「遥さん。行ってくるからね」
チュッ、と松井の唇にキスをすると、野瀬はバタバタと寝室を出て行った。
「ん・・・」
重度の低血圧の松井は、起き上がりこそ出来なかったが、それでも重い瞼を一生懸命開いては、野瀬の後姿を見送った。バタン、とドアが閉まる音。その音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。土曜日の朝。至福の一時。いつまでも好きなだけ眠りを享受出来るのだ。
「・・・」
コトン、と松井は再び眠りに落ちた。そして、それよりほんの僅かな後。激しいチャイムの音に、さすがの松井も目を覚ました。のろのろと時計を見ると、ちょうど時計は7時を差していた。
「忘れ物・・・!?」
即座にそう思った。野瀬は、会社の野球チームに属していて、なんでも数週間後に隣町のチームと試合があるので、最近は休みの日ともなると早朝から練習に励んでいる。ついさっきも、その早朝練習の為に出て行ったばかりの筈だった。
ピンポーン、ピンポーン。容赦なく玄関のチャイムが鳴る。
「なんだよ・・・」
合鍵を持ってる筈なのに・・・と思いつつ、それでも尋常じゃないチャイムの音に不吉な予感を覚えて、松井は起き上がった。よれよれの髪に、よれよれのパジャマ。胸元はかなりはだけていて、そこには昨夜の名残の朱が散っていた。
「忘れ物か?鍵はどうしたんだ。鍵も忘れていったのか?まったくもう」
ブツブツ言いながら、松井はドアを開けた。
「おはようございます。と言いつつ、朝早くにすみません。野瀬さんを訪ねてきたんですが」
松井はキョトンと、ドアの向こうに立っている男を見つめた。何度も瞬きを繰り返す。
「あっ。野瀬ですか。す、すみません。もう出かけましたが」
脳味噌がやっと動き出した。てっきり野瀬だと思っていたチャイムを鳴らした主は、野瀬ではなく、かつ松井の知らない男だった。野瀬を訪ねてきたのだから、野瀬の知り合いだろう。
「ええ?もう出かけたんですか。ちっ。逃げられたか・・・」
そう言って男は、軽く舌打ちしたが、そのしぐさに、松井はゾーッと背筋が震えた。一気に脳味噌が覚醒した。
「あ、あの・・・。野瀬に一体どんな御用が・・・」
聞かなくてもわかる気がしたが、聞かずにはいられない。
「ああ。すみません。私、こういう者でして」
男が差し出す名刺を見るまでもなかったが、見ても「ああ、やっぱり」と思ったぐらいだった。
有名な消費者ローン会社の名が名詞には刷り込まれていた。
「ご本人が逃げた後では、仕方ありません。ですが。せっかくここまで来たのですから、私も簡単には引き下がれません。恐れ入りますが、私の話を聞いていただけませんでしょうか」
「は、はい」
断れる筈もなかった。言葉こそやたらと丁寧だったが、男の視線は射抜くように鋭かった。雰囲気も、一目でわかる。目の前に立つ男が、「ヤクザ」だと言うことぐらい。松井は、微かに体を震わせながらも、男を部屋に招きいれた。
「散らかっておりますが」
と言う一言を付け加えるのを、松井は忘れなかった。


男は、よく通る声と、終始一貫して丁寧な言葉使いで、自分の任務を松井に説明した。
「同居されている貴方にも話していないところを見ますと、まあ、本人も言いにくいことではあるんでしょうな。仕方ありません。それを考慮しまして、一週間はお返事をお待ちしましょう。なに、一週間後に全額返せなんてムチャは言いませんよ。ただ、今後の方針をね。それと、二か月分の延滞金を支払ってもらえれば、とりあえずは・・・。なにより、貴方からも野瀬さんご本人を説得していただくようにお願いします。穏便に済めば、こちらとしても無駄な労力を使わずに済みますので助かりますのでね」
ニコッと男は、場違いなくらいに穏やかな微笑みを残して、出て行った。

松井は、ズルズルと背中からソファを滑り落ち、ペタンと床に座り込んだ。
「冗談だろう・・・」
呟くものの、松井には思い当たることがあった。
野瀬が二ヶ月前に、実家に帰ったこと。そして、父親と喧嘩してきたこと。散々愚痴っていた。
それからだ。野瀬の帰りが遅くなったのは。同僚がギックリ腰を患い、その代わりとして忙しいという言葉をそのまま信じた。だが、男の話を聞く限り、それは嘘であることは間違いなさそうだった。ということは、一週間前から始まった早朝からの野球練習も嘘である確率が高くなってきた。それに、だ。確かに、松井自身もここ数日は、得体の知れない視線を受けることに気づいていた。今思えば、見張られていたのだろう・・・と思う。野瀬と一緒に住む松井も、彼らにとってはターゲットなのだろう。そう思うと、ゾーッとした。

男の説明によると、野瀬には多額の借金があると言う。裕福な実家の援助をアテにしていた故の散財・・・とさっき早朝に訪ねてきた男は松井に言った。東京の一等地に持つ、二つのマンション。これが、負債のほとんどを占めているらしい。男が松井にベラベラと喋っていた東京に居た頃の野瀬像は、松井にとってはとても信じられなかった。二つ持つマンションのうち、一つは勿論自宅だが、もう一つはコロコロと変わる愛人用だったと言う。愛人を囲っては、親の財力にものを言わせ、その愛人ら相手に派手に振舞っていたと言う。歳相応の暮らしではなかった・・・と男は羨ましそうに言った。
だが。順調に振り込まれていた返済金がいきなり滞った。それ故に、「我々も仕事ですから」と、仕方ないとばかりな顔になり、男らは取立てを実行することにしたらしい。
「スポンサーである親と、コレしちゃったんですな、きっと。ですから、振込みストップという訳ですよ。これだから、イイとこ坊は仕方ありませんね」
男は太い指で、バッテンを作って見せた。
「・・・」
思い当たることがありすぎて、松井はうなづくことすら出来なかった。
「5千万円・・・」
かる〜い口調で男が示した負債額。呟いて、松井はガックリと項垂れた。平凡な公務員の松井には、その金額を聞いた時点で、首を吊りたくなってしまうような気持ちになった。
「・・・」
松井はよれよれと起き上がり、リビングにあるクローゼットを開けた。その中にある玩具のような小さな金庫。暗証番号を入力し、パカッと小さな音を立てて開いたその中に、鎮座する預金通帳。震える手でそれを掴んで、残高を確認した。
「500万円。一桁足りない・・・」
呟いて、ますます項垂れた。バサッと、足元に通帳が落ちた。
どうしよう。どうすればいいのだろう。松井は通帳を拾うことも忘れて、その場に蹲った。とりあえず、これだけでも渡せば、期日を延ばしてもらえるだろうか。そうだ!退職金の前借りをして・・・。
「全然足りない。足りる訳ない」
再び呟いた。松井は唇を噛み締めた。こんな巨額の借金があるのに、野瀬は一言も相談してくれなかった。あの男、そうだ。名は、小堂わたると言った。小堂曰く、「恋人である貴方には、言いづらかったんでしょう」とのことだった。「恋人。どうして」と聞き返すと、小堂は笑いながら松井の胸元を指差した。はだけた胸元に派手に散ったキスマークを差したのだ。松井が顔を赤くしながら慌てて胸元を整えた。動揺のあまり、服装のことなど気にするゆとりはなかった。「照れることはありません。東京に居た頃から野瀬さんは、男相手だったんですからね」とあっけらかんだった。「貴方ではない男に貢ぎまくった故の散財です。プライドがあるならば、話せる筈もない。まあ、そのことで揉めるより、説得に回った方が得策ですよ」とのアドバイスまでしっかりと小堂はくれていった。

説得。それが問題だった。野瀬の借金は、実家に戻ることであっさりと解決するのだそうだ。
「彼の父上は確かにそう言いましたのでね。ですが、戻らないのであれば、あくまでも借金は野瀬さん本人に責任を取らせろ・・・との厳しい一言です。彼がとっとと実家に頭を下げて戻ればあっと言う間に解決します。ですが、どうも、我々の調査では、野瀬さんはそんな気質ではなさそうですね。ましてや、今は貴方という恋人がいます。ほいほいと実家に戻るという気持ちは今のところはなさそうだ。となると、被害は野瀬さん本人だけでなく、まあ言いにくいですが、貴方にも・・・と。ま、肝にめいじておいていただければ・・・」
ご丁寧に言いにくそうな顔をして、小堂は松井を脅して帰っていったのだ。

松井の、土曜日の至福の眠りは打ち破られた。今となっては、一刻も早く野瀬に帰ってきて欲しかった。二人で話し合わなければ・・・。幾ら朝から晩まで一生懸命働いたところで、すぐにどうにかなる金額ではないことは本人だって百も承知の筈だった。スーッと松井の体から血の気が引いていった。そして、心臓がバクバクと言い出した。

野瀬が実家に帰れば、問題は解決する。言葉通り、ただ帰れば・・・。それだけで済む筈がないのはわかってる。野瀬は、資産家の令息で、父親の職は長男が引き継いでいるものの、いまだに「実家に戻れ」コールは止むことはなかった。野瀬が実家に帰る=野瀬はここを去るに繋がる。
「嫌だ」
ブンブンと松井は首を振った。野瀬が、自分の元から去っていくなんて、もう考えられない。
「嫌だ、嫌だ」
一人になるのは、嫌だ。野瀬を手放したくない。
だが。どうすれば、あんな金額を、返済することが出来るのか・・・。
松井は、ギュッと胸元に手をやった。高鳴る心臓の音が、掌に伝わってくる。掌には、じっとりと汗が滲んでいた。


数時間後、途方に暮れて、茫然自失でソファに腰掛けていた松井の所へ野瀬が帰ってきた。
「たっだいまー。あー、すっげえ疲れたぁー。体バキバキ。遥さーん。起きてる?あ、起きてる」
寝室を覗いてるらしい野瀬の明るい声が、廊下から聴こえた。
「遥さん!もうお昼だよ。なあなあ。まっさんに教えてもらった美味しいラーメン屋さんに食いに行こう。先に皆行ってるんだ。俺、遥さん連れてくるって言って戻ってきたんだ」
リビングに歩いてきた野瀬の、ジーンズとTシャツは泥だらけだった。
「あー。もう。なにボケーッとしてんのさ。外はいい天気だぜ!出かけよう、遥さん。ラーメン、ラーメン。ラーメン食いに行こう」
底抜けに明るい野瀬の声。その声に弾かれるようにして、松井は顔を上げた。
「バカヤロウ!なにがラーメンだっ!!!」
思わず松井はそう叫んでいた。
「あ・・・。そう。んじゃ、寿司でも食う?これまたまっさん推薦の美味くて安い寿司屋があるんだけど。そっちにしようか」
ニコッと野瀬は笑った。
「き、君は・・・。なにをそんな呑気な・・・。ラーメンだ、寿司だって・・・」
「だって腹減ってンだもん」
あっけらかんと言う野瀬に、松井はへなへなと脱力した。
コイツは一体・・・。なにを考えているのだ。5千万円も借金があるというのに、普通だったら飯も喉を通らない事態な筈なのに・・・。松井はそう思って、ハッとした。
野瀬が、本物の金持ち体質なのだ、ということを。金に困ったことのない人は、金が呼び起こす恐怖を知らない。むろん、松井とて、日々の暮らしに困るほど貧乏ではない。だが、ゆとりある金持ちでもない。あくまでも、庶民だ。庶民である以上、そこら辺の知識というか、そういうことは野瀬よりも敏感であることは間違いない。だが、野瀬は・・・。野瀬はきっと、違うのだろう。確かに。芸能人とも平気でつきあえるような感覚の持ち主の男だ。それなりに資産家の息子なのだろう。
ホーッと松井は溜め息をついた。
「わかった。とりあえず飯を食おう。話はそれからだ」
「うん!って。話ってなに?」
あくまでも野瀬は、知らん振りを貫こうとしているらしかった。松井は内心舌打ちしながらも、とりあえずは黙した。とにかく空腹を満たし、それからでも話し合いは遅くはない筈と思った。
「ところでさ。結局、遥さんはどっちが食べたい?」
無邪気に野瀬は聞いてくる。
「ラーメンだ。ラーメン」
「わーい。実は俺もそっちの気分」
嬉しそうに野瀬は、笑った。
こんな状況で、幾ら安いとは言え寿司なんか食えるか!と松井は心の中で野瀬に向かって、怒鳴っていた。

続く

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