、バカヤロー」
笑いながら、野瀬は小堂に手を振ると、バタンとドアを閉めた。
パタパタと野瀬が玄関からリビングに戻ってくる。
「はーるかさんっ」
ソファに腰かける松井を背中から野瀬は抱きしめた。
「ごめんね。心配かけて。本当にごめん」
「もう済んだことだ。いいよ・・・」
ホウッと松井は溜め息をついた。
「うちの兄貴もさー。可哀想だとは思うけどね・・・。でも、自分で選んだ道だし」
言いながら、野瀬はストンと松井の横に腰かけた。
「俺は俺で。遥さん、選んだし・・・」
「・・・」
「選んでもらえたし!」
ニコッと野瀬は笑う。
「・・・良かった。これが、全部嘘で」
パッ、と松井は野瀬に抱きついた。
「遥さん?!」
「け、今朝から、本当に怖かったんだ。借金を返さなければ、君が実家に取られてしまう。そうなったら、俺はどうしようって。預金通帳見てはガッカリし、退職金前借りのことを考えてはガッカリして。どうしていいかわからなかった。君が・・・もし実家に連れ戻されてしまったらって」
腕の中の松井の体が僅かに震えている。野瀬はそれに気づき、ギュッと松井を抱きしめた。
「どこへも行かないよ。ここにいるって。俺、遥さんの傍にいるよ。ありがとう。実家に帰れって言わないでいてくれて。んなこと言われてたら、俺ショックで死んじゃうかも。それぐらい、俺も遥さんと離れたくないんだよ」
二人は顔を見合わせた。目と目が合う。そして、自然に唇が重なった。松井が、それでも不安なのか、野瀬にしがみついてきた。
「ホントに、ナチュラルに甘え上手な人だなぁ」
嬉しそうに野瀬は言って、松井の柔らかい髪を撫でた。
「大好き、遥さん」
そう言って、野瀬は松井を抱き上げた。
「わっ。の、野瀬?」
「いい加減、高弘って呼んで」
野瀬は松井を抱きながら歩き、寝室のドアを足で蹴飛ばした。ドサリと二人の体がベッドに沈みこむ。
「約束だよね。金曜日の夜と土曜日の夜は、セックスしていいって・・・」
組み敷いた松井の額にキスをしながら、野瀬は囁いた。
「俺、今日は嬉しいから、すっごい頑張れちゃうかも・・・」
「なに言ってんだ、バカ」
照れた松井が、近寄ってくる野瀬の顔を手で押し戻した。
「テーブル片付けなきゃ。ティーカップ洗うから」
松井は体を捩った。
「んなの、明日でいいよ。ねえ、遥さん。愛してるよ。これからも、ずっと一緒にいようね」
野瀬の言葉に、松井は目を見開き、そして野瀬を見上げながら、コクッとうなづいた。
「一緒にいたい。ずっと。・・・野瀬。いや、高弘と。ずっと一緒にいたい」
「だよね。それじゃあ、とにかく、繋がろう!」
「なにがとにかく、だ。明日も練習あるんだろ。バカ、バカ。いやだ」
相変わらずセックスとなると、素直ではない松井の体を、押さえつけながら、野瀬は耳元に囁く。
「愛してるよ、遥」
魔法の呪文。松井の抵抗が止む。野瀬は、松井と繋がる為に、ゆっくりと服を脱いだ。


一週間後。快晴。
河原に、キーンッと気持ちのいい音が響いた。逆転サヨナラホームラン!!
「勝った、勝った!あぶねー。でも、勝ったァ!!やったあー!遥さーんっ」
大きく手を振りながら、応援に駆けつけていた松井に向って、野瀬はめちゃくちゃ嬉しそうな笑顔で、走ってきた。フワリと風に乗ってピンクの花弁がそんな野瀬に降り注いでいる。まるで勝利の紙吹雪のようだ。ピンクの花弁。それは、春の桜。走ってくる野瀬を、目を細めて見つめながら、松井もまた微笑んだ。出会ったのは、秋の桜が咲いている頃だった。そして、今は春の桜が咲いている。次に秋の桜が咲く頃も一緒に居られるだろう。何度も、何度も、秋と春に桜が咲いても、野瀬の隣には松井が、松井の隣には野瀬が。きっとずっと二人は一緒。

END
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